第五十九話
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顔面を避けるとなると、拳の矛先は必然的に腹部へ集中し、トドメにリヴァイの鋭い回し蹴りを鳩尾にくらったジャンは、酷い馬車酔いでもしているような気持ち悪さに見舞われていた。
折角食べた肉を吐き出しても尚、不快感は拭い切れず、外の空気を吸えば幾分か楽になるのではと考えたフロックに肩を担がれながら、食堂の裏口を出てすぐ傍にある石積みの塀の上に腰かけた。
「あぁ…いってぇ…くそっ、折角の肉が、全部出ちまった…」
「ったく、エレンとお前、相変わらずだよな?…仲が良いんだか悪いんだか」
「良いワケねぇだろっ?!気持ち悪ぃこと言うんじゃねぇ!」
「はいはい、そんだけ元気がありゃ大丈夫だな」
腹を摩り、青褪めた顔をこれ以上無い程に顰めて睨み上げてくるジャンに、フロックは肩を竦めながら隣に座った。
新月を迎える前の夜空には、細く青白い月が浮かび、砕いた宝石を散りばめたかのように星々が光り輝いていた。
綺麗な満天の星空を見上げていると、流れる星でも待ち望みたくなるが、一足早く壁外へ出たハル達には、のんびりと空を見上げる余裕も無かっただろう。
今頃は、もうローゼの壁を越え、闇夜の下りたウォール・マリアの大地を、南へ向かって駆けている筈だ。
「ハル達、大丈夫かな…」
フロックが、夜空を見上げながら独り言のように呟くと、ジャンは痛む腹を抱えたままフロックと同じように顎を上げて、頭上に広がる星空を仰いだ。
空気が澄んでいるのか、いつもより星が近くに見えるような気がした。
「…ああ。ナナバさん達も一緒なんだ、心配ねぇよ」
そう言いながらも、ジャンの横顔はどう見ても心配そうで、フロックは足を組むと、その太腿の上で頬杖をつく。
「…でも、見送りくらいは、してやりたかったんじゃねぇの…?」
「…仕方ねぇよ。命令違反するわけにもいかねぇだろ」
ジャンは肩を竦め、尤もらしい口調で言ったが、腹に一物を抱え込んで、じっと押さえ込んでいるような表情にも見えた。
ハル達先行班は、相手側の斥候が壁内にいるという可能性を完全に払拭することが出来ない中、極力人の目に留まらぬよう、隠密に壁外へと移動しなければならなかった。その為、見送りは禁止とエルヴィン団長からも言われており、それならばリフト昇降の任を受け、ハル達を送り出そうと考えていたジャンだったのだが、駐屯兵団のイアン班に委託される事になり、結局見送りは叶わなかったのだ。
「イアンさんの気遣いは、ジャンには不要だったか」
頬杖をついたまま、揶揄うようにして言ったフロックを、ジャンは詐欺師でも見るように、じとりと横目で睨んだ。
「お前、さっきから自分のこと棚に上げてるだろ?」
「あれ、バレてる?」
「バレバレだ。…色々とな」
諧謔を弄するフロックに、ジャンは呆れたように項垂れながら溜息を吐く。それから、ふと声音を真剣なものに変えた。
「なぁ、フロック」
重大な話の前置きのように名前を呼ばれ、フロックは頬杖をついていた掌から、「ん?」と顔を僅かに持ち上げた。
ジャンは緩慢に空を見上げると、長い足を組み、草むらの中の兎でも捕まえるような、慎重な口調と声音で問いかけた。
「お前、ハルの事、まだ好きだろ?」
「っ!」
思いも寄らない問いかけに、フロックは息が詰まった。驚いたから、という理由ではない。その問いに、間も置かずに口を突いて出そうになった答えを、反射的に呑み込んだからだ。
軽く下唇を噛んで、どう答えるべきか、考えあぐねているフロックの顔を、ジャンは静かに、目だけで見つめた。
穏やかだが、透徹な琥珀の瞳と目が合い、フロックは下手な嘘など簡単に見抜かれてしまうことを悟った。しかし、素直に答える心の整理が追いつかず、時間稼ぎの牽制を入れてしまう。
「…だったら、どうすんだよ?」
腰に手を当て、探るように細められた瞳と、硬い声音に、ジャンは言い淀む事なく答えた。
「別に、どーもしねぇよ。ただ、お前の気持ちを聞いておきたかっただけだ。お互い、モヤモヤしてんの、気持ち悪ぃだろ?」
「それは、俺が奪っちまっても構わねぇって言ってるのか?」
腕を組んだフロックに、冗談ではなく本気の声音で問われると、ジャンは僅かに片眉の先をピクリと震わせ、足を組みかえた。明らかな動揺の現れだったが、僅かに沈思した後、ジャンが口にした声は、想像していたよりも平静だった。
