第六十六話
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粛然とした空気の中、ウォール・マリア奪還作戦にて功績を上げた兵士達に、ヒストリアからループタイの勲章授与が行われた。
首に、翡翠に輝く宝石が下げられ、胸元で揺れる。
女王の冠を被ったヒストリアは、純白のドレスに身を包み、背にある大きな窓から差し込む太陽の光に、ブロンドの髪を煌めかせていた。
つい先日までブレードを握り、巨人と戦ってきた調査兵とは思えないヒストリアの細く白い手を取り、その甲に誓いを立てた時––––…俺は『未来』を見た。
決して手放しに喜べるような、明るいものではない。本当に、恐ろしくて残酷な、受け入れ難い『未来』だった。
壁の外にあると信じて疑わなかった『自由』も、アルミンと一緒に抱いてきた『夢』に続く道さえも、何処にも、無い。壁の外も内も変わらず在るのは、目と耳を塞ぎたくなる凄惨な地獄絵図。
この世界の真実を見せられ、意図せず時を駆け上がっていく中で……俺がこの先の未来に抱いて来た願いの殆どが儘ならないのだという事を知らしめられた。
そして、破滅に向かって行く未来の傍観者では、居られないのだということも。俺が、この先重ねて行くことになる大罪の数々や、自分の希望を叶える為に多くの命を奪うことになることも。世界から恨まれるパラディ島を救う為に、大切な仲間を守る為に、俺がこれから何を犠牲にしなければならないのかも、全て–––––
ああ、本当に。
頭が、おかしくなっちまいそうだった…
いっそのこと、狂えた方が苦しまずに済んだかもしれない。
それでも、アルミンやミカサ、大事な仲間達を救う為には、俺は何が何でも正気を繋ぎ止め、進み続けなくてはならなかった。
その修羅の道が、どんなに孤独で、血濡れていたとしても、だ。
深い、底知れない絶望の渦に、体が呑み込まれていくのを感じる。冷たい空気が、肺に染みる。血の匂いが鼻を貫き、人々の悲鳴が鼓膜を引き裂く。心が、痛い。無数の針が、刺さっているみたいに。
俺は苦しくて、もがき苦しむように暗い渦の中で必死に腕を伸ばした。蜘蛛の糸でも掴むような思いで、生きていく為の空気を、救いを求めて……
すると、腕を伸ばした先に小さな光が浮かぶ。…そこから、誰かの声が響いて来た。
耳馴染んだ、鈴の音のような、明瞭な声。
『エレン』
彼女が、俺の名前を呼ぶ。
慈しみや、悲しさや悔しさを孕んだ声が、暗闇を震わせる。
手を、伸ばす。必死に、その豆粒のような光に縋って、その光に指先が触れた瞬間だった。
体が、太陽の温もりに抱かれる。
暗闇が弾けたかと思うと、視界に広がったのは何処かの物置きのような景気。カビ臭く湿気た空気の中、ふと唯一ある窓の傍に立つ人影に気がつく。………彼女は、紛れもなくハルだった。
ハルは、淡い夕日を受けて、朝露に濡れたような黒い瞳を、俺に向けていた。…いや、俺だけど、俺じゃない。きっと、『エレン』に、だ。
『君がもう一度、昔のように未来を思って、その目を輝かせてくれる日を…手を伸ばせば触れられる場所まで、連れて来てあげたい。約束する。君の大切な人達を、私にとっても大切な人達を、絶対に守ってみせるよ』
此処に居る筈の無い、俺と同じ数奇な運命を背負う事になった彼女は、そう告げると、僅かに微笑みを落として、窓越しに沈み行く夕日を静かに眺める。
ずっと、一緒に過ごして来た友人だから、見間違うなんてあり得なかった。
海を超えた場所に、ハルは今と変わらぬ姿で佇んでいた。俺よりも先に、彼女は『未来』を、駆け上がって居たのだ。
その事実に呆然と立ち尽くす俺に、夕日を眺めていたハルが、涙の膜が張った瞳を向けて微笑む。すると、また視界が弾け、今度は石壁の大きな施設が現れた。
白衣を纏った医者や、看護婦達が患者に付き添う庭に、ぽつんと置かれたベンチ。其処に、片足を失った長髪の男が、背を向けて座っていた。彼は、俺を振り返ることなく、言葉を落とした。
病棟の屋根の上に広がる空の、雲間から差し込む太陽の光を見上げながら。
『なあ、エレン…見てるか?お前は世界のカタチを知って、どうにもならないことに深く、絶望する。気が狂いそうになるくらい、罪の意識に苛まれて行く。でも……、お前は一人じゃない。無茶ばっかの大馬鹿者で、お人好しの、俺と同じ死に急ぎ野郎が傍に居てくれる。お前の苦しみを一緒に背負って、新しい未来を切り開くための翼になってくれる。…だから、絶対に。諦めるなよ………エレン……っ!』
「っ」
その言葉が、冷たい闇の底に沈みかけていた俺の心を、引きずり上げる。
彼は、俺で。同じ、エレンであって、そうじゃない。それでも、とても自分と近い存在なんだと、本能で感じた。
『エレン』が、僅かにこちらを振り返る。
長い髪を冷たい秋風に揺らして、巻き付けた包帯に隠れていない、碧の瞳を細めて笑うから、俺はどうしようもなく悲しくて、苦しくなって、涙が溢れた。
