第六十二話
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肉が腐った匂いと、生温く粘ついた空気。
巨人の蒸気が渦巻いている視界は、蒸し鍋に顔を突っ込んでいるみたいだった。
トーマを見送ってからもうどれだけ時間が経っているのか。巨人を何体討伐したのか、数えている余裕なんてものは無かった。
ウトガルト城の時のように、環境に恵まれていればこの場も切り抜けられたのかもしれないが、此処は真っ新な平地で、使える障害物も無い。倒した巨人の崩れ行く亡骸を活用して、どうにか戦えてはいるが、もう……限界だった。
ケニーは雷装を使い果たし、ナナバは足を負傷して動けない。ゲルガーも、十メートル級の巨人の頸を削いで最後のブレードとガスを使い果たしたところだった。
「ナナバ、しっかりしろっ…!立てるかっ…!」
ゲルガーは右足を抱えて、地面に倒れているナナバの体を抱え起こす。巨人に足を掴まれていたので、骨が折れているのかもしれない。爪が食い込んだのか、出血もしている。
「あぁ、大丈夫…だ…っ」
気丈に振るまうナナバだったが、ゲルガーが抱え起こそうとした瞬間、苦悶の声を上げて再び地面に崩れてしまう。其処に、戦いの最中でハット帽を失くしてしまったのか、皺の浮かんだ顔を汗に濡らしたケニーが歩み寄ってくる。
「…限界だ。戦うにしても、もう装備が残ってねぇ」
荒立つ呼吸に途切れ途切れに言ったケニーの声音には、諦めが滲んでいた。ナナバは唇を噛み締める。ゲルガーも、選択を迫られていた。
俺達はよく戦った。不利な立地で視界も悪い中だったことを加味すれば、敵は殲滅出来なくても、上出来の戦果と言えるだろう。きっとこのまま帰れなくても、仲間達に笑われることはない。胸を張って死ねる。…そこまで考えて、ゲルガーはふと、視線を上げた。
「っ」
全身に巨人の返り血を浴びたハルが、蒸気の霧の中から現れる。
息が酷く上がって、足取りもふらふらだった。ブレードを握る手も握力がなくなり始めてカタカタと震えている。それでもハルの目は、死んでいなかった。
「はぁっ…っ、ナナバさん、ガスを、くださいっ…!」
ハルはそう言って、ナナバの前に両膝をつく。許可をもらう間も無くナナバのガスボンベに手を伸ばして、自分の空になった立体機動装置のボンベと交換を始める。
そんなハルに、ナナバは断腸の思いで告げた。
「ハル、私のボンベも、もうそんなに残ってない。もう、無理…だっ…!手遅れにならないうちに、ハルは力を使って…ここから逃げるんだ!」
「此処で私が逃げたとしても、その先に未来なんてありません…!」
ハルは舌を噛み切るようにして言った。
「ハル…」
ナナバは、項垂れているハルの頸を見下ろし、息を吐く。ハルはボンベを装着すると、項垂れたまま、ナナバの両腕を縋るように掴んだ。
「ナナバさん達を此処に置いて逃げた先に、未来なんてものは無い!私はっ、皆が居てくれなきゃ…っ嫌なんです…!!」
ハルの手は震えていた。それは紛れもない恐怖の表れだった。いつも気丈なハルが此処まで弱さを露わにするほどに、現状は最悪だった。
ゲルガーは、ハルの傍に片膝をつき、震える肩に手を置く。
「ハル。…俺たちは全力で戦った。それでも、どうにもならなかったんだ。フレーゲル達も言ってただろ?生きてこその物種だって……お前が生きていれば、人類の未来は–––」
「人類の未来じゃない」
ゲルガーの言葉を遮るように否定したハルは、ゆっくりと顔を上げた。
この絶望的な状況下でも、崩れることなく凛とした力強い瞳に、ゲルガーは背中がぞわりと疼いて、息を呑む。
「私が欲しいのは、此処にいる皆の未来です。傍にいる大切な人の未来を繋げなくて、人類の未来なんて切り開けませんっ…!私は、まだ戦えます。腕も足もある…!ガスも、ブレードも残ってる……出来ることは、まだあるんです…!」
ハルは兵服の上着を脱ぎ捨てると、地面に置いていたブレードを再び手に取った。鞘の中に、もうブレードは残っていない。装着しているもので最後だった。
「私は諦めません。絶対に…!」
自分自身に言い聞かせるように、ハルはその場に立ち上がる。すると、背後で噴き上がっていた蒸気が落ち着き、煙の霧の中から、巨人達の姿が露わになった。
大型の巨人が五体、此方に向かって歩いてきている。しかし、もっと大量の巨人が居た筈だが、ハルが一人で討伐したのか、地面にはそれ以上の巨人の亡骸が地面に横たわっていた。
「お前…一人で、あれだけの数を…やったのか」
ゲルガーが唖然としながら問いかけると、ハルは微苦笑を浮かべる。しかし、顔には疲労が色濃く浮かんでいた。体は既に限界を超えているのに、精神力だけで無理矢理動かしているような状態だった。
「ブレードは装備しているものだけで、ガスも少ない。それであのデカブツを、お前だけでやれるってのかよ…?」
立ち尽くしていたケニーに問われると、ハルはケニーが背中に背負っていたライフル銃を手に取った。残りの弾数をボルトハンドルを操作して確認する。残っている弾は、五発だった。
「…幸い、奇行種は居ません。彼らは私たちに、ただ向かってくるだけなら、……まだ望みはあります」
「ハルっ、何するつもりだ。巨人相手にライフル銃なんか通用しないだろう!?」
ゲルガーは立ち上がってハルに詰め寄ると、ハルはこくりと頷いた後に、真剣な表情になって言った。
「もちろん、これで巨人を倒そうとは思ってないです。…でも、すみません。ナナバさん達に、お願いがあります」
ナナバ達一人一人に視線を向けながら、固い口調で告げる。
「巨人がギリギリまで迫ってくるかもしれません。それでも、動かずに、このままで居てくれませんか」
「……俺たちを、囮に使うのか」
「ええ、そうです」
ケニーの問いに、ハルは間髪入れずに頷いた。清々しい程の応えに、ゲルガーは思わずふっと笑ってしまう。
「…っああ、やってくれ」
「言っただろう。ハル、私達が君に一番に出来ることは、君を信じることだって」
「…もうお前に賭けるしか、選択肢はねぇからな」
悩む時間も作らず答えたゲルガーとナナバに続いて、ケニーも渋々と頷く。ハルは「ありがとうございます」と礼を言って、深く頭を下げた。それから、左胸に手を当て、ゆっくりと顔を上げる。
「必ず皆で、帰りますよ」
そう告げたハルの双眸には、月光が失われた世界の暗闇よりもずっと深い、覚悟の色が浮かんでいた。
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