「…お前が、そうしようってんなら止めねぇよ。……だからって、奪わせる気はサラサラ無ぇけどな」
しかし、言葉の終わりになるに連れて、口調に荒さが滲むのに、フロックはやれやれと露骨に肩を竦めた。
「独占欲丸出しのクセに、よくそんなことが言えるよな?」
余裕カマして格好付けてるんじゃねぇと、フロックがジャンの背中をバシリと叩く。その際エレンに殴られた場所が傷んだのか、ジャンが「いてっ」と苦悶の声を上げ、体を強張らせた。
恨めしげに睨んでくるジャンに、フロックはしてやったりの表情を浮かべて見せる。それから、少し張り詰めていた空気を和らげるように、あっさりとした口調で言った。
「別にお前からハルを奪ってやろうとか、この気持ち成就させてぇとかは、考えてねぇから安心してくれ」
「はぁ?」
ジャンは苦虫を噛み潰したような顔をフロックに向けた。じゃあ何であんな事を聞いたんだと問い詰めたげな表情で、フロックは悪戯が成功した悪餓鬼のような笑みを口角に浮かべると、塀の上で胡座を掻いて、再び星が煌めく空を仰ぎながら言った。
「ハルはよく笑うけど、お前と笑ってる時の顔が、一番幸せそうな顔してる。…俺はその顔が、一番好きなんだよ。……悔しいけどな」
「……」
冷たい秋の夜風が、トロスト区の家々の隙間を縫うように緩く吹いて、フロックの蘇芳の髪を揺らすのを、ジャンはじっと見つめた。
最近になって気づいた事だが、フロックは同期の中でも一番、訓練兵時代から人柄が変わった。否、変わったというよりは、成長したと言うべきだろうか。
昔は繊細で、自分と似て抜き身な性格だったが、今はその嘴の黄色さが薄れている。
自分の感情を鞘の中に納め、抜くべきところをしっかりと見極められている。一言で言い表すとすれば、陳腐な表現にはなるが、大人になった。
ジャンはそんなフロックに対し、懐旧と、不思議と親近感のようなものを抱きながら、淡い飴色の瞳を覗くように目を細めて問いかけた。
「…お前は、本当にそれで良いのかよ」
「…どういう意味だよ、それ?」
フロックは少々鬱陶しそうに眉間に皺を寄せ、ジャンを見据えた。意と反して焚きつけるような物言いになってしまい、ジャンは不本意そうに表情を曇らせ、首の後ろを触りながら弁解する。
「悪ぃ、嫌な言い方になっちまった。…ただ、お前のその気持ちは、ずっと抱えてると、なんつーか……しんどい、だろ?」
自分の中にある言葉を漁って、一番近い言葉を選び上げたように言い現したジャンに、フロックは「まぁ…な」と、溜息混じりに呟いた。
「ああ、しんどいよ。……でも、だからって捨てられもしないんだ。…っつーか、無理だった」
「無理だった…?」
自嘲じみた笑みを口元に浮かべるフロックに、ジャンはその先を促すように視線を向けた。フロックは別段隠すこともせず、膝下の石塀の表面へ視線を落とし、指先でその凹凸を確かめるように触りながら話を続けた。
「壁上から見下ろすだけだった巨人を、初めて見上げる羽目になった日。沢山の仲間を失って、漸く乗り越えた地獄の先で、エルヴィン団長から所属する兵団を選べと言われた時………俺は、調査兵団を選べなかった。…理由は単純。巨人が怖かったからだ」
自分自身を鼻で笑うように話すフロックに、ジャンは肩を竦める。
「そりゃ冗談だろ」
「え…?」
足元の小石を蹴るような淡白な言い方だったが、不思議と嫌な感じはしなくて、フロックは顔を上げる。
ジャンは、フロックと同じように石塀の上に胡座を掻くと、胸の前に腕を組んで、僅かに口角を上げて見せた。それから、徐に空を仰ぐ。
「巨人が怖ぇからなんて理由で調査兵団を選べなかった奴が、命辛々辿り着いた補給塔から、巨人共が蔓延る街に単身で飛び出して行ける訳がねぇだろ」
口調は普段通りでも、過去を顧みる瞳の中には、そこはかとなく沈鬱な影が揺らいでいて、フロックは口を引き結んだ。
トロスト区で起こったあの日の出来事を思い返すことは、其処に居た誰もが、辛い筈だった。
当たり前のように傍にあった日常と安寧が、血の匂いと叫び声に埋もれ、無遠慮に食い荒らされた。
生きながらにして落とされた地獄の中で、誰かの命を背負わなければならなくなった兵士なら、その惨禍は苛烈さを増すことだろう。
ジャンはその中の一人である筈なのに、過去を遡ってまで、自分に向き合ってくれることが有難いと思うと同時に、申し訳ないと、フロックは眉尻を下げた。
