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内密に話がある――と、確かにそう告げられた筈だった。
(宗茂だけに話したいことがあるの。だから、私の部屋まで来て頂戴)
普段見せないようなしおらしい素振りでそんなことを言うものだから、一体何事かと思ったのだ。
最初は、何か悩みでもあるのかと思った。しかし、いつも気丈な彼女が簡単に他人を、それも一家臣である自分を頼るとは考えにくい。
だから次に、主君――大友宗麟が、姉である彼女に、何かある事ない事含め吹き込んだのかと思った。弟を盲目的に溺愛する彼女のことだ。それで自分を叱責するために呼んだのだろうか。そちらの方が充分有り得そうで、宗茂は溜め息を吐いた。
本当にそうなら、面倒なことになりそうだ。
咄嗟に脳裏に浮かんだそんな思考を、頭を振って打ち消す。仮にも仕える主に対して、「面倒」とは不敬極まりない。
しかし、現実は、宗茂が思っていたよりも遙かに面倒だった。
向かい合って座った瞬間、彼女は甘えるように宗茂に身を寄せてきた。まるで猫のようなしなやかさに、宗茂は一瞬何が起こったのか分からなかった。
その混乱のまま、ゆるゆると宗茂は床の上に押し倒された。理由の如何を問う暇もなかった。
そして今目の前には、己の上に馬乗りになった彼女――大友なまえの笑顔が広がっている。
「なっ、な、何、なまえ様、何を――!」
「何って、見ての通りよ。大丈夫、天井の木目を数えている間にすぐ済むわ」
それは普通、男側が言う台詞ではないのか。いや違う、そんなことを言いたいわけではない。ようやく頭が働き始めはしたものの、それでもやはり宗茂は狼狽していた。
当然だ。こんな状況になって、うろたえない男は居まい。しかし、そんな宗茂の心境など全く気に留めていない様子で、なまえはするりと帯を解き始めた。軽い音を立ててそれが落とされると、細い指が自ら襟口を開く。すぐさま白い鎖骨が、宗茂の瞳に飛び込んできた。
「なまえ様、このような悪ふざけは少々度が……!」
「あら、悪ふざけなんかじゃないわ、宗茂」
なまえの手が、宗茂の左手を包む。そしてそのまま、彼女はそれを、己の左胸に宛がった。生々しい温もりと感触が即座に伝わり、宗茂が形容し難い呻き声を上げる。
「……どう?このままお前の好きにしていいのよ?」
「め、滅相も御座いません!」
なまえが何を言わんとしているのか、分かりすぎるほどに分かっている。しかし、いくらなんでもそれは駄目だ。主の命に応えることが武士の本分とは雖も、この誘惑に負ければ自分は終わる。
しかし、なまえはそんな宗茂の態度が気に食わなかったのか、如何にもつまらなさそうに唇を尖らせた。
「……固い固いとは思ってたけど、本当に固い男ね。心配しなくても人払いはしてあるから、しばらくは誰も来ないわよ」
「そういう問題では御座いません!第一、手前はこれでも妻帯している身で」
「あら?奥方とはあまり上手く行ってないと、宗麟から聞いてるわよ?」
「ぐっ――!」
図星を突かれ、宗茂は言葉に詰まる。そう、それは紛れもない事実だ。確かに、宗茂は現在妻と別居中である。というか、妻は些細な喧嘩の果てに宗茂に平手打ちを喰らわせ、天下の雷切を宗茂に向かって投げ捨て、一通りの大暴れをして家を出て行ってしまった。
一体何処からそのようなことを聞いたのですか、我が主!心の中の宗麟に、悲鳴にも似た訴えをぶつける。そんなことをしたところで、目の前の事態は一向に好転はしなかったが。
「ねえ、宗茂」
存分に艶を含んだ声で、なまえが名を呼ぶ。
「奥方と上手くいっていないのなら」
そしてその唇が、宗茂の首筋へと降りてくる。
「……尚更、したいでしょう?こういうこと」
啄ばむように、なまえの唇が首筋に触れる。ぞくりと背を這い上がる感覚に、宗茂はきつく目を閉じることで耐えた。
そんな滑稽な様子に気付いたのだろう。なまえは、鈴の鳴るような声でくすりと笑った。
「我慢しなくていいのよ、宗茂。このまま逆に私を押し倒して、いくらでもしたいようにしてくれて構わないわ。“初物”じゃなくて申し訳ないけれど、そのぶん気持ち良くしてあげられる手練は心得ているつもりだから」
