「あの人、やっぱりおかしいって! 『犬みたい』!? 普通言う!? 自分に懐いてる女の子のことそういうふうに言うなんて、これだから男って信用出来ない!」
エキサイトした彩声の声が、中庭どころか校内中に響く勢いで轟く。今日は天気がいいから、部室の窓を全開にして昼食を取っているんだろう。まあ、この
仮想世界に雨は降らないんだが。
彩声、丸聞こえだぞ。心の中でツッコミを入れつつ、購買で買ったサンドイッチにかぶりつく。俺はといえば、中庭ーー部室の窓の真下で一人孤独な昼飯だ。いや、アリアはいるけど。本当は部室で食べるつもりだったのだが、今日は女子たちに陣取られているのが立ち入る前に分かったため何となく気まずくて、こんなところに腰を落ち着けたのだった。
「ま、まあまあ彩声先輩。ほら~……あれは冗談のつもりだったんじゃないんですかね? あの人、私のことも大型犬に見えるとか言ってたし」
「美笛ちゃんにも言ったの!? ていうか、あの言い方絶対本気だったよ! 何となく分かるじゃん、そういうのって!」
美笛ちゃんのフォローも役に立たず、彩声の怒りは治まらない。最早あれは根深い不信感の発露だ。
「彩声、随分荒れてんねえ」
「そうだなあ」
心配そうなアリアに、無難な相槌を打つ。
彩声が荒れている理由もその気持ちも、何となく分かる。
『あの人』とは、琵琶坂先輩のことだ。彩声の男性不信は、今最も刺々しく彼に向けられている。というか、性別なんて最早関係なく、あれは『琵琶坂永至』個人に向けられたものだろう。
ああ、また拗れたな。太陽神殿からあの二人ずっと気まずいな。
「帰宅部」なんて名をつけ組織を気取ってはいるけど、結局俺たちは目的が一致しただけの有象無象だ。性格の合う、合わないだって勿論ある。それなりに折り合いをつけていければ理想的なんだろうけど、どうしてもそれが無理な場合だってあるだろう。そして、琵琶坂先輩と彩声は互いに折れない。反発し合う。琵琶坂先輩は彩声ほど表には出さないが。
彩声が怒り心頭な理由には心当たりがある。
この間、シーパライソで楽士の一人、ミレイと対峙した日のことだ。
紆余曲折あって琴乃さんとミレイで美しさを競うことになり、俺達は来館していたお客さんたちに投票券を配り歩いた。
皆で固まって配るのも非効率だということで、男女に分かれて手分けすることにした。
そうして男だけになると、段々と話題が下世話な方向に移行していった。発端は、鍵介の「実際、琴乃さんとミレイ、どっちが綺麗だと思います?」という問いかけからだったが。
「どう答えたって琴乃にどやされそうだから言わねえよ」
「えー、笙悟先輩ノリ悪いなあ。大丈夫ですよ、琴乃さん今いないし」
「壁に耳あり何とやらって言うだろうが」
「僕も佐竹君と同意見だね。女性の容姿を品評なんて、いい男のすることじゃないよ」
「そうだよ鍵介、そういうのあんまり良くない」
話題自体は盛り上がらなかった。笙悟も琵琶坂先輩も、ついでに俺もノーコメントを貫いていたし、鼓太郎は真っ赤になって口を噤み、維弦はそもそも無関心だ。
だから、鍵介はちょっと面白くなかったんだと思う。そのせいで、とんでもない方向に切り込んだ。
「ていうか……琵琶坂先輩が一番可愛いと思ってるの、結局
三緒里先輩でしょ?」
ーー鍵介、そこにぶっ込むのか。
その場にいた誰もがそう思ったことだろう。
雨宮三緒里。二年生。琵琶坂先輩と同時に入部した帰宅部のメンバー。一年ほど前からこの世界が現実ではないことに気付き、琵琶坂先輩と行動を共にしていたという。
だから、彼女は琵琶坂先輩に一番心を許している。今でも何かと二人一緒にいることが多いし、琵琶坂先輩も彼女には取り分け優しく接しているように見えた。
そして、やたらと距離感が近かった。
三緒里の手を取る、肩を抱く、腰に手を回す。そんな琵琶坂先輩の姿を、恐らく俺たちは全員何かの拍子に目撃している。
