文豪とアルケミスト
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ステンドグラス細工の窓から垂れ込める闇の気配に、小萩司は顔を上げた。
つい先程まで、図書館の中は夕暮れの橙色に照らされていたと思ったが。近くに時計がないため正確な時刻は分からないが、恐らくそれから優に一時間は経過している。
しかし、ブックカートの中にはまだ数冊の本が残されている。それら一冊一冊しっかりとタイトルを検め、少女は丁寧に書架へ収めていく。
この帝國図書館へ来て、そろそろ一ヶ月になろうとしている。仕事には慣れてきたつもりだが、まだ一つ一つを処理するのに時間が掛かる。今日も報告書を書き、館内の掃除をし、本の整理が終わらぬままにもうこんな時間だ。
もっと効率を考えて動かねば。元々鈍臭い質なのだから。心の中で己を叱咤し、司は小さく息を吐く。
父が死に、母が死に、顔も知らない祖父に命じられ、唐突に与えられた「特務司書」という肩書。同時に自覚させられた、生まれ持っていたらしい「アルケミスト」の能力。名立たる文豪達に再び命を与え、侵食され消え行く文学書を守れという使命。己の身に訪れたこの数奇なものが運命と呼べるのかどうか、まだ若く幼い司にはよく分からない。
ただ、こうして一人徒広い図書館にいると、胸の中に去来するものはある。倦怠や諦念、そして一抹の不安と呼ばれる感情は、静かに少女の意識を蝕んでいく。
恵まれているのだろうとは思う。役目さえ果たしていれば衣食住には困らないし、館長をはじめ、出会う人達は皆良くしてくれる。
それでも。文学書を侵食する敵の正体も、目的も分からない。そもそも司は、己の能力に関してもよく理解していない。何もかもが曖昧で、それなのに自分の周囲にいてくれる人たちには戦い、傷付くことを強いるのだ。自身は安全な場所で、のうのうと暮らしながら。
どうにかしたいという漠然とした思いはあった。知りたいことも、やりたいことも、やるべきことも沢山あるけれど、何から始めたらいいのか見当も付かないでいる。
そして同時に、心の奥底では未だ益体もない言葉が渦巻いている。
どうして。どうして自分なのか。――何故、私がこんな役目を。
その時。ふと、固い靴音が司の耳朶を打った。
図書館の床は板張りで、誰かが歩くと足音が響く。二階部分の書架にいた司は、手摺から身を乗り出し一階に目を向けた。
まず目に飛び込んできたのは、歩く度に翻る派手な裏地の黒い外套。その下からは、染み一つない純白のスーツが見え隠れする。
彼は階下から司の姿を見留めると、白いシルクハットを胸元へと外し、恭しく頭を下げた。
「これはこれは。こんばんは、司書殿」
「江戸川さん」
呼んだ名に、男は片眼鏡の奥で目尻の垂れた瞳を細めた。
江戸川乱歩。少女がアルケミストの能力を以て、現代の世に転生せしめた文豪の一人である。
しかし司は彼のことを作家というよりも、まるで魔法使いのようだと思っていた。
エンターテイナーを自称する乱歩は、たびたび司の思いもよらぬことをやってみせる。いつだったか助手をお願いした時は、司書室にて事務処理をしていた司に「司書殿、少し休憩致しませんか」と、何処からともなくティーセットを出してみせた。どうやったのかとしきりに尋ねる司に、乱歩はただ笑うだけだった。「タネも仕掛けも御座いませんよ」と。
乱歩にはいつも驚かされる。今だって突然現れた彼に、司は大いに驚いている。ただ、彼のもたらす驚きは、いつも不快なものでは全くなかった。
「どうかしましたか? 何かお探しの本でも?」
階下に降り、尋ねれば、乱歩は常通りの芝居がかった態度で頷く。
「ええ、何か新たなトリックの参考になるようなものはないかと思いまして。しかし、司書殿がこちらにいらっしゃるとは思っておりませんでした」
「どうして、そのように?」
「そろそろ食堂に行かれる頃かと思っておりましたので」
「あ」
確かにその通りだ。仕事にかまけて忘れていたが、もう夕食の時間帯なのだ。普段ならば仕事を切り上げて、食堂に向かっている頃だろう。
そう意識したせいか、頓に司は空腹を感じ始めた。
少女の心中を察したか。乱歩は手袋をつけた右手を自身の顎に添え、「ふむ」と司の顔を覗き込む。
「司書殿、一緒に食堂に参りましょうか」
「えっ、でも……江戸川さんは本をお探しだったのでは?」
「火急の用件では御座いませんから。それに、先程有碍書に潜書していた皆さんが帰還なされて、食堂に向かわれていたようですよ」
「あっ」
そうだ、そんな時間でもある。己が危険を承知で行かせたというのに、なんてざまだ。心の中で、司は失念していた己を責める。先程も、そのことで思い悩んでいたばかりだというのに。
彼らが酷く傷付いていなければいい。そう思うと、気持ちばかりが逸り始める。
しかし、そんな司とは対照的に、乱歩はゆったりとした仕草で右手を差し出した。
「さあ、お手をどうぞ、お嬢さん。――きっと今の司書殿に、食堂は打って付けの場所ですよ」
差し出された手をどうするか、瞬間司は躊躇した。