耳元で、なまえが囁く。それは、蕩けるほどに甘い誘いだった。
しかし、それが急速に、宗茂の頭を覆っていた靄を晴らす。
「なまえ様」
渾身の力で、宗茂は身を起こした。攻めに転じられたと思ったのか、なまえは一瞬期待に目を輝かせていたが、それには一切構わず、宗茂はなまえの腕を両手で掴んだ。
「……今、何と」
今、何と仰られました。
そう続けると、なまえは動じた様子もなく、にっこりと唇を吊り上げて、言った。
「だから、いくらでも好きにしていいって」
「違います、その後です」
嫌な汗が、宗茂の頬を伝う。そう。言われて見れば妙な話だ。一連のなまえの動きは、気味が悪いほどに慣れ切っていた。
「……このようなことをなさるのは、手前が初めてではないのですか」
しっかりと両の目を見据え、重々しく宗茂は口を開く。しばらくなまえはその様子に目を瞬かせていたが、突如口元を押さえ、小さく吹き出した。
「なあに、そんなことを気にするの?いい歳をして純情なのね」
「そのようなことを申し上げているのでは御座いません!」
思わず、宗茂の語気が強まる。それでようやく宗茂の心中を察したのか、すっとなまえの表情から笑みが消えた。
己が大友家に仕官して長いことは、宗茂自身が一番よく知っている。それこそ、宗麟やなまえがまだずっと幼いころから、宗茂はこの屋敷に足を踏み入れていた。
だから、なまえに浮いた話が一切無いこともよく知っている。
既に、何処かに輿入れするには充分な歳だというのに、彼女は一向にそうしようとはしない。縁談には困らない筈なのだ。多少気の強いきらいはあるが、なまえは聡明であり、何よりもその容姿は美しかった。
けれど、彼女は決まって口にしていた。「宗麟を助けてあげたいから、まだお嫁には行かないの」と。
早くに両親を亡くし、二人きりで生きてきた姉弟だ。それに、跡目を継いだとはいえ弟の宗麟はまだ幼く、実も蓋もない言い方をしてしまえば頼りない。姉として傍にいてやりたいと思うのも理解出来た。
だからこそ、不可解なのだ。一体彼女はいつ、何処で、男にその身を捧げたというのだ。
「……こうすれば、みんな言うことを聞くのよ」
宗茂の腰の上に跨ったままの体勢で、なまえは呟くようにそう言った。何処か悟りきったような雰囲気がその瞳に湛えられ、思わず宗茂は息を呑む。
「初めはね、あの日よ」
「……あの日、とは」
「父様と、塩市丸と、塩市丸の母親が死んだ、あの日。……ああ、そのちょっと前だったかしら」
世間話のようにそう言って、なまえは笑う。しかし、その答えに宗茂は戦慄した。
その時のことは、宗茂とてよく覚えている。忘れよう筈もない。
大友家の先代当主であった大友義鑑は、正室の子である宗麟ではなく、側室の息子――宗麟となまえにとっては異母弟に当たる塩市丸を当主にしたいと考え、宗麟の廃嫡を目論んでいたらしい。それは大友家に仕える重臣たちを、宗麟派と塩市丸派に分裂させる事態となった。
そしてその確執は、最悪の形で終わりを告げた。宗麟派の一部が、眠っていた義鑑たちを急襲したのである。それにより、塩市丸とその母親は死去。義鑑も傷を負い、数日後に死亡した。その結果、宗麟は大友家を継ぐことになったのだ。
陰惨な出来事だった。血に染まった大友家の二階を見て、ああ、宗麟となまえがいなくて良かったと、不幸中の幸いに胸を撫で下ろしたことを覚えている。その時二人は、実父の命で湯治に向かっていたところだった。
そう。だから忘れようもないのだ。
その時なまえは、まだ十を幾分過ぎたばかりの幼子だった筈だ。
「私ね、知ってたのよ、宗茂」
「……何を」
「父様が宗麟を見捨てようとしたことも、私たちを追い出した隙に宗麟を支持する者たちを皆殺しにしようとしたことも」
にゅうと腕が伸びて、宗茂の首に回される。拘束は、いつ解いただろう。もうそれすらもよく思い出せない。
宗茂は、なまえのその行為を特に拒否しなかった。出来なかった。目の前の少女は普段と変わらず愛らしいのに、その唇から零れ落ちる言葉はあまりにも常軌を逸している。
