第六十五話
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「ぉ、遅いって……」
まさかジャンが自室の前で帰りを待っていたとは思わず、驚いてぽかんと口を開けたまま立ち尽くすハルに、ジャンは扉から背中を離すと、ハルと向き合い額を指で弾いた。
「あいたっ…!」
「お前なぁっ…!肩に穴が開いてんだぞ!?こんな冷える夜に出歩くんじゃねぇよ。…一体何処まで行ってたんだよ?」
デコピンされた額を両手で押さえて、ハルはご立腹のジャンをおずおずと見上げる。
「ゲルガーさん達と、髭男に行ってました…」
「………おい。まさか、酒飲んでねぇよな?」
腰に片手を当て、眉間にぐっと皺を寄せたジャンが、ハルの顔を覗き込むように体を折り曲げると、低い声で問う。琥珀色の瞳が訝しげに細められて、ハルは勿論だと何度も首を縦に振って頷いた。
「さっ、流石に飲んでいないよっ!折角良くなってきた傷に触るから…」
「…だったらまぁ、いいけどよ」
ジャンはまだ少し不機嫌そうに呟くと、伸びた前髪を掻き上げて、ハルの顔を覗き込んでいた体を元に戻した。
「…部屋に体拭く水桶とタオルがある。明日は追悼式と授与式だから、早めに休めよ?」
「…ぇ、じゅ、準備してくれたの?」
ハルがまた驚いた顔になって問い掛けると、ジャンは照れたようにハルから顔を逸らし、ハルの頭をわしゃわしゃと撫で回しながら、「いいから早く部屋に入れよ」と促す。
ジャンの気遣いがとても嬉しいと思うと同時に、心配をかけ待たせてしまっていたことが、心底申し訳なくなったハルは、一言ジャンにも居酒屋に行くと声をかけておけば良かったなと反省した。
「ジャン…ごめんね?心配かけちゃって。事前に君に報告してから、外出するべきだったよ…」
ハルの謝罪に、ジャンは頭を撫で回していた手を止めると、少し複雑そうな表情になった。首の後ろに手をまわしハルから少しだけ視線を外すと、先程よりも歯切れが悪い口調で言った。
「まぁ…でも、お前にそんな義務はもうないからな。外出禁止の命令も解けたわけだし、ハルの力が人類に害をなすものじゃないってのも証明された。俺も、お前の監視役としての任は外れたんだから……今は、俺が勝手に心配してるだけだしな…」
頸のあたりを所在無げに触り、僅かに頬を染め、段々と尻すぼみになりながら告げるジャンに、ハルは純粋に嬉しくなってしまって、自然と綻んだ表情になる。
「君が心配してくれるのは嬉しい。でも、気苦労は掛けたく無いから、やっぱりちゃんと言うことにするよ。ありがとう、ジャン」
小首を傾げて微笑むハルに、ジャンは視線を向けると、ふっと呼気を落とし、目元を緩める。重いと鬱陶しがられると思って心配していたが、どうやらハルには杞憂だったようで、内心で安堵していた。
「夜は冷えるから、ちゃんと着込んで寝ろよ」
「ジャンも、布団蹴飛ばしちゃ駄目だからね?」
「俺はそんなに寝相悪くねぇっての」
各々自室のドアノブに手を掛け、最後に「おやすみ」と言い合ってから、部屋に入る。
ハルの部屋の燭台には、ジャンが灯してくれたのだろう明かりが揺れていて、ベッドの側には水桶とタオルが置かれていた。時間的に浴室には入れないので、ジャンが気を遣って準備してくれたようだ。帰りを心配して待ってくれていたのに、ここまでして貰って何だか気後してしまう。今度何かお礼をしようと、ハルはシャツの上に羽織っていた厚手のカーディガンを脱ぎ、壁に掛けながら決めた。それからベッドに腰を掛けて、窓のカーテンを閉めた。
ジャンが言っていたように、明日はウォール・マリア奪還作戦で命を落とした仲間達の追悼式と、勲章授与式が行われる。
