第五十七話
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昨日から続いていた雨は、夜のうちに人知れず降り止んで、濡れた地上を照らす秋陽を放つ太陽が、一日の中で一番空高く昇った頃、秋風が強く吹き始めていた。
やがて、たなびく雲の後ろに隠れて丸々と燃えていた夕陽が、聳え建つ壁の裏側に沈み、夜空をナイフの切っ先で裂いたような、青白く細い月が姿を表すと、トロスト区の飲屋街が賑わい始める時間帯となった––––
光陰矢の如しと過ぎゆく時の中、調査兵団は人類の悲願であるウォール・マリア奪還を大成する為、新たな対巨人兵器の開発や戦略の考案、訓練を重ね、周到に準備を整えてきた。
満を持し、明日の早朝から決行されるウォール・マリア奪還作戦に先立って、敵の斥候警戒や動向確認等を目的として、一足早く壁外に向かうことになった特別作戦班は、密かにエレンが塞いだトロスト区外門の内側で、装備品の最終確認を行っていた。その班員とは、ハルが率いる、ナナバとゲルガー、トーマの四名だ。
「えーっと、…整備部品一式と予備のボンベ……食料、火薬に地図……」
ハルは装備品のリストと荷物を照らし合わせながら、見落としているものがないかを確認し、愛馬であるアグロの鞍に荷物を順次引っ掛けていく。アグロはハルが体を寄せるたび、甘えたように鼻を鳴らして、ふるふると両耳を動かしながら、兵服の上着に纏った深緑の外套をはむはむと甘噛みする。ハルの相棒になる前、人見知りの激しさは折り紙付きだとネスから言われたアグロの面影は、今や何処にも見当たらない。
ゲルガーとナナバ、トーマの三名も、愛馬へてきぱきと荷物を載せ、小気味良く準備を進めていく様子を、駐屯兵団のイアンが、リフトを昇降する為の操作装置の傍で見守っていた。
ハル達を壁外へ送り出す支援は、本来であれば調査兵の仕事だったのだが、奪還作戦決行の前夜ということもあり、結束力や士気向上も兼ね、トロスト区兵舎の食堂で前祝いが行われることも決まっていたので、気を遣わせてくれたイアン班が、ピクシス司令の許可の下、ハル達特別作戦班をウォール・ローゼの外へと送る、リフト昇降の仕事を買って出てくれたのだった。
リフトの支点となる壁上には、シグルドとダズの二人が、降下地点の周囲に巨人の姿がないか警戒しつつ、待機してくれている。
「…君達だけを壁外へ先行させるなど…、エルヴィン団長も、随分と思い切った作戦を考えたものだな…」
イアンが壁面に左肩を寄りかけるようにして腕を組み、着々と準備を整えるハル達を眺めながら呟く。と、その声を拾ったゲルガーが、栃栗毛の愛馬の鞍に信煙弾一式が入ったポシェットを取り付けながら言った。
「いいえ、違いますよ。こんな馬鹿なこと言い出しやがったのは、団長じゃなくて、コイツですから」
装備品リストを神経質に睨みつけていたハルは、ゲルガーに背中をバシッと叩かれて、「うっ!?」と驚き肩を跳ね上げる。すると、「ご主人に手を上げるな」と言うかのように、アグロが鼻先でゲルガーの背中をど突き返した。ゲルガーは思わぬ反撃を受け、「ぎゃっ」と蛙が潰れたような声を上げると、痛む背中を押さえて蹲る。
「ぁ、アグロ…テメェッ…少しは加減しろよ」
「ブルルッ…」
ゲルガーが涙目になりながら恨めしそうにアグロを睨み上げ、アグロは「やんのか?」と鼻を鳴らして首を上下に動かすのを横目で見ながら、イアンは寄りかかっていた冷たい壁面から肩を離した。
「グランバルドの作戦案なのか?」
「えぇ、そうですよ」
一足早く準備を終えたトーマが、良く鍛えられた愛馬の、鹿毛色の胴体を撫でながら相槌を打った。
