第五十九話
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ウォール・マリア奪還作戦前夜、兵舎の食堂で前祝いを行っていた調査兵団一同は、上官達からのサプライズで登場した豪快な肉の塊を目にし、歓喜のあまり皆正気を失って、各テーブル内で激しい乱闘が勃発した。
仁義なき争いはその誘因である肉が食べ尽くされるまで続いたが、以後は掌を返したように、皆椅子に腰を落ち着けて食事を始めた。
英気を養うどころか使い果たす勢いで、乾杯もまともにせず開催された宴会だったが、漸く他愛のない会話を交えるまで状況が落ち着いた。
サシャは肉を目の前にして我を失い、仲間の肉を独り占めしようと暴挙を働き、止めに入ったジャンの手を噛みちぎろうとした為、コニーが強制的に締め落とした。
今は食堂端の柱に、縄でぐるぐる巻き縛り付けられた状態で、ぐったりと気を失っている。
その際にとっ散らかってしまったテーブル上をアルミンが整えている隣で、ジャンはサシャに齧られ涎まみれになった手の甲をタオルで拭いながら、向かいに座るマルロに呆れ顔を向けて言った。
「だ か ら 、お前はなんの経験もねぇんだから後衛だって言ってんだろ」
マルロは肉を前に狂乱したサシャに殴られ、血が出ている鼻の右穴にティッシュを詰めながら、眉間に皺を寄せる。
「確かに俺はまだ弱いが、だからこそ前線で敵の出方を探るにはうってつけじゃないか?態々、人類にとって有益で、唯一無二のハルや、ベテラン兵士のナナバさん達を先行班にさせなくても…」
「なんだぁ?一丁前に自己犠牲気取って勇敢気取りか」
不満げなマルロに対して、ジャンは「勘弁してくれ」と両腕を広げた。
マルロは以前、アニから「同期の馬鹿に似ている」と言われたことがあるらしい。
その馬鹿の名前を教えてはもらえなかったそうだが、間違いなくエレンの事を指していると、同期の人間なら容易に察することが出来た。
馬と鹿の二文字には収まり切らない意味合いが、皮肉も込めて押し詰められている。
人一倍正義感が強くて、常に正しい事をしようとする。それが自分自身にとってどんなに不利益で、命に関わる程、危険なことだったとしても。
ジャンがこの世で最もと言っていいほど嫌悪する類の人間なのに、この世界で一番大切に思っている存在も、エレンやマルロと同じ部類の人間だという矛盾が、我ながら未だに据わりが悪くて仕方が無い。最早、一周回って好きなのかもしれない。…なんて、突如脳に浮上してきた可能性にぞっとして、反射的に頭を抱える。頭を左右に振って、不要な思考を掃き出しているジャンを、マルロの隣に座っていたフロックが奇異の目で見つめながら言った。
「…(ジャンは何してんだ?)。…なぁマルロ、今までネスさんやハルから指南受けて来て、一体何を学んで来たんだよ?」
マルロはムッと口を引き結んだ後、胸の前で腕を組んだ。眉と目の間を狭めるように顰め、釈然としない表情と口調で訴える。
「勿論、お前と同じことを学んで来たさ。…だが、自己犠牲の精神が無ければ、全体を機能させることは出来ないだろう?」
フロックはやれやれと深い溜息を吐いて、水を一口仰ぐ中、己の葛藤から漸く這い出してきたジャンが言った。
「あのな。誰だって最初は新兵なんだ。新兵から真っ先に捨て駒にしてたら、次の世代に続かねぇだろ?だからお前らの班は後ろから見学でもして、生きて帰ることが仕事なんだよ。そうネスさんも、ハルも言ってただろうが?」
ジャンの言葉を受けても、マルロは煮え切らない表情のまま、視線を落とした先の太腿の上で、両手を握り締めた。難色を示すフロックをちらりと横目で一瞥したフロックは、ジャンと顔を見合わせると、互いに肩を竦めた。
