第五十八話
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まるで貴族のディナーメニューのような、肉、ワイン、スープを堪能して、士気が格段に向上したハル達は、軽く酔いを冷ました後、巨大樹の森を彷徨っている巨人達を、今晩森へ到着する本体が進行しやすいよう東部へと誘導した。粗方の巨人を引き寄せ終えたのは夕方頃だった。
恐らく敵方にもそろそろ動きが出るだろうと予想しているハルは、暗闇に目を慣らしておく必要があるので、太陽が沈み切る少し前には起きてもらわなければならないが、ナナバ達に仮眠を取ってもらっていた。
しかし、慣れない枝上での仮眠に、ケニーは中々寝付けず、目が覚めてしまった。ナナバ達は何度か経験のあることなので、ぐっすりと眠っている。
空は濃い茜色に染まり、細い雲が波紋のように広がっていた。
ケニーは凝り固まった体を伸ばしながら上半身を起こすと、赤く燃え上がる樹海の景色を見下ろす背中が目に入った。
「お前は寝ないのか、ハル」
すると、ハルは顔だけでこちらを振り返り、眦を下げるように微笑んで言った。
「ええ、私は平気です。ケニーも、もう少し寝てください。きっと、暫く眠れませんから」
ケニーは立ち上がり、肩や首を回しながら、ハルの傍に歩み寄る。
「随分気を張ってるな」
「…こんなに巨人に囲まれていたら、気だって張りますよ」
ハルは投げ出した両足の下に群がっている、無垢の巨人達を見下ろしながら言った。
虚なようで、それでいてどこまでも透明であるようにも見える、ぎょろぎょろと忙しなく動く瞳と、平たい歯を全部見せびらかすようにして、巨人達はハルへと腕を伸ばし、笑っている。
地上で遭遇すれば、馬鹿デカイと感じた巨人も、樹上からではとても小さく見えた。
ケニーはハルの隣に腰を落とし、片膝を立て、もう片方の足だけを地上に投げ出して言った。
「嘘つけ。お前にとって無垢の巨人を倒すことなんざそんなに難しいことじゃねぇだろ」
ハルはケニーに視線をやると、不本意そうな顔で、少しだけ笑っただけだった。
巨大樹の森に差し掛かり、南部へと進んでいる間、何体かの巨人と出会した。
ナナバ達も調査兵としてベテラン組で、恐怖や焦燥を表情に見せることは無かったが、ハルの落ち着きぶりには、ケニーも正直驚いていた。
ハルには、無垢の巨人と交戦しながらも、周りや先の事を同時に考える余裕があった。微塵の恐怖も、焦りも見せず、泰然と、寧ろ無垢の巨人達を哀れむような顔で、立体機動装置を手足のように扱い、最も簡単に頸を削ぎ上げていたのだ。
そして今も、同じ顔で巨人達を見下ろしている。
仲間達との蟠りは解消出来たというのに、とても晴れやかな表情とは言えなかった。これから奪還作戦に臨むというのに、穏やかな心境では居られないというのは分かるが、まだ何か心の内に引っ掛かることがあって、思い悩んでいるように、ケニーには見て取れた。
「…それともなんだ?まさか、アイツらの中に人間が居るって知って、殺すのが嫌になったのか?」
鼻で嗤うように言ったケニーに、ハルは巨人達を見下ろしたまま、肩を竦め、淡々と答えた。
「…まさか。そんなの、今更ですよ。私、そんなに聖人君子じゃないです。大事な人を守る為なら、なんの躊躇もありません。今までも、これからも…」
ハルはケニーへ顔を向け、淡い苦笑を浮かべる。
「私は命に優先順位を付けていますから。……酷いと、思われるかもしれませんが––––」
ケニーはやれやれと呆れ顔になって、長い前髪に隠れている額を中指で弾いた。「いてっ」と小さく声を上げて、ハルが額を両手で抑える。
「お前はその一つの括りがデカ過ぎるんだよ。大事か、そうじゃない奴等か。大事な奴等の中で、お前は優先順位を付けられねぇ。……他の同期達と違って、お前は人も殺したことねぇ、甘ったれなんだからよ」
ハルは複雑な表情になった。世渡り慣れした笑みを片付けかねているような、出来損なった作り笑いだった。そしてそれをハル自身も自覚していて、ケニーから顔を隠すように、一度項垂れた後、徐に赤く燃える夕焼け空を仰ぐ。
「……そうですね。ケニーが言う通り、私は甘ったれです」
