第六十三話
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暗闇の中で、涙が滲むほどに懐かしくて、大好きだった人たちの声がする––––
金縛りにでもあっているかのように体が硬直して、閉じている瞼さえぴくりとも動かすことが出来なかった。
「…ハル、起きて。そんなところで眠ってる場合じゃないだろ?」
「おーい、起きろよってんだよ。ったく、お前は本当に寝起きが悪いな」
「(…マルコ…ユミ、ル……)」
目を開いて、二人の顔が見たい。
体を起こして、思い切り抱きしめたい。
そんな気持ちが溢れるばかりで、体は全く言うことを聞いてくれなかった。
「寝坊だぞ。…お前が帰らなかったら、ミケさんやゲルガー達が、どんなに悲しむか」
「さあ、もうひと頑張りだ。未来を、運命を変えるんだろ?指先からゆっくり動かして、立ち上がるんだ」
「(っ、ヘニングさん…リーネさん…!)」
ギリッと、奥歯を噛み締めて、足と手の指先に力を込める。
ギシギシと軋む音が鳴りそうなぎこちなさで、指の関節が震えながら曲がり始める。
「ハル」
皆が、私の名前を何度も呼んでいる。
その声は段々と増えて大きさを増し、私の体を暗闇から押し上げて行く。
やがて瞼の隙間に光が滲むと、私の名前を呼ぶ声は、恐怖に塗れた悲鳴へ変わり、地鳴りと、無数の岩が家屋を吹き飛ばす音が鼓膜を掻き回した。
私は、草むらに顔を押し付けるように、地面に倒れていた。
両腕は背中できつく縛られ、右の顳顬辺りがひどく熱くて、鉄板に肉を押し付けたような焼ける音が、耳のすぐ傍でしている。喉が酷く乾いていて、自分で吸い込んだ空気に咽せながら、鉛のように重い頭を上げると、塔のように大きな背中が見えた。
全身に体毛を生やした獣の巨人が、大きな岩を持ち上げる。
『もうちょっと何かあると思ってたんだけどな…。これで終わりか。完全試合も間近、だな』
獣の巨人は、喉の奥で鳴らすような低い声で残念そうに呟き、大きな両手で岩を細かく砕く。パラパラと地上に欠片が落ちて、ハルの顔に降りかかった。
「ジー、…ク…」
『…ん?』
獣の巨人は振りかぶった腕を下ろして振り返ると、ハルを梔子色の瞳で見下ろした。
蒼黒の瞳を酷く揺らしながら、乾いた唇を震わせて、ハルは言った。
「クサヴァーさんは…君が…そんなことを…する為に…キャッチボー…ル…してたわけじゃ…ないだろ…」
『…は』
獣の巨人が、瞠目する。
なぜその事を、クサヴァーの名前を知っているのかと驚いた顔を一瞥したハルは、傍に落ちていた岩の残骸に、右目を躊躇なく打ち付けた。
『まずいっ!』
背後で、巨人化したピークの焦った声が上がる。
ハルの体は黄金色の輝きを放った。辺りの空気が急に冷たくなり、背中から大きな黒白の翼を生やす。あまりの眩しさに、ピーク達は目を腕で覆った。
ばさり、と、大きく翼をはためかせれば、纏っていた黄金の光が、小さな粒になって辺りに散って行く。
途端に、ジークとピークは全身に電流が走った。獣の巨人の西側で半扇に並んで立っていた巨人達は、皆ハルの方に体を向け、地に平伏して頭を垂れる。
ジークは体が酷く痺れ動かすことが出来なかったが、始めてハルと出会い力を使われた時のように、無意識に地に伏せられることは無かった。一方で、ピークは体のあちこちが痺れてはいたが、体を動かすことは可能で、その背中で腕の治癒を待っていたポルコも、巨人化していないことから体の自由を奪われることは無かった。
ピークは聞いていた話と違うことに困惑していたが、一つだけ思い当たることがあった。
