第四十八話
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エルヴィンによって新しく編成された『リヴァイ班』として、ハルとエレン、ミカサとアルミンとジャン、コニーとサシャとヒストリアは、ウォール・ローゼ南西部にある調査兵団が保有している施設へと移動した。施設といっても木造の長屋のような建物で、名も無い低山の麓にあり、辺り一帯は森に覆われ近くの農村へ行くにも馬車を二時間程走らせなければならない。
壁の秘密を知るヒストリアの護衛に重きを置きつつ、人目に触れずエレンの硬質化の実験を行うにも都合が良いというハンジの提案もあって選出された場所だったが、何分長く使用される事なく放置されていた為、室内は埃や蜘蛛の巣に塗れており、不衛生な環境での寝食など絶対に御免なリヴァイは、現地に到着した矢先、大掃除の命令を早急に下したのだった。到着したのは昼前だったが、台所やリビング、各々割り振られた部屋の掃除を終えた頃にはすっかり空は茜色に染まっていた。
その日夕食当番だったハルが腹を空かせたサシャに傍でまだかまだかと急かされながらも夕食を作り、時折サシャの摘み食いを必死に阻止しつつ何とか人数分を作り上げた頃には、サシャを牽制しながら食事を作っていた所為か、膨大な疲労感に見舞われていたのだが、大きな長テーブルを囲むようにして座った仲間達が口々に「美味しい」とご飯を食べてくれている様子を見ていると、その苦労も疲労も不思議と忘れ去ることが出来た。
どれも綺麗にたいらげられた食器を片付け終えた後、ハルが淹れた食後の紅茶を飲みながら、リヴァイがヒストリアに仲間達へ自分の生い立ちを話すよう促した。今後ヒストリアを護衛するに当たって、彼女の出生の秘密を皆が等しく認識しておくことは必要なことだったからだ。
ヒストリアは特段言い淀む様子も無かったが、感情を殺した声で淡々と、まるで他人の話でもするような口振りで話を始めた–––––
「私は貴族家レイス卿の領地内にある牧場で生まれました。私は物心ついた時から牧場の手伝いをしていました。母はいつも本を読んでいて、家の仕事をしている姿は見たことがありません。とても美しい人でした。夜になると誰かが馬車で迎えに来て、派手に着飾った母を乗せて街に行きました。それが、私にとっていつもの生活でした。
しかし字の読み書きを覚え、母の真似事で本を読み出した時、私は自分が孤独であることを知りました。どの本にも親は子供に関心を示し、話しかけたり叱ったりするものと書かれていたからです。私には、そのどれもが経験のないことでした。
ある日、私は好奇心から母に抱きついてみることにしました。母がどんな反応を示すのか、興味があったからです。結果は突き飛ばされただけでしたが…母が私に何かをしたことは初めてだったので、私にはそれが嬉しかった。その直後、「こいつを殺す勇気が私にあれば」と…母が私に発した最初の言葉でした。それ以来母は家を出て、他の場所で暮らし始めました。
そして5年前のあの日、ウォール・マリアが陥落して数日経った夜、私は初めて父と会いました。
その男性は、この土地を収める領主の名前を名乗り、数年ぶりに見る母は酷く怯えて居るようでした。「ヒストリア、これから私と暮らすんだ」と言われ、家の外へと出た時、突然母が悲鳴を上げました。長身の男と、他にも数名知らない人達が現れて、母を取りおさえました。母は、「自分はこの子の母親じゃない」と必死になって叫んでいました。父は、彼らに「離せ」と言いましたが、長身の男は脅し口調で、「この女もそこの子も、貴方と全く関係がないんですか?」と…父はその問いに、「ああ、仕方ない」とため息を吐くように呟き、私の手を離しました。「この二人は私となんの関係もない」と…。その直後に、母は男に喉を切られて、殺されました。私も同じように殺されそうになる直前で、父はある提案をしました。此処よりもずっと遠い地で慎ましく生きるのであれば、見逃してやってはどうかと…。その時、父は私に新しい名前を与えました。その名前が、私が今まで名乗っていた、クリスタ・レンズという名前です」
ハルは作戦概要でも話すように身語りをしたヒストリアのことを思い起こしながら、寝室の大きな窓枠に腰を落とし、外に脚を投げ出して、着慣れた兵服を脱ぎ寝着の上に薄い掛け布団を肩に羽織って、夏の終わりの綺羅星を見上げていた。