恐ろしい。そんな率直な感情が、宗茂の胸中に沸き起こり、止まらない。
「だから私、屋敷を出る前にお願いしたの。父様たちをみんな殺してって――」
「――!」
吐き気がした。
なまえの言うことが本当ならば、これはとんでもないことだ。宗麟が傾倒している宗教に照らし合わせて言うのなら、「懺悔」というものなのか。
しかし彼女は悔いる様子など微塵もなく、淡々と言葉を紡ぐ。ただ、遠い思い出話をするように。
「その時に、初めてこの体を使ったわ。着物を脱いでちょっと煽ってやったら、子ども相手だって言うのにみんなすぐ男の顔になった。何人も相手してやって、痛くて仕方なかったけど、宗麟のためだと思ったら全部我慢出来たわ」
「なまえ、さま」
「その後も、宗麟の願いを叶えてあげるために何度か同じことをしたわ。こうすると、みんな面白いくらい言うことを聞くんだもの。男って本当に例外なく馬鹿ね」
「……なまえ様」
赤い唇が釣り上がり、その間に白い歯が覗く。その全てが艶かしくて仕方ないのに、宗茂は一切の劣情を催すことが出来なかった。
狂気だ。この少女は、大友なまえは――弟と共に父に捨てられた娘は、紛れもなく狂っている。
知っていた。彼女と宗麟が、たった二人で身を寄せ合い、生きてきたことを。頼れるのも、愛情を与え合えるのも、お互いしかいなかったということを。
その状況が生み出したものが、眼前で笑う彼女なのか。自分たちを見捨てた父を殺し、父に愛された異母弟を殺し、己の愛する実弟のために、文字通りその身を犠牲にした少女。
「そのことを、宗麟様は」
「知る筈がないじゃない。知らなくていいのよ。宗麟は、汚いことなんて全部知らなくていいの。あの子の生きる世界は、全部綺麗なままでいい」
うっとりと虚空を見上げ、しかしきっぱりとした調子でなまえは言い切った。
「本当は、汚れてしまった私が傍にいるのも心苦しいけれど、私がいないと宗麟の願いを叶えてあげられる人がいなくなってしまうもの。それにあの子、私がいないと何にも出来ないし。だから、死ぬまで私は宗麟のために働くわ。……だからね、宗茂」
不意に、なまえの手が宗茂の着物の袷に差し込まれた。逞しい胸を摩る掌の動きに、宗茂の全身が総毛立つ。
「あの子、お前のことが大好きなんですって。だから、お前は死ぬまでここであの子を守るの。そうしてくれるなら、いつだってお前の好きな時に、私を抱いて構わないわ」
さらり、長い髪が揺れる。小首を傾げ、蟲惑的な笑みをなまえは浮かべた。恐らくそれは、これまで幾人もの男を虜にしてきた微笑み。
その素振りが、その言葉が、宗茂の心を留めていた最後の堰を壊した。
「なまえ様」
「なに?」
「……ご無礼をお許し下さい」
一応の前置きを言い残し、宗茂はなまえの背に手を回す。全てを受け入れるべく、なまえもゆっくり目を閉じる。
しかし、その瞳は即座に開かれることとなった。
宗茂は、なまえの体をしっかりと掻き抱いていた。それ以上の行動には決して出ずに、ただ、しっかりと。
それはまるで、父が我が子に為すような、力強くも温かい抱擁だった。
「……宗茂」
初めて、なまえの声に困惑の色が混じる。
「宗茂、一体何の真似」
「……なまえ様が、あまりに馬鹿なことを仰るので」
「馬鹿、ですって」
「手前は」
宗茂の手に、更なる力が篭る。微かに「痛い」と声が上がったような気もしたが、宗茂は気にしないことに決めた。
まだだ、まだ足りない。彼女に伝えたい自分の思いは、こんなに脆弱なものじゃない。
「手前は、そのようなことをして頂かなくとも、死ぬまで宗麟様となまえ様にお仕えする所存で御座います」
「なっ――」
なまえの体がびくりと跳ねた。顔を上げたかったのだろう。しかし、宗茂の腕の中、その胸に押し付けられるようにして抱かれる彼女には、その動きすらかなわない。
何と弱い生き物だと宗茂は思う。温かくて、柔らかくて、細く、非力。今まで感じていた畏怖のようなものは、既にすっかり消えてしまっていた。こうしていれば、何処にでもいる普通の少女と何ら変わらないではないか。
「ご自分を大切になさいませ」
「……偉そうに、私に説教するつもり?いいから、いい加減に離しなさいよ、馬鹿。馬鹿宗茂」
