第六十三話
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リヴァイは、ポルコ達を追わなかった。
崩れ始める獣の巨人の体から飛び降り、俯けに倒れているハルの傍に駆け寄って、真っ先に傷の具合を確認する。
「ハルっ、ハル!しっかりしろ!」
ガランと、地面にブレードを乱雑に置いたリヴァイの珍しく焦った声に、ハルはゆるゆると俯けに倒れたまま、視線を持ち上げた。
「…兵長…来て…くれたんですね……」
安堵の微笑みを浮かべたハルだったが、体の痛みに息を詰まらせて、苦しげに咳き込む。地面に膝をついた兵服が、ジワジワと緩い液体を吸い上げていく感覚に、リヴァイは焦燥を隠せなかった。傷が、治り始めていない。ウトガルド城で発見された時も、傷の治癒が出来ていなかったことから、ハルが相当に体力を消耗していることが分かる。当たり前だ。ハルは二日前の夜から作戦に参加し、ずっと巨人の相手をして来たのだ。仲間の負担を少しでも減らし、その命を守る為に………
リヴァイは両手を握り締め、声が震えないように努めて固くなり、掠れた声で問い掛ける。
「…背中の傷は、撃たれたのか」
「…は、い…」
綿毛も震わせないような弱々しい声に、リヴァイは唇を噛み締めて、ハルの地面と体の隙間に腕を差し込んだ。まだ僅かに残熱の孕んだ弾頭が指先に触れて取り出せば、華奢な体を貫くには大き過ぎる鉛の塊が掌に転がった。唇に血が滲んで、口の中に鉄の味が広がる。
「…兵長…ジークを…、獣の巨人を、追ってください…」
「死にかけてるお前を置いて行けねぇだろ。散々無茶なことしやがって、ふざけるのも大概にしろよ」
鉛の塊を握り締め、次第に語気を強めるリヴァイに、ハルは大丈夫ですよと言うかのように眦を下げると、血の気を失い乾いた唇を震わせる。
「…兵長が、居ないと……皆が、困るんです…だか、ら……」
「黙れ…」
背中から溢れ出す赤が、草を生やした土に沈んでいく。駄目だ。雑草なんかにくれてやるな。リヴァイはハルの傷口を両手で抑えて、歯を食い縛った。神に祈りを捧げたことなんてないが、今はこの世に起こり得る奇跡の全てに縋りたかった。
「…お願い…します…兵長……」
「黙ってろって、言っただろうが!」
自分の怒声がやけに遠く感じた。心臓の音が耳元で鳴り響いていて、気持ちが悪い。
「リヴァイ…、リヴァイ!」
「っ」
何度名前を呼ばれていたのか分からないが、馬を走らせ新兵達を引き連れて此方に向かってきていたエルヴィンが、白馬の鞍を飛び降りて、リヴァイの元へと駆けて来ていた。そして、リヴァイのすぐ後ろで足を止めると、血に濡れたハルの姿を見て、息を呑んだ。
「ハルの傷が治ってねぇ。背中は猟銃のライフル弾が貫通してやがる。出血も酷い」
「…っあぁ。あとは任せろ、リヴァイ。お前は獣の巨人を追い駆けるんだ」
ハルと同じことを命じるエルヴィンに、リヴァイは奥歯を噛み締めた。頭では理解している。このまま獣の巨人達をエレン達の元へ行かせれば、始祖の巨人の力を持つエレンの身も、ハンジ達にも危険が及んでしまう。分かっている。それでも、ハルの傷口を抑えている手が動かなかった。
「リヴァイ」
もう一度エルヴィンが、窘めるように名前を呼ぶ。奥歯が軋む。体が動かない。
「や…く、そく…します。兵長…」
「!」
ゆるゆると、ハルが右腕を上げた。
細い小指を立て、小さく微笑みを浮かべて、鼓膜をそっと震わせる、微風にさえ掻き消されてしまいそうな程の小さな声で、言葉を紡ぐ。
「ぜっ…たいに、…死んだり…しません…から……」
まったく、極端に違う感情が、胸を削りながら徂徠する。立ち上がれ、このまま此処に残るんだと。目の前に突きつけられた選択を選ぶことは、今まで何度だってしてきた筈なのに、とても自分には選べなかった。だから、縋るように差し出された細い指に、ハルの血に濡れた指を絡めた。
すると、ハルがほっと嬉しそうに微笑むから、立ち上がらずにはいられなくなってしまう。
殆ど力の入っていない小指を、壊れもののようにそっと離して立ち上がったリヴァイの肩を掴んだエルヴィンは、自分の馬を使うように言った。
リヴァイは気が変わってしまわないうちにハルの傍から離れると、エルヴィンの白馬に飛び乗り、ジーク達の後を追って馬を走らせた。
