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幼い頃、ピアノを習っていた私は、ある日ピアノのコンクールに出場することになった。
何日も何日も、一生懸命練習した。譜面もメロディーも何もかも、全て体に覚え込ませた筈だった。
けれど、本番当日。私は舞台の上で曲を止めてしまった。緊張のせいか、頭の中から曲が飛んだのだ。
どうしよう、と考えても、焦るばかりで指は一向に動かない。それでも、何とか無理矢理に曲を終えて、私は父と弟のもとへ戻った。
悔しかった。自分の不甲斐なさが歯痒かった。
優しい弟は、それでも「俺は姉貴の演奏が一番良かったと思う!」と励ましてくれたけれど、自分の失敗は自分が一番よく分かっていた。
――お父さん、ごめんなさい。折角応援に来てくれたのに。
こぼれそうな涙を必死に堪えて、私は父に頭を下げた。忙しい父が、珍しく私のために時間を割いてくれたのに、その期待に応えられなかった自分が情けなかった。
けれど父は、私の頭を二、三度ぽんぽんと撫でると、とても優しい声で告げた。
『大丈夫だよ、なまえが一番だからね』
その言葉に、私はとうとう泣いた。
こんなに不甲斐ない私なのに、プレッシャーに負けてしまう弱い私なのに、それでも弟と父だけは「一番」と言ってくれる。それが嬉しくて、胸が一杯になった。
それだけで終わっていれば、この話は美談だったのだろうと思う。
しかし。
私は本当に、そのコンクールで一番になった。
表彰式で名前を呼ばれたとき、何が起こったのか分からなかった。
絶対にこんなことになる筈はないのに。表彰状を貰っても、そんな釈然としない気持ちが残った。
席に戻ってきた私を出迎えたのは、「やっぱり俺の姉貴はすごいな!」という、弟の無邪気で明るい声。
そして。
『ほら、言ったとおりになったでしょ』
低く静かな父の声。
――どうして分かったの。
そう問うた私に、父は言った。
『お父さんにはね、何でも分かるの』
『お父さんは、魔法使いだからね』
そのとき、うっすら笑った父を、私は初めて怖いと思った。
「…なに、これ」
「だから今言ったじゃないの。弓彦の今期の通知表をね、ちょっと一足早く見せてもらおうと思って――」
「そんなことは分かってるわよ。私が言いたいのは…」
その先の言葉は、終ぞ私の口からは発せられなかった。姉として、それを口にするのは流石に憚られた。
『弓彦の通知表を学校から取り寄せたから、なまえにも見てもらおうと思ってねー』
父は、確かにそう言った。ならば、私の手の中にあるのは、紛れも無く弟の今期の成績だ。
しかし、それは私の理解を遙かに超えていた。
否、理解したくなかったと言うべきか。
「ホントにねえ、ひどすぎるよねえ」
私の心を読んだように、父は言った。
けれど、台詞の内容とは裏腹に、その言葉には怒りや危機感は全く感じられない。
「バカだバカだとは思ってたけど、まさかここまでとはねー…うっ、うっ…父さん悲しいなあ…」
わざとらしく涙を拭う父のポーズにも、今日ばかりは突っ込む気力も起きない。
確かに、弟が賢い方ではないことは何となく分かっていた。会話していても、理解力や読解力が足りてないなと思うことは多々あった。
けれど、決して悪い子ではない。何事にも一生懸命な努力家だ。テスト前に、夜中まで勉強していたことも知っている。
だから、能力不足は努力で何とかカバー出来ているとばかり思っていたのに。
「…ねえ、なまえ。どうすればいいのかなあ、父さん」
その瞬間、父の声のトーンが変わった。低く静かなそれはあの時と同じもので、思わずゾクリと、私の背に何かが走る。
「…どうすれば、って…」
「これはさあ、父さんがどうにかしてあげないといけないと思うんだよね。ほら、あんなバカでもさ、やっぱり父さんにとっては可愛い息子だからさ」
父の言う「どうにかする」は、一般のそれと意味合いが違う。塾に行かせるとか、家庭教師をつけるとか、そういう「過程」をどうにかするという意味ではない。
どうにかするのは、「結果」の方だ。
「…私の時みたいに、『魔法』を使うつもり?」
「…そうそう。頭の回転が速いよねえ。やっぱりお前は、弓彦と違って賢いねー」
そう言って、父は口元だけで笑った。その笑顔に虫唾が走る。
魔法使いだからねと、あの日父は私に言った。
けれど、父の使う『魔法』が御伽噺に出てくるような甘ったるくて優しいものではないことは、もうとっくの昔に知っている。
父が使う『魔法』は、『権力』という名の暴力的なものだ。
「…それじゃ、弓彦のためにならない」
「いいじゃない、その方が生きていくのは簡単だよ。これは父さんなりの優しさなんだけどなあ」
「でも、あの子は検事になりたいって言ってるのよ。このままじゃ、司法試験なんてとても―――」
「その時はさあ、父さんがまた『魔法』を使ってあげればいいだけの話じゃないの」
瞬間、寒気がした。全く笑っていなかった父の目が恐ろしかったのもあるが、その発言が何より怖かった。
弓彦の人生全てを、偽りで塗り固めてしまおうというのか、この男は!
