第四十八話
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「すみません、この玉葱1キロください」
「はいよー!サービスで一個多めに入れとくよ!今年は豊作だからねぇ!」
「ありがとうございます。助かります」
ジャンは既に長ネギやらキャベツが入っている麻紐で編まれたバッグに購入した玉葱を詰め込むと、無精髭を生やした気前のいい中年の店主がくれたサービスの一玉を受け取り礼を言う。サービスにしては大振りの立派な玉葱だ。自分の握り拳よりも少し大きめのサイズで重みもあり、光を遮る雲も無く、青々とした南の空に向かって昇っていく陽光に照らされ、茶色い外皮が瑞々しく輝いている。リヴァイ班にはサシャ・ブラウスという異次元の胃袋を持った大食らいも居るのでとても有難い。
エレンとヒストリア、そしてハルの護衛の為、トロスト区の兵舎を離れ逗留することになった施設から食料品や生活必需品の買い出しが出来る市場や農家がある農村まで、荷馬車に乗っても片道二時間以上は掛かる。気軽に往来も出来ないので、一度の買い出しで四日か五日は生活出来るよういろいろと買い溜めておかなければいけない。本日朝一で買い出しの任務を課せられたジャンとハルは野菜と生活必需品の調達、サシャとコニーは市場から少し離れた牧場の方へ鶏肉や牛乳等を買いに手分けして任務を遂行していた。一方のエレンやミカサ、アルミンやヒストリアは、施設の掃除や薪割り等を行っているところだろう。
この辺一帯では買い出しを一度に済ませられる場所が他に無い為、近くの村々からも人が集まって来ている様子で、街外れとはいえ市場もそれなりに賑わっていた。もう少し南西の方へ進むと、先日出現した巨人の被害を受けた村や畑もあるが、この農村は幸いにも巨人の脅威から免れたらしい。
ジャンはリストに書かれた分の買い出しを終え、ハルと決めていた集合場所である文具屋へと向かうと、ちょうど文具屋から買い物を終えたハルが出てくるのが見えた。
「ハル」
「あ、ジャン!野菜の買い出し、終わった?」
ハルは文具屋で買った鉛筆やらノートを、肩にかけている大きめのトートバッグにしまいながらジャンの元へと駆け寄る。
「おう。玉葱、一個おまけして貰った」
ジャンは肩に背負っている麻袋の中をハルに見せて言うと、ハルは袋の中にぎっしりと詰まった玉葱を見て、黒い瞳を嬉しそうにキラキラと輝かせた。
「わっ、こんなに立派な玉葱なのに…ありがたい。うちにはとんでもない大食らいが一人居るからね」
「だな」
ハルもどうやら考えることが同じだったようで、ジャンは肩を竦めて笑った。
「今年は玉葱が豊作らしいぜ。天候に恵まれたお陰だってよ。でも胡瓜とか南瓜を作ってた畑は巨人の被害を受けちまって、値上がりしてるって言ってたな」
南瓜はそのままでも日の当たらない場所に置いておけば日持ちする為、買い置きするにはうってつけだったが、値段が高いこともあって予算的にも買う予定だったニ玉ではなく一玉しか買うことが出来なかった。
ハルはジャンの話を聞いて眉を僅かに八の字にすると、文具屋のすぐ横にもある野菜売り場を覗き込み、熱心に陳列された野菜の値札を見ながら言った。
「そっか…確かにこう見ると、南瓜や胡瓜は他と比べて値上がりしているようだけど…トロスト区の市場よりはずっと安いよ」
「そうなのか?」
「うん。たまにね、茶葉とか生活必需品を買い足しに、街に出た時とかに市場も覗くんだ。兵舎には食堂があるから、食に困ることはないけど、訓練ばかりしていると街の人達の生活に疎くもなるからね……市場とかを歩いていると、今の壁内の食糧状況とか、人々の暮らしの変化とかを肌で感じられるから、興味深くってさ…あ、すみません。この林檎二つください」
ハルは顎に手を添え、楽しげに目元を緩めて野菜を眺めていたが、赤く熟した林檎を見ると、それを指差し、自分の財布からお金を出して二つ購入した。その一つを、ハルはジャンに差し出す。
「はい、ジャン」
「いいのか?」
ジャンはハルに差し出された林檎を遠慮がちに受け取る。
するとハルは「うん」と頷き、奢った側なのに何処か申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。
「美味しそうな匂いがしたから、つい食べたくなって。付き合わせちゃってごめん」
「いや、俺は奢ってもらってるんだから、ハルが謝ることないだろ?」
お金を払おうとジャンは林檎を持っていない方の手でズボンのポケットから財布を取り出そうとすると、ハルは「いいよいいよ」と片手を横に振って、それから赤く熟した林檎を指差し、少し照れ臭そうにして言った。
「それよりも今、…一緒に食べて欲しいんだ」
「あ…」
その言葉で、ジャンははっとして財布を引き出そうとした手を止めた。