しかし、これを拒むのも失礼な話だろう。そもそも、乱歩の所作が芝居がかっているのなど日常茶飯事だし、自分のような子供に下心など抱こう筈もないのだから。
そう結論付け、おずおずと乱歩の手に己の手を重ねる。すると乱歩は満足気に、笑みを深めた。
「光栄の至り。司書殿をエスコートさせて頂ける栄誉、大変喜ばしく思います」
「そんな大袈裟な……」
苦い笑いを浮かべつつも、司の頬が朱に染まる。手袋越しの温もりが、御伽噺の中でしか知らないような甘い台詞が、少女の胸を高鳴らせる。
しかし、そこでふと司の脳裏を疑問符が掠めた。「打って付け」とは、一体如何なる意味でなのかと。
「なんッッやねんこれ!! 」
食堂に到着した司をまず出迎えたのは、そんな絶叫であった。
ああ、皆元気そうで良かった――と、一度は安堵を覚えたが、そんなほのぼのとしたものは即座に胸中から消え去った。
鼓膜を震わせた織田作之助の声は、普段和気藹々とした雰囲気に満ちている食堂とはかけ離れている程に切迫している。しかも、織田を囲んだ他の三人――徳田秋声、泉鏡花、石川啄木は一様に顔を顰めていた。何かあったとしか、考えられない。
とりあえず司は、最も入り口から近い場所にいた人物を選び、袖を引いた。
「あの、石川さん」
「あ? なんだ、お前か」
「何かあったんですか? オダサクさんの声が廊下まで聞こえて、その」
「あー……何つったらいいか」
収まりの悪い金髪をばさばさとかき上げ、石川は言葉を濁す。それを引き継いだのは、倦怠感を露わにした徳田の重い溜息だった。
「ご飯の色が変なんだよ」
「色、ですか? 傷んでいたとか、そういう……?」
「そうなら、どんなに良かっただろうね」
百聞は一見に如かずだよ、と徳田は続けた。その言葉に促され、司は一歩前に出る。瞬間。
「いけません、司さん!」
鋭い声を飛ばしてきたのは、泉だった。名前どおりの花のような美貌は、今や蒼白に彩られている。
「……直視しては、いけません。女性には刺激が強すぎるでしょう」
「鏡花、止めない方がいいよ。彼女は知るべきだ、ここで何が起きているのか」
「秋声、何と残酷なことを口にするのですか! 僕だって、未だに信じられないというのに、嗚呼、こんな……おぞましい……!」
自身の体を両手で抱き、泉は震えていた。その剣幕に、司は思わず息を呑む。
しかし、己はこの図書館を預かる特務司書なのだ。徳田の言うとおり、目を逸らすわけにはいかない。意を決し、司は織田の隣に並んだ。
「お司書はん」
「オダサクさん、見せてください」
「……ほんま、こんなことがなかったらお司書はんといつもどおり飯食えたのにな」
苦い笑み声だった。場の空気を少しは和ませようとする織田に、司の緊張が幾許か解れていく。改めて覚悟を決め、司は炊飯器の蓋に手をかけた。
軽い音を立てて、呆気なく開いた中身は。
「え……ええー!?」
青かった。しかし、黴の類ではない。余すところなく、米飯は一面目が醒めるような真っ青に染まっていた。
ただ炊いただけで、米が青くなる筈はない。何者かの手が入っているのは、火を見るより明らかだった。
「一体、誰がこんなことを――」
独り言ち、司は顔を上げる。そこで、ふと気付いてしまった。ここに来てから、不自然なまでに言葉を発していない人物の存在に。
根拠はない。証拠もない。脳裏を過った「まさか」は純然たる直感だ。しかし、それは強く司の背を押す。かの人物へと、視線を向けさせる。
目を見張る司の対角線上、彼は満足気に口元を釣り上げた。
「おやおや、ばれてしまったようですね」
「ばっ、ばれたって、江戸川さん、やっぱり」
「ええ、ご明察ですよ司書殿。ワタクシがご飯を青色にしておきました」
「な、なんでまたこんなことを」
「ちょっとした悪戯です」
「悪戯――」
「皆さんにこうも驚いて頂けて、大成功といったところですね」
悦に入ったように、深々と一人乱歩は頷く。その仕草に"反省"の二文字は露ほども見受けられない。
一方司は、未だ状況の整理がついていない。すっかりフリーズしてしまった脳内は、情報処理を放棄している。
しかし、真っ白になった意識の外で、「ぶちん」と。何かが切れるような音を、確かに司は聞いた。
石川、徳田、泉、そして織田。四人の背から、陽炎のようにゆらりと怒りのオーラが立ち上る。
「何してくれてんだ、江戸川先生よお……」
「僕の平穏な夕食を返してもらおうか……」
「皆のご飯を台無しにした罪は重いですよ……」
「いえ、ご安心下さい。染めたのは色だけで、味や匂いに影響はない筈です。食べるのに支障はないと――」
「そういう問題ちゃうやろ! 飯が青いっちゅーだけで食欲なくなんねん!」
烈火の如き形相の四人を前にしても、乱歩の飄々とした態度は崩れない。
ああ、怒ると本当に血管って切れるんですねと、相変わらずぼんやりとした呑気な思考だけが少女の頭の中を占める。
その混沌を粉砕したのは、「お司書はん!」という織田の呼び声だった。
「なにボーっとしてんねん! 江戸川先生捕まえるから手伝ってえな!」
「えっ、は、はいっ!?」
反射的にそう返事をしてはみたものの、司の脳内は未だ混乱を極めている。