それは、ハルの血を飲んだことだ。ジークも摂取量は多くないが、ハルの血を少し体内に取り込んだと言っていた。それ故ジークは身動きを封じられてはいるものの、地に体を伏せられずに済んでおり、血の摂取量が多かったピークは、体を動かす事が出来ていたのだ。
「ピークッ、お前体が動かせるのか?」
ポルコに問われて、ピークは頷いた。
『体中痺れているけど、動けるみたい…!多分ハルの血を飲んだからかも!』
その言葉を聞いて、体が硬直してしまっているジークは、珍しく焦った口調でピークに命令を下した。
『ピークちゃん!動けるならハルを拘束するんだ!その子はマーレに連れて行かなきゃならない!!』
『了解しました!』
ピークはポルコを背に乗せたまま、ただジークを見上げて立っているハルの背中に飛びかかった。ハルはそれを避けようとはせず、されるがままピークの掌で地面に押し付けられ、俯けに倒される。
ピークは指の間から生えるハルの黒白の翼を間近で見ると、体の痺れが強くなったのを感じて息を呑んだ。
白銀の翼と漆黒の翼。双極に立ち、決して相入れることのない光と影。それでも、なによりも近くに在るもの。
その双翼は、今まで見たどんな景色よりも美しく、愛おしくて、懐かしい。
ピークは知っている気がした。遥か昔に、この翼を追い駆けていた。まるで恋人の背中を追うように……
『私は、恐ろしい』
考えていない言葉が、唇から溢れ落ちる。
それは、自身に宿る車力の巨人の、遥か昔の継承者の言葉だった。
『それは天使の翼でも、自由の翼でもない。私には貴方を死に連れ去って行く、悪魔の翼にしか見えない』
「…ピーク?」
ピークの背中に居たポルコが、違和感に名前を呼んで、顔を覗き込む。
ハルは地面に頬を擦るように顔だけを動かして、体を押さえつけているピークを見上げた。
「ぁあ…そういうことか…」
吐息に言葉を絡めるように呟き、透徹な双眸が優しく細められる。
「元々一つだけ痣が黒かったのは……過去に君の、車力の巨人の継承者が、血をくれていたから…なんだね…」
ハルの言葉に、ピークは喉に突っ掛かっていた得体の知れない雑感が、すとんと腑に落ちていって、深く息を吐いた。
その吐息に、柔らかな前髪を揺らしたハルが微笑む顔を見て、ピークはそれ以上動けなくなってしまった。体の痺れの所為ではなく別の理由が、ハルを傷つけるなと頭の中で叫んでいた。
『君は、一体何が目的で俺たちの血を集めようとしているんだ。ユミルの愛し子としての力を覚醒させ、時を遡って何をするつもりなんだ!』
ジークの問いに、ハルは言い淀む事なく答える。
「巨人の根源を絶やして、この地獄を終わらせる」
その答えに対して、はっと、ジークは酷薄に笑った。
『そんなことをして何の意味があるんだよ』
ハルは、ゆるゆると瞳を動かして、ジークを見上げる。
ジークは動かぬ体で瞳だけをギョロリと動かし、ハルを見下ろして、切って捨てるように言い放った。
『ユミルの愛し子の力は、巨人化が出来なくとも、九つの巨人の力と等しいものだ。この世界から巨人の力が失われれば、一度死んで、巨人の力で蘇り、そのユミルの心臓で生きながらえているお前は
「!」
ジークの言葉は、ハルが寿命を全うした先に抱いていた淡い希望を、無慈悲にも容赦なく打ち砕くものだった。
『時を遡った先で命を落とせば、お前はそもそもこの世界に存在しなかったことになる。大切な仲間達から忘れられて……それでも、過去を変えるって言うのか!?』
ハルは、胸の中で、何か大事なものが崩れ落ちて行くのを感じた。それは、未来への希望だったのかもしれない。期待なんてしていたつもりは無かったが、無意識に、自分は皆と同じ未来で生きていられる筈だと、心の何処かでそんな希望を抱いてしまっていた自分が居たことに愕然としながらも、自嘲が漏れた。