離せと繰り返しながら、なまえは宗茂の背を矢鱈滅多らに叩いた。けれど、宗茂の力はいつまで経っても緩まない。
それに観念したのか、いつしかなまえの全身からだらりと力が抜けた。しばらく室内には静寂が満ちていたが、なまえの声がそれを破った。
「……だって、仕方ないじゃない」
まるで、蚊の鳴くような小さな声で。
「私が奪ったのよ。どんな理由があろうと、私が宗麟から父親を奪ったのよ。だったら、その埋め合わせは私がするしかないじゃない。私が宗麟を守るしかないじゃない。……私がずっとずっとずっと、宗麟のために何でもしてあげるしかないじゃない」
ねえ、宗茂。私は間違ってなんかいなかったわよね。
か細い呟きが胸に染み入り、宗茂はぎゅうと目を瞑る。
言ってやりたいことはいくらでもあった。弟を愛するその心根に誤りはなかったこと。なまえが事を起こさなくても、遅かれ早かれ大友は同じ状況になっていただろうこと。なまえ一人で、全てを背負う必要など全くなかったこと。
けれど、宗茂の口からその全てが発せられることはなかった。やっとのことで紡ぎ出したのは
「……申し訳ありません」
そんな、陳腐な謝罪だけ。
「……何でお前が謝るの」
「申し訳ありません……!」
知っていた。彼女と宗麟が、たった二人で身を寄せ合い、生きてきたことを。頼れるのも、愛情を与え合えるのも、お互いしかいなかったということを。
知っていた。そう、知っていたのだ。
それに気付いていたのなら、何かしてやれば良かったのだ。そうすれば、何かが変わっていたのかもしれない。少なくとも、なまえがこんな不器用な甘え方を覚える必要がなかった程度には。
「泣かないでよ、宗茂。みっともないわね」
宗茂の胸元に顔を埋めたまま、なまえは小さく苦笑した。
――その頬に触れている着物の布地は、微かにしっとりと濡れていた。
「こんな格好で外に出たら、みんなに誤解されるかしら」
「……なまえ様」
「それも面白いかもしれないわね。大慌てするお前の顔が見られそうだもの」
「なまえ様!」
「冗談よ」
けらけらと笑うなまえに、宗茂は頭を抱えた。目の前の彼女は、確かに男に押し倒されたと言ってもおかしくないほど乱れた格好をしている。勿論それは、既に着衣が乱れていたところを、宗茂が力任せに抱き締めた所為であるのだが。
しかし、なまえはすっかりいつもの調子に戻っていた。それが少しだけ、宗茂の心を軽くする。
やはり、あれは懺悔だったのかもしれない。ずっと長いこと心の奥底に閉じ込めていた叫びを、ようやくなまえは発散することが出来たのだろう。
そしてその相手に自分を選んでくれたというのなら、これは家臣として光栄なことなのかもしれなかった。
そういえば、内密に話があると告げられて、宗茂はここに来たのだ。ならばやはり、今日聞いたことは他言無用にすべきだろう。
主の命は絶対だ。それに、重荷も二人で背負えば少しは楽になる。
「それではなまえ様、手前は失礼を――」
「あ、ちょっと待って、宗茂」
部屋を辞そうとした宗茂を、咄嗟になまえが呼び止めた。ちょいちょいと手招かれるまま、宗茂は彼女の元へ歩み寄る。
そして、次の瞬間、
「ぐっ!?」
不意打ちで腕を引かれ、宗茂は体勢を崩した。
その唇に、ひどく柔らかなものが、触れる。
それが何であるのか理解した瞬間、宗茂は凄まじい勢いで体を退いていた。
「なっ、な、何、何を、な――!!」
「ご褒美よ。もっとすごいことはやり損ねちゃったし」
耳まで真っ赤に染めて、宗茂は口元を押さえた。それとは対照的に、なまえは満面の笑顔を浮かべている。その綺麗すぎる笑顔が、更に宗茂の心をざわつかせる。
しかし、なまえはそのまま、すっと宗茂の横を通り過ぎた。
「今日は、それで勘弁してあげる。ちょっとはお前の説教も胸に響いたしね」
いつの間に、身繕いを終えていたのか。なまえはそのまま弾むように、部屋を出て行ってしまった。
後に取り残された宗茂は、ただその場で呆けたまま。
――ああ、やはり下手な仏心など出した自分が間違っていたのか。わしの馬鹿馬鹿。
心の中で自分を苛みながら、宗茂は疲れ果てたように、どさりと崩れ落ちた。