「…ジャン」
「…補給塔の窓から、躊躇なく飛び出してったお前を見た時は、正直、負けた。って思ったよ…。あんな地獄の中で、ハルの為だけに命張ってみせたお前に、……劣等感…みてぇなもんも、感じてた」
ジャンは本当は言いたくなかったと不本意そうな顰め面になって言ったのに、フロックは首を横に振った。
劣等感なんて言葉を、ジャンの口から向けられる事が、フロックはとてもむず痒かった。その感情は、自分が何時もジャンに対して向けているものだったからだ。
「あんな無茶が出来たのは、お前があの時、仲間の命の責任を一身に背負ってくれてたからだよ」
ジャンはフロックの言葉に、小さく息を呑んだ。脳裏に、同じことを言ってくれた、あの日のハルの記憶が過ぎって、無意識に、太腿の上の拳を握り締める。
「壁を上る為に…いや、生き残る為に、命をかけて補給塔に向かいガスを補給する。…そうやって、足掻いて、命を落とした仲間が背中に居るのに、先頭に立ってたお前が、ハル一人の為だけに身勝手な行動は取れねぇだろ?……だから、あれはお前の代わりに、俺が行かなきゃなんねぇって思ったってのも、…まあ、少しはあったしな?」
フロックが顳顬の辺りを指先で掻きながら、少々気恥ずかしそうにして言ったのに、ジャンは「少しかよ」と、自然な微笑みを浮かべて見せた。
あの時、自分の背中で、視線の先で、巨人に喰われた仲間達の悲鳴が、未だ鼓膜に張り付いている。その時感じた絶望や、罪悪感を、痛みや苦しみを、本当に理解出来るのは、同じ経験をしたことがある人間にしか分からないと思っていたが、フロックの言葉は、すんなりと胸に落ちて、内心嬉しかった。
––––背中から、食堂で後片付けをしている仲間達の話し声が聞こえてくる。
当たり前のように、顔を合わせ話していた仲間が、ある日突然居なくなる。あの時と同じ経験を、もう二度としたくはない。
だが、願ったところで、それを必ず叶えてくれる慈悲深い神様はこの世に存在しないことを、ジャンもフロックも、身に染みて思い知らされていた。
フロックは、願い、祈るだけではどうにもならなかった出来事の数々を、思い返すように自身の両掌を見下ろした。
「でも、さ……ハルを追いかけて、街に飛び出した時は、確かに怖かったけど………本当の、『恐怖』ってのは、感じてなかったんだ」
今、思い返してみても、何故あんな絶望的な状況で、単身で街に飛び出せたのか、自分でも分からなかった。
それでも、ハルと共に、ガスもまともに使えない立体機動装置と、替えのないブレードだけで、巨人が蔓延る街を駆けている時も、巨人に追われている時も、ガスを使わずに巨人の頸を斬り落とそうとしていた時も……何とかなる。全てが、巧く行く。そんな気持ちがしていたのは、ハッキリと覚えている。
それは、ハルが傍に、居てくれたからだ。
「ハルと一緒に居る俺は、自分でも驚いちまうくらい、強く居られたんだ。アイツとなら、何でも出来る…って」
ハルは、フロックにとって触れられる神様のような存在だった。
だから、天上にまします言葉もくれない神様以上に、神様だった。
何があってもブレず、明確で、間違わない。絶対的存在。
しかし、そんなハルでも、呆気なく命を落としてしまうのだという世界の残酷さを突きつけられた瞬間に、フロックは深く、絶望した。
「でも、俺さ……トロスト区の…あの教会で、ハルの姿、見た時、心が…ぽっきり折れちまって……」
「っ」
生々しい血の赤さが、目に痛い程に映える真っ白な壁と、夕日を浴び、静かな教会の身廊と祭壇を照らす、ステンドガラスの光。
神聖な空間に、似つかわしくない鉄の匂いが混じった、生温く湿気を帯びた空気を思い出すと、吐き気がした。
あの教会で、フロックもジャンも、神様を失った。
元々信仰深い人間だったわけでは無いが、縋ることも、その存在を信じることも、願うことも、出来なくなってしまった。
ジャンはあの日を境に、ハルが一度死んだ場所であるトロスト区の教会付近に、一切近寄らなくなった。
ハルの死に姿がフラッシュバックするからなのだろう。あの光景は、ジャンの瞳に、心に、深いトラウマを刻み付けている。
そして、それはフロックも同じだった。
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