第五十六話
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「…な、に……?」
エルヴィン団長の、こんなに驚いた顔は初めて見たような気がして、ハルは目元に薄らと微笑みをのせながら、自身の左胸に、掌をそっと押し当てた。
「『ユミルの愛し子』として、力を覚醒した者は…翼を背に得てから五年の内に、必ず命を…落とす、と…本には記されています。紅茶の味が変わってしまったのも……ケニーの隠れ家で目覚めた時、私は味覚の次に、嗅覚を失っていることに気づきました。それは単純に私が、死に近づいている兆候だと……いうことです」
「っ!」
エルヴィンはソファーを蹴るようにして立ち上がり、ハルを猛然と見下ろした。その顔は、酷く歪んでいる。
「っ君は…そんな事をずっと黙っているつもりだったのか…!」
「…はい」
ハルの気の無い返答を聞いて、エルヴィンは感情的に言葉を吐き出そうとしたが、既のところで唇を噛み、額を抑えた。
「っ…エレンの血の事や痣の話をするよりも先にっ、ハル…君はその事を私達に話すべきだったんじゃないのか」
荒立ちそうになる語気を噛み締めるような悲憤を投げかけられて、ハルは膝の間で手を握り、掠れた声で言う。
「話したところで、何か変わりますか」
自棄にも聞こえるような、まるで他人事のように言い放たれた言葉に、エルヴィンは堪らず瞳を大きく波立たせ、身を乗り出す。
「ハルっ!」
「団長らしくないですっ…!」
「!?」
しかし、先に続けようとした叱責を、ハルの固い声に遮られてしまい、息を呑む。
蒼黒の瞳が、ゆっくりと、口を噤んで立ち尽くしているエルヴィンを見上げる。成人したばかりのまだ若い顔に、似つかわしくない酷薄な笑みを浮かべて。
「私のこの情報が一番…話すに値しないことです」
「っ」
エルヴィンは呆然としてしまって、二の句が継げられず、ただ左手を握りしめることしか出来なかった。
ハルの表情や声音には、諦観ばかりが滲み出て、全く己を顧みようという意思が感じられない。そんな彼女に、「らしくない」と告げられて、エルヴィンは確かに、打算に塗れた自分が口にするような言葉ではなかったと、急に思考が冷静になるのを感じながら、再びソファーに腰を落とした。
ハルの、寿命の話は、感情論でいえば、今話した情報の中で一番重要なものだろう。しかし、調査兵団団長として、この先に控える人類の悲願、ウォール・マリア奪還の目的達成の為の情報としては、一番価値が無いことも…事実だった。
「君は…何故、そこまで出来る」
そう問うと、ハルは短く答える。
「夢が、あるからです」
「君の…夢は、何だ」
問いを重ねれば、ハルは自身の左首にある、ブレスレットを見下ろし、愁然と瞳を細めて言った。
「大事な人達の未来が、理不尽に奪われることの無い世界。…端的にいえば、ただ…沢山笑っていてほしいんです…もう皆に、苦しんで欲しく無い」
それから、ハルは小さく自嘲して、エルヴィンに顔を向ける。
「本音は…、その未来に、私も一緒に…居たいですけど。自分の幸せが何なのかと考えた時に…気づいたことが、ありました」
「気づいたこと?」
エルヴィンが先の言葉を促すと、ハルはティーカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲んだ。
相変わらず味も、香りもしないが、ほんのりと胸が温かくなるような…そんな気がした。
「私はただ、皆の傍に居て、同じ景色を見ていることが…幸せなんじゃなくて…」
自分は、一度生きることを、投げ出した人間だ。
巨人の足音が彼方此方で鳴り響き、人の悲鳴が鼓膜を劈いて、血の匂いがずっと消えなかった。シガンシナ区を…故郷を離れて、開拓地に行ってからもずっとだ––––
父と母が、目の前で壁の破片に下敷きになって、弟達が、目の前で巨人に喰われた。『あの日』、私は一度死んだのだ。