廊下を歩くなまえの頬が、自身と同じくらいに紅潮していたことを、今の宗茂はまだ知らない。
(宗茂だけに話したいことがあるの。だから、私の部屋まで来て頂戴)
普段見せないようなしおらしい素振りでそんなことを言うものだから、一体何事かと思ったのだ。
最初は、何か悩みでもあるのかと思った。しかし、いつも気丈な彼女が簡単に他人を、それも一家臣である自分を頼るとは考えにくい。
だから次に、主君――大友宗麟が、姉である彼女に、何かある事ない事含め吹き込んだのかと思った。弟を盲目的に溺愛する彼女のことだ。それで自分を叱責するために呼んだのだろうか。そちらの方が充分有り得そうで、宗茂は溜め息を吐いた。
本当にそうなら、面倒なことになりそうだ。
咄嗟に脳裏に浮かんだそんな思考を、頭を振って打ち消す。仮にも仕える主に対して、「面倒」とは不敬極まりない。
しかし、現実は、宗茂が思っていたよりも遙かに面倒だった。
向かい合って座った瞬間、彼女は甘えるように宗茂に身を寄せてきた。まるで猫のようなしなやかさに、宗茂は一瞬何が起こったのか分からなかった。
その混乱のまま、ゆるゆると宗茂は床の上に押し倒された。理由の如何を問う暇もなかった。
そして今目の前には、己の上に馬乗りになった彼女――大友なまえの笑顔が広がっている。
「なっ、な、何、なまえ様、何を――!」
「何って、見ての通りよ。大丈夫、天井の木目を数えている間にすぐ済むわ」
それは普通、男側が言う台詞ではないのか。いや違う、そんなことを言いたいわけではない。ようやく頭が働き始めはしたものの、それでもやはり宗茂は狼狽していた。
当然だ。こんな状況になって、うろたえない男は居まい。しかし、そんな宗茂の心境など全く気に留めていない様子で、なまえはするりと帯を解き始めた。軽い音を立ててそれが落とされると、細い指が自ら襟口を開く。すぐさま白い鎖骨が、宗茂の瞳に飛び込んできた。
「なまえ様、このような悪ふざけは少々度が……!」
「あら、悪ふざけなんかじゃないわ、宗茂」
なまえの手が、宗茂の左手を包む。そしてそのまま、彼女はそれを、己の左胸に宛がった。生々しい温もりと感触が即座に伝わり、宗茂が形容し難い呻き声を上げる。
「……どう?このままお前の好きにしていいのよ?」
「め、滅相も御座いません!」
なまえが何を言わんとしているのか、分かりすぎるほどに分かっている。しかし、いくらなんでもそれは駄目だ。主の命に応えることが武士の本分とは雖も、この誘惑に負ければ自分は終わる。
しかし、なまえはそんな宗茂の態度が気に食わなかったのか、如何にもつまらなさそうに唇を尖らせた。
「……固い固いとは思ってたけど、本当に固い男ね。心配しなくても人払いはしてあるから、しばらくは誰も来ないわよ」
「そういう問題では御座いません!第一、手前はこれでも妻帯している身で」
「あら?奥方とはあまり上手く行ってないと、宗麟から聞いてるわよ?」
「ぐっ――!」
図星を突かれ、宗茂は言葉に詰まる。そう、それは紛れもない事実だ。確かに、宗茂は現在妻と別居中である。というか、妻は些細な喧嘩の果てに宗茂に平手打ちを喰らわせ、天下の雷切を宗茂に向かって投げ捨て、一通りの大暴れをして家を出て行ってしまった。
一体何処からそのようなことを聞いたのですか、我が主!心の中の宗麟に、悲鳴にも似た訴えをぶつける。そんなことをしたところで、目の前の事態は一向に好転はしなかったが。
「ねえ、宗茂」
存分に艶を含んだ声で、なまえが名を呼ぶ。
「奥方と上手くいっていないのなら」
そしてその唇が、宗茂の首筋へと降りてくる。
「……尚更、したいでしょう?こういうこと」
啄ばむように、なまえの唇が首筋に触れる。ぞくりと背を這い上がる感覚に、宗茂はきつく目を閉じることで耐えた。
そんな滑稽な様子に気付いたのだろう。なまえは、鈴の鳴るような声でくすりと笑った。
「我慢しなくていいのよ、宗茂。このまま逆に私を押し倒して、いくらでもしたいようにしてくれて構わないわ。“初物”じゃなくて申し訳ないけれど、そのぶん気持ち良くしてあげられる手練は心得ているつもりだから」
