雑文(新)


すん、と鼻を動かすと屋根に飛び乗って、黒猫は鋼のような銀の眼を地に向けた。
胴と離れた首が、ふわふわと浮いた男。
その顔は、黒猫にとっては見覚えのある姿だった。

――義賊さん。

胸中で黒猫は呟く。
人の姿であれば、きっと唇を噛み締めていたであろう。懐かしさが込み上げてくる。
白菊と共に死んでから、諸国を旅してまた江戸に帰ってきた。どうしても、忘れられなかったのだ。吉原で過ごした、白菊との日々。紀乃と、義賊さん。
その思い出に導かれるように、拒絶するように放浪を続けて薄汚れた黒い毛並みは、汚れを除けば白菊に飼われていた頃の面影を多分に残していた。

ふと、男は面を上げる。
黒猫の銀の目を見て、男は思わず声を上げた。

「――銀月!?」

にゃあ、と一鳴きしたのに、男はほっとしたように手を伸ばした。
――普通の猫なら、もうとっくのとうに死んでいるというのに。

「……義賊さん」

その声に、男は固まる。
聞きなれた、白菊の側に居た童子の声。

「……お前も、妖怪だったのか」

「そうだよ。おれは、白菊に拾われた頃から化生だった。
笑ってくれ。浅ましいこの身は、一度果ててもまた黄泉から戻ってきてしまったよ」

「……お前は、人を喰ったか?」

男が紐を構えたのを見て、銀月は首を横に振る。

「いや、何も喰ってない───もう、何年も。
さよなら、義賊さん」

男の呼び止める声に耳を貸さず、銀月は夜闇の向こうへと消えた。

     *

漸くか。
廃墟となった萩屋の一室。白菊と銀月が共に死んだ場所で、銀月は静かに横たわっていた。動く事もままならず、このまま消滅を待つだけだった。
もう暫くすれば、月の力も消えて人の姿も保てなくなるだろう。それでも良かった。

白菊。

冥府へ行ってまで会いたいと思った相手。
死が近いのか、朧な視界で頭を撫でている手が見えた。
微かに笑った銀月の耳に、その言葉は滑り落ちてきた。

ぬしはまだくるときじゃありんせん、まだ待ってるひとがいるのでありんすから。

霞がかった思考でも、それを疑問にも思って口を動かそうとすると、焦ったような男の声。

「銀!」

それを最後に、漸く思考が呑み込まれた。

     *

ぱちり、と開いた目が天井を映す。
何処かと思って身体を起こせば、萩谷ではなく何処かの家だった。

「……白菊」

じわりと目頭が熱くなる。
幻であろうと、生きろと言われた。
口の中に、じわりと自分のものではない鉄の味が広がっていたことに今更ながら気が付く。

「ようやくお目覚めかい、お嬢さん」
「……奴良、鯉伴」

おれが運び込まれたのはこいつの屋敷だったか。警戒心を隠すことも無く、鯉伴を睨みつける。初見で女と見抜かれているのだから。

「紀乃と首無が心配していたぜ」

その言葉にばつが悪くて俯いて、首元に何時もあった鈴がないことに気がつく。
どうやらそれにさえ気付かない程困惑していたらしい。

「……おれを運んだのは、首無か」
「服を変えたのもな。面白いくらい狼狽えてたぞ」
「お前、奴良組に入る気はないか?」

それに暫し逡巡した。
紀乃も、義賊さんも居る。けれど。

「……おれは、白菊以外の飼い猫にはならないよ」

どんなに平和で、どんなに幸福でも、白菊が居なければ意味がない。
白菊から送られた首の鈴。大分古ぼけた銀の鈴は、未だに涼やかな音を鳴らす。

     *

打ち捨てられていた黒猫の骸が、ゆらりと起き上がった。
血で汚れた毛並みを毛繕いした後に、黒猫は一声悲しげに鳴いた。
とっ、と庭から屋敷へと駆けていく。気配を消すのは得意だが、幸いな事に首に掛けられたままの鈴が居場所を教えるかもしれない。細心の注意を払って、廊下を進んだ。
もしかしたら、死体が残っているかもしれない。そんな希望は、脆く砕かれる。
濃い血の匂いがする、血染めの一室。
その中央に無造作に転がされていた簪は、嫌という程に見覚えがあった。
白菊が大事にしていた、あの簪だった。

という事は、義賊さんも───

涙を堪え、簪を口に加えた。
向かうのは吉原。紀乃は、無事なのだろうか。

     *

沈んではいたが、無事ではある。
紀乃が一先ず無事であると知って、黒猫は秋月屋に背を向けた。

「おい、銀」
「……虎吉」
「お前、何処に行く気なんだ」

屋根の上に寝そべっていた虎吉の榛色の目は、真っ直ぐにこちらを見ている。
虎吉と話すために、黒猫は口に咥えていた簪を地面へと置いた。

「……何処かへ」
「後を追うなんて馬鹿な事は考えるなよ」
「……そうだな、それも悪くない」
「おい、」
「……おれはもう、白菊の飼い猫銀月じゃないんだから」

黒猫の首に掛けられたままの鈴が鳴る。
なら、どうして鈴は掛けたままなのか。
虎吉もそんな野暮を聞くような猫ではないからして、それに俯くしか出来なかった。

「さよなら」

話すために置いていた簪をまた口に咥え、黒猫は大門へと向かう。

「……っ何時でも帰ってこい!」

それに答えるように尻尾を一つ揺らして、黒猫は人ごみへと紛れ、消えた。
黒猫が何処へ消えたかは、誰も知らぬ。

     *

「……白菊」

萩谷の片隅、妖怪さえ見つけられないような場所。風雨を凌げるような場所に、簪を軽く埋めた。

「少しの間、辛抱してくれ」

今日、江戸を発つ。
白菊が目の色と同じだと言った月も、今日は無い。
逃げるようだと自分でも思ったが致し方ない。

「……本当は、持っていければいいのだけど」

童子姿なら持ち歩けるが、危険は猫の姿の時以上に付き纏う。
簪を奪われる可能性だってない訳じゃない。
だから、ここへ置いていく。
ここは癪ではあるけれど、安全だということに間違いはない。

「……行ってきます、白菊」
 
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