「ハルがどうしても、相手方の斥候が気になるって言うんで、明日の早朝出発の本体より先行して、作戦経路の警戒することになったんです。敵に穴を塞ぎに来た俺達を迎え撃つ態勢をとらせない為に、不意を突いて動きを制限させるってのが、俺達の役割……端的に言えば、当て馬作戦ってなわけです。…まぁ、これもハルの超凡な聴力があるから、可能なことなんですが」
トーマはイアンへ大まかに作戦概要を説明し終えると、足元でアグロと睨み合いを続けているゲルガーの背中を蹴って、「いいから早く準備終わらせろ」と急かす。一方のハルも、アグロを宥めようと、しなやかに伸びた黒檀色の首を撫でている。
イアンは肩を竦め、同情を滲ませた口調で言った。
「…毎度、お前のやることは大胆不敵だな。君達も、苦労する」
ハルは立つ瀬が無いと苦笑を浮かべて、首の後ろを触る。
「め、面目ないです」
「ミケが班長だった時もでしたが、今はその時以上に、毎日痺れていますよ」
ナナバは青毛の愛馬の蹄に装着した蹄鉄を、屈み込んで確認しながら言った。馬にとって足の蹄は、血流のポンプの役割を担う大事な器官なので、歪みや欠けがないかを確認することは、立体機動装置の動作確認と等しく、大切な事だった。
「まぁ、ハルの部下になるって決めた時から、こうなる予感はしていたが…」
「だよなぁ?なんせ、ハルが俺達の部下だった時から、既に散々振り回されてたしなぁ。…ったく、人使いが荒いぜ」
トーマとゲルガーも、ナナバに同調すると、ハルは表情を引き攣らせて、三人の顔を見回しながら、歯切れ悪く、語尾を尻すぼみにして問い掛けた。
「あ、あのっ…皆さん…?もしかして、私の班に入ったことを、今になって後悔していたり…しませんか…?」
「「「……、いいや?」」」
「っ何なんですか今の間は!?そこは否定してくださいよっ!?」
息ぴったりの反応を返してきたナナバ達に、ハルはギョッと青褪め、情けなく裏返った喚声を上げた。
若干、涙目にもなりかけているハルを、ナナバは面白そうにくつくつと喉を鳴らして笑いながら、その背を宥めるようにぽんぽんと叩く。
「冗談だよっ!ほら、そんなに慌てない慌てない」
「え、冗談だったのか?俺は結構本気だったぞ?」
しかし、そんなナナバと反して、ゲルガーは真顔のまま、ハルの顔を覗き込むようにして言うのに、ハルは「ひぇっ」と急に喉が締まったような悲鳴を上げた。側から見れば揶揄われているのは一目瞭然なのだが、ハルは全てを真に受けている様子で、盛大に狼狽えている。
「おいゲルガー、あんまりハルをイジめてやるな。出発前に失神されでもしたら困るだろ…」
トーマは身につけた立体機動装置のベルトを、今一度足下から締め直しながら言うのに、ゲルガーは口角を上げ、「反応が面白くてつい」とお喋りな貴族のように両手を肩の横で開いて見せた。ハルは「じょ、冗談ですか…、良かった」と、心底安堵したように肩から深く項垂れるのを見て、三人は楽しげに笑っている。
イアンは、そんな彼らの様子を見て、どこかほっとしていた。
元々、ミケ班に属していたベテラン兵士三人が、いくら能力が高いとはいえ、新兵であるハルの下に就くことになったと聞いた時は、何かしらの軋轢が生じるのではと懸念していたからだ。
しかし、そんな心配は杞憂だったようで、この短時間でも、彼らが互いに信頼し合っているということが伝わって来た。気持ちを深く繋ぎ合わせ、言葉ではなく呼吸や視線で意思疎通を測るような、そんな絆の深さを感じられる。血の繋がりも無い他人同士では、得難く、稀少な関係性を見ていると、少々羨ましくも思ってしまい、イアンは微苦笑を浮かべながら、ハルに歩み寄った。
「なぁ、グランバルド。フロックの様子は、どうだ……?」
「…フロック、ですか?」
ハルは手にしていた装備品のリストを脇に抱えて、イアンと向き合い、首を傾げる。
イアンは精悍な細い眉を僅かに眉間に寄せ、「実はな…」と腕を組み、喉の奥から言葉を引っ張り上げるようにして話を切り出した。