耳元で、なまえが囁く。それは、蕩けるほどに甘い誘いだった。
しかし、それが急速に、宗茂の頭を覆っていた靄を晴らす。
「なまえ様」
渾身の力で、宗茂は身を起こした。攻めに転じられたと思ったのか、なまえは一瞬期待に目を輝かせていたが、それには一切構わず、宗茂はなまえの腕を両手で掴んだ。
「……今、何と」
今、何と仰られました。
そう続けると、なまえは動じた様子もなく、にっこりと唇を吊り上げて、言った。
「だから、いくらでも好きにしていいって」
「違います、その後です」
嫌な汗が、宗茂の頬を伝う。そう。言われて見れば妙な話だ。一連のなまえの動きは、気味が悪いほどに慣れ切っていた。
「……このようなことをなさるのは、手前が初めてではないのですか」
しっかりと両の目を見据え、重々しく宗茂は口を開く。しばらくなまえはその様子に目を瞬かせていたが、突如口元を押さえ、小さく吹き出した。
「なあに、そんなことを気にするの?いい歳をして純情なのね」
「そのようなことを申し上げているのでは御座いません!」
思わず、宗茂の語気が強まる。それでようやく宗茂の心中を察したのか、すっとなまえの表情から笑みが消えた。
己が大友家に仕官して長いことは、宗茂自身が一番よく知っている。それこそ、宗麟やなまえがまだずっと幼いころから、宗茂はこの屋敷に足を踏み入れていた。
だから、なまえに浮いた話が一切無いこともよく知っている。
既に、何処かに輿入れするには充分な歳だというのに、彼女は一向にそうしようとはしない。縁談には困らない筈なのだ。多少気の強いきらいはあるが、なまえは聡明であり、何よりもその容姿は美しかった。
けれど、彼女は決まって口にしていた。「宗麟を助けてあげたいから、まだお嫁には行かないの」と。
早くに両親を亡くし、二人きりで生きてきた姉弟だ。それに、跡目を継いだとはいえ弟の宗麟はまだ幼く、実も蓋もない言い方をしてしまえば頼りない。姉として傍にいてやりたいと思うのも理解出来た。
だからこそ、不可解なのだ。一体彼女はいつ、何処で、男にその身を捧げたというのだ。
「……こうすれば、みんな言うことを聞くのよ」
宗茂の腰の上に跨ったままの体勢で、なまえは呟くようにそう言った。何処か悟りきったような雰囲気がその瞳に湛えられ、思わず宗茂は息を呑む。
「初めはね、あの日よ」
「……あの日、とは」
「父様と、塩市丸と、塩市丸の母親が死んだ、あの日。……ああ、そのちょっと前だったかしら」
世間話のようにそう言って、なまえは笑う。しかし、その答えに宗茂は戦慄した。
その時のことは、宗茂とてよく覚えている。忘れよう筈もない。
大友家の先代当主であった大友義鑑は、正室の子である宗麟ではなく、側室の息子――宗麟となまえにとっては異母弟に当たる塩市丸を当主にしたいと考え、宗麟の廃嫡を目論んでいたらしい。それは大友家に仕える重臣たちを、宗麟派と塩市丸派に分裂させる事態となった。
そしてその確執は、最悪の形で終わりを告げた。宗麟派の一部が、眠っていた義鑑たちを急襲したのである。それにより、塩市丸とその母親は死去。義鑑も傷を負い、数日後に死亡した。その結果、宗麟は大友家を継ぐことになったのだ。
陰惨な出来事だった。血に染まった大友家の二階を見て、ああ、宗麟となまえがいなくて良かったと、不幸中の幸いに胸を撫で下ろしたことを覚えている。その時二人は、実父の命で湯治に向かっていたところだった。
そう。だから忘れようもないのだ。
その時なまえは、まだ十を幾分過ぎたばかりの幼子だった筈だ。
「私ね、知ってたのよ、宗茂」
「……何を」
「父様が宗麟を見捨てようとしたことも、私たちを追い出した隙に宗麟を支持する者たちを皆殺しにしようとしたことも」
にゅうと腕が伸びて、宗茂の首に回される。拘束は、いつ解いただろう。もうそれすらもよく思い出せない。
宗茂は、なまえのその行為を特に拒否しなかった。出来なかった。目の前の少女は普段と変わらず愛らしいのに、その唇から零れ落ちる言葉はあまりにも常軌を逸している。
恐ろしい。そんな率直な感情が、宗茂の胸中に沸き起こり、止まらない。
「だから私、屋敷を出る前にお願いしたの。父様たちをみんな殺してって――」