第一、捕まえるといったところで自身が役に立つとも思えない。有碍書の中で日々戦いを繰り広げている皆とは、身体能力がまるで違う。どう立ち回ろうとも四人の足手纏いになるのは必至で、乱歩に敵う筈もない。
どう動くべきか、そもそもこの事態をどう収集すべきか。喧嘩は駄目ですと声を上げることは出来ようが、それで四人の気が晴れるわけでもなし、現実問題として米は青いままなのだ。いや、米は炊き直せば何とかなるにはなるが――
思考の渦の中、目眩すら覚える。 だから、対処が大幅に遅れた。
「おやおや、では捕まる前に、ワタクシが捕まえてしまいましょうか」
その言葉の意味が分からず「え?」と聞き返したのと、視線の位置が高くなったのはほぼ同時。何が起きた。自身の状況が掴めない。大きな目を二、三回瞬かせ、司はようやく気付いた。
体が重力に反している。足がふわりと宙を蹴る。 抱き上げられているのだ。江戸川乱歩に。腰と膝下を抱えられた、所謂「お姫様抱っこ」の形で。
「え、江戸川さっ、その、なんっ」
「何してんだ、てめえ、江戸川ァァ!」
"何ですか"と問おうとした声が、石川の怒声に掻き消される。思わず首を傾ければ、石川は誰よりも一際こめかみを引き攣らせていた。このままでは、潜書の際に武器にしている銃でも抜きかねない剣幕だ。
「そいつに触んな、さっさと下ろせ! そんでもって俺様たちに一発ずつぶん殴らせろ!」
「石川先生……そらちょっと分かりやすすぎるで」
「うるっせーよオダサクっ!」
肩をすくめ、呆れたように織田は苦笑する。
その意図も、また顔を赤くして叫ぶ石川の意図も司には分からなかった。が、乱歩は二人の様子に「成程」などと頷いている。
何が「成程」だというのか。そう問おうと唇を開いた瞬間、乱歩は司に視線を向け、片目をつぶって笑った。
それは、合図であったのだろう。
「それでは皆様、これにて失礼致します!」
高らかな宣言。同時に、司の視界が大きく動く。
「えっ、江戸川、さっ!?」
「司書殿、少々お静かに。喋ると舌を噛みますよ!」
自身を抱き上げたまま、乱歩は颯爽と走り出した。翻る外套の向こう側で、「逃げたぞ!」「追え!」と声がする。
最早、事態は司の理解の範疇を軽々と超えていた。何故自分はこの人に抱き上げられ、あまつさえ逃亡に付き合うことになっているのか。
ただ、見上げた乱歩の顔があまりに生き生きと輝いていたので、まるで少年のようだと思った。
実際は――生年から換算した年齢も、転生後の外見年齢も――――遥かに歳上である筈なのに。
瞬間、どきりと一際大きく心臓が跳ねる。
あれ? と疑問符を浮かべつつも、その理由は今の司には分からなかった。
さて、そこからは文字通りの縦横無尽であった。
追手の姿は随分前から見えなくなり、流れる景色もいつの間にか図書館から併設の居住棟へと変わっていた。
上へ下への大移動の末、居住棟の最上階へ辿り着いた乱歩は、廊下の端でふと足を止める。目の前には、古い扉があった。
「こんなところに、扉が……」
呟く司に、乱歩は頷く。
「ええ。恐らく他の皆さんも御存知ないでしょう」
「江戸川さんの秘密のお部屋、ですか?」
「別に隠していたわけでは御座いませんよ。目立たないため、皆さん気付かないだけのようです。別段鍵がかかっているわけでもないのですがね」
司を腕に抱いたまま、乱歩は器用にノブを捻る。言葉通り、難なく扉は開いた。その先には、更に上へと伸びる、狭い階段が続いている。
「少しばかり急ですので。落ちないよう気をつけて下さいね」
「は、はいっ」
促されるまま、司は乱歩の首に回した手に力を込めた。
それを合図にしたかのように、乱歩はゆっくりと階段を上がり始める。扉が静かに閉まる音が、微かに背後から響いた。
しかし――ふいにはたと司は思い至る。何故、自分は乱歩に抱き上げられていることを当然のように受け入れているのか。
一度気付いてしまうと今まで意識していなかった羞恥が湧き上がり、みるみるうちに司の頬は赤く染まった。
「あ、あのう、江戸川さん」
「はい、何でしょう?」
「私、下ります。もう追って来る方もいないみたいですし。それに私、重いですし……江戸川さんも歩きにくくは…………」
「エエ、ではこの上に到着しましたら、すぐに」
司の言葉を遮る調子だった。「そ、そうではなくて」という司の訴えも、階段を上がる乱歩の足音に上書きされる。観念して、司はそのまま乱歩に身を任せることにした。抱きつく自身を視界の端に捉え、乱歩が微かに笑ったように思えた。
階段の先は、屋根裏部屋に続いていた。立ち入る者はやはり殆どいないようで、殺風景だが埃っぽい。然程広くもないその部屋は、上って来た薄暗い階段と違い、やけに明るかった。しかし、照明が点灯しているわけではない。
まず目に入ったのは、大きな天窓。そこから覗く見事な満月と、満点の星々。その白い光が、昼間のように室内を照らしていた。
「うわあ……」
司の口から漏れた感嘆の息に、乱歩は満足そうに笑んだ。
「お気に召しましたか? 司書殿」
「はい! 綺麗です、感激ですっ。すごいです、手を伸ばしたらお星さまが掴めそうですねっ」
