第五十八話
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黒いインクの中を泳ぐように、身に纏わりつく重々しい闇夜を駆け抜け、空が白み始めた頃–––––
巨大樹の森に差し掛かったハル達は、日の光を浴びて間もない所為か、やや動きの鈍い巨人達を掻い潜り、時に応戦しながら、無事第一目的地である巨大樹の森の南部に到着した。
ハルが事前に予想していたよりも、遭遇した巨人の数が少なかったことから、予定よりも早く目的地点に辿り着くことが出来たのだが、皆休まず馬を走らせ、巨人との交戦も相まり、既に空腹状態だった。
まだ昼前だが、巨人が来られない程度の高さまで巨大樹を登り、周囲が十分安全である事を確認してから、早めの昼食準備をする運びとなった。
ナナバは班員のボンベのガスを補充し、同じ枝上でトーマは持ち運び式の小型の焚き火台で火を起こしている。ゲルガーはナナバ達よりも高い場所にある枝上で、単眼鏡を使って後方警戒を担当し、太い幹を挟んだ逆の枝では、ケニーも同じく単眼鏡を使って前方警戒を行っていた。
ハルはナナバ達と隣接している枝に座り、小型のサバイバルナイフで、器用にマッシュルームと玉ねぎを細かく刻み、じゃがいもとにんじんの皮を剥きながら、壁外調査では定番の、『調査兵団特製スープ』の具材を準備していた。特製と言っても、ごく一般的なマッシュルームスープなのだが。
本来ならば、フレーゲルとニックが差し入れてくれた肉とワインが頂けると、朗らかな雰囲気で迎えられていたであろう昼食の時間は、鉛のように重い空気が漂って、会話も少なく、皆黙々と自分の仕事に取り組んでいた。
しかし、そんな空気感など全く意に介して居ないケニーは、ごろりと両腕を枕にして仰向けに寝転がり、前方警戒の仕事を完全に放棄して、乾いた秋風に揺れる紅色の葉の間から漏れる日差しに、目を眇めながら面倒そうに言った。
「あぁ、怠ぃな。ハルの耳が使えるってなら、わざわざこんな警戒なんかしなくたっていいだろーが」
「おいケニー。真面目にやれよ。壁外では何があるか分からねぇから気を引き締めとけって夜通し忠告してやったじゃねぇか!足音や気配殺して近づいてくる奇行種だっているかも知れねぇ。何よりハルもずっと気ぃ張ってっとしんどいだろ!?」
ゲルガーは背後に居る無気力なケニーに対し、苛立ちを露わにした声で叱責する。
トロスト区の外門を出発してからというもの、ケニーは全く緊張感が無く、「煙草吸いてぇから一旦休憩しようぜ」やら、「眠ぃから仮眠取らせてくれ」等と、再三文句を言い連ねており、その度にゲルガーが赫怒していたわけだが、ケニーは耳の穴を小指で掻きながら飄々と、微塵も悪びれない口調で言った。
「んなこたぁ俺の知ったこっちゃねぇーよ。っつーか、お前。俺が言うことに一々説教タレるんじゃねぇよっ、鬱陶しい奴だな」
「鬱陶しいのはテメェだろ!!」
ゲルガーはケニーが目の前に居れば、胸倉に掴み掛かってやりたいところだったが、太い木の幹に遮られており、苛立ちを仕方なくその幹を足蹴にすることで発散する。
そんな二人の言い争いをハル達は夜通し聞いて来ており、トーマは愈々辛抱堪らなくなった様子でその場に勢いよく立ち上がると、肩を怒らせ、ゲルガーとケニーをビシビシと指差しながら激怒した。
「おいっ!煩いぞお前らっ!デッケェ声で騒ぐと下に巨人が集まって来るだろーが!?昨日の夜からずっとガキみてぇに言い争いやがって、黙って聞いてるこっちが一番鬱陶しいわっ!!いい加減にしろっ!!」
物凄い剣幕で、一息に溜まりに溜まった鬱憤を吐き出したトーマの勢いに圧倒され、ゲルガーとケニーは固まった。