ハルは普段から意識的に見せないようにしているのか、時々忘れてしまうことがある。
ハルは味覚が無い。正確にいうと、食した物の温度も感じられなくなってしまっている。それでも、普通にお腹は減るし喉も乾くが、味覚を失う前…『ユミルの愛し子』の力を得る前の、訓練兵だった頃のような食欲は無くなってしまっていた。
正直なところ、食べる物はどれも砂を噛んでいるような感覚だと言っていたけれど、一緒に同じものを食べている仲間の顔を見て、ハルは視覚的に味を感じられるような気がするという話をしていたのを思い出す。
ジャンは内心ですぐに察してやれなかった自分の野暮ったさに頭を抱えながらも、渡された赤い林檎に齧り付く。
ハルの見立て通り、果肉にはたっぷりと琥珀色の蜜が入っていて、真っ赤なルビーのような皮も程良く噛みごたえがあり、甘酸っぱくて瑞々しかった。
「…美味しい?」
ハルはジャンの顔を覗き込み、感想を心待ちにした様子で小首を傾げるのに、ジャンは頷いた。
「ん、すっげぇ甘くて、美味い」
「ありがとな」と礼を言うと、ハルは嬉しそうに「良かった」と微笑んで、それから自分も林檎に齧り付いた。「うん、美味しい」と満足げに呟いたハルの唇が、林檎の果汁で艶々と光っているのが見えて、ドキドキしてしまったのは絶対に内緒である。
ハルは訓練兵の頃から中性的な端麗さを持っていていたが、最近は少し髪も伸びて女性的な魅力が増してきたようにも思える。それもその筈、ハルは来月で十八歳になって、正式に酒も飲めるようになり、成人女性として割括られるようになるのだ。
同期達はそういったことに至極鈍感なエレン以外皆周知しているが、ハルを狙っている男兵士なんてのは大勢居る。容姿端麗、性格も良し、頭も良くて料理上手ともなればそれはモテるのも無理はない。ジャンもハルとはお互いに気持ちを交わし、体も重ねたが、だからといって高を括る余裕なんてものは一切持ち合わせていなかった。その理由として一番に挙げられるのは、本人がそういったことを僅かなりにも理解していないということだった。
今もジャンの動揺なんてものは露知らず、唇についた果汁を舌でぺろりと舐めて無邪気に笑っている。何だか少し、頭痛がしてきた。
「久しぶりに食べたなぁ…味がしそうなくらい、美味しいよ。ジャンが一緒に食べてくれたからだね」
「は…ぁ、ああ…そりゃ、良かった…」
「…ジャン?どうかした?」
いつもははっきりと物を言うジャンの歯切れが悪い呟きに、ハルは首を傾げる。額を片手で押さえて項垂れているので、具合でも悪いのかと心配になって顔色を窺うと、少し頬が赤いような気がした。熱があるのかもしれない。ハルは林檎を持っていない方の手を伸ばして、ジャンの額に触れようとすると、その手首をがっしりと掴まれ、なんだか複雑そうな顔をしているジャンと目が合った。
「何でもねーよ」
「そんな顔には見えないけれど…」
「じゃあ、どんな顔に見えてんだ?」
静かに目を細めて問いかけてきたジャンに、「どんな…」とハルは舌足らずに呟くと、手首を握られたままじっと目の前のジャンを見つめた。
何だか、以前よりも背が伸びたような気がする。何時もより、琥珀色の輪郭のハッキリした瞳が遠くにあるように感じたけれど、妙に近くにもあるような…そんな矛盾に戸惑う。
優しく細められている切長の瞳の奥には、小さな炎が揺らめているようで、その双眼を見つめていると、なんだか胸の奥がぎゅっとなって、息苦しくなった。疲れているのかな、なんてことも考えるけれど、ジャンに掴まれている手首が熱くて、擽ったくて、頬が少し熱を持つ。まるで、今のジャンと同じような…
と、そこまで考えが巡ったところで、ハルはジャンに掴まれている腕を引いて、開放されたその手の甲で、自身の頬の温度を確かめるように触れる。触れた場所がじんわりと熱くて、ハルは本格的に照れくさくなり、ジャンの視線から逃げるように顔を逸らした。
「…い、いやぁ…なっ、何でもないや…」
「はぁ?」
ジャンは答えをはぐらかしたハルに不満げな声を漏らすと、ハルは勘弁してと言いたげに眉先を眉間に寄せ、耳の先まで真っ赤にした顔で、先程のジャン同様に歯切れ悪く言った。
「ごめんっ!ぐ、具合が悪いのかなって思ったんだけど、何か違うの…かなって…っ思って…」
尻すぼみに声が小さくなるハルの姿を見て、何時もの如く「熱があるの?」やら「日焼けしたんだね」なんて全く的外れな解答をしてくるだろうと思っていたジャンは、少々驚きつつも、感心したような口調で言った。
「…お前、ちょっと成長したな」
「成長って何が…むぅ!?」
逸らした顔を再び向けてきたハルの赤みかかった頬を、ジャンは先程まで細い手首を掴んでいた手でぎゅっと抓る。癖のある弾力と、ハルの照れから生まれた熱が指先から伝わって来て、何とも言えない嗜虐心が生まれてしまう。
