第六十一話
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先程まで静謐だった草原が、獣の巨人の叫び一つで、あっという間に地獄絵図へと変わり果てた。
「巨人が、地面から湧いてっ…」
ナナバが愕然として、辺りを見回す。
一同がこの状況に絶望感を抱き、呆然として立ち尽くしていると、ポルコが足元で、「呆けてる場合かよ」と呟いたのに、ハルはハッと我に返り短く息を肺に吸い込んだ。
先程まで冷たく乾いていた空気は、巨人の体温の所為か、生温く湿気を帯びていた。
ハルは土煙の中、困惑した様子で足踏みをするトーマの馬の影を視界に捉えると、ピーッと指笛を鳴らす。それからすぐに、ポルコの隣に座り込んでいるトーマの両肩を掴んで、膝を折った。
「トーマさん!馬には乗れますか!?」
「は、ぁ、ああ…」
トーマは現実逃避をするように、激しく瞬きを繰り返しながら、狼狽え回らない舌で曖昧に答える。
ハルは釘を打ち付けるような語調で、巨人の合間を指差し、ハッキリと命令を下した。
「あそこなら未だ、馬で抜けられます!彼をっ、ポルコを連れて、エルヴィン団長達と合流してください!」
ドッドッドと、馬が地面を蹴る足音が近づき、段々と大きくなるのを、自分の心臓の音のように感じていたトーマは、土埃の中に浮かんだシルエットがその目鼻立ちを露わにして、ハルの傍で足音が止んで漸く、息を吸うことが出来た。
「は…はぁ?」
下された命令を頭で理解するのに時間が必要だったトーマは、頓狂な声を上げて、ハルを見据えた。
「お前、何言ってんだ!?この状況でっ」
ハルは黒い双眸を細めただけで、冗談ではなく本気で口にした命令を自分に突きつけて来たのだと分かると、トーマは肩を掴むハルの手を振り払って、逆にハルの両肩を掴んで激しく揺さぶった。冗談ではない!
「お前が俺の馬に乗って、コイツを連れて行け!!馬はっ、一頭しか残っていないんだぞ!?」
先程の衝撃に巻き込まれ、アグロを含めた、トーマ以外の馬は地に倒れ絶命していた。奇跡的に生き残ったのは、トーマの馬だけだった。
馬の鞍に乗せていた物資も散乱し、破損してしまっている。補給できる装備も食料も、全て失ったと考えるべきだ。
そして、ハル達の周囲には、大量の巨人が横たわって居た。三メートル級から十五メートル級、それより大型も居る。見えるだけでも、十五体以上転がっていた。
この立体機動の不利な平地で、密集している巨人の大群を、切り抜けられるとは思えない。
馬に乗せられるのは二人だけ。逃がすのであれば、優先すべきは『ユミルの愛し子』であるハルと、巨人の力を有するポルコという男だ。
しかし、ハルは首を横に振った。
「それは出来ません。私は残って、巨人と戦います」
「っ!」
トーマは必死な形相になって、縋る思いで、祈る思いで、ハルの肩を掴む手に力を込めた。…あの時の光景が、脳裏に蘇る。
女型の巨人との共謀者を警戒して、104期の新兵達を隔離していた施設に、巨人が迫って来た時。早馬を出してくれと言ったミケさんと、ハルの顔。仲間が必死に巨人と戦っている時、俺は馬を走らせることしか出来なかった。そうして、再会したミケさんは重傷を負い、ハルやゲルガー、ナナバは満身創痍。ヘニングとリーネは……帰ってこなかった。
「ハルっ!お前は人類の希望なんだっ!お前を置いてっ、本体に俺だけ戻ってみろよ!?エルヴィン団長に殺されるだろうが!!俺も、俺も此処に残るからっ!!」
「トーマさん!!聞いてください!!」
「聞けるかそんな馬鹿げた話をっ!!」
血を吐くような、必死な慟哭が喉から飛び出す。
ハル達は息を詰めて、トーマを見つめていた。
とても耐えられなかった。受け入れ難かった。
腰の傷の、痛みなんてものは全く気にもならなかった。
トーマはハルの肩から手を離し、その拳を固く握りしめ、地面にダンッと叩きつける。
「またっ、俺はウトガルド城の時みてぇにっ、お前らを置いて行かなきゃなんねぇのかよっ…!?」
喘ぐように慨嘆し、俯いたトーマの旋毛を見下ろしながら、「…トーマ」と、ゲルガーが小さな溜息を吐く。
ハルは大きく瞬きをしてから、肩を震わせ、爪が皮膚に刺さり白くなるほど握り締められているトーマの拳に、そっと手を重ねた。
「…トーマさんは、私達を置いて行くわけじゃありません。……あの時だって、」