「おや、司書殿もなかなか詩的でいらっしゃいますね」
司の言葉通り、星たちは今にも落ちてきそうなほどにくっきりと見えた。
この帝國図書館は、若干の郊外に建てられている。都市部の灯りは遠く、夜空の輝きを邪魔するものは殆どない。しかし、司は今の今までそれに気付いてはいなかった。
この一ヶ月、向き合っていた相手は図書館の本だけだ。
「……私、ゆっくりと空を見上げることすら忘れていたんですね」
悲しみに暮れ、余裕を失くし、懊悩ばかりが頭を満たしていた。だが、降り注ぐ白の中にいると、心に巣食うそれらが全て浄化されていくような心地になる。胸の奥に熱いものが込み上げ、司の視界はじわりと滲んだ。
「司書殿に喜んで頂けて、ワタクシもエンターテイナーとしての本領が発揮出来たというものです」
「江戸川さん――」
「この図書館で一番つまらなそうで、寂しそうなお顔をしていらっしゃったのはアナタでしたから。笑顔の仮面で覆っていたおつもりでしょうが、ワタクシには全てお見通しですよ」
潤んだ視線を向ける司に向かって、乱歩は片目をつぶって見せた。まるで、一世一代の悪戯が成功したような得意げな顔で。
「勿論、人生楽しいことばかりとはいきませんが――それでも、この世に生まれ落ちたからには万事楽しんだもの勝ちだと、ワタクシは思います」
「……もしかして、ご飯を青くしたのもその一環で?」
「エエ、エエ、勿論。皆さんに好評とはいきませんでしたが、驚きを齎したという一点においてはやはり大成功でしたね!」
胸を張る乱歩に目を丸くし、数瞬の後に司は「ふふ」と小さくと笑った。
怒っていた皆には申し訳ないけれど、悪戯に勤しむ乱歩はやはり心から楽しそうで、子供のようにキラキラと輝く目を見ていると、どうしても微笑ましく思えてしまう。
けれど――そこで気付いてしまった。薄闇の中にあっても分かる青玉のような双眸が、自分の姿をまっすぐに映していることに。
「――ようやく、笑って下さいましたね」
耳元で囁かれ、またも心臓が大きく脈打った。そこでようやく、司は己の現状を思い出した。
乱歩に抱き上げられたままの体勢は、未だ変わっていない。屋根裏に着いたら下ろすという約束も、見事な景観を前にすっかり頭から消えていた。
月光が、乱歩の顔を冴え冴えと照らし出す。整った絵のような光景に、司は言葉を失った。
ああ、微笑ましいなんて言ったのは一体何処の誰だ。少年のようなんて、可愛いなんて、大きな間違いだ。
だって、今、私の一番近くにいるこの人は、紛うことなく大人の男 なのに――
「江戸川、さ」
唇が震える。名を呼ぶだけでやっとで、そのあとに続く台詞を司は持ち合わせてはいない。
だが、少女の口から続きが発せられることはなかった。
……くう
小さな音は、静かな空間に染み入るように響いた。
瞬時に自分の腹を抑え、司は耳や首筋まで、茹で蛸のように赤くなる。
「す、すすすすすすみませんっ」
まさに、顔から火が出る思いだった。
そう、空腹だった。夕飯を結局食べそこなったままなのだ。だからって、何もこんな時に、まさかお腹が鳴るなんて。
両手で顔を覆ってじたばたと狼狽える様子に、次は乱歩が小さく笑いを零す。くつくつと肩を震わせる彼に、司は唇を尖らせた。
それは怒りや苛立ちというよりも気恥ずかしさを隠すポーズの意味合いが強かったのだが、少女の視線に気付いた乱歩は僅かな申し訳なさを滲ませた様子で「これは、大変失礼致しました」と頭を下げた。
先程までの雰囲気は、すっかり乱歩から消え去っていた。何となく、司はホッと息を吐く。それが安堵であるか、遺憾の発露であるか、心中に浮かんだ感情は自分でもよく分からなかったが。
「さて、それでは再び食堂に向かいましょうか、司書殿。皆さんのお怒りも、少しは落ち着いて下さっていれば良いのですが」
「そ、その前に江戸川さん、下ろしてくださいっ。私もすっかり忘れてて……腕は大丈夫ですか、重くなかったですか」
「いえいえ、全く。よくある文句ではありますが、司書殿は羽のような軽やかさですよ。下ろしてしまうのが、少々名残惜しいですねえ」
「また、そんな大袈裟な……」
月光に濡れた屋根裏に、ようやく司は足を下ろした。しかし、いざ地に足がつくと、確かに少し前まで感じていた温もりが名残惜しいもののように思えて、その考えに司は頭を振る。
今、一体自分は何を考えた。ひどく不純なことを思い浮かべた気がして、密かに司は己を恥じた。
だが、その目の前に、再び大きな右手が差し出される。
「さあ、参りましょう、お嬢さん」
――本当に魔法使いのような人だと思う。どうして、私のしてほしいことが、言ってほしい言葉が分かるのだろう。
本当にこの人には、何を考えているのか全てお見通しなのかもしれない。
彼の言動全てが、胸の中をじんわりと満たしていく。
「はい」と満面の笑みを向けて、司は乱歩の手を取った。その手を取ることに、もう躊躇はない。
乱歩と共に向かう食堂への道筋は、よく見知った図書館内にも関わらず、不思議と目新しくその目に映ったのだった。
……ちなみに四人の怒りはまだ収まっておらず――乱歩は特に石川からぎりぎりと締め上げられることになるのだが――それはまた、別の話である。
