第五十七話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「おーい!ハルちゃん達っ!」
不意に、商店街へと続く街道の方向から、ハル達を呼ぶ溌溂とした声が響いた。
「あれって…フレーゲルか…?」
暗闇の中で揺らめく、二つの青白いランタンの光を、小さな穴の中を覗くように目を凝らして見つめながら、トーマはボソッと呟いた。
「ああ、本当だ。隣にいるのは……ニックさんかな?」
リーブス商会のフレーゲルの隣を歩く、王政が改変されて以来、会えていなかったニックの姿にナナバが驚いていると、ゲルガーは顎に手を当て、「何だか、真逆のシルエットしてるな」と、肩を竦め可笑そうに言った。
男性の中では比較的背が低めの、丸々とした体付きのフレーゲルと、背が高く痩せ型のニックは、見た目も対照的ではあるが、性格の方も当てはまるのでは、と、ハルはゲルガーの隣で密かに思った。
距離が近づき、二人の顔がよく見えるようになると、ハルも彼らの元へと歩み寄った。
「フレーゲルさん、ニックさん。どうしたんです?こんな夜遅くに…」
「どうしたってそりゃ、見送りだよ!」
ハルの問いに、フレーゲルは肉付きの良い頬をにっこりと持ち上げると、足元にランタンを置いて、小脇に抱えていた麻袋から、とんでもないものを……取り出した。
「ハンジさんから、今晩ハルちゃん達が先行部隊で壁外に出るって聞いてな!で、…ほらっ!これを持って行けよ!」
「「!?」」
フレーゲルが麻袋から取り出したのは、大きな肉の塊だった。それも、形が悪くならないようタコイトで巻かれ、道中で傷まないよう気にかけてくれたのか、香ばしく燻製されている。
ハル達は眼前に晒された、滅多にお目にかかれない巨大な肉の塊に、目を忙しく瞬き白黒させた。最早、驚きを通り越し、混乱しかけている。
「ここっ、これって…っ肉ですか!?」
ハルが瞠目する隣で、「…嘘」と、ナナバは半ば放心状態になって頭を抱える。
「おっ、おいトーマ…見ろよっ!!こ、こんなでっけぇ肉の塊!久しぶりに見たぞ!?」
「ぁ、ああっ……こ、これ、本当に俺たちが貰っても、良いのか…?」
ゲルガーはガバッとトーマの肩を組み、興奮でグラグラと体を揺らしながら言うのに、トーマは幻覚でも見せられているような表情のまま、肉から視線を持ち上げ、フレーゲルに問いかけた。
「あぁっ、勿論だ!」
フレーゲルは得意げな顔になって、腰に両手を当て胸を張りながら、気前良く啖呵を切った。
「他の奴らは、街でウォール・マリア奪還の前祝いをしてるってのに、先行部隊のアンタらが肉を食えねぇのはあんまりだろ?まぁ、エルヴィン団長にも出発前に届けてやってくれと言われたってのもあるが、俺もハルちゃんには世話になってるし、その礼も兼ねてってことで、さ」
ハルは班長に就任してから、調査兵団における経理・財務の仕事を主に請け負っていた。様々な業務の中でも、一番面倒くさがられる仕事であり、若輩者のハルが半強制的に押し付けられた流れではあったが、数字管理や計算が得意なハルは、それなりに楽しんでやっている業務の一つではあった。
昔から、兵団問わず、リーブス商会には装備品や壁外調査の支援金、食糧や資材等の調達など、様々な面で協力を得ており、ハルも度々フレーゲルとは、今後もギブアンドテイクの関係性を保って行くため、資金援助や融資交渉の件で顔を合わせていた。
フレーゲルは、以前の王政改変の騒動に巻き込まれ亡くなった、父親でありリーブス商会会長であったディモ・リーブスの息子で、ハルが班長に就任する数日前に、正式に商会の会長となった。二人とも、上の立場になった時期がほぼ同じだったということもあって、仕事で顔を合わせているうちに、自然と仲間意識が生まれていたのだった。
「私達にまで気を配ってくださったんですね……本当にありがとうございます、フレーゲルさん…!」
「い、いやぁ…そ、そんなぁ…ははっ」
ハルがフレーゲルの手をとって、随喜の涙を滲ませながら礼を言うと、フレーゲルは頬をみるみる紅潮させて、頭の後ろを触りながら恥じらう。その様子を見守りながら、ナナバ達は、「(ああ…、此処にも一人、ハルの沼に落とされている人間がいる)」と、胸の中にシンパシーを抱いていたのだった。
そんな中、フレーゲルの隣に立っていたニックが、手にしていた細長い袋から、一本のワインボトルを取り出した。