「…調査兵団に再度、人員募集が掛けられると聞いてから、フロックはずっと悩んでいてな…。ヒストリアが女王に就任し、お前のその…『ユミルの愛し子』としての力について、私達に課せられていた緘口令も取り下げられることになったから、俺の元に残らなければならない足枷も、フロックには無くなった。それでも、駐屯兵団に在籍したまま、俺の元に残り続けるか…調査兵団へ異動を志願するのか…決めあぐねていたんだ。…だが、調査兵団に異動をするなら、第一次の応募で編入したいと、決めていたらしい」
フロックは、ハルがトロスト区襲撃の際、教会の中で初めて翼を背に宿した瞬間を、イアンとジャンと共に目撃していた為、その事を口外しないようエルヴィンから緘口令を下されていた。それにより、調査兵団を希望しない場合は、イアンがフロックの監視も兼ねて、自身の班員として迎え入れることになったのだ。
トロスト区奪還作戦では、多くの兵士達の命が失われてしまった。従って、駐屯兵団全体で大幅な部隊の再構築が行われることになり、特段、フロックの配属に関して周りから怪しまれるようなこともなかった。
奪還作戦に向けた調査兵団への募兵に関しては、調査兵団のこれ迄の奮闘により、ウォール・マリア奪還という悲願が手の届く所まで近づいたこと、民衆を欺き偽装された王政が大きく改変されたことによって、調査兵団に対しての世間の評価が大幅に変わったこともあり、転じて来た兵士は予想を遥かに越える人数となった。しかし、それは総体的に見たら、という話で。
一次募集で編入を志願して来たのは、マルロと、フロック、そして他数名の兵士のみであり、かなり少なかったのだ。
憲兵団に対して以前から疑念を募らせていたマルロの動機は、概ね想像出来るが、フロックが一次の募集で編入を決めた事に、ハルは正直なところ驚いていたし、その理由を、フロック本人から詳しく聞いたことはなく、気掛かりではあった。ただ、何となく、聞くに聞けていなかった。
ハルは顎に手を添え、調査兵団でのフロックの様子を頭の中で振り返りながら、イアンの問いに答えた。
「…フロックは、凄く頑張ってくれています。長距離索敵陣形の座学も、巨人討伐に特化した立体機動術訓練にも、熱心に取り組んで……今や、他兵団から集まった皆のことを、引っ張って行くような存在になっています。それに、立体機動の訓練を見ていて思いましたが、フロックはとっても筋が良いんです。…ああ、いえ、違いますね。訓練兵団の時とは比べものにならないくらい、技術力が向上していましたから、イアンさんの元で、訓練に意欲的に取り組んでいた成果が、現れていたんでしょう」
穏健な瞳を細め、真面目な物言いの中に、静かな熱意や敬意を込めて、川の流れのように滑らかに話すハルに、イアンは不思議と私事のように爽快な気分になって、自然と浮かんできた笑みを口元に浮かべた。
「ふっ…そうか。お前にそう言ってもらえると、こちらも嬉しいよ」
「…あ、」
ハルははっと我に返ったように自身の発言を省みて、しまったと狼狽しながら頭を下げた。
「そのっ…すみません!と、とんでもなく私、生意気なことをっ…!」
慌てるハルにイアンは首を横に振り、準備を整え、談笑しているナナバ達に目をやりながら言った。
「いいや。情けない話ではあるが、正直なところ…立体機動の技術で、お前に勝るとは思っていない。何度も窮地に立ち、実戦を重ねている君達のようには、いくら兵士としてのキャリアが長くても、到底敵わんさ」
「(…イアンさんは、本当に聡明な人だな…)」
ハルは、腰に手を当て微笑むイアンを見つめながら、心の中で思った。イアンさんのような人が、自分の上司で居てくれたら、きっと目指すもの、進むべき道を見失わずに、日々研鑽を積んで行けるだろう。
そんなイアンさんの元を離れてまで、フロックは調査兵団に入団することを選んだ。一体、どんな強い思いがあって、何がきっかけとなって、異動を決意したのだろうか。