積み重なった書類の山を捌き終えて、漸く一息つけたというような脱力感の滲む声が、広過ぎる樹海に消えて行く。
「で?…今度は何に悩んでやがる」
ケニーはガリガリと首の後ろを掻きながら問いかけると、ハルは空を仰いだまま、肺腑の息を全て吐き切って、眉間をぐっと指先で摘んで項垂れた。
「……最近、記憶が飛ぶんです」
「…は…?」
どういうことだと聞き返すよりも先に、短く息を吐いたケニーに、ハルは眉間から手を離した。酷く思い詰めた横顔が露わになって、ケニーはそのまま口を噤んだ。
「時々で…本当に短い、時間なんですけど…。この間は、そうじゃなかった」
ハルは自身の喉元に、細い右手の指先を押し当てる。
「その日、私は同期の友人達と一緒に、焼き芋をしていたんです。…その最中にいろいろあって、私…友人の…いえ、大切な人の、血を、どうしても飲みたくなってしまって––––」
「……」
ケニーは『友人』を『大切な人』と態々言い換えたハルに、友愛ではなく唯一無二の愛情を注いでいる相手のことを言っているのだと察した。
ハルは、長いまつ毛を僅かに下ろし、苦しげに瞳を震わせる。
「でも、その途中で記憶が飛んで………ふと意識が戻ったら、…ジャン、が…、泣いてて」
言葉の語尾を頼りなげに震わせて、ハルはケニーを見た。
「『お前が地獄を見てる』って、言われたんです」
悲痛な声音と表情を向けられながら、ケニーは心の中で、「ああ、正解だ」と思った。
ジャンというハルの恋人は、嘘は下手だが、本音は見抜き難いハルのことを、よく見ている。
本人は自覚していないようだが、ハルの瞳は、時々地獄の底を見せられているように、沈み暗く、悶え苦しんでいる時がある。目に口はないのに、そう叫んでいるように、見えるのだ。
「その時、…なんて答えたら良いのか分からなくて。…無意識の中で、私は大事な人を傷つけているのかもしれないって思ったら……凄く、怖くなってしまって……。ケニーの言葉を、思い出したんです」
「俺の?」
ケニーが問い返すと、ハルは自身の左胸を、上着ごと右手でギュッと握り締めながら、喘ぐように言った。
「『残り数ない時間を、自分が愛した奴の為じゃなく、他人の相手と不確かな未来の為に捨てられるのか』って––––」
「……ああ。…そういや、そんなことを言ったな……」
ケニーは息を吐くように、相槌を打った。哀愁が滲んでいた。ハルは既に、自分の時間を『彼』に奪われている。……流石のケニーも、不憫に思わずにはいられなかった。
ハルは両腕で自分の体を抱くと、膝を立てた間に、顔を埋める。
「ケニーが言っていたことは、こういう事かと知らしめられて………凄く腹立たしくなったというか…、…私の…誰にも触られたくない場所を、蹂躙されているような…感じがして…」
気持ちが悪かった。
ハルは自分で吐き出した言葉を、そのまま自身の腹に抱え込むように、くぐもった声で呟いた。
ケニーはそんなハルの姿を、頬杖をついて見つめた。
欲が無く、何でも女神様みてぇに許して受け入れようとするハルが、今とても、人間らしい姿を曝け出しているように見えた。
「っ私は、あんな顔をさせたくないから、見たくないから話さないって決めたんです…!私の残された僅かな時間まで奪われるなんて、そんなのっ…許せません…!一分だって、一秒だって…取り上げてほしくっ、ないのにっ…!」
ハルはギリッと奥歯を噛み締め、体の横に固く握りしめた拳を叩きつけた。
「私…最低です…っ」
「……あのなぁ、」
その言葉に、ケニーは深々と溜息を吐いて、肩から項垂れた。
「なんでそーなんだよっ…!」
ケニーは呆れ返りながら、ハルの顔を両手でぎゅむっと挟み込み、無理矢理自分の方へ向かせる。
「!?」
「お前はもっと感情を外に吐き出せられねぇのかよっ!?」
その言葉に、ハルはむっとした顔になって言う。
「じ、自分の感情くらい、自分の中で管理、しないとっ…」
「だから、それが内側に向いてんだよ。もっと外に向けろ!!」
「外ってどうやってっ……!?」
戸惑いの言葉が唇からこぼれるよりも先に、瞳から涙がこぼれ落ちてしまって、息を呑む。
「そうそう、上手いじゃねぇか」