…それでも、まだ救いはあった。
「…いいんだ。その方が、いいよ…」
私を、忘れてくれるなら。
「みんなが…泣かなくて済む」
ハルにとってはそれが、何よりも大切なことだった。だから、もうなんの迷いもなく自分の宿命を全う出来る気がした。
心の底から溢れるような安堵の笑みを浮かべたハルを見て、ピークはびくりと身体を震わせる。
『……君の血を、くれないか。僕の命はもう短いけれど、きっと…未来に繋がって、君と僕の絆は、永遠に消えない筈だから』
脳裏に、過去の車力の巨人の継承者の記憶が蘇る。黒白の翼を生やした青年に思いを寄せていた彼女は、彼の運命を知っていたうえで、己の血を差し出した。もう寿命が僅かしか残っていない彼と、生まれ変わった未来でもう一度巡り合いたい。そんな切ない希望を込めて、噛み切った唇を、乾いた薄い唇に押し当てた。
彼の頬に浮かんだ九つの痣の一つが、自分の血を得て黒く染まって行くのを眺めているのは、泣きたくなる程、幸福な時間だった。
『ぁあ…』
気がつけば、両目から滔々と涙が流れ、巨人の体を纏うことも出来なくなっていた。
蒸気を上げ、崩れ行く車力の巨人の頸から現れたピークの半ば放心した泣き顔を見て、ジークとポルコは困惑していた。
『ピークちゃん!?どうしたんだ!』
ポルコは頸から上半身を露わにしハルを見下ろしながら潸然として涙を流すピークの肩を、漸く再生を終えた両手で掴んで揺さぶる。
「おいっ、どうしたんだよ!ピーク!」
「…駄目」
「え?」
「…私にっ、彼女を傷つけることはっ、出来ない…!」
喘ぐように、訥々と答えた、涙に濡れ戦意を喪失してしまっているピークの、見たことのない表情に、ポルコは瞠目して体を強張らせる。護身用に肩に掛けていた猟銃が、ガシャリと音を立てた。
『ユミルの愛し子としての力は、遠くの音を聞き取り、巨人の動きを制して、時を遡る能力だけの筈だ。それなのにどうしてお前はっ、俺のことを…クサヴァーさんのことまで知っている!!』
動揺を露わにしたジークの問いに、ピークの拘束から逃れたハルはゆっくりとその場に立ち上がり、顎を上げた。
「この世に生まれて来なければ、貴方は彼に出会えなかった。そして彼も貴方に出会えなかった。…私も、何度も考えたことがあります。生まれてなんて来なければ、こんな苦しい思いをせずに済んだだろうって。…でも、今は違います。苦しみながら生きた先で、私は大切な人達と出会うことが出来た。他愛無い話をして……特に、何をするわけでも傍に居てくれるだけでも、嬉しくなる。そんな人達に……」
ジークは、自分自身の思いを確かめるように告げられたハルの言葉を聞きながら、ある人のことを思い浮かべていた。
本当の両親よりも親身で居てくれた、いつも気の抜けるような屈託ない笑みを浮かべて、使い古したグローブと、土に汚れたボールを手にして名前を呼んでくれた人のことだった。
「…それは貴方も同じじゃないのかっ……ジーク!!」
『っ!?』
その声は、ジークの呼吸を攫い、胸を貫いて辺りに響き渡った。
喉に指を突っ込まれたように何も言えなくなって、ただ呆然とする。心臓の音がドクドクとやけに耳障りに鼓動して、翼を背負ったハルの瞳から目を逸らせなかった。
自分の胸の中の深淵に眠っていた見知らぬ感情が、何の前触れもなく引き上げられてしまって、とてもじゃないが受け入れ難かった。
まるで時が止まってしまったような錯覚に陥っていたジークだったが、不意に響いた銃声で、我に返ることになる。
ドォォンッ!!