「衛生兵!ハルの応急処置だ!急げ!」
「はい!」
エルヴィンの指示に、衛生兵の若い女兵士が、慌てて治療具の入った箱を抱えてハルの元へと駆け寄る。傷と出血に息を呑んだが、すぐに止血に取りかかった。
エルヴィンは、ハルの傍に片膝をつくと、壁上で出会った時と比べて、すっかり弱ってしまっている瞳と目が合い、顔を歪めた。
「エルヴィン団長…ご無事、だったんです…ね…」
「…ああ。ハルのおかげだ」
良かった。と、ハルは浅く吐き出す呼気に言葉を乗せて呟いたのに、エルヴィンは自分で自分を殴り飛ばしてやりたかった。
ハルは、こんなにも自分を犠牲にして、自分達に未来を繋いでくれた。諦めなんて言葉は体の外に追い出して、歯を食いしばって。その癖自分は、人生を諦観して座り込み、叶わぬ夢に嘆いていただけだった。
「ハル…すまない…っ、…君は諦めるなと言ってくれたのに。信じていてくれと…言ってくれていたのに…っ」
立てた膝の上に置いた左腕の先を握り絞める。その先の言葉が、喉が締まって出てこない。段々と顔が俯いてきて、わななく唇を震わせるだけのエルヴィンの旋毛を見つめて、ハルは言った。
「…ちか…しつ…」
その覚束ない声に、顔を上げれば、ハルは笑っていた。ずっと探してきた宝物を見つけ出した時のように、氷の塊が見つめられてしまっただけで溶けてしまいそうな程の、太陽みたいに温かな微笑みだった。
「また、団長の…知りたいこと、増えちゃいますね……?」
「––––っ…」
鼻の奥が痛んで、瞳が溶けてしまったように目の端から涙がこぼれ落ちた。
こんなことは初めてだった。もういい年した男が、易々と涙なんて見せるものではないのに。子供の頃だって、こんな風に泣いたりなんてしなかった。
滲んだ視界の中に、仲間達の顔が浮かぶ。皆、笑っている気がした。自分の情けない泣き顔を見て笑っているのか、それとも、この先に続いていく未来に胸を躍らせているのか。それは、自分の妄想が作り出したただの幻影に過ぎないのかもしれない。それでも、彼らの笑った顔を見たのは、彼らと別れを告げた日から、初めてのことだった。
ハルの、撃たれた背中の傷を圧迫止血していた衛生兵は、歯の隙間を通るような嗚咽に、顔を上げた。俯けられた顔の先に、音もなく雫が落ちるのを見なかったふりをして、彼女は再び手を動かした。
「ハルっ!」
私の名前を、呼ぶ声がする。
寒くて、痛くて、怠くて、体に力が入らない。躓きながら駆け寄ってくる二人の顔はぼやけていたけれど、誰かははっきりと分かった。
いつも綺麗に整えられているマルロの髪は、毛先が四方八方に跳ねて、汗ばんだ顔に張り付いている。目にかかる前髪を掻き上げているフロックの髪は、疎に額に下りていた。
傷を圧迫するために、何度もキツく包帯を巻き付けてくれている衛生兵の努力も虚しく、止まらない血が白を赤く染めて行く。
私の頬に、フロックの手が触れる。肌が焼けるくらいに熱いと感じたのは、私が冷たくなり始めている所為なのか、頬にポタポタと落ちてくる雫さえ、あついと感じた。
「ハル…っ、ハル…っ!」
フロックが泣いている。
「ハル!しっかりしろ!死ぬなよ!!絶対に!!死んだら許さないからな!!」
マルロが私の手を掴んで、そんな事を言うのが何だかおかしくて、頬が緩んでしまう。目尻に溜まっていた涙が頬を流れて、耳の後ろに滑り落ちた。
『エレン』の記憶を見てから、この日を迎えるのがずっと怖かった。私は、選ばなければならなかった。失われた命を全て救い上げる術を、私には見出せなかった。今日もまた、多くの仲間が傷つき、命を落とした。それを、私は知っていた。知っていた上で、選択したのだ。
命に、優先順位をつけてしまった。
自分にとっての大切な人を守る為に。人類ではなく自分自身の悲願を達成する為に––––でも、ごめんなさい。私は、こういう生き方しか出来ないんだ。朝焼けも夕焼けも、どちらも見たくても、同時にそれを見る術が私には無くて。それでも、私は君だって、救いたかったんだ………
「ごめん……ね……。…ベル…トルト……––––」
呼吸が、チグハグになって行く中で––––
君の、悲鳴が聞こえる。
第六十三話
トリアージ
完