施設の西部屋で、丁度良くベッドが四つ置かれた部屋を、ハルとミカサ、サシャとヒストリアの四人は寝室兼荷物置き場として分け与えられていた。ベッド以外特に家具もない、ただ寝る為だけにあるような間取りの部屋だが、それなりに天井も高く、一つだけある両開きの窓はやけに大きく開放感があった。
外では生い茂った草木に埋もれた鈴虫が羽を震わせ懸命に鳴いていて、夜風が施設の周りを取り囲んでいる森林の木葉をさわさわと撫でるように揺らしている。
同室のミカサ達は、皆それぞれのベッドで静かに寝息を立てていた。
ハルはミケから譲り受けた戦術書を先程まで読んでいたのだが、ヒストリアの話がどうにも気になってしまって、膝の上で一旦分厚い本を閉じた。
ヒストリアの過去の話の中で現れた、『長身の男』のことが、ハルには妙に気掛かりとなっていた。記憶に真新しい自分を攫おうとした男の顔が、何故だか脳裏にチラつく––––勿論、背の高い男という外見に結び付く人間は大勢居るだろうが、妙に目尻に細い皺を作って不適な笑みを浮かべていた男の顔ばかりが浮かんでくる。その度に、胸の中に据わり悪い感情が過るようで、ハルは少し疲れた様子で溜息を吐き、伸びた前髪を掻き上げるようにして片手で頭を抱えると、足下に茂っている雑草が夜風に吹かれ、淡い緑色の炎のようにゆらゆらと揺れる様をぼんやりと見下ろした。
「妙に…気になるんだよな……」
ぽつりと独り呟きを落とすと、背後でごそりと布が擦れる音がした。
「ん…、ハル…?」
窓際に一番近いベッドの中で眠っていたヒストリアが、掛け布団の下で身じろぎをして、舌足らずに名前を呼んだ。
ハルは顔だけで後ろを振り返ると、むくりと目を擦りながらベッドから上半身を起こしたヒストリアに謝罪する。
「ごめん、ヒストリア。起こしちゃったね」
「今明かりを消すから」と、ハルは本を読む為窓枠に置いていたランタンに手を伸ばしたが、「待って」とヒストリアに制され手を止めた。ハルは怪訝に思い再びヒストリアを振り返ると、ヒストリアは寝癖のついた金髪の細い髪を手櫛で整えながらゆっくりとベッドから出て、ぺたぺたと板張りの床を裸足で歩いて来る。使い古され彼方此方塗装も剥がれてしまっているランタンを手に取って、空いたハルの隣へ窓枠に乗り上がって腰を落とすと、自身の膝の上にランタンを置いた。
「眠れないの?」
ヒストリアはランタンの中で揺れる小さな灯火を見下ろしながら、白い足を外にぶらつかせて、囁くような声量でハルに問いかけた。
ハルはオレンジ色の小さな炎に照らされたヒストリアの清廉な横顔を見つめ、一度大きく瞬きをする。それから蒼黒の瞳を僅かに細めると、頭上に広がる夜空を見上げ、囁く…というよりは息を吐くようにして答えた。
「…いろいろ考え事をしていたら、眠れなくなっちゃって」
ヒストリアはランタンのタンク部分で暖を取るように両手で包み込みながら、小さく「そっか」と相槌を打った。声には無関心であるというよりは、同調するような響きがあり、ハルはちらりと横目でヒストリアの沈鬱な横顔を見やると、軽く下唇を噛んだ。
彼女が深く心を沈めることになってしまった原因は、そもそも自分にあるように思えたからだった。
「…ヒス、トリア」
「何?」
喉の奥から捻り出すように名前を呼ばれ、ヒストリアはハルに視線を向けた。
「…ユミルのこと。…引き留める力になれなくて…ごめん。そもそも、ウトガルド城で私がもっと上手く立ち回れていれば、ユミルは巨人化しなくて済んだかもしれない。ライナー達にだって、連れ去られるような事にはならなかった」
ユミル、と名前を耳にして、ヒストリアは反射的にびくりと肩を強張らせてしまったが、それを見たハルが目下に悔しさを滲ませ、深く頭を下げて謝罪を述べるのに、相変わらず何でも背負い過ぎてしまう節のあるハルに苦笑して、首を横に振って見せた。
「それは結果論だよ。ハルの所為なんかじゃない。…それに」
ヒストリアは先程のハルのように、頭上に広がる夜空を見上げた。無数に輝く星に埋もれた黄金色に輝く三日月を見つめて、ライナー達と共に離れてしまったユミルに想いを馳せるように、月と同じ色の瞳を細める。