「あと、これは私からの餞別なんだが…」
「!?」
そのボトルのラベルを見た瞬間、ゲルガーは両目をこれ以上ない程に見開いて、ニックが手にしているワインボトルに飛びついた。
「おっ、おいこれっ…!?ヴィンテージもんのっ、すっげぇ高い赤ワインじゃねぇか!?」
「え、そうなの?」
「酒に詳しいゲルガーが言うなら間違いないよな…?」
ナナバとトーマも酒はよく飲むが、銘柄や良し悪しに関しての知識は、ゲルガーには敵わない。最近になって漸く酒が飲めるようになったハルも、勿論その方面の知識に関しては皆無だった。
「高いって、どれくらいの値段がするんですか?」
ハルが首を傾げると、ゲルガーが答える前に、ニックが一見しただけでも高価そうな金色のラベルを指先でトントンと小突きながら答えた。
「君たちの給料、五ヶ月分くらいだ」
「ごっ、五ヶ月っ?!」
ハルは想像以上に高額なワインに、驚愕して後ずさる。
「本当に良いんですかっ、ニックさん!これ貰っちまって!」
ゲルガーが嬉々として問うと、ニックは頷き、ゲルガーにワインを手渡した。
「ずっと飲まずに取っておいたものだが、ゲルガー君が言っていた通り、ヴィンテージ物のワインだ。熟成させるだけ美味くなる。君達には命を救ってもらった礼をまだ出来ていなかったし、良い機会だとも思ってな…」
「お礼だなんてそんな……あ、ちょっ、ゲルガーさん!?」
「こんな上等なワインッ!一生かかってもお目にかかれねぇかもしれないぜぇっ!?」
そんな高価な物を受け取ってしまって良いのかと、申し訳なさが先立ってしまったハルが恐縮している中で、ゲルガーは既に愛馬の鞍のバッグへ快哉をあげながらワインを詰め込んでいた。
ハルは眉尻を下げ、頬を指先で掻きながら謝罪する。
「えぇっと…すみません、ニックさん。ゲルガーさん大のお酒好きで…」
「ははっ、良いんだよ。君達に飲んで欲しかったから、持って来たんだ。喜んでくれて嬉しいよ」
ニックが快く微笑んでくれたのに、ハルはほっと安堵しながら、「ありがとうございます」と礼を言って頭を下げた。
何だか、以前会った時のニックさんとは、随分雰囲気が変わったような気がする。
ピリピリと、常に張り詰めた空気を纏っていたニックだったが、今は物腰柔らかく、穏健な雰囲気が漂っていて、ハルはふと、ハンジが以前に話していたことを思い出した。
「そういえばニックさん、ハンジさんから聞いたんですが、今はウォール卿をやめて、有志で学校の先生になられたとか…?」
その問いに、ニックは控えめに肩を竦め、眉尻を下げて言った。
「先生といっても、フレーゲル君の伝手でトロスト区の空き家を借りて、十分な教育を受けられない貧しい子供達に、学習の基礎を教えているだけだよ」
斟酌するニックに、隣に立っていたフレーゲルが「いやいや」と口を開いた。
「何を謙遜してんですかニックさん!なぁハル、ニックさんは凄いんだぜ?最初は、難民の子供達数人だけだったんだが、ニックさんの教えが良いんだって評判がみるみる広まって、今や金を払うからって遠くから態々通ってくる子供もいるくらいなんだ!それに、ニックさん、実は正式な教員免許、持ってるんだぜ?」
「えぇっ!?そうだったんですか!?」
ハルは驚いて声を上げると、ナナバ達も感心した様子で「へぇ」と唸った。しかし、意外だ。とは思わなかった。ニックが教員免許を持っているというのは、彼の今までの知的な言動や佇まいから、すんなりと腑に落ちる事だったからだ。
ニックは少々恥ずかしそうに微苦笑を浮かべ、穏やかな口調で言った。
「…ウォール卿に入る前は、教師を目指していてな。…そんなこと、前まですっかり忘れてしまっていたんだが…」
「じゃあ、これからはウォール卿を辞めても、それで生活出来て行けそうっスね?」
ゲルガーの問いかけに、ニックは「ああ」と頷く。それから、「実は…」と、首の後ろを触りながら、噛んで含めるように口を開いた。
「…神具を、売ったんだ」
「「「!」」」
その一言に、一同は思わず目を見開いて驚いた。
ニックが、自分の命よりも大事にしていたウォール卿の志と同等に大切なものであった筈の神具を手放した。というのは、天と地がひっくり返るくらい衝撃的なことだったからだ。
しかし、ニック本人は後悔など全く感じさせない、清々しい表情をして言った。