視界が、再び、爆ぜる。
一番に目に入ったのは、白くて小さな手だった。怪訝な声音で名前を呼ばれて、声がした方へと視線を持ち上げれば、戸惑いを浮かべたヒストリアが俺を見下ろしていた。
そこで漸く、現実に戻って来たことを理解すると、跪いた俺の左肩に、そっと誰かの手が乗せられる。
隣には、同じく跪いている、ハルが居た。
それは、とても『特別』なことなんだと思った。
ハルが、この世界に生きていてくれること。
俺の同期で、友達で、親友で、仲間で居てくれること。
今、俺の隣でハルが俺の肩を掴んでくれていることは、この世に起こり得るありったけ奇跡を掻き集めたようなものなんだって事を–––––
「大丈夫だよ、エレン」
ハルの声が、破滅に向かい行く俺の心を、仲間の元に繋ぎ止める。
「この先、何があっても…君一人に全てを背負わせたりなんかしない。一緒に乗り越えていこう……どんな困難が待っていたって、二人なら未来は変えられる…!そのために、私は生まれて、今此処に居るんだって、そう……思うんだ」
ハルの気持ちが、俺を見つめる瞳から、肩を掴む指先から、ひしひしと伝わって来る。それにどうしようもなく胸が詰まって、唇の隙間から呼気を落とした。
神様なんて、この世には居ない。もうずっと昔から諦めてしまっていたけれど…
でも、もしも、本当は何処かに居てくれるのだとしたら、それはハルの存在、そのものなのかもしれない。そう、本気で思ってしまった。
「…ありがとう…ハル…っ」
肩に乗せられたハルの手に、自分の手を重ねる。
彼女の温もりが、安堵したような淡い微笑みが、凍りついた心を溶かして行く。
『ユミルの愛子』なんて大層な名で呼ばれる彼女は、救いようの無いお人好しで、何でも卒なくこなしては出来ないことなんて何もないように見えるけど、実は苦手なものも沢山あって、神様と呼ぶには不完全過ぎる人。…でも、ただ天上から見守るだけじゃなく傍に居て、隣を歩いてくれる、友達みたいな神様。そんなハルが傍にいてくれるなら…俺は奇跡だって起こせる。そう信じて、何処までも進んで行ける。
たとえ、世界中から恨まれる運命が待ち受けているのだとしても。自分という存在がちっぽけに思えてしまう程、広大な海を目の前にして、背負う運命の大きさに打ちのめされることになったとしても。俺は、その全てと向き合って行けるだろう。
だって、
あの時の俺じゃない。
今の俺には、自由の翼がある。
『黒白の翼』が––––……!
ザァー
ザァー
ザァー
波の、音。
潮の、香り。
初めてな筈なのに、そうじゃない。遠い記憶の中で見たものと、同じ景色と匂い。
描いていたものとは違う未来と世界が、この広大な海の向こうに広がっている。
ああ、それでも……
「ミカサ、アルミン、俺達やっと此処まで来れたんだな。…海って、凄ぇ広くて、綺麗なんだな」
足元に寄せては、引いていく波。
柔らかな、砂の感触。
振り返れば、初めて目にした大きな貝を拾って、まるで宝物のように掌に乗せているアルミンが、海の色よりも深い青の瞳を波打たせて立っていた。その隣で、ミカサは綺麗な黒髪を潮風に靡かせ、今にでも泣き出しそうな顔をしている。
二人とも、ヘンテコな顔だった。まるで、天と地がひっくり返ったような顔をしている。俺はそんな二人に苦笑して、二人の後ろに佇むハルへと視線を向けた。
伸びた黒髪を靡かせているハルは、海水に濡れないよう脱いだブーツを両手にぶら下げたまま、感慨深そうに俺を見つめていた。
「なあ、ハルもそう思うだろ?」
ハルは、何か言おうとしたのか、唇を僅かに開いてすぐに、引き結んだ。
知らない景色を思い浮かべて、今見ているものと比べて、安堵したような、嬉しさも滲み、切なさまで混ぜ込んだ、万感の表情。そうだと理解してやれるのは、きっとこの世界だけで、自分だけなんだろう。
「何だよ。何で黙ってんだよ。あんまりデカいからビビッてんのか?巨人見たって驚かねぇクセに、相変わらず変な奴だよな」
何も言わず下唇を噛んでいるハルを、揶揄うようにして笑ってやる。すると、ハルがゆっくりと唇を動かした。
ボロボロと、両目から涙を流して……
「っ…うん、本当だね。ビビッて、泣けて来ちゃったよ…!」
その時のハルが、海じゃなく俺の顔を見て、あまりに幸せそうに笑って泣くから。
俺もちょっとだけ、泣いちまったのは内緒だ。
第六十六話
『波の音、潮の香り、君の微笑み』
「エレン」
俺の名前を呼んで、ハルが指し示す、うみのむこう。
残酷な世界。
命を奪い合う人々が踏み鳴らす、大地を、世界のカタチを…
この場所から踏み鳴らし、塗り替えて行くんだ。
進み続けるこの両足と、羽ばたき続ける黒白の双翼で––––……!
– 黒白の翼 season3 完結 –
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