訓練兵時代に積み重ねてきた努力の先で掴み取った憲兵団を異動してまで、調査兵団に編入してきたマルロが、人類の悲願であるウォール・マリア奪還作戦で、何か一つでも功績を上げ、役立ちたいと渇望してしまう気持ちは、理解出来なくはない。
しかし、幾ら強く願い足掻いたところで、壁外では儘ならない事象が、多岐にわたって起こり得るのだというのも、ジャン達は身を持って思い知らされている。その経験は、刺し違えて巨人を討伐する事よりも遥かに価値あるものであり、マルロ達が今回の奪還作戦で一番に為すべき事は、壁外での経験を経て、無事に壁内へ帰還し、引き継いで行くことなのだ。
ネスやハル達がそのことを口を酸っぱくして新兵達に教え込んでいたことをジャンは知っていたし、今回、ハル達が先行班に就いたのにも、新兵達をなるべく危険から遠ざけるというのが、理由の一つとしてあることも事実だった。そんな無茶が出来たのも、ハルの聴力があってこそだった訳だが、幾ら遠くの音まで聞き取れるとはいえ心配だという感情が、今回の作戦方針に対して、マルロが不満を抱く要因となっているのも、確かだろう。
そんな仲間思いのマルロには、これ以上何を言っても納得させることは難しいと判断したジャンは、話の矛先をエレンへと変えた。
「…まぁ?一番使えねぇのは、一にもニにも、突撃しかできねぇ死に急ぎ野郎だよ。なぁ?」
隣に座っていたアルミンを挟んで、水を飲んでいるエレンに喧嘩を吹っかけると、アルミンは窮屈そうに首を竦める。
エレンはテーブルの上にコップを置き、ジロリとジャンを睨みつけると、不快さを目一杯に滲ませた声音で言った。
「ジャン、そりゃ誰のことだ?」
「「…!」」
エレンの反応は、正直意外なもので、ジャンとアルミンは驚いていた。
以前のエレンは、ジャンに売られた喧嘩は必ず買っていたし、始まれば誰かが止めに入るまで終わらなかった。
しかし、最近のエレンは元気が無く、いつも思い悩んでおり、ジャンが揶揄っても聞き流したり、「ああ」と気の無い相槌を打つばかりだった。張り合いが無く退屈していたジャンだったが、久しぶりに反応があって、煽り顔なのは変わらないが心無しか声音が明るくなる。
「お前以外に居るかよ、死に急ぎ野郎わ?」
「それが最近分かったんだけど、俺は結構普通なんだよな。そんな俺に言わせりゃあ、お前は臆病すぎだぜ、ジャン」
「「……。」」
二人が険悪な顔で睨み合う中、完全に巻き込まれ、挟まれたアルミンが居心地悪そうに肩を竦めたのを皮切りに、二人は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、胸倉を掴んだ。
「いい調子じゃねぇか猪野郎ぉぉっ!!」
「テメェこそなに髪伸ばしてんだこの勘違い野郎ォっ!!」
食堂に銅鑼を打ち鳴らしたような怒声が轟き、何事かと驚いた仲間達の視線が二人に集結する。
「おい、何だぁ?」
上官達や編入組の兵士の大半が戸惑う中、見慣れている同期達の反応は淡白だった。
コニーはスープのボウルを手に持ち、スプーンを口に咥えたまま「顔以外にしとけよー」と軽く忠告を入れる中、マルロは椅子に座ったまま、撫然と二人を見つめて、「アイツら何やってんだ…?」と呟く。
「とりゃあっ!!」
「どおぉうっ!?」
最初の一撃を繰り出したのは、エレンの方だった。
容赦ない右腕のアッパーを腹部にお見舞いされて、ジャンは一瞬呼吸が止まった。幾ら体を鍛えてるとはいえ、対人格闘術ではトップクラスのエレンの一撃は相当に重く、白目を剥きかけながらも、負けじとエレンに反撃する。
「っのやろうっ!!」
「デェヤッ!?」