猟銃特有の、銅鑼を打つような重い発砲音。
ハルの背中から血が噴き上がって、黒白の羽が宙を舞った。
ばたりと俯けに倒れたハルの、白い翼が鮮血に染まる。
ポルコは構えていた猟銃を投げ捨て、ハルから取り上げていた立体機動装置のブレードを手に取り、ハルの背中に乗り上がった。
「その翼をしまえっ…!ハル・グランバルド!!」
「…うっ…!」
ハルの後頭部を鷲掴み、細い首筋に刃を押し付けたポルコに、ジークは低く唸るように告げた。
『ポルコ。彼女の翼を奪うんだ。彼女は、危険だ。マーレへ連れて、調べ上げなきゃいけない』
「っ、クソッ…!」
ポルコは舌を打ち、血に濡れたハルの白い翼を掴むと、背と翼の境にブレードを突き刺した。
ハルは腕を斬り落とされるような痛みに悲鳴を上げて悶える。ドクドクと溢れ出てくる鮮血に、ポルコは顔を歪めた。いくら敵だとはいえ、人の体を甚振るような真似はしたくない。
「早く力を解け!そうすればこんなことはっ…!」
「まだ…だ…っ、まだ駄目だっ…!」
ハルは、土と血に顔を汚し、背中で縛られた両手を握り締めて痛みに耐えながら喘ぐ。
「私はっ、皆の橋…なんだっ……ここでっ、崩れるわけにはいかないっ、絶対に諦めない…皆が渡り切るまではっ、絶対に…っ!!!」
血を吐くような、ハルの魂の慟哭が響く。
ポルコは、憫笑を浮かべた。破滅的に自己犠牲的な、哀れで頑固な女だと。底ぬけにお人好しで、出会った時から癪に触る奴だった。それは自分にとっても、…ユミルにとってもだ。
手に馴染まないブレードの柄を握りなおして、ポルコはハルの千切れかけた片翼を、一思いに切り落とそうとする。
その刹那に、ジークの背後で銀色の刃が煌めいた。
アンカーが獣の巨人の肩口に突き刺さり、深緑色の外套がばさりと舞い上がる。
西側に並んで居た巨人の頸を削ぎ、立体機動で此処までやってきたリヴァイは、巨人の血で顔を真っ赤に染め上げ、ハルの力で身動きの取れないジークの身体を、目に止まらぬ速さで容赦なく斬り刻む。
『グァァァアアアッ!?!?』
腕の筋肉、両目、両足の腱を断たれて、獣の巨人の体は悲鳴を上げながら呆気なく地面に崩れると、頸の中にいるジークの両腕を容赦なく切り落とし、肉の体から引き摺り出したリヴァイは、痛みに叫ぶ口の中にブレードを突き込んで、完全に動きを封じた。
「巨人化直後、体を激しく損傷し回復に手一杯なうちは巨人化出来ない!そうだったよな!?…おい、返事しろよ!失礼な奴だなっ!」
「…へ…ちょ…ぅ…」
弱々しいハルの声を聞き取って、ジークの体を踏みつけていたリヴァイが、はっと顔を向ける。
血だらけのハルの背中に乗り上がっているポルコと目が合い、リヴァイの顔に怒りが迸った。身の毛がよだつ程の殺気を感じたポルコは、反射的にハルの体から飛び退く。リヴァイの操作装置からブレードが飛んできて、ポルコの頬を掠った。
ポルコはリヴァイを本能的に危険人物と察して、自身の手に噛み付いて巨人化する。頭を抱えて、地にへたり込んでいるピークを背に乗せると、リヴァイに飛び掛かった。
「っち!」
リヴァイは既のところで攻撃を避けたが、ポルコはジークを奪って、壁の方へと走り去って行った。
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