「ご存じの通り、ウォール卿の神具は貴重な素材で出来ているから、それなりに金になるんだ。当面は、それで生活して行けそうだし、収入もいち早く安定に持ち込めるように、今は頑張っているところなんだよ」
「……楽しいですか?」
ハルの問いかけに、ニックは「…楽しい…か…」と、顎に手を添え、口に馴染まない言葉を呟き、沈思した。その感情は、もう随分と長い間触れずに居たものだった。
しかし今、心の内で反駁してみれば、首を振るよりも頷くに近い感情が生まれた。
「…そうなのかも、しれないな」
ウォール・ローゼの壁が破られたと情報が入り、住む場所を追われた人々の中には、当然、幼い子供達も含まれていた。自分は、ウォール卿としての規律を守ることが、壁内の未来を繋げることになるのだと信じていたが、それは間違っていた。壁内人類の未来を担っていくのは、神ではない、そこに生きる子供達なのだ。
その子供達に、先生と呼ばれ、笑顔を見せてもらえるたびに、己の間違いを戒心せねばと思い募る一方で、自分自身も、救われている気がした。
ハルは、長年抱えてきた重荷を下ろしたように、穏やかな表情をしているニックを見て、心底嬉しそうに微笑んで言った。
「それは……本当に、良かったです」
自分が関わることで、『エレン』が歩んできた道とは、違う時の流れと道筋を辿ることになる。それが皆の為に、良い方向へと向かっているという、確信を持てているわけではなかった。しかし、ニックの命が、この世界に生きる子供達の未来へ繋がったという事実が、自分がしていることは間違いではないと背中を押してくれたようで、ハルは本当に、嬉しかった。
「ハル、ゲルガーさん、ナナバさん、トーマさん、イアンさん……あの時は私の命を救ってくださって、本当に感謝しています。私は、ウォール卿として生きる以外、道は無いのだと思っていましたが……皆さんは私に、新たな道を指し示し、導いてくださった」
皆の顔に視線を向け、改まって頭を下げるニックに、イアンとナナバは、首を振った。
「私は何もしていません。司令の命令に、従ったまでのことですから」
「私達も、大したことはしていませんよ。実際、ニックさんを助けたのは、ハルとゲルガーの二人ですから」
トーマは胸の前に腕を組んで、ハルとゲルガーが中央憲兵に追われていると聞いた時のことを思い出しながら、やれやれと苦虫を噛んだ表情をして言った。
「あの時は、本当に馬鹿なことをやってくれたなと正直思いました。…しかし、壁内人類の未来を担う子供達に教えを説き、導く先生の命を救ったとなれば、…まあ、よくやったと、今となっては言えますかね…?」
「なんだよトーマ。まだあの時のこと根に持ってんのか?心の狭ぇ奴だな」
ゲルガーが顔を顰めて、肘でトーマの脇腹を小突きながら言うと、トーマは眉間に深い皺を寄せ、両肩を張り上げて怒鳴り声をあげた。
「当たり前だろっ!?どれだけ俺たちが心配したと思ってるんだ!?それに、お前もハルも知らないだろうけど、ハンジさんから報告を受けた時の団長の顔と言ったら…すげぇ怖かったんだぞ!」
「ああ、お前達を見つけられなかったら、確実に免職処分を喰らう勢いだったな…」
ナナバは記憶が蘇ったようにゾッと青褪め、腕を摩りながら言ったのに、ハルとゲルガーは改めて、「すみませんでした」と深く頭を下げて謝罪した。
そんな彼らを見て苦笑しながら、イアンは首にかけている懐中時計に目をやる。
「グランバルド。…そろそろ時間だが、準備はいいか?」
それに、ハルは表情を引き締め、こくりと頷いた。
「はい。ナナバさん達も、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
「おう!バッチリだぜ!」
「さあ、行きますかっ……!」
ナナバ達が大手を振るって頷いたのに、ハルも意を決して、リフトへと乗り込んだ。
「リフトを上げるぞ。……おいっ!シグルド、ダズ!上げてくれ!!」
イアンが壁上に向かって声を張り、腕を上げて合図を出すと、それに応えるように、シグルドとダズが両手を上げ、ゆっくりとリフトが上昇を始めた。先にハル達を壁上へ運んだ後、馬を上げる手筈になっている。
「ハルちゃん達っ、頑張れよー!!」
「皆さん、どうかっ、お気をつけて!」
壁上へと上がっていくハル達に向かって、フレーゲルとニックが健闘を祈り、手を振りながら声援を送ってくれるのに、ハルも手を振り返して応えた。