「父さん――」
流石にそれはやめてあげて、と続けようとした瞬間。体の前で重ねていた私の両腕を、父の右手が掴んでいた。
片手で両腕を固定するそれは、掴んでいるというよりも「戒めている」という表現の方が余程似合うもので、私の体は恐怖に跳ねた。
「ねえ、なまえ。お前はいい子だよねえ…父さんの嫌がることは、絶対にしない子だよねえ」
「――!」
その一言で、全てを悟った。
何故、父がわざわざ私に弓彦の通知表を見せたのか。何故、わざわざ私にそんな話をしたのか。
父は、私を共犯にしようとしている。全てを先に晒すことで、私がそれを「知ってしまう」ことを回避したのだ。偶然私が父の『魔法』に気付けば、きっと私が弓彦に『魔法』のネタばらしをするだろうと踏んで。
「……父さん」
「んー?」
「一つだけ約束して」
父の目を必死に睨みつける。それでも、私の手を拘束する父の力は弱まらない。
「弓彦を、絶対に検事にしてあげて」
「……別にいいけどさあ。理由を聞かせてくれるかな」
「そうしたら、検事局には私がいるもの。あの子がどんなに未熟でも、道を正してあげられるもの」
そう。傍にいれば、分からないことを教えてやれる。間違った時に叱ってやれる。
父がその役割を放棄するというなら、私が代わりにやってあげればいい。
進んできた道が偽りだったとしても、私が「真実」に変えてあげればいい。
すると父は、低く声を上げて笑い、ゆっくりと私の腕を解放した。
「……お前は本当に賢くて良い子だねー、なまえ」
交渉成立だよ、と言われている気分だった。そのわざとらしい猫撫で声が、更に私の中にざらついた感覚を残していく。
「ねえ、父さん」
「何だい?」
「……父さんのそれは、あくまで優しさなのよね?」
「……当たり前じゃないの。父さんはね、弓彦のことが可愛くて仕方ないの。だから、苦労する道を歩かせたくないの」
「……だったら、いい」
せめて、それが悪意でないならば、少しは私も弓彦も救われる。
そう、これは真実。この手の中に残った、たった一つの真実。
自分自身に言い聞かせるように、何度も胸の中で繰り返して、私はようやくその場を後にした。
「…まったくねえ。弓彦もお前も、どうしようもないバカだよ」
小さな小さな父の声は、聞こえなかったふりをした。
何日も何日も、一生懸命練習した。譜面もメロディーも何もかも、全て体に覚え込ませた筈だった。
けれど、本番当日。私は舞台の上で曲を止めてしまった。緊張のせいか、頭の中から曲が飛んだのだ。
どうしよう、と考えても、焦るばかりで指は一向に動かない。それでも、何とか無理矢理に曲を終えて、私は父と弟のもとへ戻った。
悔しかった。自分の不甲斐なさが歯痒かった。
優しい弟は、それでも「俺は姉貴の演奏が一番良かったと思う!」と励ましてくれたけれど、自分の失敗は自分が一番よく分かっていた。
――お父さん、ごめんなさい。折角応援に来てくれたのに。
こぼれそうな涙を必死に堪えて、私は父に頭を下げた。忙しい父が、珍しく私のために時間を割いてくれたのに、その期待に応えられなかった自分が情けなかった。
けれど父は、私の頭を二、三度ぽんぽんと撫でると、とても優しい声で告げた。
『大丈夫だよ、なまえが一番だからね』
その言葉に、私はとうとう泣いた。
こんなに不甲斐ない私なのに、プレッシャーに負けてしまう弱い私なのに、それでも弟と父だけは「一番」と言ってくれる。それが嬉しくて、胸が一杯になった。
それだけで終わっていれば、この話は美談だったのだろうと思う。
しかし。
私は本当に、そのコンクールで一番になった。
表彰式で名前を呼ばれたとき、何が起こったのか分からなかった。
絶対にこんなことになる筈はないのに。表彰状を貰っても、そんな釈然としない気持ちが残った。
席に戻ってきた私を出迎えたのは、「やっぱり俺の姉貴はすごいな!」という、弟の無邪気で明るい声。
そして。
『ほら、言ったとおりになったでしょ』
低く静かな父の声。
――どうして分かったの。
そう問うた私に、父は言った。
『お父さんにはね、何でも分かるの』
『お父さんは、魔法使いだからね』
そのとき、うっすら笑った父を、私は初めて怖いと思った。
「…なに、これ」
「だから今言ったじゃないの。弓彦の今期の通知表をね、ちょっと一足早く見せてもらおうと思って――」
「そんなことは分かってるわよ。私が言いたいのは…」
その先の言葉は、終ぞ私の口からは発せられなかった。姉として、それを口にするのは流石に憚られた。
『弓彦の通知表を学校から取り寄せたから、なまえにも見てもらおうと思ってねー』
父は、確かにそう言った。ならば、私の手の中にあるのは、紛れも無く弟の今期の成績だ。
しかし、それは私の理解を遙かに超えていた。
否、理解したくなかったと言うべきか。