ハルは愈々気になってしまって、少々躊躇いながらも、訊いてみることにした。
「フロックは何故、調査兵団への異動を決めたのでしょうか……?」
その問いに、イアンは少し驚いたように眉を上げた。
「何だ…、フロックはお前に話をしてないのか?」
「え…?」
イアンの言葉に、次はハルが驚いて眉を上げると、イアンは少々思い悩んだように顎に手を当て、切長の瞳を細めて呟く。
「…フロックの体裁を守る為にも、内緒にしておくべきか」
怪訝そうに首を傾げ、見つめてくるハルに、イアンは肩を竦めると、ふっと笑みを浮かべて言った。
「…男と男の、暗黙の約束みたいなものだ。悪いが、俺の口からは話せないな」
「…あ、暗黙の……?」
ハルの首が、今度はゆっくりと反対に傾いていく様が可笑しくて、イアンは笑った。
それから、今頃は兵舎で前祝いをしているであろうフロックがいる街の方へと視線を向ける。
『フロック、お前まだ悩んでいるのか?』
講義室での座学を終え、皆が食堂に向かった後、一人席に座ったまま手元の志願書を睨みつけているフロックを廊下から見かけて、イアンは入り口から声をかけた。
『!?イ、イアン班長っ…!』
すると、フロックはびくりと驚いて、椅子を蹴るように席を立った。
『何をそんなに驚いてる。俺は野生の熊か』
イアンはフロックを揶揄いながら、講義室に足を踏み入れ、傍へと歩み寄る。
フロックは表情を曇らせ、視線を卓上の志願書に落として言った。
『…実は、まだ腹を括れてなくて…』
『…それは、括れていないというだけで、編入を志願をすることは、もう決めているんだな?』
調査兵団へ編入を募る志願書の、氏名の記入欄には、既にフロックの名前が書かれていた。そのすぐ下の、希望時期にも、第一次募集の欄にチェックマークが入れられている。
それを見たイアンが問うと、フロックは申し訳なさそうに眉を八の字にして、視線を上げた。
『すみません。俺…』
フロックが今何を考えているのか、イアンには手に取るように分かった。まだ自分の部下になって日は浅いが、フロックは感情が顔に出やすい。
『何を謝る必要がある?…もしも、俺に対して後ろめたさを感じているようなら、それは全くのお門違いだぞ』
『え?』
淡いアンバーの瞳が丸くなる。どうして分かったんですかと言いたげな表情だった。
『俺は、お前を誇らしく思っているよ。…己の身の安全を捧げてまで、他の誰かのために命を張れる。そんな勇敢な部下を持てたということがな』
イアンは講義室の壁に背中を預け、腕を組んで言うのに、フロックは体の横の拳を、ぎゅっと握り締めた。
『…っ、イアン班長』
フロックは自分の記憶を遡るように、訥々と話し始める。
『俺…、憲兵団に追われてるハルと久しぶりに会って、…アイツの、姿を…強い覚悟を見せつけられて、……ずっと胸の中で、朧げになってた、それでも確かにずっと居座ってた気持ちから、目を…逸らせなくなってしまったんです』
ふっとイアンは笑って、頷く。
『…気持ちは、分からんでもない。お前にとってそうであるように、俺にとっても、アイツは命の恩人だからな』
フロックは、イアンの言葉に眉の間を開いた。体の横に握り締められていた拳から、糸が解けるように力が抜けていく。
イアンは、フロック本人から、ハルが以前、長距離行軍訓練時に、命を救ってくれたことがあるという話は聞いていた。どうやらハル・グランバルドという人間は、昔から生粋のお人好しだったらしい。他人の為に、命を捨てられる程、途方もなく破滅的に。
『…あの日、ハルが救ってくれたのは、俺の命だけじゃ、ありませんでした』
フロックは自分の左胸に触れながら、言った。
