第六十四話
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「聞きたい事…?」
ハルは問い返しながら、ベッドの傍に置いてあった椅子に座るよう促した。
アルミンは背凭れのない丸椅子に、ゆっくりと腰を落とす。ぎしりと、静かな部屋に木製の脚が軋む音が溶けて消えていく……
話を始めようと吸い込んだ息が震えていて、ひどく緊張していることを自覚したアルミンは、気を紛らわせるように膝の間で組んだ手を見下ろす。
「……僕は、ベルトルトを食べた直後と直前の記憶が無いんだ。時間が経った今も、全く思い出せてない」
「…うん。それは、エレンも一緒だって聞いている。副作用、みたいなものなのかもしれないね。……何か、其処に気掛かりな事があった?」
「……、あったよ」
少し間を置いて頷いたアルミンが、緩慢に俯けていた顔を上げる。
窓から差し込む夕陽に、柔らかな細い黒髪を煌めかせたハルが、話の先を促すようにゆっくりと瞬きをした。
アルミンは、くしゃりと前髪を掻き上げるように片手で掴んで、何もかもが終わり、ウォール・マリアの壁上で目覚める前の記憶を辿りながら、話を進めて行く。
「ベルトルトを食べた直後の、意識がない間……僕はずっと夢を見てたんだ。まるで走馬灯みたいに……ベルトルトが今まで生きて来た時間が、頭の中に雪崩れ込んで来た」
ハルは、何も言わなかったが、ベッドの上から両足を下ろし、ペタリと板張りの床に足裏をついた。体をアルミンへ向け、蒼黒の双眸を緩く細めて、話を聞く姿勢を改める。
「でも、その記憶の殆どが、絵画を一枚ずつ捲って行くような記憶でしかなくて…、その時々の感情とか、風とか、匂いみたいな現実味は無かった。…でも、一つだけ…やけに鮮明な映像というか、記憶があったんだ」
「鮮明な…記憶……?」
ハルが首を傾げるのに、「うん」とアルミンは頷く。
それから、髪を掴んでいた手を太腿の上に下ろし、大きく一度、深呼吸をした。吐き出した息は相変わらず、震えている。
ハルは静かに、アルミンが次に口にする言葉を待っていた。なんとなく、だが。ハルも緊張しているように、アルミンには見えていた。話を逸らして、逃げ出したいという息苦しさのようなものが瞳に揺らいでいる気がした。
それでもアルミンは、ゆっくりと口を開いた。
「その記憶は、獣の巨人の持ち主であるジークが、シガンシナ区での作戦概要を、ベルトルトとライナーに話している記憶だった。その、会話の中で…、ハルの…『ユミルの愛し子』の力について詳しい話もしてた」
言葉の語尾を重ねていく度、吐息の震えが大きくなっていくアルミンに、ハルは緩く下唇を噛んで、徐々に視線を伏せていく。膝の上に置かれた手の指に力がこもって、服に皺を作っている。
順を追って、聞きたかった事の核心を口にしようとする頃には、すっかりと項垂れたハルの旋毛が、アルミンに晒されていた。
「『九つの巨人』の血を継ぐ者の寿命は十三年だって、エレンのお父さんの手記には記されていたけど……ハルの持つ力は、『九つの巨人』のものとはまた別で、…っ、」
そこで、アルミンは言葉を区切った。正確には、言葉に詰まってしまったのだ。ハルの姿を見れば、答えを聞かなくても察しがついてしまって、それでも否定して欲しいという思いが、喉をぐっと締め付けた。
ハルは項垂れたまま、懲役刑を宣告される罪人みたいに、その時を静かに待っている。
アルミンは、太腿の上の手を握り締めた。ハルが「違う」と否定をしてくれる。そんな雀の涙もない可能性に、縋るように……
「ハルの寿命は、エレンや僕よりもずっと短いって、ジークは二人に話をしてたんだ。『ユミルの愛し子』としての力が覚醒してから、寿命は五年も無いんだって……」
「……」
ハルは、口を引き結んだままついぞ顔を上げなかった。疑問に対する答えが火を見るよりも明らかに示されていて、縋った僅かな可能性が、指の先からこぼれ落ちて行くのを感じながら、アルミンは太腿の上で握り締めていた手を落胆して解く。
「ねぇ、どうして…驚かないの?さっき、エレンからグリシャさんの手記の話を聞いてた時だってそうだっ…!ハル、ちっとも驚いたり、困惑したりしなかったじゃないか…!まるで全部、知っていたみたいな反応だった…!」
