第五十六話
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「そこまで君が覚悟を決めているなら…私がとやかく言う資格はないな」
エルヴィンは、ハルの嘘偽りない心中の吐露を聞いて、ティーカップに手を伸ばし、口に運んだ。味が変わったと言っても、決して不味くなったという事ではない。少し冷めてしまっても、芳醇で、口当たりの良い紅茶だ。ハルがそのどちらも、得られなくなってしまったのが、残念で…本当に残念でならなかった。
ハルの言葉は不思議と、乾いた大地に降り注ぐ雨のように、何の抵抗もなく胸に響く。それは彼女が、純粋で、嘘が下手だということを、知って居るという理由だけではない。ハルが湛える瞳も、声も、湧水のように澄んで、澱みも迷いも無いものだから、息をすることさえ忘れて、聞く手は聞き入ってしまうのだ。
「私にも、夢がある………少しだけ、私の昔話を、聞いてくれるか」
「…はい」
唐突な話にも、ハルは戸惑うこと無く頷いてくれ、エルヴィンは礼を言って話を始めた。
「私の父は、教員だった」
ティーカップをソーサーの上に戻し、そう前置きをすると、深く息を吐く。
まだ少し夕暮れの色が滲んでいた窓の外も、もうすっかり夜の静寂が降りていた––––
「その日は、歴史を学んだ。…人類は巨人から身を守るために、壁に逃げ込み、100年の平和は実現された。その際、それまでの歴史を記すようなものは、何一つ残すことが出来なかった。誰もが教わることだ。私はそこであることを疑問に思い、父に質問した。だが、父は私の質問にはまともに答えず、そのまま授業は終わった。…しかし、家に帰った後で、父は私の質問に答えた。王政の配布する歴史書には、数多くの謎と矛盾が存在する、と。その後に続く父の話は、子供ながらに突拍子もないと感じられた。何故父がこの話を教室でしなかったのか察せられるほど、私は賢くなかった…。私がその話を街の子供達にして、その話を憲兵に尋ねられた日、父は家には帰って来ず、遠く離れた地で、事故に遭って死んだんだ」
察しの良いハルが、表情を曇らせる。
「中央憲兵が…?」
「ああ、その通りだ。私の密告により、父は王政に殺された。今から107年前、この壁に逃げ込んだ人類は、王によって統治しやすいように記憶を改竄された。それが父の仮説だ。父は…人の持つ欲と、愚かな息子によって殺されたんだ。…そうしていつの間にか、父の仮説は私の中で真実となり、私の人生の使命は、父の仮説を証明することになった」
エルヴィンは、自嘲じみた笑みを浮かべ、自身の掌を見下ろした。多くの同胞達の亡骸を抱えてきた手には、目には見えない血に濡れている。何度も、死んだ方がマシだと…思ってきた。それでも死ねなかったのは、頭に父との夢が、ちらついたからだ。
「…私の目的は人類の存続などと、嘯いてはいるが……本当の目的は、其処には無い。私は、多くの仲間達の命を踏み台にして、今此処に、存在しているというのに…だ。…ハル、君は…私の探している答えを、知っているんだろう?」
エルヴィンは、己の掌越しに、ハルを見つめる。
指の隙間から見えたハルは、瞳を細め、目元に苦悩を滲ませて、頷いた。
「…はい」
「…そうか」
ハルはエルヴィンが今まで必死に追い求めてきたものを、僅かな時の中で知り得てしまったことに対して、後ろめたさのようなものを感じているように見えたが、エルヴィンには、そんなことはどうでも良い事だった。
「だが、私は自分自身の力で、その答えに…辿り着きたい。自分が今まで歩んできた道を、後悔しない為にも…な」
「…団長ならそう仰るかと、思っていました」
ハルはどこか、ほっとした様子で告げると、愁眉を開いて一揖する。
エルヴィンも小さく笑みを返すと、窓の外を見遣り、ソファーを立った。
こんな話をしたのは、ピクシス指令以外、他には居ない。しかし、司令に話した時よりも、心の靄のようなものが、晴れているような感覚が不思議とあって、一方的にしてしまった話だったが、満足していた。
「悪かった。私の昔話に付き合ってもらって。…もう遅い、兵舎に戻って休んでくれ」
「は、…はい!では茶器をお下げしますね」
「いや、まだ残っている。これからゆっくり頂くよ」
解散の意を表されて、ハルはソファーを立ち、少々慌てて茶器を下げようとしたが、エルヴィンが軽く手を差し出して制する。それにハルは「はい」と頷き、足を団長室の扉へと向けたが、ふと思い立って、再びエルヴィンを振り返った。
「…エルヴィン団長」
「…何だ?」
エルヴィンは、執務机の前に移動する足を止めて振り返ると、ハルは少々沈思してから、口を開いた。
「私たち…調査兵団は、いつも綱渡りをしているようなものですよね」
「?……そう、だな」