ぶっちゃけ、俺も一瞬脳裏に過ぎってしまったことがある。「デキてるんじゃないのか、この二人」と。
しかしこの二人、現実での自身の身分を公表しているのだ。
三緒里は現実でも高校生。対して琵琶坂先輩はIT会社の社長をやってると言っていた。ということは、あの人はほぼ間違いなく成人している。それで深い仲ということになると、さすがにちょっと倫理的に問題があるように思う。
『メビウスの中では老いも若きもみんな高校生だからね。ここが現実じゃないって分かってても、挙動や思考がアバターのデータに引っ張られることもたまにあるんよ。「高校生」ってパラメータで、無理矢理元々のステータスを上書きしてるわけだし』
以前アリアがそんなことを言っていたのを思い出す。
でも、たとえそうであっても、琵琶坂先輩が“そう”なるとは考えにくい気がした。あの人は誰よりも「大人の男」であることに拘っている人だ。
つまり、結局二人の関係性はよく分からないままだった。
そこへ来て、鍵介のこの爆弾だ。俺は不安と好奇心が綯い交ぜになった心境で、固唾を飲んで状況を見守っていた。
すると琵琶坂先輩は一度きょとんと目を見開きーー直後、常どおりのまろやかな笑みを浮かべた。
「そうだね、可愛いと思うよ。小型犬みたいでね」
……はい? と問い返したくなる衝動を、必死に抑える。
犬。言うに事欠いて、例えが「犬」。
いや、正直なところ、俺も少し納得してしまった。琵琶坂先輩を見つけて駆け寄っていく
三緒里の背後には、千切れんばかりに振られる尻尾の幻が見えることもある。
しかし、いつも一緒にいる女の子に対して、あんまりと言えばあんまりだ。
冷えた空気が辺りを包む。あ、いま全員引いてるな。
「またまた~琵琶坂先輩、冗談きついッスよ~」と笑い飛ばしてしまえばいいのかもしれないけど、そんな芸当出来るわけもなく、俺の口からは「へ、へえ……犬かあ……」という乾いた愛想笑いが溢れた。
「……女の子としてではないんですか?」
鍵介! まだ攻め込むのか! お前のそういうところ嫌いじゃないけど、引き際も大事だと俺は思うぞ!
「彼女はまだ高校生なんだろう? これでも僕は現実じゃ成人しているからね。女子高生を異性として見てる方がまずいだろう」
琵琶坂先輩、ご高説ご立派です。ただ、俺の望みはそんな返答じゃなくて、「気を悪くしたかい? 冗談だよ」とあなたが笑ってくれることだったんですがね。ていうか、それなら普段のボディタッチの多さは何なんですかね。
もういい、知らん。俺は何も聞かなかった。大体俺は悪くない、ぶっ込んだのは鍵介だ。余計なことに思考を割くのはやめて、早いところ投票券を配り終えてしまおう。文字通り頭を抱えて、俺はくるりと振り返った。
が、そこで気付いてしまった。いつの間にか通路を挟んで向かいにいた、女子たちのグループに。
そして、こっちをすごい顔で見ている彩声に。
「それに、ちゃんとフってあげなきゃ
三緒里が可哀想だって思わない!?」
頭上から降ってくる彩声の声が、俺の意識を
現在に引き戻す。
「年齢差があるから応える気はないけど、好かれてるのは満更でもないから、傍に置いといて都合よく可愛がりたい的な!? 不誠実にも程があるよ!」
彩声のボルテージは未だMAX地点から下がらないらしい。
しかし、彼女の言い分も尤もだ。
三緒里が琵琶坂先輩に惚れているのは誰の目にも明らかで、だから彼女は頭を撫でられようが髪に触れられようが「キモい」と怒ることなく、むしろ喜んで琵琶坂先輩を受け入れているのだ。まあ、たとえ相手が俺であっても「キモい」なんて口走るような子ではないんだけど。
それなのに、ああはっきり「犬と同義だ」「異性として見ていない」と言われたらショックを受けるに決まってる。
あの発言は、
三緒里の耳には入らなかったんだろうか。あの場にいた女子たちの中ではっきり聞いていたのは、どうも彩声だけだったみたいだけど。