「――!」
吐き気がした。
なまえの言うことが本当ならば、これはとんでもないことだ。宗麟が傾倒している宗教に照らし合わせて言うのなら、「懺悔」というものなのか。
しかし彼女は悔いる様子など微塵もなく、淡々と言葉を紡ぐ。ただ、遠い思い出話をするように。
「その時に、初めてこの体を使ったわ。着物を脱いでちょっと煽ってやったら、子ども相手だって言うのにみんなすぐ男の顔になった。何人も相手してやって、痛くて仕方なかったけど、宗麟のためだと思ったら全部我慢出来たわ」
「なまえ、さま」
「その後も、宗麟の願いを叶えてあげるために何度か同じことをしたわ。こうすると、みんな面白いくらい言うことを聞くんだもの。男って本当に例外なく馬鹿ね」
「……なまえ様」
赤い唇が釣り上がり、その間に白い歯が覗く。その全てが艶かしくて仕方ないのに、宗茂は一切の劣情を催すことが出来なかった。
狂気だ。この少女は、大友なまえは――弟と共に父に捨てられた娘は、紛れもなく狂っている。
知っていた。彼女と宗麟が、たった二人で身を寄せ合い、生きてきたことを。頼れるのも、愛情を与え合えるのも、お互いしかいなかったということを。
その状況が生み出したものが、眼前で笑う彼女なのか。自分たちを見捨てた父を殺し、父に愛された異母弟を殺し、己の愛する実弟のために、文字通りその身を犠牲にした少女。
「そのことを、宗麟様は」
「知る筈がないじゃない。知らなくていいのよ。宗麟は、汚いことなんて全部知らなくていいの。あの子の生きる世界は、全部綺麗なままでいい」
うっとりと虚空を見上げ、しかしきっぱりとした調子でなまえは言い切った。
「本当は、汚れてしまった私が傍にいるのも心苦しいけれど、私がいないと宗麟の願いを叶えてあげられる人がいなくなってしまうもの。それにあの子、私がいないと何にも出来ないし。だから、死ぬまで私は宗麟のために働くわ。……だからね、宗茂」
不意に、なまえの手が宗茂の着物の袷に差し込まれた。逞しい胸を摩る掌の動きに、宗茂の全身が総毛立つ。
「あの子、お前のことが大好きなんですって。だから、お前は死ぬまでここであの子を守るの。そうしてくれるなら、いつだってお前の好きな時に、私を抱いて構わないわ」
さらり、長い髪が揺れる。小首を傾げ、蟲惑的な笑みをなまえは浮かべた。恐らくそれは、これまで幾人もの男を虜にしてきた微笑み。
その素振りが、その言葉が、宗茂の心を留めていた最後の堰を壊した。
「なまえ様」
「なに?」
「……ご無礼をお許し下さい」
一応の前置きを言い残し、宗茂はなまえの背に手を回す。全てを受け入れるべく、なまえもゆっくり目を閉じる。
しかし、その瞳は即座に開かれることとなった。
宗茂は、なまえの体をしっかりと掻き抱いていた。それ以上の行動には決して出ずに、ただ、しっかりと。
それはまるで、父が我が子に為すような、力強くも温かい抱擁だった。
「……宗茂」
初めて、なまえの声に困惑の色が混じる。
「宗茂、一体何の真似」
「……なまえ様が、あまりに馬鹿なことを仰るので」
「馬鹿、ですって」
「手前は」
宗茂の手に、更なる力が篭る。微かに「痛い」と声が上がったような気もしたが、宗茂は気にしないことに決めた。
まだだ、まだ足りない。彼女に伝えたい自分の思いは、こんなに脆弱なものじゃない。
「手前は、そのようなことをして頂かなくとも、死ぬまで宗麟様となまえ様にお仕えする所存で御座います」
「なっ――」
なまえの体がびくりと跳ねた。顔を上げたかったのだろう。しかし、宗茂の腕の中、その胸に押し付けられるようにして抱かれる彼女には、その動きすらかなわない。
何と弱い生き物だと宗茂は思う。温かくて、柔らかくて、細く、非力。今まで感じていた畏怖のようなものは、既にすっかり消えてしまっていた。こうしていれば、何処にでもいる普通の少女と何ら変わらないではないか。
「ご自分を大切になさいませ」
「……偉そうに、私に説教するつもり?いいから、いい加減に離しなさいよ、馬鹿。馬鹿宗茂」
離せと繰り返しながら、なまえは宗茂の背を矢鱈滅多らに叩いた。けれど、宗茂の力はいつまで経っても緩まない。
