第四十七話
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ハルは男の体を背後から歯がいじめにし、足払いをかけて地面に引き倒すと、驚いて見開かれている男の左目にナイフの刃先を向けたまま、男が手から落とした銃をトーマの方へと蹴り飛ばした。
倉庫の入り口付近の木箱の影に隠れていたトーマは、銃がぐるぐると回りながら地面を滑ってきたのを確認すると、その銃を拾い上げ、ハルに歯がいじめにされている男へ銃口を向けながら駆け寄る。ライフル銃であれば訓練で扱い慣れてはいるが、拳銃は中々触る機会が無い為、慎重にスライドを引いて男の額に狙いを定めながら片膝を付く。
「おいおい、おっかねぇな…、逆鱗に触れちまったか?」
男は銃を奪われ身動きが取れない状態に陥っているにも関わらず、飄々と背後で自分を歯がいじめにしているハルを見上げて軽口を叩くのに、ハルはナイフの横腹を細かな皺が走っている男の頬にひたりと押し当てた。
冷たいナイフの感触と、自分の瞳の奥を貫こうと氷の針のような鋭さが煌る双眼を向けられて、男は胸の内で密かに固唾を呑んだ。
ハルは氷のような瞳を撫でるように瞬くと、男の耳に口元を寄せる。
「もう一度、聞きます。貴方は何者なんです…?…何処の誰に命令されて、私を攫おうとしたんですか」
ハルの囁きかける声は、鼓膜に染み込み喉の内側を爪先で引っ掻いてくるようなざらついた響きがあり、背中の毛穴がぞわっと開くような感覚に見舞われて、それを気取られないよう男ははっと口から息を短く吐き出して笑った。
「俺がゲロるとでも思ってんのか?そんな生温い脅しでよぉ…?」
「思っていません」
「なら聞くだけ無駄だ」
男は双眸を細め、足元の小石を蹴るように言い放つと、ハルはぐっと体を前に押し倒すようにして、男の瞳を間近に覗き込んだ。
「何だよ…」
何枚も顔に重ねた仮面を一枚ずつ捲り上げていくような鋭い視線に、声が上擦り、居心地が悪そうに身じろぎをした男へ、ハルは問いかける。
「貴方は世論に流され漂い生きるような人じゃない。自分の意思に従順で、何処までも貪欲だ……と、すると、貴方自身が壮大な野望を抱き、その目的を果たす為に行動しているというのは、納得出来ます。そして、貴方のような力のある人間を雇うことが出来る組織は……少なくとも脆弱で小規模な組織ではない。…違いますか?」
ハルの双眼は、此方が態々口にせずとも頭の中の思考を全て見透かしているようだった。まるで、この世の全てを熟知しているかのような… 俗世を超越していたアイツと…、この世で唯一の友人だった、『ウーリ』のように。
「っち、分かったような口を利きやがる。テメェに俺の何が分かるって言うんだ?」
男は複雑な感情が声に乗り、掠れた声で問い返すと、間近に煌る瞳をすっと細めて、ハルは男の頬に押し当てていたナイフを、男の心臓がある左胸に押し当てる。そして、今度は威圧的な声音から一変し、湧き水のようなやけに透き通った声音で、囁いた。
「分かりません。何も……だからこそ、貴方を『知りたい』」
「!」
「貴方を知ることで、またこの世界の真理に近づくことが出来る。…そう、思うんです」
その言葉も、声も、瞳も、どこまでも探究心に溢れ純粋で、男は彼女の黒い瞳の中に、青く澄み渡った雲ひとつない青空を見たような気がした。
それと同時に、男はひどく––––落胆した。
彼女の抱えている力、抱えなければならなかった力が、ハル・グランバルドという人間を、選んでしまった事に……
男は歯がいじめにされながらも僅かに自由の効く右腕を持ち上げて、ハルの眉間に人差し指を押し付けた。
「…『ユミルの愛し子』、『命を燃やし消えゆく翼』、『泡沫の救世主』、お前の力には、いろんな呼び名がつけられてるみてぇだが……、テメェはこの世界で、何て呼び名で呼ばれることになるんだろーな…?」
すると、ハルの眉間に困惑を浮かべた皺が寄った。
その反応に、ハルは本当に自分の保有している力の正体を知らないのだと、男は察した。それが彼女にとって幸か不幸かは分からないし、そもそもこんな小娘の事などどーでもいいと思っていたが、自分の奥底に残っていた人間性の欠片の所為で、迷子の子供のような目をしているハルに対し無駄な魔が刺してしまった。
男はハルのシャツの胸倉を掴むと、ぐっと自身に引き寄せた。そして耳元で、ハルだけに聞こえる小さな声で囁いた。
「長生きしたけりゃ、力は使うな」
「!?」
ハルははっとして男の顔を見つめた時だった。
男は懐から、もう一丁の拳銃を取り出した。どうやら最後の切り札として隠し持っていたらしい。
それから男はハルの背後にある大きな棚にくくりつけられている麻紐を狙って引き金を引いた。すると、張り詰めていた紐が見事に打ち抜かれ、積み上げられていた小麦粉の袋が大きくかしがり、大量にハル達の方へと雪崩れ落ちてくる。
「「!?」」