内臓を抉られるようなアッパーを受けたエレンは吐きそうになりながらも、ジャンの胸倉に飛び掛かった。
二人の殴り合いにはあっという間に観衆が集まり、「根性見せろ!」「やってやれえ!」等と、好き勝手なヤジが飛び交い始める。乾杯直後の騒がしさがまた舞い戻って来た様子を後ろ目に、上官達が集まったテーブルでは、皆いそいそと肉や料理を食べながら、呆れた様子で言った。
「おい、何か始まったぞ…?」
「騒ぐなって言ったのに…」
上官達はこの前祝いが早々に『彼』によって切り上げられる未来を予想して、残っている食事を一心に掻き込み始める。
が、そんなことは全く頭に無い二人の殴り合いは続いた。
ジャンは息を荒らげながらも、エレンの胸倉を掴み、声に真剣さを滲ませ、釘を打つような口調で忠告する。
「マジな話よっ…巨人の力が無かったら、お前何回死んでんだ?その度に、ミカサやハルに助けてもらってぇっ…これ以上死に急いだら、ぶっ殺すぞ!?」
言い終わるや否や強烈なパンチをエレンの脇腹に繰り出したジャンに、エレンは苦悶の声を上げながらも、歯を食い縛った。
ミカサやハル達に、いつも護られてばかりだという自覚はあった。ジャンの言葉は否定出来ないし、自分に戒めておかなければならない事でもある。
…しかし、この殴り合いの勝敗とは、また別の話だ。
「それはっ……肝に命じとくよっ!!」
「グェッ!?」
エレンは自分の中の弱さを振り切るように、左手の硬く握りしめた拳を、ジャンの鳩尾にお見舞いする。
「お前こそ母ちゃん大事にしろよジャンボォッ!!」
それから立て続けに右腕でアッパーを入れてやると、間も無くジャンの反撃が胃の真下に直撃した。
「それは忘れろぉっ!!」
二人の喧嘩を、いつもなら既に止めに入っている筈のミカサが、穏やかな表情で見守っている背中に、アルミンは静かに問いかけた。
「止めなくていいの?」
「…うん、いいと思う」
その言葉に、アルミンも同じく穏やかな微笑みを浮かべて、「そうだね」と頷く。
しかし、誰かの制止は、直ぐにでも二人に必要なものだった。
今までは、必ず二人の喧嘩を止めてくれる人物が居たので、二人もそれをキッカケに引き下がる事が出来ていた。しかし、今回は誰も止めに入ってくれないどころか、皆観衆に徹している。このままでは、二人のどちらかが倒れるまで殴り合いは終わらない。
「(なっ、何で、誰も止めてくれないんだ…!?)」
「(マズイぞっ…、もう肉が出てきちまうっ…!)」
威勢良く喧嘩を始めたものの、既に二人は限界だった。だが、「もうやめにしよう」と先に口にする事は、互いプライドが絶対に許さなかった。
「「(絶対にっ、コイツより先に降参なんて言いたくねぇッ!!)」」
「……おい」
二人が意地の張り合い続けている中、ふと低く地を這うような冷たい声が響く。
声の主を察して、全身の血の気が引き切るよりも先に、凄まじいパンチと回し蹴りが、エレンとジャンの腹部に抉り込んだ。
二人は潰れた蛙のような声を上げ、床にゴロゴロと転がる。
エレンは腹部を抑えてのたうちまわり、ジャンは回し蹴りがトドメになって、胃に競り上がってきていた肉を全て床に嘔吐した。
「お前ら全員騒ぎ過ぎだ、もう寝ろ。…あと掃除しろ」
「了解!!」
リヴァイの鶴の一声によって、盛り上がっていた観衆達はすぐさま前祝いの場を片付けに移った。
エレンはミカサとアルミンに引き摺られるように食堂の外へ連れ出される中、青褪めた顔で仰向けに倒れているジャンを覗き込むようにして手を差し伸べたのは、すっかり呆れ顔のフロックだった。
「ジャン、大丈夫か……?」
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