つい先程まで、図書館の中は夕暮れの橙色に照らされていたと思ったが。近くに時計がないため正確な時刻は分からないが、恐らくそれから優に一時間は経過している。
しかし、ブックカートの中にはまだ数冊の本が残されている。それら一冊一冊しっかりとタイトルを検め、少女は丁寧に書架へ収めていく。
この帝國図書館へ来て、そろそろ一ヶ月になろうとしている。仕事には慣れてきたつもりだが、まだ一つ一つを処理するのに時間が掛かる。今日も報告書を書き、館内の掃除をし、本の整理が終わらぬままにもうこんな時間だ。
もっと効率を考えて動かねば。元々鈍臭い質なのだから。心の中で己を叱咤し、司は小さく息を吐く。
父が死に、母が死に、顔も知らない祖父に命じられ、唐突に与えられた「特務司書」という肩書。同時に自覚させられた、生まれ持っていたらしい「アルケミスト」の能力。名立たる文豪達に再び命を与え、侵食され消え行く文学書を守れという使命。己の身に訪れたこの数奇なものが運命と呼べるのかどうか、まだ若く幼い司にはよく分からない。
ただ、こうして一人徒広い図書館にいると、胸の中に去来するものはある。倦怠や諦念、そして一抹の不安と呼ばれる感情は、静かに少女の意識を蝕んでいく。
恵まれているのだろうとは思う。役目さえ果たしていれば衣食住には困らないし、館長をはじめ、出会う人達は皆良くしてくれる。
それでも。文学書を侵食する敵の正体も、目的も分からない。そもそも司は、己の能力に関してもよく理解していない。何もかもが曖昧で、それなのに自分の周囲にいてくれる人たちには戦い、傷付くことを強いるのだ。自身は安全な場所で、のうのうと暮らしながら。
どうにかしたいという漠然とした思いはあった。知りたいことも、やりたいことも、やるべきことも沢山あるけれど、何から始めたらいいのか見当も付かないでいる。
そして同時に、心の奥底では未だ益体もない言葉が渦巻いている。
どうして。どうして自分なのか。――何故、私がこんな役目を。
その時。ふと、固い靴音が司の耳朶を打った。
図書館の床は板張りで、誰かが歩くと足音が響く。二階部分の書架にいた司は、手摺から身を乗り出し一階に目を向けた。
まず目に飛び込んできたのは、歩く度に翻る派手な裏地の黒い外套。その下からは、染み一つない純白のスーツが見え隠れする。
彼は階下から司の姿を見留めると、白いシルクハットを胸元へと外し、恭しく頭を下げた。
「これはこれは。こんばんは、司書殿」
「江戸川さん」
呼んだ名に、男は片眼鏡の奥で目尻の垂れた瞳を細めた。
江戸川乱歩。少女がアルケミストの能力を以て、現代の世に転生せしめた文豪の一人である。
しかし司は彼のことを作家というよりも、まるで魔法使いのようだと思っていた。
エンターテイナーを自称する乱歩は、たびたび司の思いもよらぬことをやってみせる。いつだったか助手をお願いした時は、司書室にて事務処理をしていた司に「司書殿、少し休憩致しませんか」と、何処からともなくティーセットを出してみせた。どうやったのかとしきりに尋ねる司に、乱歩はただ笑うだけだった。「タネも仕掛けも御座いませんよ」と。
乱歩にはいつも驚かされる。今だって突然現れた彼に、司は大いに驚いている。ただ、彼のもたらす驚きは、いつも不快なものでは全くなかった。
「どうかしましたか? 何かお探しの本でも?」
階下に降り、尋ねれば、乱歩は常通りの芝居がかった態度で頷く。
「ええ、何か新たなトリックの参考になるようなものはないかと思いまして。しかし、司書殿がこちらにいらっしゃるとは思っておりませんでした」
「どうして、そのように?」
「そろそろ食堂に行かれる頃かと思っておりましたので」
「あ」
確かにその通りだ。仕事にかまけて忘れていたが、もう夕食の時間帯なのだ。普段ならば仕事を切り上げて、食堂に向かっている頃だろう。
そう意識したせいか、頓に司は空腹を感じ始めた。
少女の心中を察したか。乱歩は手袋をつけた右手を自身の顎に添え、「ふむ」と司の顔を覗き込む。
「司書殿、一緒に食堂に参りましょうか」
「えっ、でも……江戸川さんは本をお探しだったのでは?」
「火急の用件では御座いませんから。それに、先程有碍書に潜書していた皆さんが帰還なされて、食堂に向かわれていたようですよ」
「あっ」
そうだ、そんな時間でもある。己が危険を承知で行かせたというのに、なんてざまだ。心の中で、司は失念していた己を責める。先程も、そのことで思い悩んでいたばかりだというのに。
彼らが酷く傷付いていなければいい。そう思うと、気持ちばかりが逸り始める。
しかし、そんな司とは対照的に、乱歩はゆったりとした仕草で右手を差し出した。
「さあ、お手をどうぞ、お嬢さん。――きっと今の司書殿に、食堂は打って付けの場所ですよ」
差し出された手をどうするか、瞬間司は躊躇した。
しかし、これを拒むのも失礼な話だろう。そもそも、乱歩の所作が芝居がかっているのなど日常茶飯事だし、自分のような子供に下心など抱こう筈もないのだから。