それに観念したのか、いつしかなまえの全身からだらりと力が抜けた。しばらく室内には静寂が満ちていたが、なまえの声がそれを破った。
「……だって、仕方ないじゃない」
まるで、蚊の鳴くような小さな声で。
「私が奪ったのよ。どんな理由があろうと、私が宗麟から父親を奪ったのよ。だったら、その埋め合わせは私がするしかないじゃない。私が宗麟を守るしかないじゃない。……私がずっとずっとずっと、宗麟のために何でもしてあげるしかないじゃない」
ねえ、宗茂。私は間違ってなんかいなかったわよね。
か細い呟きが胸に染み入り、宗茂はぎゅうと目を瞑る。
言ってやりたいことはいくらでもあった。弟を愛するその心根に誤りはなかったこと。なまえが事を起こさなくても、遅かれ早かれ大友は同じ状況になっていただろうこと。なまえ一人で、全てを背負う必要など全くなかったこと。
けれど、宗茂の口からその全てが発せられることはなかった。やっとのことで紡ぎ出したのは
「……申し訳ありません」
そんな、陳腐な謝罪だけ。
「……何でお前が謝るの」
「申し訳ありません……!」
知っていた。彼女と宗麟が、たった二人で身を寄せ合い、生きてきたことを。頼れるのも、愛情を与え合えるのも、お互いしかいなかったということを。
知っていた。そう、知っていたのだ。
それに気付いていたのなら、何かしてやれば良かったのだ。そうすれば、何かが変わっていたのかもしれない。少なくとも、なまえがこんな不器用な甘え方を覚える必要がなかった程度には。
「泣かないでよ、宗茂。みっともないわね」
宗茂の胸元に顔を埋めたまま、なまえは小さく苦笑した。
――その頬に触れている着物の布地は、微かにしっとりと濡れていた。
「こんな格好で外に出たら、みんなに誤解されるかしら」
「……なまえ様」
「それも面白いかもしれないわね。大慌てするお前の顔が見られそうだもの」
「なまえ様!」
「冗談よ」
けらけらと笑うなまえに、宗茂は頭を抱えた。目の前の彼女は、確かに男に押し倒されたと言ってもおかしくないほど乱れた格好をしている。勿論それは、既に着衣が乱れていたところを、宗茂が力任せに抱き締めた所為であるのだが。
しかし、なまえはすっかりいつもの調子に戻っていた。それが少しだけ、宗茂の心を軽くする。
やはり、あれは懺悔だったのかもしれない。ずっと長いこと心の奥底に閉じ込めていた叫びを、ようやくなまえは発散することが出来たのだろう。
そしてその相手に自分を選んでくれたというのなら、これは家臣として光栄なことなのかもしれなかった。
そういえば、内密に話があると告げられて、宗茂はここに来たのだ。ならばやはり、今日聞いたことは他言無用にすべきだろう。
主の命は絶対だ。それに、重荷も二人で背負えば少しは楽になる。
「それではなまえ様、手前は失礼を――」
「あ、ちょっと待って、宗茂」
部屋を辞そうとした宗茂を、咄嗟になまえが呼び止めた。ちょいちょいと手招かれるまま、宗茂は彼女の元へ歩み寄る。
そして、次の瞬間、
「ぐっ!?」
不意打ちで腕を引かれ、宗茂は体勢を崩した。
その唇に、ひどく柔らかなものが、触れる。
それが何であるのか理解した瞬間、宗茂は凄まじい勢いで体を退いていた。
「なっ、な、何、何を、な――!!」
「ご褒美よ。もっとすごいことはやり損ねちゃったし」
耳まで真っ赤に染めて、宗茂は口元を押さえた。それとは対照的に、なまえは満面の笑顔を浮かべている。その綺麗すぎる笑顔が、更に宗茂の心をざわつかせる。
しかし、なまえはそのまま、すっと宗茂の横を通り過ぎた。
「今日は、それで勘弁してあげる。ちょっとはお前の説教も胸に響いたしね」
いつの間に、身繕いを終えていたのか。なまえはそのまま弾むように、部屋を出て行ってしまった。
後に取り残された宗茂は、ただその場で呆けたまま。
――ああ、やはり下手な仏心など出した自分が間違っていたのか。わしの馬鹿馬鹿。
心の中で自分を苛みながら、宗茂は疲れ果てたように、どさりと崩れ落ちた。
廊下を歩くなまえの頬が、自身と同じくらいに紅潮していたことを、今の宗茂はまだ知らない。