変わらず沈黙を続けるハルに、アルミンは堪らず椅子を蹴飛ばすように立ち上がって、項垂れているハルの頸を見下ろし、走る口調で問い質した。
「おかしいって思ってたんだ…!奪還作戦の詳しい戦略を組み立てる前から、斥候の巨人が居るかもしれないとか、獣の巨人の投石や、ライナーが壁の中に身を隠すかもしれないなんてことを全部…ハルは言い当ててみせた。…ベルトルトがライナーの近くで巨人化することだって、ハルはその場に居なくて状況も分からなかった筈なのに、ナナバさん達を僕達の元に向かわせて、近づかないように忠告した。だから僕達もハンジさん達も助かった。全員じゃなくても、ハンジさんも怪我をせずに済んだし、モブリットさんも無事で……内門側の新兵達だって、君が居なかったら全員死んでたよ……。何より、一番違和感を抱いたのは、ハルがシガンシナ区に来なかったことだ。ハルなら、ライナー達と直接会って説得しようと試みた筈だろ?でもそうしなかったのは……内門側に起きる最悪の出来事を、あらかじめ知っていたからとしか思えないよっ……!」
「……」
「…否定…しないんだね」
ハルに対して抱いていた疑問も懸念も、全てが的を得てしまったことに、アルミンは嘆息して体の横の手を握り締める。
そこで漸く、ハルは口を開いた。
「……アルミンの言ってることは、間違ってない。全部…正しいよ」
ハルは表情を歪めているアルミンを緩慢に見上げ、訥々と言葉を紡ぐ。
「…寿命が、五年で尽きることも。今回の、奪還作戦のことも。全てじゃ無いけれど…大凡、知っていたんだ。その経緯を詳しく話すと、少し長くなってしまうけど…、」
「どうして黙ってたの」
固い声で問われ、ハルは眉尻を下げる。
「…アルミン」
爪が掌に食い込んでしまう程に、強く握り締められている手を解こうと、ハルがそっと手を伸ばす。その手を、バシリと叩き落として、アルミンは声を張り上げた。
「僕はっ––––!!」
遠く駆けて行く誰かの背を呼び止めるような、或いは歩みを妨げる腕を振り解くかのように全身で叫んだアルミンに、ハルは拒絶された手を宙ぶらりんにしたまま、息を呑んで固まる。波打つ空色の瞳に、涙の膜が張って、今にも溢れそうだった。
「ハルがっ、寿命のことや奪還作戦のことを知る事になった理由なんて、二の次でいいんだ…っ!僕が聞きたいのはっ、どうしてそのことを僕達に話してくれなかったのかが知りたいんだよ!」
喘ぐように憤るアルミンに、ハルは歪めた顔を伏せ、腕を下ろす。木の枝の鳥が飛び立とうとして思い留まり、翼をしまうように。
「…話したくなかったから、話さなかった」
「だから、どうして」
全く答えになっていない解答に、アルミンの口調は珍しく苛立っていた。
ハルはぎゅっと膝の間で手を組むと、ゆっくりと顔を上げ、アルミンを見つめた。しかし、その瞳に映るのは、アルミンだけではなかった。目の前の彼を通じて、多くの仲間達の顔を見通しているような目をしていた。
「みんな、アルミンみたいな顔をする」
だから、話したくなかった。もう一度、ハルは吐息に言葉を滲ませるようにして言った。
それから、自身の左手首に巻き付いた虹色のブレスレットに右手を重ねる。かけがえのない宝物に触れるハルは、自分の左手とブレスレット、どちらか選べと言われれば、迷いなく後者を選んでしまいそうな程、それを大事にしてくれていることを、アルミンはよく知っていた。そしてそれ以上に大事にしてくれているのは、自分達自身であるということも、痛いほどに––––
「長く、生きられないなら…せめて、少しでも多くみんなの笑った顔を、見ていたい…。勿論、この事を隠していたら…いつか皆を傷つけることになるっていうのも分かってた。最後まで隠し通せるとも思ってない。…でも、私は私の我儘を通したかった……。この話を知ったら、その先皆…私を気遣うでしょう?戦いから遠ざけて、護ってくれようとする。私は皆に、そんなふうに、傍に居てほしくないんだ。今まで通り、ありのままで居てほしい…私を、遠ざけないで、同じ場所に置いていてほしい。……変わって、ほしくないんだ」
「…なんだよ、それ」