「はい!ありがとうございます!ニックさん、フレーゲルさん!イアンさんもっ!」
イアンもスマートに片手を上げて微笑んでくれたのが見えて、ハルも笑顔になる。
その横顔を、ナナバ達は感慨深そうに見つめていて、その視線にふと気がついたハルは、怪訝な顔になって首を傾げた。
「…あれ、皆さんどうしたんですか?」
ナナバは胸の前で両腕を組んで、ふっと目元を緩めて言った。
「いや、何だか…誇らしいなと、思って」
それに、ゲルガーも目を細め、僅かに口角を上げて頷いた。
「…そうだな」
「?」
戸惑っているハルへ、トーマはにっと笑って、その背中をバシッと叩いた。
「我らが班長は、俺たちの自由の翼だ」
「っ!」
その言葉に、ハルは喜びや照れ臭さを感じると同じくらいに、身が引き締まるような思いに駆られた。
ウォール・マリア奪還作戦––––
きっと、この先で迫られるであろう多くの選択を、迎える窮地を、その一つでも間違い、乗り越えられなければ、きっと未来を変えることは出来ない。最悪、『エレン』が歩んだ道よりも、多くの仲間を、失うことになってしまう可能性だってある。
ハルは、リフトの手摺を握り締め、深い宵闇がおりたトロスト区の街並みを見下ろした。
暗闇に覆われた世界から抜け出そうとがむしゃらに、出口を求めて、これまで必死に歩んできた。それでも、この世界に、灯る光が全くと無かったわけではない。
人が息づく場所に灯る、家々の明かりのように、暗闇を照らしてくれる仲間達の存在が、傍にはいつも在った。そしてその存在が、ハルにとっての帰る場所に、なっていたのだ。
「…翼があっても、飛び方を知らなくては意味がありません。…それを教えてくれたのは、私を支えてくれている、たくさんの人たちです…。この、壁の内側に居る…大事な……」
ハルは大事な宝物を胸に抱くように、左胸に右手を押し当て、瞳を閉じる。
そうして一呼吸置いてから、ゆっくりと目蓋を開いた。
ナナバ、ゲルガー、トーマへと、どこまでも至誠に尽くされた、澄んだ蒼黒の瞳を湛えて、ハルは言う。
「ナナバさん、ゲルガーさん、トーマさん。私のことを信じて、ついて来てくださって………言葉では言い表せないくらい、本当に、感謝してます」
深く、真正直に、改まって頭を下げる。兵士としての敬礼ではなく、ただの、人として。
夜に紛れた色なき風が、宵闇よりも深い、短い黒髪を撫で揺らす。
底が見えない誠実さと、真摯な感情の流露を見せられ、三人は言葉を失って、呼吸すら忘れるように、頭を下げているハルを見つめていた。…そして、互いに顔を見合わせる。それから、笑い合った。自分達は、良い上官に二度も恵まれたと、言葉を交わさずとも通じ合った気がしたからだ。
「あーっ!もう!!赤くなっちゃって、本当にハルは可愛いなっ!」
ナナバは堪らず、ぎゅうっとハルを両腕で抱き締める。柔らかな金髪の毛先が首に触れて、ハルは擽ったさに上擦った声をあげた。
「っ別に、あ、赤くなってませんっ…!」
しかし、ゲルガーはニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながら、ハルの鼻先を指で弾く。
「いーやっ、絶対赤くなってるだろ!耳と鼻の色が、全然違うぞー?」
「ちょっ、ゲルガーさん!?引っ張らないでください!」
ナナバに抱きしめられているハルの赤くなった両耳を、ゲルガーが左右に引っ張る。
戯れている三人の様子を見ながら、トーマは腰に手を当て、呆れた様子で言った。
「おいお前ら、もっと気を引き締めろよ。これから壁外に出るんだぞ」
「そんなこと言って、トーマだって嬉しいくせに」
「そうだぞー、顔がニヤけてんだよ!」
「なっ!?ニッ、ニヤけてねぇよっ!!」
平静を装ったつもりで居たトーマだったが、表情筋が緩んでいるのをナナバとゲルガーに指摘され、トーマは珍しく赤面して声を張り上げた。
何やら騒がしい彼らの様子を壁上から見下ろしていたダズは、リフトの滑車を動かしながら、傍に立っているシグルドに言った。
「これから壁外に出るってのに、なんか楽しそうッスね…?」
それに、単眼鏡でウォール・マリア側の降下地点の周囲に巨人の姿が無いか確認しながら、シグルドは朝起きて顔を洗うのが当然というような口調で応えた。
「調査兵団は、変わり者の集まりだからな」
→