ゼェゼェと息巻くトーマを、ナナバはボンベのガスを補充しながら、「トーマの声が一番、大きかったけどね」と冷静な一言で突っ込んだ。
「……、すまん。取り乱した」
トーマは頭から水を掛けられたように口を噤んだ後、小さく謝罪を述べながら、静かにその場へ座った。苛立ちのあまり冷静さを欠いてしまった事へ、軽く自己嫌悪に陥っているトーマを一瞥して、ナナバはやれやれと肩を竦めた。
それから、隣の枝で黙々と野菜の準備を進めている、ハルへと視線を向ける。
ハルは考え事や悩み事があると、一つの作業に没頭する節があって、今の状態がまさにそれだった。思い詰めているようにも見える悄然とした横顔に、ナナバは気遣いげに眉尻を下げる。
何を悩んでいるのかは、聞かずとも容易に察せられた。ケニーの件をどう説明すべきなのか、必死に考えを巡らせている最中なのだろう。真面目なハルらしいが、そんなに思い詰めていては指を切りそうで心配だった。
ナナバは声を掛けるべきか迷ったが、悩んだ後に、掛ける方を選んだ。
「…それにしても、雷装と立体機動装置一式が備品倉庫から紛失したのは、ハルの仕業だったんだね」
ハルは人参の皮を剥く手をピタリと止めたが、すぐにまた手を動かし、ナナバの方は見ずに言った。
「…はい。エルヴィン団長には、バレバレだったみたいですが…」
「いや、私達も何となく、ハルの仕業なんじゃないかなって予感はしていたんだよ?」
その言葉に、ハルは「えっ」と目を丸くして、漸くナナバの方に顔を向けた。
「ど、どうしてですかっ?」
ハルは夜間警備の担当時に、ケニーへ立体機動装置と雷装の装備を渡す為、備品倉庫からそれらを持ち出した際は誰にも見られていない自信があったのだが、予想外の言葉を受け動揺していると、ゲルガーが単眼鏡を小脇に抱え胡座を掻いて座り、頬杖を突いて、ハルを見下ろしながら呆れた口調で言った。
「お前、雷装と立体機動装置が紛失したって、調査兵団内で会議になった時、もの凄い顔してただろ…?」
「え」
ハルは目を丸くしたまま、ぽっかりと口を開いて固まる。バレてしまったのは、どうやら犯行を誰かに目撃されたから、ということでは無いようだ。
確かに、会議中は心中穏やかではなかったが、顔に出てしまっていたという自覚は、ハルには無かった。何せ、備品倉庫の管理は昔から杜撰になっていることを知っていたので、雷装と立体機動装置一式が無くなっても、誰も気づかないのではと正直甘く見ていた。しかし、その備品管理の担当者が、いつの間にやらアルミンに変わっていたらしく、その週末の検品日にバレたというのが事の次第であった。
「その時の、冷や汗ダラダラ流して青褪めてるハルの顔を見て、多分その会議に参加してた全員察しがついてたが、あまりに動揺しているから気の毒になってな…、敢えて追求しなかったんだよ。まぁ、お前の事だから、自主訓練中に無茶して、装備壊して補完したんだろうなってくらいに思っていたが……まさかケニーに渡してたとは、…想像も付かなかったな」
トーマは焚き火台の上に金網を置いて鍋を取り出すと、そこに水とミルクを注ぎ入れ、調味料を溶かし込みながら言うのに、ハルは最後の人参の皮を剥き進めながら、「…すみません」と謝罪を溢した。
皆の優しさが有難く、嬉しいと思う程、自身の不誠実さが身に染みて罪悪感が胸に溜まっていく。当然だ。自分は、信頼を寄せてくれている仲間に対して、目的を果たすことばかりに気を取られたまま、背中を向け続けて来たのだから。
ハルは、掌の中にある人参を乱切りにしてザルに乗せると、ナイフをホルダーにしまいながら、胸の中を漂う自責の澱を絞り出すように、深く息を吐いた。
