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第五十九話

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「調査兵団に入ったら、もう一度ハルの…あんな姿を見る羽目になるかもしれない。そう思ったら、俺にはそれが、何よりも怖い事なんだって気づいちまって––––」


 血と土埃に塗れ、歪になったハルの死に姿が、脳裏に浮かんで、フロックは奥歯を噛み、見下ろしていた掌を握り締めた。


「……だから、調査兵団を選ばなかったのか」


 ジャンの弱々しい、ひどく掠れた声がして、フロックは「ああ」と頷く。ジャンと同じように、フロックの声も悲嘆に掠れていた。

 
「だからその時に、ハルのこともすっぱり諦めようって思った。根性無しの俺には、そんな資格なんかないって…」


 あの時の光景が、眼球に焼き付いて離れない。

 想像するだけでも、体が震えてしまう。息が詰まって、胸が爛れ落ちていく。


 ハルと同じ調査兵団を選べば、その恐怖に縛られたまま、生きていかなければならなくなる。…自分には、それが堪え難かった。だから、背を向けて逃げ出した。ハルへの思いも、全て投げ出したつもりで……


 …それでも、


 結局、忘れられなかった。


 それどころか、離れている時間が長くなって行く程に、会いたいという気持ちが、次第に大きくなっていった。


「でも…、ニックさんを保護したハルと、久しぶりに会ったらさ……やっぱ俺、アイツのことどうしようもなく好きで……何より、俺は…アイツが俺を助ける為に崖から落ちて、病院のベッドで目覚めた時に、誓ったことからも…逃げてるってことに、気がついちまったんだ」


 ジャンは、琥珀の瞳を静かに細めて、フロックを見つめる。
 
 フロックは自分の左胸に片手で触れながら、緩慢に瞼を閉じた。


 消毒液の匂いがする、病院のベッドの中で、目を覚ましたハルを見た時、心の底からホッとした。…それでも、どこか青白い唇が開いて、紡がれようとしている言葉に、怯えている自分が居た。どんな責め苦でも負うつもりで居たが、いざその時を待つと、胸が痛かった。


 …でも、ハルは俺を、少しも責めなかった。


 『君が生きていてくれて、よかった』


 そう言って、優しく微笑んでくれた。


 暖かな陽だまりのような、澄んだ瞳を向けて、ハリボテの言葉じゃなく、心の温度を感じられる声と、表情で––––


 あの時のハルを、俺は、きっと一生忘れられないと思う。   

「俺を救ってくれたように、今度は俺がハルを助ける。必ず…俺が守ってみせるって誓ったんだ。なのに俺、こんなところで何してるんだろって……」

 
 フロックは、ジャンへと視線を向ける。

 ジャンは、まだ何も口にしていないが、フロックが大事なことを告げると分かった。
 

「ジャン。俺はさ…あの嵐の日の夜、崖から落ちて一度、死んだんだって思ってる」

 
 左胸に添えていた手を、心臓ごと握りしめるようにして、フロックが今まで聞いたことが無いほど、切実な声音と、真摯な瞳を湛えて言った。


ハルが俺の命を拾って、もう一度息を、吹き込んでくれた。…だから、この命はハルの為に、使いたい」


 ジャンは、フロックの瞳に滲む感情の、更に深い場所で揺れる本音を覗き込むようにして、瞳を静かに細めると、硬い声で言った。


「…お前。その言い方、ハルの為に…此処に死にに来たって言ってるようなもんだぞ」

「…間違ってねぇよ」


 フロックは躊躇なく肯定する。


「俺は、ハルの為に死にたいんだ」

 
 その言葉を聞いた瞬間に、ジャンは胸の底から突き上げてきた情動に駆られるように、大きく目を見開いて立ち上がると、フロックの胸倉を荒々しく掴んだ。


「ッ!!アイツの為を思うならっ、絶対にそんなことするんじゃねぇっ…!」


 間近で、酷く顔を歪めたジャンの瞳には、怒り、というよりは、必死な色が揺らいでいた。

 その瞳が、崖下に落ちそうになっていた自分の腕を掴んでくれた、ハルの瞳と重なって、胸の奥がひりついた。

 フロックはジャンに対して、驚くことも、その手を振り払うこともしなかった。こうなる事が分かっていたような、達観した目で、どこまでも人間らしくて、仲間思いで、機知に富んだ理性的な男の目に、フロックは短く息をつき、眉尻を下げる。ああ、とても、お前には敵わないよ、ジャン。
 
 
ハルにこれ以上地獄を見せるなっ……フロック…!」


 ジャンは、暗闇に囚われた世界の中で、足掻き、苦しみながら生きるハルの一等星であり、いついかなる時も、道に迷わないよう手を繋いで、隣を歩ける男なのだ。


 翼が生えた鳥のように、誰よりも先を見据え、独り遠くへと飛び立ってしまいそうなハルを、ジャンは何時も必死に追い続けている。翼は無くとも、地を懸命に駆け、躓き転びながらも、何度も立ち上がって、ハルを見失わないように……