アルミンは荒涼の滲む呼気を落とす。静かな部屋には、存外それは大きく響いた。
ハルは、アルミンを見上げている。分かってほしい。お願い。そんな、一方的な感情ばかりを浮かべて。
「勝手過ぎるよっ!」
アルミンは肩を張り上げ、ハルの頬を叩くように声を上げた。ハルの瞳が丸くなって揺れる。流石に怒られて当然のことを言ったのに、まるで理解出来ていない表情だった。それが、ひどく虚しいと感じてしまう。
「そんなのは、勝手だ…」
もう一度、今度は深く溜息を吐くように言ったアルミンは、肩を落とし、目頭を抑える。
「ハルは、僕達にとって、ただの仲間でも友達でもないんだよ……分かるだろう?」
「…え?」
と、掠れた声を唇の隙間から漏らして、自分を見上げてくるハルに、アルミンは愈々心外だと眉間に皺を寄せる。彼女は、どうしてこうも自分に無関心なのだろうか。憤りを通り越して、最早呆れていたアルミンは、目頭から手を下ろしハルを窘める。
「ハルは、親友で、家族みたいなものなんだ。君の身に起こることを、他人事のように捉えるなんて事はもう、僕達には出来ないよ」
「…アル、ミン」
「ハルは、いつも僕達を大切にしてくれる癖に…僕達にはそれをするなって言うの?そんなのっ、勝手だよ…!」
アルミンは縋るように、ハルの負傷していない左肩を掴んで、板張りの床に膝をつく。
「ねぇ、ハル。もしも、ジークが言っていたことが真実なんだとしてもっ、それをただ受け入れるだけなんてことしないでよ。それが例え運命でも、僕達ならきっと変えられる!呪いを解く方法を見つけようよ!だからハル、この事はちゃんと、皆に共有して……!」
しかし、その先の言葉を遮るように、今度はアルミンが左肩を掴まれ、息を呑む。肩を掴むハルの手は、弱々しく震えていた。
「ありがとう、アルミン。…でも、この事は、皆には話さないで」
「どうしてっ」
「こんなこと…アルミンに背負わせて、酷いって思う。でも、私、皆に知られてしまったら、動けなくなりそうなんだ…」
ハルは沈痛な面持ちで言うと、アルミンの肩を掴んだまま項垂れる。さらりと、ハルの細い黒髪が、耳の裏から流れる音がした。間近に見えた頸の細さに、アルミンは思わず唇を引き結ぶ。胸が、引き裂かれる思いだった。
奪還作戦から帰還してからというもの、人類の未来を救ってくれた存在として、巨人の力を持つエレンのことを、神と崇める者が、民衆達の中から現れ始めていた。そして、これまで多くの巨人を討伐し、仲間の命を救ったハルのことを、民衆だけではなく同じ兵士たちまでもが、『黒白の女神』と讃え騒いだ。アルミンは、それがとても気に入らなかった。嫉妬とか、そういうものじゃない。エレンとハルが、本人の意思とは関係なく崇められ、世間に人とは違う存在として晒されるのが嫌だった。二人はただの人間で、大切な友人なのに。こんなに、細くて脆い、人なのに……と。
「動けなく、なりそうって……?」
アルミンは、項垂れるハルに、静かに問いかける。
ハルは、俯いたまま、ぽたりと葉から滴る雨水のように言葉を落とした。
「上手く言葉に、出来ないけど…、…糸が…切れそうなんだ」
自分を支えている、心の糸が。
そう、慄然するようにこぼしたハルの、得体の知れない恐怖感に、アルミンは下唇を噛んだ。自分はハルではないから、彼女の言葉の意味を完全に理解することは出来ない。ましてや、彼女自身でさえその漠然とした恐怖の正体を理解出来ていないのなら尚更だ。…それでも、ハルの短い言葉の中に表れた『糸』というものが、彼女を生かす為に必要不可欠なものなのだと直感してしまって、もうこれ以上問いただすような事は、アルミンも出来なくなってしまった。
「……いいよ」
アルミンは、内圧を下げるような長い溜息を吐いた。
「話さないで、居てあげる。でもその代わり、僕には全てを話して。そうしたら、この約束は守るから」
「……うん」
ありがとう。そう泣き笑いのような表情で礼を言ったハルは、アルミンに机の引き出しを開けた中にある、古い本を読むように言った。アルミンは言われたように、綺麗に整頓されている机の引き出しを開けて、色褪せた一冊の本を取り出す。