今回の作戦で功績を上げた兵士が、女王から勲章を貰うことになっていて、リヴァイやハンジ、ジャン達やハル、ナナバ達も授与されることになっていた。
特段何か話すような機会があるわけでは無いが、兵団を問わず大勢の兵士達と有力貴族達の前で授与されるので、些か緊張してしまう。
それに、『エレン』が見せてくれた記憶の通りであれば、エレンは明日、ヒストリアに触れることがきっかけになり、自分自身の未来を知ることになる。エレン一人で全てを背負ってしまわないよう傍で支えなくてはと、ハルは気持ちを引き締めるように、頬を両手でパシッと叩いた。
「っ、…早く体を拭いて、今日はもう寝よう」
そう呟いて、ハルは水桶にタオルを浸して絞る。シャツのボタンに手を掛け、ズボンを脱いで、胸の下着も取り払った。ベッドサイドの棚を開けて、病院から貰った傷用の軟膏とガーゼ、消毒液を取り出すと、再びベッドに腰を掛けて、足先から体を拭いていく。冷たいタオルに体温が吸い取られていくようで、思わずぶるりと体が震えた。本当は髪もシャワーで洗い流したかったが、もう浴室が開いていないので仕方がない。明日の朝、早めに起きて浴室に行くことにしよう。
「ぅ、寒いな…」
独り言を呟きながら、右の背中から胸元を突き抜けた傷口の、胸側の分厚いガーゼの端を掴んで慎重に剥がすと、傷口がビリビリと痛んで、思わず喉の奥が鳴る。
貫通痕は、弾が入った側よりも、抜けた側の方が酷くなるらしい。ハルは背中から撃たれたので、今消毒し軟膏を塗ろうとしている胸側のほうが、傷は酷かった。まだ抜糸が出来るまで、一週間程掛かるらしい。
ハルは消毒液を手に取るとガーゼを濡らし、傷口にそっと手を運んだ。この瞬間が、一番痛いのだ。いつも心の準備をして、悲鳴を上げないように布を噛んで傷口を消毒している。それでも、今日は日中傷口が痛むことも無かったので、ほんの少しばかり油断していたハルは、布を噛まずに傷口を消毒して、失敗した。
ズキンッ!!
「痛っ!!」
消毒液を含んだガーゼが傷口に触れた瞬間、喉から悲鳴が突き上がって来た。視界がチカチカと明滅して、尾を引く激しい痛みに、体が強張る。その際、ベッドサイドに積み上げていた書籍に腕がぶつかってしまって、バサバサと音を立てて床に落ちてしまった。
「っ、やってしまったぁ……」
ハルは床に散らばった本を拾おうと、ベッドから足を下ろし、身を屈めた時だった。部屋の続き扉が、ガチャリと音を立てて開いた。
「おい大丈夫か?今凄い音がし…、…た………」
「あっ、ごめんねジャン!本を床に落としちゃって………っ!!!!!」
ハルは床に落ちた本を拾い上げ、顔を上げると、ジャンに向かって謝罪する。…が、扉を開けた状態のまま、石のように固まっているジャンの顔を見て、ハルははっと自分の今の姿を思い返し、ボッと音が鳴りそうな勢いで赤面した。
「うわぁ!?あっ、ぁぁあのっ!ごごっ、ごめっ…なさっ…!!!」
慌てふためき、拾った本をまた床に落として、ハルは毛布を体に勢いよく巻き付けると、ジャンに背を向けて縮こまった。夜とはいえ燭台の灯りはしっかりとついていたし、絶対に裸を見られた!ハルは羞恥で真っ赤に染まった顔を、胸元に埋める。
ジャンはしばし呆けていたが、ベッドの上で毛布にくるまり、卵のように丸く蹲るハルの横に、傷の治療用のガーゼや消毒液の入った瓶が転がっているのを見て、部屋に足を踏み入れると、後ろ手に扉を閉めた。
「薬、塗ろうとしてたんだろ?手伝ってやるよ」
「ぇ…?ぁ、いや!だだっ、大丈夫!自分で出来るよっ!」