「……そうでも、しねぇと」


 だから、俺はずっと、そんなお前に劣等感を抱いていた。


 羨ましかった。

 
ハルの心の中に、俺は存在していられねぇだろ」


 感情が口からこぼれ落ちて、ジャンが息を呑む。

 胸倉を掴んでいる手から、力が僅かに抜けるのを感じながら、フロックは荒涼の滲む自嘲を浮かべ、震えた声で言った。


「アイツの中にはお前しか居ない……俺の入る余地なんて、何処にも無いんだ。でもっ、俺が……アイツの、為に…ハルの傍で、し」

「フロック!!」


 ジャンが頬を叩くように、一度離しかけた胸倉を強く掴みなおして、名前を叫んだ。痛苦の余韻が、冷えた空気の中に溶けて行く。


 泣きたいのはこっちの方なのに、ジャンが酷く顔を歪めているから、フロックは愁然として頭を垂れた。


「…馬鹿なこと言ってるって、分かってる……」


 食堂の喧騒の名残に掻き消されてしまいそうなほどに、弱々しい声だった。それでも、フロックの体の横に投げ出されている手が、白くなるほど、強く握り締められているのが見えて、ジャンは唇を噛み締めると、肺腑から大きく息を吐き出した。それから、フロックの胸倉から離れ、額を抑えながら、再び石塀に腰を落として項垂れる。


 こんなに、ハルを思っている人間が傍に居るのに。俺達が、居るのに。彼女の一番深い場所に居座っている存在が、脳裏にチラついて、重く濁った憂憤が、胸中に鎌首を擡げる。


 ハルの顔と声で、『ハルは自分のものだ』と告げた、あの……名前も知らない、オトコ・・・
 

「……アイツの中に居るのは、俺だけじゃ、ねぇよ……」

「…え?」


 腹の中に煮えたぎる怒りに耐えているような声に、フロックは頭を抱えているジャンを見た。


ハル自身も知らない奴が、ハルの中には巣食ってる。心の、ずっと深い場所に………名前も知らねぇが、俺は…ソイツと話したことがある」

「…どういう、ことだ?」

 困惑に声が震えて、語尾に唸るような響きが混ざったフロックに、ジャンは緩慢に顔を上げた。以前よりも少し伸びた前髪の下で、焦心した琥珀の瞳が波打っていた。


「フロック。このままだと…、ハルは、ハルじゃなくなっちまうって…そんな予感が、してるんだ。アイツの中には、もう一人の人格が宿ってる。ソイツはハルを蝕んで、自分の目的を果たすために利用しようとしてやがる」


 フロックは、ジャンの言っていることが半分も理解出来ていなかった。


「お前、俺より馬鹿げたこと言ってるって自覚、あるか…?」

「あるよ。俺だって信じたくねぇ。…だが、事実なんだ」


 ジャンは立ち上がると、フロックの前に立ち、深く頭を下げる。


「頼む。フロック…!ハルを救うために、お前も…協力してくれ」

「…何で、俺に頭を下げるんだよ」


 動揺が現れないよう努めて紡いだ言葉だったが、意に反して固い声になった。
 
 ジャンは、頭を下げたまま答える。


「お前は、俺と同じくらい、アイツのこと、理解してる。悔しいけど、認めてんだよ」


 それから、緩慢に頭を上げ、真摯な瞳を湛えて告げる。


「だから、ハルの為にも……、生きてくれよ、フロック」

「……」


 その瞳に見据えられながら、フロックは内心で、深いため息を吐いた。ジャンが嘘を言っているようにも、冗談を言っているようにも見えなかった。いっそのこと、そうであって欲しかったが。

 自分よりもきっと、いや、遥かに、ジャンはハルのことを大切に思っている。だから、同じ感情を抱いている相手に対しても、こうやって躊躇なく頭を下げられるのだろう。ハルの幸せを、誰よりも強く願っているから。プライドや意地なんて枷は、簡単に捨てられる。


 ……ああ、本当に、


「…ジャン、お前って、腹立つくらい格好いいな」

「…んだよ、今頃気づいたのか?」


 ジャンが、にっと口角を上げて笑う。

 それが癪に触って、フロックはげしっとジャンの腰元を蹴った。


「馬面だけどなっ!」

「いっ!…てぇ…!お前っ、兵長に蹴られた患部をっ…!」

 眉間に皺を寄せ、蹴られた腰元を抱えて呻るジャンに、「わざとだからな」とフロックは悪びれなく石塀から立ち上がって言った。それから、ジャンの左肩をがしりと掴む。


「…ハルのことだけど、」


 声音に真剣さが滲んで、ジャンは文句を言おうとした口を閉じた。


「お前以外の人間に好き勝手されんのは癪だから、協力してやるよ」


 言い終えると、次にはフロックらしい、少年みのある笑みを浮かべた。


「でも、それでハルが俺に惚れちまったら、文句言うなよな?」


 ニッと歯並びの良い白い歯を見せびらかすようにして、顔の横で親指を立て調子良く言ったフロックに、ジャンは一拍置いて、面白げに笑った。


「…ああ。やってみろよ」


 それでも、はっきりとして、男らしい微笑は、フロックが初めて見たジャンの笑い方だった。



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