そう結論付け、おずおずと乱歩の手に己の手を重ねる。すると乱歩は満足気に、笑みを深めた。
「光栄の至り。司書殿をエスコートさせて頂ける栄誉、大変喜ばしく思います」
「そんな大袈裟な……」
苦い笑いを浮かべつつも、司の頬が朱に染まる。手袋越しの温もりが、御伽噺の中でしか知らないような甘い台詞が、少女の胸を高鳴らせる。
しかし、そこでふと司の脳裏を疑問符が掠めた。「打って付け」とは、一体如何なる意味でなのかと。
「なんッッやねんこれ!! 」
食堂に到着した司をまず出迎えたのは、そんな絶叫であった。
ああ、皆元気そうで良かった――と、一度は安堵を覚えたが、そんなほのぼのとしたものは即座に胸中から消え去った。
鼓膜を震わせた織田作之助の声は、普段和気藹々とした雰囲気に満ちている食堂とはかけ離れている程に切迫している。しかも、織田を囲んだ他の三人――徳田秋声、泉鏡花、石川啄木は一様に顔を顰めていた。何かあったとしか、考えられない。
とりあえず司は、最も入り口から近い場所にいた人物を選び、袖を引いた。
「あの、石川さん」
「あ? なんだ、お前か」
「何かあったんですか? オダサクさんの声が廊下まで聞こえて、その」
「あー……何つったらいいか」
収まりの悪い金髪をばさばさとかき上げ、石川は言葉を濁す。それを引き継いだのは、倦怠感を露わにした徳田の重い溜息だった。
「ご飯の色が変なんだよ」
「色、ですか? 傷んでいたとか、そういう……?」
「そうなら、どんなに良かっただろうね」
百聞は一見に如かずだよ、と徳田は続けた。その言葉に促され、司は一歩前に出る。瞬間。
「いけません、司さん!」
鋭い声を飛ばしてきたのは、泉だった。名前どおりの花のような美貌は、今や蒼白に彩られている。
「……直視しては、いけません。女性には刺激が強すぎるでしょう」
「鏡花、止めない方がいいよ。彼女は知るべきだ、ここで何が起きているのか」
「秋声、何と残酷なことを口にするのですか! 僕だって、未だに信じられないというのに、嗚呼、こんな……おぞましい……!」
自身の体を両手で抱き、泉は震えていた。その剣幕に、司は思わず息を呑む。
しかし、己はこの図書館を預かる特務司書なのだ。徳田の言うとおり、目を逸らすわけにはいかない。意を決し、司は織田の隣に並んだ。
「お司書はん」
「オダサクさん、見せてください」
「……ほんま、こんなことがなかったらお司書はんといつもどおり飯食えたのにな」
苦い笑み声だった。場の空気を少しは和ませようとする織田に、司の緊張が幾許か解れていく。改めて覚悟を決め、司は炊飯器の蓋に手をかけた。
軽い音を立てて、呆気なく開いた中身は。
「え……ええー!?」
青かった。しかし、黴の類ではない。余すところなく、米飯は一面目が醒めるような真っ青に染まっていた。
ただ炊いただけで、米が青くなる筈はない。何者かの手が入っているのは、火を見るより明らかだった。
「一体、誰がこんなことを――」
独り言ち、司は顔を上げる。そこで、ふと気付いてしまった。ここに来てから、不自然なまでに言葉を発していない人物の存在に。
根拠はない。証拠もない。脳裏を過った「まさか」は純然たる直感だ。しかし、それは強く司の背を押す。かの人物へと、視線を向けさせる。
目を見張る司の対角線上、彼は満足気に口元を釣り上げた。
「おやおや、ばれてしまったようですね」
「ばっ、ばれたって、江戸川さん、やっぱり」
「ええ、ご明察ですよ司書殿。ワタクシがご飯を青色にしておきました」
「な、なんでまたこんなことを」
「ちょっとした悪戯です」
「悪戯――」
「皆さんにこうも驚いて頂けて、大成功といったところですね」
悦に入ったように、深々と一人乱歩は頷く。その仕草に"反省"の二文字は露ほども見受けられない。
一方司は、未だ状況の整理がついていない。すっかりフリーズしてしまった脳内は、情報処理を放棄している。
しかし、真っ白になった意識の外で、「ぶちん」と。何かが切れるような音を、確かに司は聞いた。
石川、徳田、泉、そして織田。四人の背から、陽炎のようにゆらりと怒りのオーラが立ち上る。
「何してくれてんだ、江戸川先生よお……」
「僕の平穏な夕食を返してもらおうか……」
「皆のご飯を台無しにした罪は重いですよ……」
「いえ、ご安心下さい。染めたのは色だけで、味や匂いに影響はない筈です。食べるのに支障はないと――」
「そういう問題ちゃうやろ! 飯が青いっちゅーだけで食欲なくなんねん!」
烈火の如き形相の四人を前にしても、乱歩の飄々とした態度は崩れない。
ああ、怒ると本当に血管って切れるんですねと、相変わらずぼんやりとした呑気な思考だけが少女の頭の中を占める。
その混沌を粉砕したのは、「お司書はん!」という織田の呼び声だった。
「なにボーっとしてんねん! 江戸川先生捕まえるから手伝ってえな!」
「えっ、は、はいっ!?」
反射的にそう返事をしてはみたものの、司の脳内は未だ混乱を極めている。
第一、捕まえるといったところで自身が役に立つとも思えない。有碍書の中で日々戦いを繰り広げている皆とは、身体能力がまるで違う。どう立ち回ろうとも四人の足手纏いになるのは必至で、乱歩に敵う筈もない。