ハルは顔だけをジャンの方に向け、ぶんぶんと首を横に振る。慌てふためくハルを内心で面白いと思いながらも、ジャンはハルのベッドの傍まで歩み寄ると、片膝をベッドの上に乗せた。
ぎしり、とベッドのスプリングが軋むと、ハルはギュッと目と口を閉じて、再び顔を胸元に埋めた。黒髪から覗く両耳が林檎のように真っ赤に染まっている。
ジャンは口元が緩みそうになるのを押さえながら、ベッドに乗り上がると、ハルの背後で胡座を掻き、消毒液とガーゼを手に取った。
「背中の方とか、塗るの大変だろ。胸の方は?消毒終わってるのか?」
「ま、まだ…だけどっ…」
「じゃあそっちからだな?毛布、右肩のほうだけ下ろすぞ」
「…っ」
ジャンが毛布を掴んで軽く引っ張ると、ぐっとそれ以上の力で引き返される。ハルはへの字をさらに折り曲げた口をして、ジャンを見つめていた。
「…何だよ、そんなに恥ずかしいのか?」
「…っ、うん…」
ハルはジャンから目線を逸らし、赤面した顔でこくりと頷いた。そんなハルが可愛くて悶えそうになるが、ジャンは平常心平常心と自分に言い聞かせながら、普段通りの口調を意識して説得する。
「俺がやった方が、早くに終わるだろ?それに、ハルも俺も怪我してるんだ。手ぇ出したりしねぇから、安心しろよ」
「…ワカッタ」
カタコトで油の差していない機械のように頷いたハルに、ジャンは流石に少し笑ってしまいながらも、肩に掛かっている毛布を下ろした。
ハルは毛布の端を掴んで胸元を隠しているが、その柔らかな横のまろみは、傷口を消毒しようとするとどうしても目に入ってしまう。ジャンは再び平常心平常心と心の中で唱えながら、白い肌に痛々しく浮かぶ傷口に、消毒液を含ませたガーゼを寄せた。
「じゃあ、いくぞ」
すると、ハルは胸元に引き上げていた毛布に、ガブリと齧り付いて頷く。緊張しているのか、両肩に僅かに力がこもって、その所作から相当痛むのだと察したジャンは、極力慎重に、傷口にカーゼを当てた。
「ふっ…ぅ…っ!!」
ビクビクと体を震わせ波のような痛みを耐えるハルに、ジャンは胸を痛めながらも、手早く消毒を進めた。ハルは噛み締めていた毛布からはっと口を開くと、痛みから解放され力が抜けた背中をジャンに凭れて、後頭部を左肩に乗せる。
ハルの荒立った呼吸を宥めるように、ジャンは毛布の上からお腹に腕を回して抱き寄せた。
「…こんなに痛むのに、ずっと自分でやってたのか?」
「……うん」
うっすらと額に汗を浮かべて、生理的な涙を目尻に浮かべるハルが疲れた様子で頷いたのに、ジャンは肩を落とした。
「言えよ。そうしたら、もっと早くに手伝えただろ?」
「…でも、恥ずかしくて…頼めなかったんだ……」
ハルはそう言って、甘えたようにジャンの首筋に頬を寄せる。その可愛さに思わず喉が鳴りそうになったのを既で押さえて、ジャンはハルを抱き寄せる腕に少し力を込めて言った。
「ま、まぁ気持ちは分かるが…、俺とハルは、ただの同期とか友達って関係じゃ、もうねぇんだから。もっと頼ってくれた方が、俺は嬉しいけどな」
「…そう、だね。…ありがとう」
「薬塗るぞ」
「うん」
ジャンは片腕で手際よくハルの傷口に軟膏を塗り、ガーゼを貼り付ける。それから今度は背中側のガーゼを外して消毒を済ませると、再び軟膏を塗りながら、痛々しい傷口に表情を曇らせた。
「……痛かった、よな」
「まあね。流石にちょっと、痛かったかな」
「痕が残っちまいそうだ」
「……ごめん」
「なんで俺に謝るんだよ」
「だ、だって…あんまり嬉しくないでしょ?傷が、あるのは…」
ハルの言葉に、ジャンは軟膏を塗り終え、ガーゼを貼ろうとした手を止めた。
「…お前な。俺のことそんな狭量な男だって思ってんのかよ?」