丁寧に、切実な思いを舌に乗せるようにして、ハルは言った。
「私達を死なせない為に、死ぬ気で走ってくれたトーマさんが居てくれたから…、私達はあの古城で死なずに済んだんです」
「…っ」
俯いた顔を、優しく引き上げてくれるような言葉に、トーマは顔を上げる。
滲んだ視界に、ハルの柔らかな微笑みが映った。
「トーマさんが、私たちの命を救ってくれたんです…!」
ずっと胸の内にあった、ハル達への罪悪感は、言葉にするには曖昧なものだった。それでも、いつの間にか心の内を這い巡った蔓草は、時頼胸を疼かせ、酷く締め付けた。その枷を、ハルの言葉が、今焼き落としてくれたような気がした。
トーマは、万感の思いに呑まれるように、唇を噛んだ。目尻に浮かんだ涙が溢れないように、必死に耐える。
ハルは、そっとトーマの両手を持ち上げ、胸の前でぎゅっと、包み込むように握り締めた。
トーマはとても聞きたくなかったが、受け入れなければならないことだと思った。これから下される、優しくて、厳しくて、慈悲深く、残酷な命令を––––。そして、その命令を果たせるのは、この世界に自分だけしかいないのだということも。
ハルの唇が、ゆっくりと開く。
「馬の扱いが一番巧いのは、トーマさんです。…お願いします。私達を救う為に、もう一度…走ってくださいっ…!」
「心配すんなよ、トーマ。皆で帰るって約束しただろ?」
「ああ、その通りだ。約束は、守らないとな?」
「俺だって、こんなところで死ぬなんざまっぴら御免だぜ」
ハルの言葉に続いて、ゲルガーとナナバ、そしてケニーも、トーマの背を押すように言い連なる。
トーマは全員の顔へ視線を向けた。皆の顔に、もう絶望の色は無くなっていて、頭の中が冷静さを取り戻していくのを感じた。同時に、コイツらを死なせたく無いと、強く思う。
悔しいが、実際のところ、このメンバーで立体機動術が一番劣るのは自分だ。それに加え、負傷もしていて、まともに巨人と戦うことは出来ないだろう。…だが、此処にいる誰よりも、馬を疾く走らせることは出来る。その自信は、トーマの中で確固たるものだった。
「……っ、必ず」
トーマは心を決め、その場に立ち上がると、仲間の顔を見据えながら、左胸に拳を押し当て、断固たる響きのある声音で言った。
「必ず迎えに来るからなっ…!」
それに、皆がこくりと頷き、ハルとナナバとゲルガーが、同じように左胸に拳を押し当てる。
「お前っ、正気か…!?こんなところに残っていたら、犬死にするだけだぞ!?普通ならその力を使って、俺を連れて、お前が逃げるだろ!!」
そんな中、ポルコは明らかに焦燥して、ハルを見上げていた。恐らく、予測していたハルの行動と、全く違っていたのだろう。無理もない。と、トーマはポルコを見下ろしながら思った。同じ兵士として、部下として日々過ごしていても、ハルの行動を予測することは困難であるのに、外から来た人間に分かる筈も無いのだ。
ハルがポルコを連れて本体と合流さえすれば、壁に向かった時、仲間の力を借りてハル共々撤退出来ると考えて居たのだろう。
「それは間違いだよ、ポルコ」
ハルはそう言うと、ばさりと外套を脱いで、ポルコの両腕の傷口を外気から遮るように、肩に掛けた。ポルコはハルが自分に向けてくる気遣いの真意や、思考の流れを、先程から計り兼ねていたが、その根本的理由を、ハルは口にした。
「普通じゃないんだ、私達は…」
ハルはそう前置きすると、その場に立ち上がり、辺りを見回しながらポルコに背を向けた。
兵服の背に大きく刺繍された、黒白の翼のエンブレムが、淡い月明かりに照らされ、浮かび上がる。
「諦めの悪い、調査兵団だからね」
ハルの言葉に、ナナバ達もニヤリと笑う。ケニーだけは「俺は違うけどな」なんて余計なことを言って、ゲルガーに背中を蹴られていたが。
ポルコは絶体絶命の状況下でも笑みを見せる彼らに困惑していたが、その最中に、トーマに体をぐいっと持ち上げられる。
「おらっ、行くぞ!!」
「おい!!待てっ…!!」
トーマはポルコと共に馬の鞍に跨ると、ハルが指し示した巨人の気配が薄い合間を縫うようにして、馬を走らせた。
その背中を見送りながら、ケニーはガリガリと首の後ろを掻き、肩を竦めて言った。
「ったく、耳障りなガキだったな」
「で、これからどうする?まさか、このままおめおめと死を待つわけじゃあないだろ?」
