第六十二話
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あの時のハルは、『ユミルの愛し子』の翼を背に生やさずとも、夜の落ちた空を羽を散らすように舞っていた。
正直、立体機動よりも射撃が得意と言っていたハルは、言葉通り迫り来る五体の巨人の片目を、巨人達の亡骸を乗り越え走りながら一発も外さずに撃ち抜いた。
しかし、至近距離で散弾を撃つなら兎も角、通常弾で片目を撃ち抜かれたところで多少怯みはするものの、巨人の動きが止まることは無かった。
奴等は片目から蒸気を上げながらも一箇所に固まっている俺達に向かって歩みを進め、腕を伸ばしてくる。熱く、臭い吐息に、鼻が曲がりそうだった。大木のように太い無数の指が眼前に迫ってくる。
もう、駄目かもしれない。
愈々死を覚悟しても良い状況な筈なのに、どうしてか俺の胸の中に恐怖という感情は生まれなかった。怖いという感情そのものが自分の中から欠落していて、穴の空いた場所に、希望の光さえ見えているのだから、自分自身でも困惑してしまう。
ふと、横にいるナナバとケニーの顔を見た。二人とも迫る巨人を見据えていたが、顔に怯えの色は無い。寧ろ武者震いでもしているような笑みさえ浮かべていた。
巨人達は、俺達を覗き込むようにして屈み込み、ご丁寧にも一列に横並びになっていた。
それは、ハルが望んでいた、またと無い好機だった。
「もう、終わりにしよう」
巨人の亡骸の山から飛び上がったハルが、ブレードを逆手に持ち替えながら、悪夢に苦しむ巨人達に囁いた。
剣閃が、闇を斬り払うように迸る。
激しく円弧を描く刃が無防備に差し出された頸を切り裂き、立体機動装置とワイヤーが、最後の力を振り絞るように唸り声を上げていた。
俺達を掴もうとしていた巨人達の指先は、肌に触れることは無く、巨体が地面にドミノ倒しのように崩れて行く。
回転切りを成功させ、五体の巨人を仕留めたハルは、その勢いを殺せず、地面に体を打ち付けゴロゴロと転がった。
巨人の唸り声や地鳴りが収まり、急に周囲が静けさに包まれる。聞こえてくるのは自分達の息遣いと、巨人の体から蒸気が噴き上がる音だけだった。
「…俺たち、生きてるのか…」
ケニーが信じられないと言った様子で、唇の隙間から息を吐くように呟く。
その隣で、ナナバは呆然として言った。「ああ…生きてる」。
二人と同じように呆けていた俺は、苦しげな呻き声が鼓膜に触れ、はっと地面から立ち上がり、蒸気の渦巻く中で地面に蹲っているハルの影を見つけるや否や、駆け出していた。
ハルと自分との間に揺れる、巨人の体を溶かして無に返して行く生温い蒸気が、邪魔で仕方がなかった。
ハルは地面にへたり込み、ブレードが根本から折れてしまった柄を握ったまま、地面に力無く腕を落としていた。
「ハルっ!」
丸まった背中に声を掛けるが、返事はない。近くまで駆け寄って漸く、ハルの両肩が震えていることに気がついた。白いシャツにベットリとこびり付いている巨人の血が茹っていて、ハルの体ごと溶かしてしまいそうだと不安になった。
俺はハルの傍に片膝をついて、俯けられている顔を覗き込んだ。そして、息を呑む。
「…っ」
ハルは、見開いた黒い双眸に、涙の膜を張っていた。
奥歯が震えてガチガチと音が鳴ってしまうのを抑えるように唇を噛み締めて、寄せられた眉の間には、くっきりと、怯えの色が見えた。
俺は礼を言おうとして開いた口を閉じる。
ありがとう。なんて言葉を、今のハルにはとても掛けられなかった。
ハルは、俺達の恐怖を一身に背負って、命懸けで戦った。失敗すれば真っ先に死んだのはハルではなく俺達だった。ハルの中でも、成功する確証は殆ど無かったのだろう。それでも、ハル自身にとって何よりも耐え難い恐怖を抱えながら、僅かな可能性に賭け、自分自身の力だけで未来を勝ち取ってみせた。
その恐怖を乗り越えて、ハルは震えていた。
酷い頭痛がした。まるでヤケ酒でもした時のように、いろんな感情が胸に這い上がって来て、唇を噛む。