心外だと渋面になって詰問するジャンに、ハルは不味いことを言ってしまったと気がつき、慌てて後ろを振り返った。
「そ、そんなことないけどっ…!や、やっぱり嬉しくは、無いかなって思って……」
しかしその弁解は逆効果となり、ジャンの眉間の皺は更に深まる。言葉を尻すぼみにして項垂れたハルに、ジャンははあと溜息を吐いた。そんな馬鹿な事、微塵も思う筈がないのに。無用な心配だと一蹴してやりたかったが、女性からしてみればそうもいかないのだろう。ジャンはハルの傷口にガーゼを貼りながら言った。
「傷があるとか無いとかそんなのどうだっていい。…でも、…嬉しくはねぇってのは、正解かもな。お前がこの傷見る度に、そうやって落ち込むなら尚更だ。…それに、お前がこんな怪我して大変な時、俺は傍に居てやれなかったから…」
悔しいよ。
そう背中で、吐息のように溢したジャンに、ハルはズキリ胸が痛んだ。後ろを振り返って、背中の傷にカーゼ越しで触れていたジャンの手を掴む。
「これはっ、君のせいじゃない…!それに私だって、ジャンが大変な時傍に居られなかったんだから……」
切実な瞳を向けてくるハルに、ジャンはふっと目尻を下げた。
「お前が獣の相手をしてくれたから、大勢の仲間が死なずに済んだんだ。それは気にすることじゃない。……でも、俺は……」
「……ジャン?」
ジャンが不意に額を抑え、思い悩んだように項垂れてしまったのに、ハルは心配になって名前を呼ぶ。
「…俺は、ハンジさんがライナーを殺すことを拒んだんだ。その所為で、ライナーは獣に奪い返されちまった……」
「……後悔、しているの…?」
「どう、だろうな。……分からねぇ」
ジャンは掠れた声で溢すと、額を抑えたまま、項垂れていた顔を少しだけ上げて、ウォール・マリア奪還作戦での出来事を思い返しながら言った。
「ライナーをあの場で殺しちまったら、俺達はアイツらのことを知る貴重な機会を失って、その脅威の正体を暴き出せる日が遠退いちまうんじゃねぇかと思った。…でも、本心は、違ったのかもしれない。…俺はこの後に及んで、ただライナーを殺すことを…躊躇っただけだったのかも、しれない。ちゃんと覚悟してたつもりだったってのに、自分の甘さが…心底嫌になるよ」
ジャンは自嘲じみた笑みを浮かべると、ぐっと布に吊られた左腕を右手で掴む。
「…ヒストリアやエレンが攫われた時だって、俺は人を殺すことを恐れて死にかけた。挙句、アルミンの手を汚させることにもなっちまった。…俺は、感情を必死に押し殺して戦う仲間に対して……情けないこと、しちまった気がして……」
大きな目的を果たす為なら、相手に情けなどかけては居られない。そうしなければ自分が殺され、仲間にも被害が及んでしまう。幾度も幾度も戦場で、学んで来た筈の事だった。そして、理解も覚悟も出来ていた……つもりだった。
それでも、ライナーの命を奪うことを躊躇してしまったことに、ジャンは自分自身のことが分からなくなっていた。
本当に、人類にとっての利を優先しての決断だったのか?そう、もしも誰かに問い質された時に、そうだと断言出来る自信は、正直時間が経った今も持てていなかった。
苦悩し、項垂れるジャンの姿に、不謹慎なことかもしれないが、ハルは心の何処かで、安堵していた。
「––––それが、ジャン。…君が君であることの、証明なんだ」
心を取り巻く濃い霧を払うような澄んだ声に、ジャンは「…え?」と呼気を落として、顔を上げた。
ハルは柔らかな微笑みを浮かべると、睫毛を震わせ、まるで掴めなかった何かがそこにあるかのように、自身の掌を見下ろす。