「ユミルは自分の意思で、ライナー達と行く道を選んだ。…そう、…自分で、自分の生き方を選んだの。最初は、ライナー達のことを許せないと思ったし、ユミルを助けたいとも思ったけど…、今は……違う気がしている。でも、ユミルが選んだことなら、それでいいんだとも、思うの…」
緩く細められたヒストリアの瞳には、薄いベールが波打つような寂寥が滲んでいる。
ハルはその瞳をつぶさに見つめながら、「…嘘だね」と言うと、ヒストリアは困惑した顔でハルを見やった。
ハルは寝間着にしている黒いスラックスを履いた細く長い足を組んで、太腿の上に置いていた戦術書を体の横に置くと、空いたそこに片肘を置いて頬杖を付き、ヒストリアの心の内を見透かすような慧眼を湛えていた。
「そう思おうと努力してるっていうのが、ヒストリアの正直な気持ち…だよね?」
「っどうして…そう、思うの…?」
決して咎めるような威圧感はないが、鷹のような観察眼を向けられ、思わずたじろぎながら舌足らずに問い返したヒストリアに、ハルはふっと眉の間を開くような微笑みを浮かべると、頬杖をついていない方の手の指先で、自身の眉間を指し示しながら言った。
「本当は寂しいし、腹も立っているから、ずーっと眉間に皺が寄っている」
「しわ…」
ヒストリアは指摘された事の真偽を確かめる為、指先で自身の眉間に触れる。確かにそこにはハッキリとした凹凸があった。浮かない顔になってしまっている自覚はあったが、まさか眉間に皺まで寄っていたとは無自覚だったと、少し居た堪れなくなって肩を落とす。
「私、嫌な感じだったでしょ…?…今日だって皆が話をしていても、加わるのが面倒だって…聞いてないふりばかりしていたし…」
「嫌な感じなんかしていないよ。寧ろ…さ、今までのヒストリアは、いつも自分の本音を隠して居たから、それが寂しいと思っていたんだ」
ハルはとても静かでまるい、神経を慰撫するような声音で言いながら、肩にかけていた毛布を、ヒストリアの肩にそっと掛けた。まだ夏とはいえ、もう秋に差し掛かろうとしている夜は、風が少し冷たかった。ヒストリアは「ありがとう」と礼を言うと、ハルは目元を和らげるようにして小さく微笑み、窓の枠に両手をついて組んだ足を解くと、裸足の踵でとんとんと建物の壁を軽く叩きながら、再び空を見上げた。
「何だか少し距離を取られてるって感じがして…。でも、今はいつもより、ヒストリアの近くに居られてる気がするから」
「っ」
ヒストリアはその言葉を聞くや否や、無性に泣きたくなった。鼻の奥がつんとして、口の中がひりつく不快感を拭いたくて、突沸でも起こしたように言葉が口を衝いて出てしまう。
「でもっ…!もう皆に優しくて、いい子のクリスタは居ないんだよっ…」
今まで自分は、自分自身を偽って生きて来た。母親にも、父親からも愛されず、独り追いやられ、せめて行き着いた場所では誰かから愛されたかった。好かれたかった。そうして、終わらせてしまいたかった。生きることを、誰からも望まれていない。母が最期に自分へ言い放った、「お前さえ産まなければ」という言葉が、呪いのように心に巣食って、肥大化して行くのを止める術も意志も、自分は持ち合わせて居なかったからだ。
だから、ユミルがウトガルド城で言った言葉は、正解だった。『どうやって死んだら、褒めてもらえるかばかり考えてる』という言葉は、まさに自分の真理だった。
それでも、ハルは嘘偽りなど微塵も感じさせない穏やかな表情のまま答える。
「ヒストリアが優しいから、クリスタも優しかったんだと…私は思うよ。それに、クリスタのことも、ヒストリアの事も変わらず好きだ。何一つだって、変わってなんか居ない。だから、ヒストリア…」
ハルは少し寝癖のついたヒストリアの頭に手を置いて、よしよしと撫でながら笑った。
「沢山、悩んでいい。無理して、明るく振る舞う必要も、もう無い。ヒストリアはこれから、自分の気持ちに正直に生きて行けばいいんだ。ユミルがそうしたように、ヒストリアも…。それで選んだヒストリアの生き方を、私は否定しないし、嫌ったりもしないよ。私だけじゃない、ミカサやサシャだって同じだ。だから、…その、上手く言えないけど…ゆっくり、ゆっくり気持ちの整理をしていったらいいんだ。…それまで、待ってるからさ」
ヒストリアは何処までも温柔に接してくるハルに、何だか白旗を挙げてしまいたくなるような心持ちになって、深い溜息を吐いた。