ハルとトーマは咄嗟に身を屈め、頭を両腕で庇う。
背中に麻袋がどしどしと落ちてきて、辺りは舞い上がった小麦粉で吹雪の中のように真っ白になり、息を吸い込むと喉や鼻腔に粉が張り付いて、二人は激しく咳込んだ。
ハルは体に乗り掛かっている小麦粉の麻袋を払い除けるので精一杯で、倉庫の窓から逃げていく男を引き止めることは出来なかった。
「げほっ、ごほっ!」
ハルは何とか小麦粉の海からボコッと上半身を出すと、倉庫の中に舞い上がっていた小麦粉が徐々に落ち着いてきて、視界にトーマの姿を捉えた。トーマは小麦粉の海を麻袋の上を巧く足場にしながらハルの傍に寄ってきた。
「…ハルっ!」
トーマは小麦粉の海から上半身だけを出し、顔を粉で真っ白にしているハルの顔を服の袖でぐいぐいと拭う。ハルは同じように全身粉まみれになっているトーマに怪我が無いか確認していた。
「っトーマさん、怪我は?」
「俺は平気だがっ…くそっ、あいつ派手にやりやがって…!それにお前、右手がっ…!もしかして俺を庇って怪我したのか?地面に血のついた、銃弾が転がってた」
トーマはハルの両脇に手を差し込んで、小麦粉の海から引き上げると、右手から上がる蒸気を見て表情を曇らせる。
右手は既に形を取り戻し始めていたが、まだ完全に元には戻っておらず、皮膚がない状態で小麦粉が張り付いてしまっていた。
「大丈夫ですよ、もう治りますから。それよりも、あの人は一体何者なんでしょうか」
今度はハルがトーマの顔についた小麦粉を左手で拭いながら首を傾げるのに、トーマは開け放たれている倉庫の窓を見やって肩を竦めた。
「さあな…見た事ない顔だったが、妙に対人慣れしていた。その手のプロなのかもしれないな」
「そうですね……っう」
ハルはトーマの意見にこくりと頷いた時、突然右手に激痛が走った。
今まで神経を張っていた所為か、意識があまり右手に向いておらず、漸く緊張の糸を解いたところで、痛みが顕著になったのだ。
右手を左手で抑え痛みに顔を歪ませたハルに、トーマは慌てて背負っていたバックから水筒を取り出し、蒸気の上がる傷口にかけた。じゅうっ、と鉄板に水を落としたような音が鳴る。傷口に張り付いた小麦粉が洗い流され、燃えるような熱も少し和らいだ感覚に、ハルははっと短く息を吐いたが、トーマは無茶が過ぎるハルに釘を打つ。ゲルガーがいつもハルを怒鳴りつけている理由と気苦労が、身に染みて良く分かった瞬間だった。
「痛ぇよな?そりゃそーだ!ったく、一人で勝手に行動するなよ!お前はエレンのように治癒能力はあっても、痛覚は鈍くねぇんだから!自分を簡単に投げ出すな!」
「でも…私の手は戻りますけど、トーマさんの命は、戻って来ません」
ハルは痛みに耐えながら、左手で再生している右手の手首を抑え、奥歯を噛み締めるような口調で言った。それは独り言のようでもあったが、トーマは敢えて聞き逃さなかった。聞き逃しておくわけには、絶対に行かなかったからだ。
「は?」
「秤にかければ、私の手とトーマさんの命…重いのはどう考えたって––––」
「おい、やめろ」
自分を勘定に入れようとしないハルの発言を、トーマは厳しい口調で遮った。
ハルは緩慢に顔を上げる。トーマは固い表情で、ハルの両肩を掴み、強い語調で言い聞かせる。
「そういうの、やめろ。どっちが重いとか、軽いとかの話をしてるんじゃない。分かるだろ…?お前は調査兵団の新兵で、俺の仲間で、俺の後輩で、だから痛い思いをして欲しくねぇって、そういう段階の話しをしてるんだ。心配なんだよ…!」
「…っ」
トーマの純粋な厚意が有り難くて、礼を言おうとした唇がわなないてしまうのに、ハルは開いた口を慌てて引き結ぶ。
自分は、普通の人間とは、かけ離れてしまった存在だ。
今回の事で、また体に変化が出て、力の根本に近付くどころがどんどん遠退いているようにも感じられ、それと比例するように身体が人ではなくなっていく感覚が確かにあった。
それでも、トーマは普通の人間として扱ってくれた。その言葉に救われ、ハルは引き結んだ唇を僅かに開けた隙間から、小さく息を吐き出した。すると、お礼を口にする前に目尻に涙が浮かんできてしまって、反射的に顔を俯ける。
そんなハルに、トーマはやれやれと肩を竦めて苦笑した。
「…痛ぇんだろ?物凄く」
静かに問いかけると、こくりと小さな頭が頷いた。
「…っ痛い、です…痛い…」
本音を口にしてしまうと、するすると目から涙が零れ落ちてきた。頬を伝って、白い粉の海に、丸い雫の玉が浮かんだのが、滲んだ視界の中に見えた。
「それでいいんだよ。お前はまだ、新兵なんだから。無理に背伸びしなくていいし、格好もつけなくていい」
お前は有りの儘で居ればいいんだ。と、ハルの涙が止まるまで、トーマは子供をあやすような手つきで、震える小さな頭を撫でていたのだった。
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