ハルは俺たちよりもずっと若い。それでも、俺たちよりも長く調査兵団に身を置いているかのように強くて、年齢に削ぐわず大人びていた。本来であれば俺たちがハルの手本となるべきなのに、気がつけばハルの背中を追う立場になっていた。それが情けなくて、ハルの部下になることを決めた日から、俺たちは必死で訓練をして来た。それでも結局また、ハル一人に背負わせてしまった。
「もう、終わったよ。ハル…皆生きてる」
悔しくて堪らなかったが、俺はハルにそう告げて、震える背中を宥めるように撫でた。
ハルは、何も言わなかった。喉を苦しそうに鳴らして、漸く柄から手を離すと、膝を抱えて蹲る。
布を食い縛るような嗚咽がして、小さくなった体を抱きしめようとしたが、違う気がして思い留まった。
すると、背後から足音が聞こえてきた。ナナバを支えたケニーが、足を引き摺りながら歩み寄ってくる。
後ろを振り返れば、ケニーの小憎たらしい顔が随分老けていた。ナナバは今にも泣き出しそうな顔で、ハルを見下ろしている。
「ハル…」
ゲルガーの隣に腰を下ろしたナナバが、ハルを両腕で抱き寄せて、もう一度名前を呼んだ。
「ハル…っ」
ナナバも、ハルにありがとうとは言わなかった。ただ、その声には溢れんばかりの万感が込められていた。
そこで漸く、俺もハルを抱きしめることが出来た。
胸が、痛かった。無数の針が刺さっているみたいに。
ハルの生き方は、きっとこの先も変わらない。誰かを守るために傷ついて、生きていく。それを止められない自分も、建前がなければハルに触れられなくなってしまった自分も、どちらも苦い味がした。
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馬を連れたトーマがハル達の元へ辿り着いたのは、それから半刻程経ってからのことだった。
トーマはハル達の無事を確認するや否や、泣きながら鞍を飛び降りて、ケニーも含めて全員のことを両腕に抱きしめた。
「っ、良かった…っ、本当に…っ!!」
歓喜と安堵に情けなく震えたトーマの声を聞いて漸く、ハル達は生きている実感が湧いて、緊張が解けていった。
周囲に巨人の気配が無いことを確認すると、ナナバ達は装備の補充をし始める中、ハルは地面に倒れているアグロの元へと歩み寄って、傍に膝を折った。
すっかり冷たくなってしまった体に優しく触れると、アグロと過ごしてきた時間が脳裏を過ぎって、鼻の奥が痛んだ。
アグロの前脚より後ろの体は、巨人化の爆発に巻き込まれ…失われていた。これでは息絶えるまでに、酷く痛くて苦しい思いをしていただろうに、看取ることも、傍に駆けつけることすら出来なかった。
ハルは唇を噛み締めて、漸く止まった涙がまた溢れそうになるのを、必死で耐える。土に埋めてやりたいが、装備の補充が終わればすぐに、シガンシナ区へ向かわなくてはならない。
「コイツとは付き合いが長かったのか」
何処からか失くしていたハット帽を見つけて来たケニーが、土埃を払いながらハルの背に声を掛けた。
ハルは振り返らず、アグロの首を撫でながら答える。
「訓練兵団に入団してからの付き合いなので、長い…とは言えないかもしれません。でも…」
大切な相棒でした。そう掠れた声で言ったハルに、ケニーは「そうか」と短く呟いて、帽子をそのまま被ることなく、左胸に当てる。
「良い馬だった。足も速いし、賢かった。…きっと、あの世では巨人なんていない広大な大地を、自由に駆け回れる筈だ」
「…そう、ですね」
ハルは口元に小さく笑みを浮かべると、アグロの首元に額を押し当てる。そうすればいつも甘えたように鼻を鳴らして、頬に擦り寄ってくるアグロの愛らしい温もりは、もう二度と帰っては来ない。
「アグロ、今まで本当にありがとう。今度は…っ一緒に、何の柵も無い広い大地を走ろうね……」
堪えていた涙が、目尻から滑り落ちて、黒檀色の体に落ちる。
体は酷く疲弊し、大切な相棒を失っても、ハル達は夜明けを追って、再びシガンシナ区へと走り出さなければならなかった。
完