どう動くべきか、そもそもこの事態をどう収集すべきか。喧嘩は駄目ですと声を上げることは出来ようが、それで四人の気が晴れるわけでもなし、現実問題として米は青いままなのだ。いや、米は炊き直せば何とかなるにはなるが――
思考の渦の中、目眩すら覚える。 だから、対処が大幅に遅れた。
「おやおや、では捕まる前に、ワタクシが捕まえてしまいましょうか」
その言葉の意味が分からず「え?」と聞き返したのと、視線の位置が高くなったのはほぼ同時。何が起きた。自身の状況が掴めない。大きな目を二、三回瞬かせ、司はようやく気付いた。
体が重力に反している。足がふわりと宙を蹴る。 抱き上げられているのだ。江戸川乱歩に。腰と膝下を抱えられた、所謂「お姫様抱っこ」の形で。
「え、江戸川さっ、その、なんっ」
「何してんだ、てめえ、江戸川ァァ!」
"何ですか"と問おうとした声が、石川の怒声に掻き消される。思わず首を傾ければ、石川は誰よりも一際こめかみを引き攣らせていた。このままでは、潜書の際に武器にしている銃でも抜きかねない剣幕だ。
「そいつに触んな、さっさと下ろせ! そんでもって俺様たちに一発ずつぶん殴らせろ!」
「石川先生……そらちょっと分かりやすすぎるで」
「うるっせーよオダサクっ!」
肩をすくめ、呆れたように織田は苦笑する。
その意図も、また顔を赤くして叫ぶ石川の意図も司には分からなかった。が、乱歩は二人の様子に「成程」などと頷いている。
何が「成程」だというのか。そう問おうと唇を開いた瞬間、乱歩は司に視線を向け、片目をつぶって笑った。
それは、合図であったのだろう。
「それでは皆様、これにて失礼致します!」
高らかな宣言。同時に、司の視界が大きく動く。
「えっ、江戸川、さっ!?」
「司書殿、少々お静かに。喋ると舌を噛みますよ!」
自身を抱き上げたまま、乱歩は颯爽と走り出した。翻る外套の向こう側で、「逃げたぞ!」「追え!」と声がする。
最早、事態は司の理解の範疇を軽々と超えていた。何故自分はこの人に抱き上げられ、あまつさえ逃亡に付き合うことになっているのか。
ただ、見上げた乱歩の顔があまりに生き生きと輝いていたので、まるで少年のようだと思った。
実際は――生年から換算した年齢も、転生後の外見年齢も――――遥かに歳上である筈なのに。
瞬間、どきりと一際大きく心臓が跳ねる。
あれ? と疑問符を浮かべつつも、その理由は今の司には分からなかった。
さて、そこからは文字通りの縦横無尽であった。
追手の姿は随分前から見えなくなり、流れる景色もいつの間にか図書館から併設の居住棟へと変わっていた。
上へ下への大移動の末、居住棟の最上階へ辿り着いた乱歩は、廊下の端でふと足を止める。目の前には、古い扉があった。
「こんなところに、扉が……」
呟く司に、乱歩は頷く。
「ええ。恐らく他の皆さんも御存知ないでしょう」
「江戸川さんの秘密のお部屋、ですか?」
「別に隠していたわけでは御座いませんよ。目立たないため、皆さん気付かないだけのようです。別段鍵がかかっているわけでもないのですがね」
司を腕に抱いたまま、乱歩は器用にノブを捻る。言葉通り、難なく扉は開いた。その先には、更に上へと伸びる、狭い階段が続いている。
「少しばかり急ですので。落ちないよう気をつけて下さいね」
「は、はいっ」
促されるまま、司は乱歩の首に回した手に力を込めた。
それを合図にしたかのように、乱歩はゆっくりと階段を上がり始める。扉が静かに閉まる音が、微かに背後から響いた。
しかし――ふいにはたと司は思い至る。何故、自分は乱歩に抱き上げられていることを当然のように受け入れているのか。
一度気付いてしまうと今まで意識していなかった羞恥が湧き上がり、みるみるうちに司の頬は赤く染まった。
「あ、あのう、江戸川さん」
「はい、何でしょう?」
「私、下ります。もう追って来る方もいないみたいですし。それに私、重いですし……江戸川さんも歩きにくくは…………」
「エエ、ではこの上に到着しましたら、すぐに」
司の言葉を遮る調子だった。「そ、そうではなくて」という司の訴えも、階段を上がる乱歩の足音に上書きされる。観念して、司はそのまま乱歩に身を任せることにした。抱きつく自身を視界の端に捉え、乱歩が微かに笑ったように思えた。
階段の先は、屋根裏部屋に続いていた。立ち入る者はやはり殆どいないようで、殺風景だが埃っぽい。然程広くもないその部屋は、上って来た薄暗い階段と違い、やけに明るかった。しかし、照明が点灯しているわけではない。
まず目に入ったのは、大きな天窓。そこから覗く見事な満月と、満点の星々。その白い光が、昼間のように室内を照らしていた。
「うわあ……」
司の口から漏れた感嘆の息に、乱歩は満足そうに笑んだ。
「お気に召しましたか? 司書殿」
「はい! 綺麗です、感激ですっ。すごいです、手を伸ばしたらお星さまが掴めそうですねっ」
「おや、司書殿もなかなか詩的でいらっしゃいますね」
司の言葉通り、星たちは今にも落ちてきそうなほどにくっきりと見えた。