「こういう沙汰には滅法疎かったのに、少しは人の気持ちが分かるようになったみたいだな、ハル」
「いはっ、いはいおっザン!(痛いよっジャン!)」
揶揄い口調でぐにぐにとハルの頬を弄びながら言うと、ハルは羞恥と痛みで若干涙目になって抗議の声を上げる。その顔が可愛いらしくて、ついぞ顔を覗き込むようにジャンが身を乗り出すと、ハルは「びゃっ」と意味不明な声を上げてジャンから仰反るようにして飛び退いた。その際に手にしていた林檎を落としてしまい、ころころと地面を転がって、ジャンの革靴にとんとぶつかって止まった。
「勿体ねぇな、まだ全然食ってねぇのに…」
ジャンはやれやれと林檎を拾い上げ、服の袖で土汚れを落とすのに、ハルは餌で誘き寄せられた野良猫のように警戒しながらジャンにゆっくりと近づき、腰が引けた状態でジャンに名一杯腕を伸ばして、掌を差し出す。
「ご…ごめんっ、ぁ、ありがとう…ございます…」
「…ほらよ。(それは面白過ぎるだろっ)」
ハルの滑稽な挙動にジャンは笑い出したくなるのを堪えながらその掌に林檎を置いてやる。と、その瞬間どこからともなく鴉が飛んできて、バクッとハルの掌の上の林檎を咥え、遠くへと飛び去ってしまった。
「「あ」」とその一瞬の出来事にジャンとハルは呆けた声を溢す。それからハルは何も無くなってしまった掌の上を無言で見つめた後、徐に鴉が飛んでいった空を仰いで、「そんな馬鹿なっ…」と絶望感が滲み出た声音で呟いた。ジャンはもう我慢の限界だった。
「ぶっははっ!!」
「ちょっ、ジャン!笑い過ぎだよっ」
ジャンは腹を抱えて盛大に笑い声を上げると、ハルは不満げにジャンに詰め寄り、眉間に皺を作った。珍しく怒っているようだが、子犬が足元で吠えるようなもので全く迫力は無い。
「だってお前っ、面白過ぎるっ…!は、腹がっ、捩れるっ…はは!!」
「ぐ、ぐぬっ…」
ハルは咎めても全く効果が見られないジャンに悔しげに両手を体の横で握る。とても遺憾ですと訴えかけてくるようなハルの視線に、ジャンは「悪ぃ悪ぃ」と軽くあしらうような謝罪をして、ハルの頭の上に林檎を置いた。
「ほら、これで機嫌直せよ?食い欠けが嫌じゃなかったらだけどな」
「…い、いいの?」
「お前が奢ってくれたんだ、良いに決まってる」
「あ、ありがとう、ジャン」
ハルは先程まで浮かべていた不満を瞬きと共に表情から消し去ると、頭の上に置かれた林檎を手に取って、がぶりと齧りつき、ニコニコと嬉しげに微笑みを浮かべる。兵服を纏っていない所為もあるが、こういう純粋なハルの姿を見ていると、とても兵士には見えない何処にでもいる少女のようだった。
ジャンは戦場や訓練中の少し殺気立っているようなハルのこういった普段とのギャップが密かに好きなのだが、ふとハルは自分の何処が好きなのだろうか、そもそも何時から自分の事を異性として好いてくれていたのかと疑問に思った。
「…そういや、ハルはさ…いつ頃から俺の事が好きだったんだ?」
「?」
「俺は話したのに、お前からは聞いてねぇなって…ちょっと気になってたんだけど…」
ジャンは首の後ろを触りながら少々遠慮がちに問いかけると、ハルは口の中の林檎を飲み込んで、うーんと考え込むように腕を胸の前で組んだ。
「…何時、から…?どうだろう…、考えたこと無かったな」
ハルは自身の記憶を遡るように、口元に片手を添え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君が…初めて私に、キスしてくれた時…かな…?それとも、入院中に…君が、私の目と、黒髪と声が…綺麗だって…言ってくれた時…?」
「…」
「いや、でも…もっと前から…君に、ドキドキしてたことはあったんだ。倉庫の掃除中に雨が降ってきて、二人で雨宿りしていた時とか、クリスマスの日に二人で壁上警備してた夜とか…もっと、沢山…」
「っ」
なんだかハルの記憶を辿るような呟きを聞いていると自分も過去を思い出してきて恥ずかしくなり、居た堪れなくなってきてジャンは顔を歪めた。
しかし、そんなジャンを余所にして、ハルはとんでもない発言を投下したのである。
「でも、…訓練兵になって初めての講義の時、講義室の一番後ろの、窓際に座っていた君に声を掛けて…目が、合って…君の、琥珀色の瞳が、故郷の…シガンシナの実家から見える夕陽の色と似ていて、何だか懐かしくて…とても綺麗で、…不思議とドキドキしたの…覚えてる––––」
そう囁くようにして言葉を落としたハルの表情たるや、あまりにいじらしく、愛おしげな微笑みを浮かべていて、ジャンは気が付いたらハルの腕を掴んで、市場の通りの横に広がる木々の茂った林に引き込み、人目に触れないような木の幹にハルを押し付けて、形の良い小さな唇に食らいついていた。
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