そんなハルに、トーマが「ハル」と声をかける。
ハルははっとして顔を上げると、トーマは手を差し出して、「野菜貰うぞ」と言うので、ハルはザルを手に取り手渡した。トーマは受け取る際に「ご苦労さん」と微笑み、鍋の中へとハルが切った野菜を入れて、蓋を閉めた。
それからまた、静寂が生まれる。
風が葉を揺らす音と、ハル達の居る木の根本で、巨人達が幹をザリザリと手で引っ掻いている音が、大きさを増した気がした。
ハルはホルダーに納めたナイフを兵服の内ポケットにしまい込もうとした時、不意に一匹のヒヨドリが、ハルの傍に留まった。
灰色の羽毛がふわふわと柔らかそうで、丸い二つの黒い目が、じっとこちらを見上げている。ヒヨドリは知性が高くて、人の顔も認識出来る、鳥の中でもかなり人懐っこい分類なんだと、サシャが訓練兵時代、行軍訓練中に話していた事を思い出す。
ハルは体の横に置いていた人参の切れっ端を、ナイフで細かく切って、ヒヨドリの傍に置いた。
ヒヨドリは一瞬躊躇したように後ずさったが、次には呼子笛を吹いた時のような高く澄んだ鳴き声を上げ、人参を啄む。警戒心の強いトロスト区の野良猫達とは違って、随分と素直な姿勢に、自然と口元に笑みが浮かんだ。
彼らは渡鳥で、寒くなると暖かい場所を目指して飛んでいく。ハルの元へやって来たのも、ただ愛嬌を振り撒くためではなく、野菜の切れっ端に目星を付けたからだろう。今食料を蓄えることは、渡りを無事に成功させる為に、必要不可欠なことだから、こうやって明らかに自分の体よりも大きな、全く違う生き物にも身を寄せることが出来るのかもしれない。
それに比べて、今の自分はなんて意気地なしなのだろうか。
話すべきことを話さず、蟠りを作り出した張本人が、ナナバ達に気を遣わせてしまっている。彼らから、ケニーの件を俎上に載せないのは、ハルが話し始められるようになるタイミングが整うのを、待ってくれているからだ。
ハルはナイフを上着の中にしまい、大きく一度深呼吸をしてから、自分に命を預けてくれている仲間達へ、説明責任を果たす為に、口を開いた。
「ケニーに、作戦支援を要請したことですが……皆さんに相談もせず、勝手なことをして、本当にすみませんでした」
ハルは立ち上がると、深々と、ナナバ達に向かって頭を下げる。
皆が小さく、息を飲んだ気配がした。
どんな責め苦でも、負う覚悟は出来ている。だがその前に、自分の口から何故ケニーに支援要請をした事について、何の相談もせず当日まで話さなかったのかを開示してからだ。と、ハルは頭を下げたまま、体の横の拳を握り締めた。
「私がナナバさん達に、この件について事前に話をしなかった理由は…、」
「お前が、俺達にどうして話さなかったのか」
「っ」
ハルの言葉を遮るように、トーマの硬い声がして、ハルは口を噤む。
深く頭を下げたままの、ハルの旋毛を見つめ、トーマはがしがしと後頭部を掻きながら話を続けた。
「お前の背中を見ながら、夜通し馬を走らせてる内に、なんとなく想像は出来たよ」
ハルは、戸惑いながら、ゆっくりと顔を上げる。すると、トーマの山吹色の瞳と目が合った。
ハルの、良心の呵責に苛まれた表情を一瞥して、トーマは肩を竦めると、閉じていた鍋の蓋を開け、湯気を上げるスープを、お玉で掻き混ぜながら言った。
「…お前、班長になってから、ずっと必死……だっただろ?何時も何かに追われてるみたいで、少しでも躓いたり、立ち止まっちまったら、もう終わりなんだってくらい、余裕が無さそうだったから……正直、ずっと心配だったんだ」
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