この帝國図書館は、若干の郊外に建てられている。都市部の灯りは遠く、夜空の輝きを邪魔するものは殆どない。しかし、司は今の今までそれに気付いてはいなかった。
この一ヶ月、向き合っていた相手は図書館の本だけだ。
「……私、ゆっくりと空を見上げることすら忘れていたんですね」
悲しみに暮れ、余裕を失くし、懊悩ばかりが頭を満たしていた。だが、降り注ぐ白の中にいると、心に巣食うそれらが全て浄化されていくような心地になる。胸の奥に熱いものが込み上げ、司の視界はじわりと滲んだ。
「司書殿に喜んで頂けて、ワタクシもエンターテイナーとしての本領が発揮出来たというものです」
「江戸川さん――」
「この図書館で一番つまらなそうで、寂しそうなお顔をしていらっしゃったのはアナタでしたから。笑顔の仮面で覆っていたおつもりでしょうが、ワタクシには全てお見通しですよ」
潤んだ視線を向ける司に向かって、乱歩は片目をつぶって見せた。まるで、一世一代の悪戯が成功したような得意げな顔で。
「勿論、人生楽しいことばかりとはいきませんが――それでも、この世に生まれ落ちたからには万事楽しんだもの勝ちだと、ワタクシは思います」
「……もしかして、ご飯を青くしたのもその一環で?」
「エエ、エエ、勿論。皆さんに好評とはいきませんでしたが、驚きを齎したという一点においてはやはり大成功でしたね!」
胸を張る乱歩に目を丸くし、数瞬の後に司は「ふふ」と小さくと笑った。
怒っていた皆には申し訳ないけれど、悪戯に勤しむ乱歩はやはり心から楽しそうで、子供のようにキラキラと輝く目を見ていると、どうしても微笑ましく思えてしまう。
けれど――そこで気付いてしまった。薄闇の中にあっても分かる青玉のような双眸が、自分の姿をまっすぐに映していることに。
「――ようやく、笑って下さいましたね」
耳元で囁かれ、またも心臓が大きく脈打った。そこでようやく、司は己の現状を思い出した。
乱歩に抱き上げられたままの体勢は、未だ変わっていない。屋根裏に着いたら下ろすという約束も、見事な景観を前にすっかり頭から消えていた。
月光が、乱歩の顔を冴え冴えと照らし出す。整った絵のような光景に、司は言葉を失った。
ああ、微笑ましいなんて言ったのは一体何処の誰だ。少年のようなんて、可愛いなんて、大きな間違いだ。
だって、今、私の一番近くにいるこの人は、紛うことなく大人の
「江戸川、さ」
唇が震える。名を呼ぶだけでやっとで、そのあとに続く台詞を司は持ち合わせてはいない。
だが、少女の口から続きが発せられることはなかった。
……くう
小さな音は、静かな空間に染み入るように響いた。
瞬時に自分の腹を抑え、司は耳や首筋まで、茹で蛸のように赤くなる。
「す、すすすすすすみませんっ」
まさに、顔から火が出る思いだった。
そう、空腹だった。夕飯を結局食べそこなったままなのだ。だからって、何もこんな時に、まさかお腹が鳴るなんて。
両手で顔を覆ってじたばたと狼狽える様子に、次は乱歩が小さく笑いを零す。くつくつと肩を震わせる彼に、司は唇を尖らせた。
それは怒りや苛立ちというよりも気恥ずかしさを隠すポーズの意味合いが強かったのだが、少女の視線に気付いた乱歩は僅かな申し訳なさを滲ませた様子で「これは、大変失礼致しました」と頭を下げた。
先程までの雰囲気は、すっかり乱歩から消え去っていた。何となく、司はホッと息を吐く。それが安堵であるか、遺憾の発露であるか、心中に浮かんだ感情は自分でもよく分からなかったが。
「さて、それでは再び食堂に向かいましょうか、司書殿。皆さんのお怒りも、少しは落ち着いて下さっていれば良いのですが」
「そ、その前に江戸川さん、下ろしてくださいっ。私もすっかり忘れてて……腕は大丈夫ですか、重くなかったですか」
「いえいえ、全く。よくある文句ではありますが、司書殿は羽のような軽やかさですよ。下ろしてしまうのが、少々名残惜しいですねえ」
「また、そんな大袈裟な……」
月光に濡れた屋根裏に、ようやく司は足を下ろした。しかし、いざ地に足がつくと、確かに少し前まで感じていた温もりが名残惜しいもののように思えて、その考えに司は頭を振る。
今、一体自分は何を考えた。ひどく不純なことを思い浮かべた気がして、密かに司は己を恥じた。
だが、その目の前に、再び大きな右手が差し出される。
「さあ、参りましょう、お嬢さん」
――本当に魔法使いのような人だと思う。どうして、私のしてほしいことが、言ってほしい言葉が分かるのだろう。
本当にこの人には、何を考えているのか全てお見通しなのかもしれない。
彼の言動全てが、胸の中をじんわりと満たしていく。
「はい」と満面の笑みを向けて、司は乱歩の手を取った。その手を取ることに、もう躊躇はない。
乱歩と共に向かう食堂への道筋は、よく見知った図書館内にも関わらず、不思議と目新しくその目に映ったのだった。
……ちなみに四人の怒りはまだ収まっておらず――乱歩は特に石川からぎりぎりと締め上げられることになるのだが――それはまた、別の話である。
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