「どれだけ未来を想像して、起こり得る出来事に覚悟を重ねても……それは自分の想像の範疇を出ない。実際にその場に立たされた時、理想通りに動けるなんてことは殆ど無いんだ。何故なら、其処に辿り着くまでに、人はいろんな経験を経て、その場その時にしか得られない空気や感情に、心が大きく左右されてしまうから。…覚悟を決めて思い描いていた選択肢が、急に姿を消してしまうこともあれば、また違った形で顔を出すこともある––––」
ハルも奪還作戦で選んだ道が全て正しかったと言い切る自信はなかった。他の誰かであれば、違う選択をしたかもしれないし、その選択が、もっと多くの仲間の命を救うことに繋がったかもしれない。…それでも。
ハルはぎゅっと、見下ろしていた掌を握り締める。
「でも、それは仕方のない事なんだ。私は私でしかなくて、君は君でしかない。だから、見出せる選択も、選ぶ道も、人とは違う。それは至極、当然のことだよ」
「俺は…俺でしか…無い……?」
ジャンはそう呟き、自分自身の存在を確かめるように、左胸に手を当てる。ハルは視線を上げると、真っ直ぐにジャンを見据えて問い掛けた。
「ジャン。君は、感情に左右されず、間違いを犯さず、恐れ知らずであることが、兵士としての美徳だと思っている?」
「…ぇ…」
思わず気の抜けた吐息が唇から漏れてしまう。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべているジャンのことを、ハルは波打たない瞳で、じっと答えを求めて見つめていた。
ハルに言われた人の在り方は、自分が最も望まぬ在り方だった。それなのに、自分は今、感情に左右されず、間違いを犯さない、機械的な人になりたいと望むような口振りで、ハルに嘆いていたらしい。
それを自覚させられた途端に、心の中の霧が風に吹かれて消える。悩んでいたことが、急に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
ジャンは左胸に当てていた手をシャツごと握り締めると、気散じたように微苦笑を浮かべて肩を竦める。
「…兵士としたら、それが理想なのかもしれねぇけど。兵士である前に俺達は人間だろ?それじゃあまるで、ただ設計された通りに動く機械みたいだ。……そんな風に生きるのは、なんつーか、虚し過ぎんだろ?」
ジャンの答えを聞いて、ハルはどこか安堵したような微笑みを見せ、「うん」と頷いた。
「…私もそう思う。それに、人であることを捨てて、兵士としてあろうとするのは、とても君らしくないとも思う」
「…ハル」
「ジャンは誰よりも人間らしい人だから…どんな窮地に立たされようとも、他人を思いやる心がある。そして、その心をどうしても、殺さなきゃいけなくなってしまった時……生まれてくる罪悪感や苦痛、悲しみの感情から、君は絶対に目を逸らしたりしない。……それは、甘さじゃなくて強さだ」
ハルはジャンに身を寄せると、そっと両頬に手を伸ばし掌で優しく包み込んだ。暗闇に浮かぶ満月の光のように、目元を綻ばせて、柔らかく微笑む。その微笑みに、ジャンは両目が自然と見開かれていくのを感じた。
信じられない、この世の奇跡を目の当たりにした時のように胸が打ち震えて、熱い呼吸が溢れると、瞳まで潤んできた心地がして、慌てて瞬きをする。
「……私は、そんな君が好きだよ。だから、後悔なんてしないで、自分を責めないでほしい」
細い指が頬を撫で、耳の輪郭をなぞる。存在を確かめ、その温もりを余すことなく感じようとするハルの誠実な思いが指先から伝わってくるようで、ジャンは瞳の熱さを、愈々抑え切れなくなった。
「–––っ俺は……このままで……いいのか…っ」