その問いの意図を、はっきりと理解することは出来なかったが、答えを羨望するようなハルの視線を受け、エルヴィンは頷いた。
すると、ハルは自身の左胸にある、調査兵団のエンブレムを、まるで壊物に触れるかのようにそっと、指先で撫でながら言った。
「でも、渡る綱がある。ということは、誰かがその綱を、掛けてくれた、ということです。それはきっと、これまで巨人と戦ってきた多くの…仲間達の存在だと…私は思っています」
エルヴィンは、凝然とハルを見返していた。
何故だろうか、妙に、ハルのその先の言葉が、とても聞きたいと思っていた。無意識に、まるで本能とも言えるような感覚で、一心にハルの言葉に耳を傾ける。
「どんなに脆く細い綱でも、それが立派で丈夫な、橋だとしても。其処に渡る人が居なければ、何の意味も成しません。つまり…、私たちが探究心を失い、歩むことを止めない限り…命を落とした兵士達の意味は、決して…失われることはないということです」
ハルの瞳が。宵闇よりももっと深い、オブシディアンの瞳が、暗闇の落ちた世界で、唯一無二の道標のように、煌々と輝いている。
「エルヴィン団長。貴方の探究心や、好奇心は、きっと誰にも止められません。…団長が地下室に辿り着いて、夢を…叶えられた、その後にも、途絶えることは無い。それがエルヴィン団長だと、私は思います。先程の話を聞いて、より強く、確信しました」
ハルの真摯な瞳と、若木のように真っ直ぐ伸びた背中が、その言葉に嘘など無いということを、雄弁に語っている。
「幼い頃の団長がそうだったように…どんなに多くの文献が示していることでも。壁内一、いえ…世界で一番、頭の良い学者が公言する仮説だったとしても、…エルヴィン団長は、己の目で事実を確かめなければ、納得なんて、出来ない筈ですから」
「!」
その言葉を聞いて、エルヴィンは初めて、自分自身を認識出来たような気分になった。
例えるなら、ずっと中身も知らずに、ただ外見だけで後生大事に抱えてきた小箱の蓋を、初めて開けて、中を覗いた時のような…そんな気分だった。
「……ふっ」
「あ、あの…団長?」
自身の内側に秘めた人間性を、他人に暴かれ、突かれることが、こんなに爽快だと感じられるとは思いもしなかったことで、気づけば笑いが込み上げていた。
至極真面目な顔をしていたハルが、急に慌てふためく姿も相まって、とても愉快だった。
「す、まない。ははっ、…驚いて笑いが出るのは、初めての経験だよ」
そんなエルヴィンに、「はあ…」と、ハルは戸惑いの表情を浮かべていた。何かおかしなことを口走ったのではないかと、不安げな表情でもあった。
エルヴィンは、ふとハルの、兵服の右腕の、エンブレムに手を伸ばす。
もう見慣れてしまった自由の翼が、不思議と、まるで別物のように、清高なものに見えたからだ。
「…ハル、君は本当に翼がよく似合う。黒白の翼よりもずっと…自由をひたと望む…調査兵団の誇りである、エンブレムがな」
「そう、でしょうか?…私には、団長が一番お似合いだと思いますけど…」
あまり腑に落ちていないような顔で、ハルはエルヴィンを見上げて首を傾げる。そんなハルの頭に、エルヴィンは左手を乗せた。
「ハル、死なないでくれ」
「!」
ハルが、ひどく驚いた顔をして、エルヴィンを見上げる。
またらしくないと言われるかもしれないが、今抱いている感情は、何の柵も建前も無いのだと、断言できる自信があった。
「これは命令じゃない。個人的な、私情の……私の願いだ」
柔い黒髪を撫でながらそう告げると、ハルは驚き顔を、みるみると、とても嬉しそうな顔に変えて笑った。
どこか達観しているハルの、無邪気な子供のような郎笑を見る事ができて、嬉しくも、どこかほっとしている自分が居る。成程、よくリヴァイがハルの頭を撫で回している理由が、何となく分かった気がした。
…が、すっかりと和んでしまう前に、一つハルに聞いておかなければいけないことがあったことを、エルヴィンは今になって思い出した。
「…ああ、そうだ。忘れていたが」
「?」
「予備品の雷装一式、立体機動装置一式が倉庫から紛失していると、備品確認を担当していた兵士から、報告が入ったんだが……何か知っているか」
「……え?」
ハルの顔が、あからさまに引き攣る。
「な、何の事でしょっ…」
「……」
動揺のあまり、語尾を盛大に噛んだハルの目が、急流に立ち向かう魚のごとく泳ぎ出す。
「ハル、君は嘘が下手過ぎるぞ」
嘘が吐けない正直な性格は彼女の長所ではあるが、嘘も方便となる機会も、ハルが今後歩むことになる道で、訪れる時がきっと来るだろう。
そんな時、ハルは存分に苦労しそうだなと懸念しながらも、その純真さは仲間の未来を照らす道標ともなり得ると、エルヴィンは強く、確信していた。
完