自分の涙に驚いているハルを見て、ケニーはふっと笑った。いつものニヒルな笑みではない、どこか父親のような笑みだった。
「っ」
それに、ハルは急に目尻が熱くなって、ボロボロと泣いた。幼い子供のような泣き顔なのに、声は必死に押し殺して。
ケニーはそんなハルを見つめながら、「しょうがねぇな」と眉尻を下げる。ハルはグスグスと鼻を啜りながら言った。
「バッタ入りの泥団子、私に投げつけてやりたいっ…!」
「んだよそれっ、気持ち悪ぃなっ!」
ケニーがギョッと顔を引き攣らせて言ったのに、ハルは泣き笑いを浮かべた。ケニーの不器用な優しさは、いつの間にかハルの救いになっていた。
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「––––予定通りですね。エルヴィン団長達が、森の入り口に差し掛かりました」
日が沈み二時間程が経った頃、調査兵団の本体が無事巨大樹の森の入り口に到着し、皆馬を降りて森を歩み始めた足音を鼓膜に捉えたハルに、ナナバ達は一先ず安堵の溜息を吐いた。
「兵長達は無事そうか?」
トーマの問いに、ハルは耳を澄ませながら頷く。
「詳しくは分かりませんが、目立った被害は無さそうです」
「…そうか、良かった」
ほっと胸を撫で下ろすナナバの隣で、ゲルガーは足元に集めた巨人達が、座り込んで眠りについている様子を見下ろしながら言った。
「森の中の巨人は粗方こっちに引きつけてあるし、コイツらももう夢の中だから、取り敢えずは安全に森を抜けられそうだな」
「えぇ、そうです……ね………?」
「…?どうした?」
ハルが不意に、頬に緊張を走らせ、体を南西の方へと向けた。
ナナバ達が怪訝に首を傾げると、ハルは目を閉じ、息を殺して音に集中する。それを見たナナバ達も、自ずと息を潜めていると、ハルは大きな手足が土を踏みしめる音を、鼓膜に捉えた。
「(……あぁ、見つけた)」
ハルはそう心の中で呟く。
この足音は、あの子が…このパラディ島の大地を踏みしめている音だ。
ハルはゆっくりと目蓋を開き、一度、深呼吸をしてから、ナナバ達を振り返った。
「まだ遠いですが、南西から足音がします。……四足歩行の、巨人の足音です」
「夜なのに動いてるってことは…奇行種か?」
トーマが首を傾げると、ケニーは「いいや」と首を横に振り、口角を上げ、帽子を被り直しながら眦を裂く。
「じゃなくて、獣やエレン達と同じ知性を持つ巨人ってことだろ?」
「そうです」
ハルが固く頷くと、ナナバ達は息を呑む。
「…その巨人は、既に本体の侵攻に気付いている?」
ナナバの問いかけに、ハルは首を横に振ると、顎に手を添えて答えた。
「本体を目指している様子はありませんから、まだ気付いてはいないと思います」
「巡回してる最中ってことか。ハルの予想が当たったな」
ゲルガーが舌を巻く中、ハルは立体機動装置のベルトを、腰元から締め直しながら言う。いつもよりも一オクターブ低い、班長らしい真面目な声だった。
「…私達調査兵団が、シガンシナ区を目指すとして、日が沈んだ時間を有効活用するだろうと考えれば、相手方がこの新月の日に警戒を強めるのは、想像に容易いですからね」
「…漸く俺達の出番ってワケだな」
ケニーが肩を回しながら勇むと、ゲルガーは操作装置の動作確認をしながら、「アンタは歳なんだから無理すんなよ」と余計なことを口走り、ケニーは不快そうに顔を顰めて、ゲルガーの背中を「うるせぇな」と蹴り付けた。
それにゲルガーがバランスを崩し、危うく枝上から落ちそうになるが、なんとか堪え、青褪めた顔でケニーに掴み掛かった。
「おいテメェ!?なんて事しやがる?!」
「おいお前らっ!また始める気か!?勘弁してくれよっ!」
トーマが再び取っ組み合いを始めそうになる二人を止めるのに、ナナバはやれやれと肩を竦める。
「そろそろ気を引き締めないと。これからが本番なんだよ?」
ナナバの言葉に、ハルも「そうですよ」と口を尖らせる。
それから、熱誠を露わにした表情で、ナナバ達一人一人の顔を見据えながら言った。
「ナナバさん、ゲルガーさん、トーマさん、ケニー。……きっと、この先の戦いは、本当に厳しくなると思います」
ハルの前置きに、ナナバ達は真剣な表情になる。これから戦地へと向かう、覚悟を決めた兵士の顔だ。