何度瞬きをしても涙の気配を拭えなくて、ジャンは右腕をハルの腰にまわし、ぐっと抱き寄せる。泣き顔を見られたくなくて、目の前の左肩に額を押しつけた。
嗚咽を必死に噛み殺そうとしている声に、ハルはジャンの震える背を宥めるように抱きしめ、顳顬に鼻先を寄せて囁く。
「…うん。君は、そのままでいい。そう生きる事で、君は人一倍苦しむかもしれない。でも、それを理解したうえで、そのままで居たいって……君自身も願っているんでしょう?」
「…っ」
ジャンは、ハルの肩口で素直にうんと頷く。それに、ハルはとても嬉しそうに微笑むと、ジャンの頭の後ろと肩に手を回して、ぎゅっと抱き寄せた。
「だったらもう答えは出てる。君の生き方は、君が決めて良い。他の誰にも、私にだって決めさせちゃいけない。君の人生なんだから、その道をどう歩いても、どの道を選んでも––––」
全て君の、自由なんだよ。
顳顬に触れている唇から、そっと命を吹き込むような、温かで優しい言葉に、冷えた心が焼かれたパンのように膨らんで、満たされて行く––––
ああ。と、唇から溢れた溜息には、万感がこもった。
この世界で一番の妙薬は、自分にとってハルの存在そのものなのかもしれない。それはどんな症状にも効く、苦味も渋さも全くない、砂糖を舐めるように甘くて、湧き水ように透き通った、『万能薬』。
「……人から貰った言葉が。こんなに嬉しいって感じることなんて、人生であるとは思わなかった………」
ジャンはハルを抱きしめる腕に力を込め、温もりを確かめるように、柔らかな黒髪に鼻先を埋めた。
「…ありがとう、ハル。俺の生き方を肯定してくれて。俺を、否定しないで、くれて………でも、何よりハルが、俺のことをこんなに真っ直ぐ見ててくれたのが、凄ぇ…嬉しいんだ」
「ジャン…」
「言葉だけじゃ伝え切れねぇけど、俺は…ハルが傍に居てくれるだけで、良い……それだけで、幸せだ。この世界の、誰よりも」
ジャンはそう告げると、ハルの首筋にそっとキスをする。擽ったそうに体を震わせたハルがジャンを見下ろすと、同時に顔を上げたジャンの鼻先が、自分の鼻先と擦れ合った。あっと声を漏らした柔らかな唇に噛み付くと、黒い瞳が震えて、波打つ。その動きを何一つ見逃したくなくて、目を開けたまま舌を絡め取ると、ハルの目元が赤く染まって、瞳が溶けたの飴のように潤んだ。
「っは…」
「っ、足り…ねぇ…」
唇を離し二人の間に架かった細い糸を舌で切ったジャンは、低い声で唸ると、左腕を吊っている布の肩にある結び目に噛みついて解いた。
白い布がさらりと滑って、ベッドの下に落ちて行く。
肘から手首の辺りまでギブスで固められている左腕を、肩から動かして、抱き寄せているハルの小さな顎をやんわりと掴み、掬うように持ち上げた。
「ハル、このまま…お前を抱きたい。離れたく、ねぇんだ……」
そう告げると、ハルは潤んだ瞳を大きく揺らして、困ったように唇を引き結ぶ。そしてジャンの熱い視線から目を逸らし、上擦った声で言った。
「でも、き、君…腕が…」
「まあまあ動きにくいけど、怪我してるお前には都合が良いと思うぜ?」
「つ、都合が良い…て…」
どういうこと?と、首を傾げるハルに、ジャンは口端を上げ、赤らんだ左耳に唇を寄せて、低い声で囁いた。
「俺の理性が無くなっちまって、歯止めが利かなくなったとしても……ちゃんと手加減してやれるだろ…?」
「!?」
その言葉に、ハルはばっとジャンを見上げた。
動揺して、少し怯えて、それでもどこかちょっとだけ、期待してる。そんな最高に可愛い顔だったから、早く寝ろとか急かしていた癖に、もうその先止まるなんてことは、どうしたって出来なかったのだった。
完