「…ハルって、本当に、心の底から女の子で良かったって思うよ」
「え、何の話?」
「男の子だったら、もう何人かの女に刺されてそう」
「えっと…、凄い物騒な話、してない…?」
当本人は全く無自覚な様子で、困惑顔の頬を指先で触って首を傾げている。それに「もう」とヒストリアはわざと頬を膨らませて、ぎゅっとハルの腰に抱きついた。
「っうわ!どした?」
そんなヒストリアの太腿から落ちそうになったランタンの持ち手をハルは慌てて掴み、困惑顔を更に色濃くして、軽く万歳をしているような体勢で固まっていると、ヒストリアはハルのお腹に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「ねぇ…ハル」
「ん?」
「ハルは…私達を置いて、遠くに行ったりしないでね」
「!」
ハルはヒストリの言葉に一瞬息を詰めて、顎の下にある小さな旋毛を見下ろした。
「どうして…」
問い返すと、ヒストリアはハルの腰に抱きつく腕に僅かに力を込めて答える。
「どうしてかな…何だか凄く、怖いの。ハルはライナー達じゃなく、私達と一緒に居ることを選んでくれた。だけど……漠然と、ハルがいつか、何処か私達の手の届かない場所に行ってしまうんじゃないかって…不安に思ってる。きっと私だけじゃない、皆もそう…感じてる」
「…」
ハルはヒストリアの言葉に、何も答えられなかった。
仲間達を不安に晒してまっている理由を、すぐに見出せなかったからだ。
ヒストリアは、ハルのお腹から顔を上げた。
何か答えなければと賢明に頭巡らせ、少し焦っているような顔が、ランタンの明かりでハッキリと見えて、ヒストリアは人の感情には鋭い癖に、自分事になると随分鈍くなってしまうハルに苦笑した。
「それは多分、ハル自身も不安に思ってるからなんじゃ無いかなって、思うんだけど」
「不安…」
ハルはぽつりと呟き、どこか答えを求めて縋るような視線をヒストリアに落とす。その視線に応えるように、ヒストリアは姿勢を正して、じっとハルを見つめて言葉を紡いだ。
「ハルにとって辛いことが、沢山重なって…体の変化も出てきて…、その…自分が自分じゃなくなって行くみたいで、不安になってるんじゃないかなって思うの。…私も、同じだったから。今まで積み上げてきたものを壊して、すっかり変わった私のことを…皆が受け入れてくれるか不安だった。…それでも今、ハルが変わらずに居てくれるって言ってくれたのが…とても救いになったの。だから…」
ヒストリアはハルの両頬を包むように両手で触れ、自分の気持ちが伝わるように願いながら、微笑んで言った。
「ハルにどんな力が眠っていたとしても、どんな姿になっても、何があっても…私達はハルの仲間で、親友。何も、変わらないから…安心して、大丈夫だからね」
「!」
ハルが僅かに息を呑んで、狼狽したように瞳を震わせる。
それから、ランタンを掴んでいない手で口元を覆い隠しながら、ヒストリアから顔を背け、項垂れてしまうのに、ヒストリアは何か傷つけることを言ってしまっただろうかと少し焦って首を傾げた。
「…ハル?」
名前を呼ぶと、ふと鼓膜に、覆われた指の隙間からひどく掠れた弱々しい声が溢れて触れた。
「ごめ、んっ…ヒス…トリア…っ」
「!」
口元から目元を掌で覆い隠したハルの横顔に、頬を伝って涙の雫が流れ、小さな顎から足元に音もなく落ちていくのが見えて、心の一部を指先で摘まれたように苦しくなって、ヒストリアは堪らなくなった。
「ハル…っ」
第四十八話 『涙雨』
鈴虫が、鳴いている。
切なく、夏の終わりを嘆くように、命を燃やして鳴いている。
その音に身を潜めるように、己の体を抱いてすすり泣く声が、噛み締められた歯の隙間から漏れ出している––––
私は顔を覆い隠していない手が、弱々しく震えながら握りしめているランタンをそっと受け取り、その中の小さな灯火を吹き消して、草の生い茂った足元に置く。
私達を見下ろす星空よりもずっと、大きな優しさで包み込んでくれる彼女の未来が、どうか幸せであることを願いながら、手負の獣のように、必死に嗚咽を噛み殺し震えているハルを、ヒストリアはそっと抱き寄せた。
誰よりも優しくて、強くて弱い、泣き虫な…大好きな友人を––––
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