千銃士R
硬い靴音を優雅に響かせ、その背がゆっくりと遠ざかっていく。
もう一度「待って」と追い縋りたかった。なのに、両足が凍りついたように動かない。
話がしたい。もっとちゃんと。でも引き止めたところで、これ以上何を話せばいいというのだろう。あの人を納得させられる言葉を、今の私は持ち合わせていない。
あの人を――エルメさんを――
『人間として扱わなくていい、と言っているんじゃない。『扱われたくない』と言っているんだ。本気でね』
ついさっき投げ掛けられた言葉が、耳の奥で反響する。
『もちろん、君からもね……マスター』
瞬間、廊下にぱたぱたと何かが落ちた。慌てて下に視線を向けると、何故か雨粒のようなもので濡れていた。雨漏りかとも思ったが、窓の向こうは腹が立つほどの快晴だ。
そこで、ようやく気付いた。自分の頬が濡れていることに。
――自分が、泣いていることに。
「……何で……」
何で、涙なんか出るんだろう。どうしてこんなに引きちぎれそうなほど、胸の奥が痛いんだろう。
「マスター」
立ちすくむ私の背後から、突然マークスの声が響いた。談話室に戻ってこない私を不審に思って、様子を見に来たのだろうか。思わず振り向いた私を見て、即座に彼の顔色が変わった。
「どうしたんだマスター!? 何で目から水が……!」
「ちが……違うの、これは、自分でも、よく……分からなくて」
「……エルメと何かあったのか?」
マークスの声のトーンが一段下がる。あ、まずい――と反射的に思ったが、もう遅い。
「それは、悲しいことが起きた時に出るって以前教えてもらった……あいつがマスターを悲しませたのか? だったら俺は、あいつを絶対許さない」
「そうじゃないの、マークス……エルメさんは、関係なくて……」
そう。違う。違うはずだ。
だって、彼が人として扱われたくないことを、私はずっと前から知っていた。
人でなくなる一日がないとやっていけないという秘密を共有していた。
だから、あの言葉に傷つく理由なんてない。悲しくなる理由なんて、ないはずなのに。
――そう、知っていた。知っていたのに。
あの翠玉のような瞳に、自分の姿が映っていることに胸が高鳴ったり。
大きな手で頭を撫でられるたびに、夢を見るような心地になったり。
彼がドイツに帰還して共にいられない間は、寂しさを覚えたり。
そんな感情を、抱いてしまうようになった。
誰よりも「人間」に向ける感情を抱いてしまった。
「……ごめんなさい」
聞こえないほどの声で、小さく呟く。そんなことをしたって、誰にも許しを乞うことなんて出来ないのに。
「ごめんなさいエルメさん……」
顔を覆った私を見て、マークスが狼狽している。でも、私は身勝手なほどに自分のことだけでいっぱいいっぱいで、マークスを宥めることも出来なかった。
こんな邪魔な気持ち、涙と一緒に全部流れ出てしまえばいい。
そうやって全部忘れて、明日からは何もなかったように、いつもどおりに過ごす。
だからどうか――私に幻滅しないで。嫌いにならないで。
ただ一つの祈りを、何度も何度も胸の中で繰り返す。
報われなくても構わない。
ああ、どうしてこんな恋をしてしまったのだろう。
もう一度「待って」と追い縋りたかった。なのに、両足が凍りついたように動かない。
話がしたい。もっとちゃんと。でも引き止めたところで、これ以上何を話せばいいというのだろう。あの人を納得させられる言葉を、今の私は持ち合わせていない。
あの人を――エルメさんを――
『人間として扱わなくていい、と言っているんじゃない。『扱われたくない』と言っているんだ。本気でね』
ついさっき投げ掛けられた言葉が、耳の奥で反響する。
『もちろん、君からもね……マスター』
瞬間、廊下にぱたぱたと何かが落ちた。慌てて下に視線を向けると、何故か雨粒のようなもので濡れていた。雨漏りかとも思ったが、窓の向こうは腹が立つほどの快晴だ。
そこで、ようやく気付いた。自分の頬が濡れていることに。
――自分が、泣いていることに。
「……何で……」
何で、涙なんか出るんだろう。どうしてこんなに引きちぎれそうなほど、胸の奥が痛いんだろう。
「マスター」
立ちすくむ私の背後から、突然マークスの声が響いた。談話室に戻ってこない私を不審に思って、様子を見に来たのだろうか。思わず振り向いた私を見て、即座に彼の顔色が変わった。
「どうしたんだマスター!? 何で目から水が……!」
「ちが……違うの、これは、自分でも、よく……分からなくて」
「……エルメと何かあったのか?」
マークスの声のトーンが一段下がる。あ、まずい――と反射的に思ったが、もう遅い。
「それは、悲しいことが起きた時に出るって以前教えてもらった……あいつがマスターを悲しませたのか? だったら俺は、あいつを絶対許さない」
「そうじゃないの、マークス……エルメさんは、関係なくて……」
そう。違う。違うはずだ。
だって、彼が人として扱われたくないことを、私はずっと前から知っていた。
人でなくなる一日がないとやっていけないという秘密を共有していた。
だから、あの言葉に傷つく理由なんてない。悲しくなる理由なんて、ないはずなのに。
――そう、知っていた。知っていたのに。
あの翠玉のような瞳に、自分の姿が映っていることに胸が高鳴ったり。
大きな手で頭を撫でられるたびに、夢を見るような心地になったり。
彼がドイツに帰還して共にいられない間は、寂しさを覚えたり。
そんな感情を、抱いてしまうようになった。
誰よりも「人間」に向ける感情を抱いてしまった。
「……ごめんなさい」
聞こえないほどの声で、小さく呟く。そんなことをしたって、誰にも許しを乞うことなんて出来ないのに。
「ごめんなさいエルメさん……」
顔を覆った私を見て、マークスが狼狽している。でも、私は身勝手なほどに自分のことだけでいっぱいいっぱいで、マークスを宥めることも出来なかった。
こんな邪魔な気持ち、涙と一緒に全部流れ出てしまえばいい。
そうやって全部忘れて、明日からは何もなかったように、いつもどおりに過ごす。
だからどうか――私に幻滅しないで。嫌いにならないで。
ただ一つの祈りを、何度も何度も胸の中で繰り返す。
報われなくても構わない。
ああ、どうしてこんな恋をしてしまったのだろう。
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