ただ。
「……犬が好きだって言ってたんだよなあ」
「なに?」
ぽつりと零した俺の呟きを、傍らで浮かんでいたアリアが拾い上げた。
「いや、ちょっと前に琵琶坂先輩とWIREで話してたんだけどさ。俺の方から『犬派? 猫派?』って聞いて」
「YOU、何がどうなって永至とそんな話題になったんよ」
「いいじゃないか俺のことは。で、そん時先輩言ってたんだよ」
『犬だね 忠実なところがいい』
すぐに思い返すことが出来るくらい簡潔な返信。つまり、琵琶坂先輩にとって忠実さは美徳なのだ。
だから、恐らく。
「あの人、
三緒里のこと気に入ってはいるんだよな……」
何があっても彼女だけは琵琶坂さん、琵琶坂さんと後をついてくる。太陽神殿でどぎつい一件があったのに、あの人への態度を一瞬でも変えなかったのは
三緒里だけだ。
頼み事をすれば二つ返事で何でも引き受けてくれるし、他の全てを差し置いて自分を優先してくれる。琵琶坂先輩にとって
三緒里は忠義、忠実の鑑のような人間だろう。
「あの人の性格から考えて、気に入らない相手を傍に置いとくとは思えないし……」
「でもさあ、それ、自分にとって都合のいい存在だけを選び取ってるとも言えんかな?」
「そうだな! そうとも言う」
「ダメじゃん永至ぃ!」
「いや、俺たち外野がどうこう言うことじゃないよ。
三緒里が現状に満足してるんであればさ……」
頭を抱えるアリアと一緒に、俺も溜息をつく。
知的で、容姿にも恵まれ、行動力もある。本人の言を信じるなら社会的地位も高い。が、琵琶坂永至が清廉潔白に善良な人間であるとは、正直俺も思っていない。が、メビウスにやって来る人間なんてどいつもこいつもそんなもんだ。俺だって人のことを偉そうに批判出来ない。
だからせめて、彼を慕う少女が泣くような結末が訪れないかーー出来るだけ先延ばしになればいいのだが。
その時、ポケットに入れていたスマホが小さく震えた。取り出せば、ディスプレイには届いたばかりのWIREのメッセージが表示されていた。差出人はーー噂をすれば影、琵琶坂先輩だ。
『
三緒里君と学校の外へランチに行ってくるよ。何かあれば遠慮なく連絡してくれ』
思わず「へー……」と声を上げてしまった。
相変わらず、端から眺めていれば仲睦まじい関係に思える。俺がメビウスのホコロビに気付いていなかったら、きっとお似合いのカップルに見えていたんだろう。
けれど、
『好かれてるのは満更でもないから、傍に置いといて都合よく可愛がりたい的な』ーー
さっき聞こえた彩声の怒声が耳の奥でリフレインする。
いや、不信から入るのは良くない。異性だと意識出来なくても、あんなに自分を慕ってくれたら妹のように可愛く思えるかもしれない。そうだよ、俺だって鈴奈ちゃんや美笛ちゃんを見てると「こんな妹欲しかったな」って思うし。
二人っきりの食事か、きっと
三緒里は喜んでるだろうな。
そう思うと、ちょっと不憫にも感じてーー俺も鍵介に倣って、少し切り込んでみることにした。
『行ってらっしゃい。良いデートを』
そのメッセージを打ったのは、皮肉半分、真意に触れたい好奇心半分だった。
すると、程なくして再度スマホが着信を告げる。
『ただの食事に大袈裟だな。散歩のようなものだよ』
散歩。
その返事を見てーー俺は思わず絶句してしまった。
何なんだ、この人、どこまで分かって、意識してやってるんだ。
「やっぱさあ……永至、冗談のつもりなんじゃないんかな?」
「いや、冗談にしても趣味わる……」
スマホを手に持ったまま、がっくりと項垂れる。特に何もしてないのに疲労感がものすごい。今デジヘッドに襲われたらひとたまりもないかもしれない。
……脳裏に浮かんだ連想をさすがに返信するのは憚られ、俺は力ない指で、WIREのアプリを終了させたのだった。
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