『俺の…脆弱な性根を、打ち叩いて鍛えてくれた…と、言いますか…。…ハルの傍に居られたら…強く、なれる気がするんです。俺が嫌いな、俺自身のことを……少しは、好きになれる気がするんです』
そして、自嘲じみた笑みを浮かべながら、イアンを見つめ、肩を竦める。
『他の誰かのために命を張るとか…そんな立派な理由じゃなくて……自分の為に、調査兵団に編入をしようとしてるんです』
世間の風潮に流され、調査兵団へ異動を希望するという理由であれば、イアンは即座に止めていた。しかし、それ以上に青臭いことを言うフロックに、その気は全く失せてしまっていた。むしろ、とても好ましいとさえ思っていた。
陽光の差さない、閉ざされた世界の中でも、純粋で真っ直ぐな思いを貫こうと足掻く若者の背中を、押してやれる存在でありたい。残酷に、自由を取り上げようとする存在へ、必死に抗う者の力になりたい。それは、彼の上官としてだけではなく、単純に、人生の先輩としても、だ。
『気づかなかったよ。…フロック、お前は意外と一途で熱い奴だったんだな』
イアンは壁から背中を離し、フロックの肩を軽く叩くと、フロックは「へっ?」と間抜けな声をあげて顔を赤くする。
『いいじゃないか、それが自分の為だったとしても、自分の為にしたことが、誰かの為になることもあるさ』
『あっ、あのっ…俺、別にそういう意味で…言ったわけでは…っ』
フロックは顔を赤く染め上げたまま、居心地悪そうに表情を強張らせた。離した本人はどうやら無自覚だったようだが、聞かされた側からしてみれば、ハルへの好意があることはバレバレだった。
イアンは兵服の上着の、内ポケットからペンを取り出すと、志願書の班長許可欄へと名前を書き入れた。そして、その志願書をフロックの胸元に突きつける。
『鉄は熱いうちに打て…と、言うだろう?まぁ、お前の熱は、そう簡単に冷めるものでも無いんだろうが…』
『!イアン班長…!」
フロックは志願書を受け取り、イアンを万感の思いを込めた瞳で見つめ返した。その視線がやけに擽ったくて、イアンは苦笑を浮かべながら、フロックの背中をばしりと叩く。
『ほら、早く出してこい』
『っはい!』
フロックは深々と頭を下げ、講義室から駆け出して行った。彼は漸く、自分の足で、自分の人生を歩み出せたのかもしれない。その先が、終わりか、始まりか……その道を分け、導くのは、今度は自分でも、エルヴィン団長でもなく、ハルの役目になる。そんな予感がした。
「イアンさん…?どうか、しましたか?」
気づけば思い更けていたらしく、ハルが心配げに見つめて問いかけて来たのに、イアンははっとして、街から視線を逸らしハルと向きなおる。
そして、ハルの黒い双眸と目が合うと、まったく頭で考えたものではない、言葉がこぼれ落ちていた。
「ハル、絶対に死なないでくれ」
ハルはイアンの言葉に一拍おいて、壮健な笑みを浮かべた。
「……勿論です。死ぬつもりなんて、ありません。それに…」
トンッと、左胸に拳を押し当て、背を伸ばし敬礼をする。まるで優雅な大鷲のように凛乎として、悠然と、折り目正しく––––
「フロックのことも、死なせません」
冴えた秋の夜風が吹く、新月間近の深い闇夜の中でも、ハルの瞳は不思議と、その闇に呑まれる事なく煌めいていた。
その瞳を曇らせる事なく、強く生き抜こうとする姿は、きっとこの壁内で歩むべき道を失い、踠き苦しむ人々の道標になると確信があった。…何故ならイアンも、ハルに生きろと手を引かれ、導かれた人間だからだ。
「…あぁ。…頼む」
瞬く間に消え行く流星に願うよりも、見たことがない神様に縋るよりもずっと確かな存在へ、ただどこまでも清々しい思いで、イアンは頭を下げた。
人類の悲願の成就と、何よりも…この壁を越えて行く彼等が、無事に帰還を果たせることを願って––––
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