ハルは左胸に、右手の拳を押し当てる。
「ですが、どんなに厳しく、苦しい戦いになっても……必ず全員、生きて帰りましょう…!」
心臓を捧げよ。とは、口にしない。だがそれがハルらしいと、此処に居る全員が同じことを思った。
生きてこその物種。この戦いに勝利し、壁の外へ出て漸く、私達は未来と、自由を得る為の切符を手に出来るのだ。
「ああ、必ず」
ナナバも
「生きて帰ろう」
トーマも
「絶対、だからな」
ゲルガーも
「俺たちはこんな所で、立ち止まってられねぇんだからよ」
ケニーも、皆左胸に拳を押し当て、頷く。目と目を合わせれば、不思議と見えない糸のようなもので、心が繋がっているような気がした。
ハル達は、同時に拳を突き出して、その先をぶつけ合う。
今まで背負ってきた、多くの深い悲しみと、積み重ねてきた決意を胸に––––
私達は運命に抗う。
決して、運命の犠牲になどならない。奪わせたりしない。
『エレン』が踠き、苦しみ、叫び、心を擦り減らしながら歩んだ道を、私は全てをかけて、変えてみせる。
彼だけを、決して……
この世界の『生贄』になんて、させたりしないっ……!
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深い闇の海を泳ぐように、まるで御伽噺の世界に放り込まれたような、巨大な大樹が密集している樹海の周りを歩く。
今日は新月だ。
僅かな月光も望めない夜の間は、無垢の巨人は動く事も、ましてや操ることも出来ない。
シガンシナ区の穴を塞ぐのに、この絶好の機会を調査兵団がみすみす逃すワケはないというライナー達やジークの先見により、ピークは侵攻の経路となるであろう巨大樹の森の周囲を警戒していた。
四つ足を動かし、乾いた大地を踏み締める。
もう随分長く巨人の姿のままでいる所為で、二足歩行を忘れかけていた。
「(ジークが調査兵団と接触して、ライナー達が戻ってきてから、もう随分時間が経っている……そろそろ侵攻してきても、おかしくは無いよね……)」
此処は、私が住む故郷を離れ、海を越えた先にある、悪魔達が住む場所––––パラディ島だ。
マーレとは違い、人に蹂躙されていない世界は、静謐で、荘厳で、何よりも自由な姿をしているように、皮肉にも彼女の目には映った。
厚い肉体に覆われた頸の中で、ピークはふと、自身の戦士長である獣の巨人の継承者、ジークの言葉を思い出した。
『『ユミルの愛し子』は、出来ればマーレに連れて帰りたいけれど、無理なら殺しても構わない。彼女は相当腕利きのようだし……まぁ、ライナーとベルトルトは、彼女を殺すことには反対みたいだけど』
『ユミルの愛し子』なんていう力の話を、ピークは初めて耳にした。が、巨人の研究に携わっていた、ジークが獣を引き継ぐ前の継承者であるクサヴァーから、ジークはその存在の話を聞いたことがあったらしい。しかし、彼も実際に彼女の力を目の当たりにするまでは、御伽噺の中の登場人物だと思っていたと驚いていた。
ライナーもベルトルトも、その『ユミルの愛し子』という力を身に宿すハル・グランバルドというエルディア人は、対巨人兵器である立体機動や射撃を得意としていて、さらに良く頭が回ると口を揃えて言っていた。
そしてジークは、その存在をかなり警戒している。
私が背負っている
「……あの、すみません」
『!?』
急に、暗闇の中で声がした。
すぐ傍の、巨大樹の森の樹上からだ。
ピークは反射的に、顔を声がした方へと向けると、暗闇の中に淡く浮かぶ巨大樹の枝上に、外套を頭から被った人影を見つける。
「ちょっとお話、いいですか?」
その兵士は、月明かりのない中でも、銀色に輝く刃を、腰元につけた大きな鞘の中から引き抜いた。
『(あれはっ、立体機動装置!?)』
三メートル程の距離なのに、全く気配を感じなかった。
ピークは驚き、その兵士から距離を取るように飛び退いた瞬間、暗い森の闇の中から、空気を引き裂くような音を立てて、三人の兵士が燕の如く飛び出してきた。
そう、この時私は初めて、巨人と生身で対抗する、パラディ島の悪魔を、調査兵団という存在を、目の当たりにしたのだった––––
完