あまりに凄惨な現実を受け止めきれず、心がボロボロに壊れてしまった。生きるのが、ただ、辛かった。思えば、あの時も、食べ物の味がしなかった。朝と夜に与えられる、変わり映えしない粗末な配給の献立は思い出せても、その味を思い出すことが出来ない。興味がなかった。お腹が空いても、腹を満たそうという気にもなれなかった。
それでいっそのこと、死のうとしたが、出来なかった。理由は一つ。
自分は死んでも、孤独なんじゃないかと、怖くなったからだ。幼い頃、父は悪業を重ねたものは地獄に落ちると言う話をしていたのを思い出した。私はきっと、家族が居る場所には逝けない。家族が居る、天国じゃなくて、きっと…私が逝く場所は地獄なんだって、幼いながらも…確信していた。
だから、私は、開拓地で亡くなった人を埋める仕事を、請け負うことにした。それで、罪を償って、神様に許してもらえるように…そんな浅はかな考えからしたことで、死者を悼んでとか、そんな立派な考えなんか、持ち合わせていなかった。
他人の事なんて、どうでもいい。私のことも、どうだっていい。
それでも、そんな私のことを……助けてくれる人は、たくさん居たんだ。
「…雨が降ったら、その肩が濡れないように、傘を…さしてあげたい」
ライナーは、幼い頃に植え付けられた、『パラディ島の悪魔』である私に同情して、命を救ってくれた。抜け殻のようになった私を、冷たい水溜りから掬い上げて、献身的に、温めてくれた。無愛想で言葉も喋らない自分に、何度も何度も、話しかけてくれた。その、多くの痛みを、悲しみを、苦しみを抱えてきた傷だらけの両手で、私を傷つけないように、必死になって…守ってくれた。
ベルトルトは、きっと、私と関係を持つことを、アニよりもきっと、躊躇していたと思う。彼は賢くて、とても優しいから、ライナーやアニ、そして私が傷つくことになる未来を想像して、敬遠していたんだ。…けど、ベルトルトがふとした瞬間に見せてくれる、笑顔が、とても可愛くて、温かくて…冷え切った私の胸の中に、日溜まりを与えてくれた。
アニは、いつも悲しそうで、寂しそうで、私と同じように、目の前に広がる世界を、心底どうでもよく思っている瞳に、酷く惹かれた。アニは不器用で、お世辞にも愛嬌があるとは言えないけど、彼女の瞳はいつだって泣いていた。綺麗なスカイブルーの瞳には、いつも雨雲が浮かんで居た。だから私は、その雲を追い払って…太陽の光を浴びて輝くのが見たくて…放っておけなかったんだ。
「風が強くて、前に進めない日は、その手を掴んで…引いてあげたい」
サシャは、私の力の源だ。彼女が、食べ物が生きる為の燃料だと言うように、私はサシャの笑顔を食べている。味がしない料理より、香りがしない紅茶よりもずっと、彼女の笑顔が私のご馳走だ。サシャが居る場所は、朝露に濡れた草原が、日を浴びているみたいに、いつも輝いて見える。世界が、綺麗だって…そう思える。
コニーのことは、きっと本人に言えば怒られるだろうけど、弟みたいに思っている。何度失敗しても、痛い目にあっても、倒れたままでは絶対にいない、丸底人形のような強さがあるけれど、感受性が豊かな彼は、人よりも強く感情が揺らいでしまう。そしてその苦しみを、他人に悟られないように胸に抱えて居る。コニーのそんな姿を見て居ると、私は彼を、すごく守ってあげたくなる、力になって、あげたいと思う。弟を守れなかった過去の罪悪感だけではなく、ただの、一人の友人としても。
「雪が降れば、寒くないようにマフラーを巻いてあげたい」
ミカサは、きっと、誰よりも純粋で、一途な子だ。毎日必死に身体を鍛えるのも、全てはエレンの為。家族だからって理由だけじゃない。ミカサにとってエレンは特別、一等大事な人だから。自分自身じゃない、他の…自分の命よりも大切な人を守るために、戦うミカサの姿を、私は心の底から尊敬しているけれど、それと同じくらいに、心配だった。その強さの裏にある、荒涼や葛藤は、彼女の心の温度を奪うばかりだ。私はそれを良く、知っているから。だから、私が君を、温めてあげたい。