「ホントにねえ、ひどすぎるよねえ」
私の心を読んだように、父は言った。
けれど、台詞の内容とは裏腹に、その言葉には怒りや危機感は全く感じられない。
「バカだバカだとは思ってたけど、まさかここまでとはねー…うっ、うっ…父さん悲しいなあ…」
わざとらしく涙を拭う父のポーズにも、今日ばかりは突っ込む気力も起きない。
確かに、弟が賢い方ではないことは何となく分かっていた。会話していても、理解力や読解力が足りてないなと思うことは多々あった。
けれど、決して悪い子ではない。何事にも一生懸命な努力家だ。テスト前に、夜中まで勉強していたことも知っている。
だから、能力不足は努力で何とかカバー出来ているとばかり思っていたのに。
「…ねえ、なまえ。どうすればいいのかなあ、父さん」
その瞬間、父の声のトーンが変わった。低く静かなそれはあの時と同じもので、思わずゾクリと、私の背に何かが走る。
「…どうすれば、って…」
「これはさあ、父さんがどうにかしてあげないといけないと思うんだよね。ほら、あんなバカでもさ、やっぱり父さんにとっては可愛い息子だからさ」
父の言う「どうにかする」は、一般のそれと意味合いが違う。塾に行かせるとか、家庭教師をつけるとか、そういう「過程」をどうにかするという意味ではない。
どうにかするのは、「結果」の方だ。
「…私の時みたいに、『魔法』を使うつもり?」
「…そうそう。頭の回転が速いよねえ。やっぱりお前は、弓彦と違って賢いねー」
そう言って、父は口元だけで笑った。その笑顔に虫唾が走る。
魔法使いだからねと、あの日父は私に言った。
けれど、父の使う『魔法』が御伽噺に出てくるような甘ったるくて優しいものではないことは、もうとっくの昔に知っている。
父が使う『魔法』は、『権力』という名の暴力的なものだ。
「…それじゃ、弓彦のためにならない」
「いいじゃない、その方が生きていくのは簡単だよ。これは父さんなりの優しさなんだけどなあ」
「でも、あの子は検事になりたいって言ってるのよ。このままじゃ、司法試験なんてとても―――」
「その時はさあ、父さんがまた『魔法』を使ってあげればいいだけの話じゃないの」
瞬間、寒気がした。全く笑っていなかった父の目が恐ろしかったのもあるが、その発言が何より怖かった。
弓彦の人生全てを、偽りで塗り固めてしまおうというのか、この男は!
「父さん――」
流石にそれはやめてあげて、と続けようとした瞬間。体の前で重ねていた私の両腕を、父の右手が掴んでいた。
片手で両腕を固定するそれは、掴んでいるというよりも「戒めている」という表現の方が余程似合うもので、私の体は恐怖に跳ねた。
「ねえ、なまえ。お前はいい子だよねえ…父さんの嫌がることは、絶対にしない子だよねえ」
「――!」
その一言で、全てを悟った。
何故、父がわざわざ私に弓彦の通知表を見せたのか。何故、わざわざ私にそんな話をしたのか。
父は、私を共犯にしようとしている。全てを先に晒すことで、私がそれを「知ってしまう」ことを回避したのだ。偶然私が父の『魔法』に気付けば、きっと私が弓彦に『魔法』のネタばらしをするだろうと踏んで。
「……父さん」
「んー?」
「一つだけ約束して」
父の目を必死に睨みつける。それでも、私の手を拘束する父の力は弱まらない。
「弓彦を、絶対に検事にしてあげて」
「……別にいいけどさあ。理由を聞かせてくれるかな」
「そうしたら、検事局には私がいるもの。あの子がどんなに未熟でも、道を正してあげられるもの」
そう。傍にいれば、分からないことを教えてやれる。間違った時に叱ってやれる。
父がその役割を放棄するというなら、私が代わりにやってあげればいい。
進んできた道が偽りだったとしても、私が「真実」に変えてあげればいい。
すると父は、低く声を上げて笑い、ゆっくりと私の腕を解放した。
「……お前は本当に賢くて良い子だねー、なまえ」
交渉成立だよ、と言われている気分だった。そのわざとらしい猫撫で声が、更に私の中にざらついた感覚を残していく。
「ねえ、父さん」
「何だい?」
「……父さんのそれは、あくまで優しさなのよね?」
「……当たり前じゃないの。父さんはね、弓彦のことが可愛くて仕方ないの。だから、苦労する道を歩かせたくないの」
「……だったら、いい」
せめて、それが悪意でないならば、少しは私も弓彦も救われる。
そう、これは真実。この手の中に残った、たった一つの真実。
自分自身に言い聞かせるように、何度も胸の中で繰り返して、私はようやくその場を後にした。
「…まったくねえ。弓彦もお前も、どうしようもないバカだよ」
小さな小さな父の声は、聞こえなかったふりをした。
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