ゲルガーが両肩を回しながら問うてくるのに、ハルはこくりと頷いて、右目の瞼に触れる。
「ええ、勿論です。ですが、…私の力は、未だ此処では使えません。皆さんも知っている通り、私は力を使ってしまうと、その後まともに動けなくなってしまいます。それに、出来るなら、この力はシガンシナ区に着いてから、使いたいんです」
「ああ、分かってる。…だが、命の危険に晒された時は、迷わず力を使ってハルだけでも逃げてくれ」
ナナバが操作装置にブレードを装着しながら言うのに、ハルは首を横に振った。
「それは今のところ、選択肢の中には無いです」
「ハル、覚悟しておいた方がいい。勿論私達は全力で戦うが、もしもの時は…」
安堵させるような口軽な言い振りだったが、ナナバは表情を真剣なものにして、ハルと向き合う。
しかし、ハルは断固として言って除けた。
「私はこれから、全員が生き残る方法だけを考え抜きます」
「だったら具体的にどうするか教えてくれよ。この数の巨人、全部倒しちまったらそりゃ、俺達英雄にでもなっちまう勢いなんだぜ?」
ケニーの言葉に、ハルは周囲の状況を見回し、考えをまとめるように、唇に手の甲を当てながら、流水の如く口を動かした。
「此処に居る巨人を逃してしまえば、間違いなくシガンシナ区に向かう本体を襲撃するでしょう。そうして壁上に追いやった兵士達の逃げ道を塞ぎ、取り囲んで身動きを封じる事により、我々の食糧や装備が尽きるまでの、消耗戦に持ち込まれてしまう。…そうなれば、こちらの負けは必須…、ですから––––」
ハルは唇に押し当てていた手を下ろし、操作装置の柄を握って、結論を下す。
「此処にいる巨人は、全て私達で討伐しないといけません」
「ああっ…!お前ならそんなことを言うだろうと思ってたよっ…」
その言葉に、ゲルガーは天を仰ぎながらも、胸元のホルダーから操作装置を抜き取る。
「まあ運良く生き残ったとしても、腕や足の、一、二本くらいは無くしちまいそうだな」
ケニーもゲルガーと同じように操作装置を手にして、諦念を滲ませながら溜息混じりに言う。
「誰の腕も、足も、一本もくれてやりませんよ」
ハルは判然たる口調で言うと、片足で立ち、ブーツの先を地面にトントンと打つけながら、装備の動作確認をしつつ、これからの戦略を告げる。
「月光がまだ弱い所為か、はたまた寝起きだからか分かりませんが、巨人達の動きが大分…鈍いようです。月明かりが強くなる前に、小回りの効く小さい巨人から先に蹴散らしましょう。前方の四体はナナバさんとゲルガーさんで、奥の中型三体は、私とケニーで対処を」
「その奥のデカイ奴らはどうする?」
「ケニー、雷装は何発残ってます?」
「…三発、だな」
「一発で確実に仕留められるように、私が巨人の気を引きます。雷装を使い切ったら、ケニーは私と代わって、巨人の気を引いてください。私が頸を削ぎます」
「俺達の後ろにも、巨人共が転がってるが…、そいつらはどう対処する?」
ゲルガーは言いながら、背後を振り返る。大型の巨人が複数横たわっていて、同じように振り返ったハルは、鞘からブレードを引き抜き、それを逆手に持ち替えた。
「運よくタッパが同じくらいなので、なんとかします」
まるで溜まった机仕事を前にして、口にするように言ったハルに、ナナバ達は顔を見合わせ、肩を竦め合う。
すると、巨人達に動きが見られた。
ただ地面に横たわり、唸っていただけの彼らは、身じろぎをしてハル達を視界に捉えると、体を地面から起こし、ノロノロと立ち上がる。
「おっと、奴さん達、漸く俺達に気づいたみてぇだぜ?」
ケニーがそう言って、帽子を被りなおす。
「むしろ、今までが上手く行き過ぎてたってこと、かもな。此処らで俺達の本気、見せてやろうじゃねぇの?」
バキバキと首を左右に捻って鳴らし、ブレードを構えるゲルガーに、ナナバもブレードを鞘から引き抜きながら言った。
「ちゃんと、何体討伐した覚えておくんだよ」
「覚えてる余裕があったらな」
ハルは仲間達と顔を見合わせると、操作装置の柄同士を打つけ合う。
「さあ、行きましょう…!」
彼らは刃を手に取り、臆する事なく大地を蹴った。恐怖は無い。ただ、未来への希望だけを抱えて、悪夢に悶え苦しむ無数の腕が伸びる地獄を、見えぬ翼で舞い上がる。
再び、皆で夜明けを迎える為に…–––––
完