ヒストリアも、そうだ。人を悼み、労わる心がある彼女は、自分を決して聖人とは思っていない。けれど、その聡明さは、調査兵団の兵士としての志を抱いたままに、人々を導く女王としての冠をかぶることから逃げなかった事実が証明している。ヒストリアは、本当に…格好良い。今まで傍に居た仲間達から離れても、その責務を全うしている。周りから雑言を吐かれることも有るだろう。それでもヒストリアには、心に確かなものがあるから、揺らいだりしないのだ。…私も、そういう人間になりたい。
「悪夢を見て魘されていたら、その苦しみを…一緒に分かち合いたい」
アルミンは、いつも心の中で、自分自身と戦っている。絶死の戦場に投げ出されれば、私情で動くことは、さらに多くの仲間の死を招くことになる。何度も心の中で葛藤を繰り返しながら、アルミンは常に、選択しているのだ。人類の未来の為…、いや、きっと、違う。夢の為だ。今まで見たことがない、広大な海や、砂の大地、燃え盛る山、氷の大地を……世界を旅する為に。其処には未来だけじゃない、確かな希望がある。私たちが苛烈な戦場で削ぎ落とされ、失いかけているそれを、アルミンは何よりも大事に、落とさぬように手に握りしめている。その希望の灯火を、私は…決して消したくない。消させたりなんて、しない。
フロックには、不思議な力がある。人の気持ちを動かすような原動力と、筆舌し難い…思いの、意志の強さだ。彼は、自分の信じるものの為なら、まわりからどんなに憎まれ、避難されようとも、己の全てをかけて、その信念を突き通すだろう。それは危うい強さでもある、自分を破滅に導くかもしれない。だけど、私は、そんなフロックと一緒なら、どんな困難でも乗り越えられると、確信している。…あの日、トロスト区が襲撃を受けた時も、私が補給等へ辿り着けたのは、フロックが傍に居てくれたからだ。あの時フロックが、私の元へ来てくれなければ、…仲間達の顔を見る事なく、死んで居たかもしれない。フロックは私のことを、命の恩人だというけれど、そうじゃない。フロックが、私の命の、恩人なんだよ。
エレン、君は…ずっと悪夢を見て苦しんでいる。残酷な世界に生きる、多くの人達の断末魔を、苦鳴を噛み殺し、その体に飲み下している。誰よりも優しい君は、その声に耳を塞ぐ事は出来ない。だから、私が…君を救い出す。今よりもずっと、苛烈で惨虐な地獄を知るその瞬間が来ても、絶対に、一人で苦しませたりなんて、しない。それが、『エレン』との、約束だからだ。
「悲しいことがあって、涙が…流れそうになったら、この手で拭ってあげたい。何度でも…」
ジャンは…
君は…、私の、心臓だ。
私の、全てだ。
私の、心の奥にあった氷の塊を溶かしてくれたのは、ジャンだった。でも、その凍てついた心の核心が溶けていくのは、とても、叫び出したくなるほど……痛かった。私の存在まで、一緒に消えてしまいそうな気がした。
私の、醜く臆病な姿を、他人に晒すのが、酷く…怖かった。
それでも、ジャンは私の全てを受け止めて、抱きしめてくれた。
澱んだ泥沼に沈んだ私の心を、ジャンはいつだって躊躇なく腕を差し込んで、引き上げてくれた。
人が無意識に敬遠することも、逃げ出したくなるような責務だって、彼は率先して引き受ける。何故ならは、ジャンには選択を迫られた時、どうすることが正しい事なのか、誰よりも早く、理解出来るからだ。…出来て、しまうからだ。
だからこそ、ジャンは人一倍に傷つき苦しむ。そして彼の人間らしさは、人を惹きつける。人から頼られる事が、辛く恐ろしい事だと分かっていながら、それでも…逃げることは絶対にしないんだ。
そんな君が見せる、弱さや不安も含めて…そのすべてが、愛おしい。他の誰でもない、私が…君の涙を、そばで拭ってあげたい。触れていたいんだ。いつか迎える、私の、最期の瞬間は……君の心に、存在に……触れていたい。
「…皆が、私にしてくれたように。
…最期の瞬間まで、そうやって生きていたいんです」
それが今の私の、全てだから。
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