『ビフレスト』と、消え欠けた表紙に記された本を捲ると、花が香るように、ふわりと古いインクと紙の匂いがした。
其処には、シーナという少女の、独白が書き連ねられていた。
『ユミルの愛し子』の始まりと、その正体についても––––
ベッドサイドの椅子に再び腰掛けたアルミンが本を読んでいる間、ハルは一切口を挟まなかった。アルミンも、最後の一文字を読み終えるまで、息を呑むことはあっても、何も言わなかった。全て読み終えると、静かに本を閉じて、表紙に書かれた消え欠けの文字を、そっと指先でなぞりながら、アルミンは言った。
「ハル…君は、シーナって子が出会った、『ユミルの愛し子』の始まりの人のように、僕達にとっても虹の橋みたいな存在だよ」
「虹の…橋…?」
ハルは大きく瞬きをして、首を傾げる。どうしてと理由を聞きたげな表情を向けられて、アルミンは微笑みを浮かべた。
「……たくさん雨が降って、地面はぬかるんで、気持ちがぐっと落ち込んでしまっても、雨が止んで空に架かる七色の虹が…僕たちの心を、晴れやかにしてくれる。ああ、雨も悪くなかったな。そんなふうに、思わせてくれるような、存在だってことだよ」
ハルは少し驚いたように目を丸くしてから、すぐに破顔する。
「そうかな。それは、私にとっての…アルミン達だと思うんだけどな」
花が咲くような優しい笑顔に、アルミンも笑顔のままで居たかったが、うまく、出来なかった。
目頭が熱くなって、喉がひくつく。痛む鼻を啜ると、ハルは口を噤んで、切なげに目を細めた。
「ごめん、ハル。僕…は、僕は君に…死んで、ほしくない…っ、ハルがいない未来なんて、想像出来ないんだ……」
眦から涙が溢れて、古い本の表紙にポタポタと落ちる。
そんなアルミンの、本の上に置かれた手に、ハルは手を重ねた。
「…大丈夫だよ。私が、血を集めて…巨人の力を根絶させられれば、皆は…私のことを、忘れられる」
「…え?」
「私が皆と一緒にいた記憶は、全部…無くなるんだ。だから、」
「だから、何?悲しむ必要なんて、無いって言いたいの?」
アルミンはハルの両腕をがしりと掴む。身を乗り出したことで、膝から本が滑って床にばさりと落ちた。
「ねぇ、ハル。僕本気で怒るよ?…ハルが一緒に居てくれたこと…っ、僕達は何一つだって忘れたくないよ!一緒に、座学の勉強してくれたことも、誕生日にたくさん美味しいお菓子を焼いてくれたことも、みんなで街に出て、夜は怪談話をして騒いだりしたことも…他にもたくさん、ハルとの思い出がある!それに、今の僕には…僕だけじゃない、ベルトルトの気持ちだって、ここに在るんだから!」
アルミンが左胸を拳で叩いて言うのに、ハルの顔がまるで腹をナイフで刺されたみたいに悲痛で歪んだ。
「同じシガンシナ区に居たなら、もっと早く君と出会って、友達になりたかった。そう思うくらい、僕はハルのことっ、大事な家族だっておもっ、」
言葉の途中で、アルミンはハルに口を掌で覆われてしまい、息を呑んだ。
「……それ以上、何も言わないで」
今にでも泣き出しそうな顔をしたハルの言葉に、アルミンは奥歯を噛んだ。
「 」
「…っ」
そうして告げられた、ハルの言葉に嘘はないと確信出来たのは、とてもハルらしくない言葉だったからだ。それは、人として当たり前の感情だった。吹雪の中、外に放り出されれば寒いと感じる事が当たり前なように、至極当然なコト。生きている人間であれば誰もが自然に、本能で思うことを、ハルはとても罪深いことを告白するように言った。
「 死 に た く な い ん だ 」
……ああ。
僕だって、そうだ。死にたくなんかない。
だって、折角幼い頃からみてきた夢が近づいてきているのに、あと寿命が十三年だなんて、短過ぎるって思ってる。
僕は、エレンやハルよりも長く、生きられるのに。死ぬのがもう、怖い。
でも、もっと怖いのは、エレンやハルの死を、見届けることのような気がした。
「……ジャンにも、話さないの?」
答えは聞かずとも明らかだったが、ジャンの気持ちを思えば、どうしても問わずにはいられなかった。
ハルは、うん。と、ひどく掠れた声で頷いた。枯れ行く花の花弁が落ちるのを、ただ見送るような寂しさが滲む微笑みを浮かべて––––
第六十四話 落花の告白
完