第五十六話

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 平時は騒々たる調査兵団施設内も、夕食時になれば、食堂以外は講義が行われる教室の中のように静謐とする––––


 ハルは人っ気の無い廊下を、コツコツとブーツの靴底で鳴らしながら歩き、エルヴィン団長から召集をかけられた訳合を考えていたが、答えを見出す前に、団長室の立派な両開き扉の前に辿り着いてしまって、一度喉の調子を整えてから、訪いの声をかけた。

「エルヴィン団長。グランバルドです」

「ああ、入ってくれ」

 すぐにエルヴィン団長の返答があり、他の部屋よりもひと周り大きく頑丈なドアノブを捻って、重い扉を押し開く。

「失礼します。お呼びでしたか、エルヴィン団長」
 
 室内へと足を踏み入れて、ハルは流れるような敬礼をする。

 団長室の、壁際に沿うように並べられている背の高い本棚には、ぎっしりと隙間なく様々な本が並べられていて、まるで壁紙のようになっていた。調査兵団本部の団長室よりも、まだ幾分本は少ないが、いつ見ても圧巻の景色だ。

「すまないな、急に呼び出してしまって」

 エルヴィン団長は、室内の奥にある大きな開き窓の前に、ハルに背を向ける形で立っていた。窓の外は、夕日が沈み始めている。そろそろ、警備担当の兵士が、兵団施設を廻って篝火を灯し始める頃合いだろう。
 

「奪還作戦の前に、どうしても君と、話をしておきたいことがあってな」


 エルヴィンはいつも通りの落ち着いた口調ではあったが、その中でも意味深長と告げながら、ハルを振り返った。

 夜が滲み始めた窓を背にしても、清潔に整えられた金髪と、ライトブルーの瞳が、彼の威厳と存在感を体現しているように、凛々しく光っている。

「話しておきたいこと…ですか?」
 
 エルヴィン団長の真摯な瞳と視線が合い、自然と背筋が伸びるのを感じながら、ハルは歯切れ悪く問い返すと、エルヴィンは「ああ」と頷く。それから、視線を自身の執務机の上へと落とした。

 机上には、淡い露草色で、月明かりに照らされた花の模様があしらわれた上質なティーポットと、カップが置かれている。

「その前に、悪いが…紅茶を淹れてもらってもいいだろうか?昼にリヴァイに淹れてもらったんだが、飲み切ってしまってな」

「は、はい!すぐご準備します」

 頬に申し訳なさそうな苦笑を浮かべるエルヴィンに、ハルは速やかに執務机に駆け寄ると、ティーポットとカップを回収し、一旦団長室を出て近くの給湯室へと向かった。

 
 薄い陶器のティーポットやカップを、割らないよう丁寧に洗いながらも、エルヴィン団長に紅茶を淹れてほしいと頼まれたのは、初めてのことだなと、ふと気が付く。

 エルヴィン団長は、自分の身の回りのことは自分で熟す性分であり、団長という権威を利用して、人を遣うことはあまりしない人だった。紅茶を飲みたくなれば、それも自分で、以前は用意していたのだ。…しかし、今は利き腕を失ってしまい、思うように動くことが出来ないのだろう。団長が普段、もどかしい思い重ねているのだと思うと、胸が痛んだ。

「(…エルヴィン団長、どうして、急に私を呼び出したんだろう)」

 湯を沸かし、ティーポットに茶葉を入れながら、何時もは要件だけを手短に話すエルヴィン団長に違和感を抱いて、ハルは思考を巡らせたが、集中力を欠いて紅茶を上手く淹れられなくなりそうで、考えるのをやめた。

 ハルも以前のように、茶を淹れる際、何気なくしていた考え事が出来なくなっていた。時間を頭の中で数えていないと、リヴァイから教えてもらった通りの味で、紅茶が淹れられなくなってしまったからだ。以前は味覚が無くても、香りで感覚を掴んでいたが、それを失った今は、余裕が無くなってしまった。
 

「お待たせしました。どうぞ、熱いと思うので気をつけてください」

「ありがとう。頂くよ…」

 ハルが出してくれた紅茶を、エルヴィンは執務机の前の来客用のソファーに座り、ローテーブルの向かいのソファーにハルも座らせてから、紅茶を口に運んだ。


「…ん。美味いな」

「ありがとうございます」


 ハルはほっとして微笑んだが、エルヴィンも微笑みを浮かべてすぐに、瞳を僅かに細めると、手元のティーカップの中の、飴色の紅茶に映る自身の顔を見下ろしながら、固い口調で言った。


「リヴァイが、君の淹れる紅茶の味が、変わったと言っていた」

「!」


 不意に話の口火を切られ、ハルは自分も紅茶を口に運ぼうとしていた手を止めると、息を呑んでエルヴィンを見た。

 常々、波打つ事が殆ど無い、鋭い瞳と目が合って、ハルは何かを言おうとして口を開いたが、言葉が出てこずに、結局口を引き結んだ。

 そんなハルの反応を見て、エルヴィンはティーカップをソーサーの上に静かに置くと、膝の上に肘をつき、手を口元を寄せ、皮膚の内側を探るような視線を包み隠す事なく湛えながら、慎重な口調で問いかけてくる。

ハル、君は…リヴァイが何か言わない限りは、紅茶の淹れ方を変えるようなことは、しないだろう。修道院の地下から戻ってきて、どうして突然、味が変わった?」
 
「……」

 ぐっと部屋の空気が重みを増したように感じて、ハルは息苦しさに、眉間に浅い皺を寄せた。

 穿鑿をされて気分を害しているというよりは、困苦しているというのが正しいだろう。

 ハルもエルヴィン同様に、ティーカップをソーサの上に戻すと、徐に膝の間で手を組んだ。

「…話したい事とは、この事ですか?」

 力がなく、吐息のような声は、向かいに座るエルヴィンに漸く聞こえる程の声量だった。

 エルヴィンは肯定も否定も言葉にはしなかったが、静かに一度、大きな瞬きをした。それを見たハルは、「そうですか…」と、ひどく脱力した様子で両肩を落とす。
 
 風向きを測るような沈黙を破ったのは、口元に手の甲を押し当てていた、エルヴィンの方だった。
 
「……、奪還作戦に向けて、度重ねてきた戦略会議でも、君は我々が思いつかないような観点から、対策案や戦略を提案していた。…君が、聡慧であるのはよく知っているが…ライナー達や、獣の巨人について得ている情報量は私達と同じである筈なのに…君は、どうにも我々以上のことを、知り得ているように見える。…何か、隠しているんじゃないか。ハル

 胡乱げに、質問に質問が連ねられていくのを聞きながら、ハルは内心で腹を括っていた。

 勘が鋭く明敏なエルヴィン団長に、隠し事をするのは容易ではないと理解してはいたが、ここまで問い詰められてしまっては、これ以上誤魔化すことは不可能だろう。

「……エルヴィン団長。他の誰にも、この話はしないと…約束していただけますか」
 
 ハルは緊張した声音で問うと、エルヴィン団長は表情こそ変えないが、しっかりと頷きを返してくれた。

「ああ」

 エルヴィン団長の瞳はどこまでも直向きで、誠実な色が浮かんでいて、ハルも無駄にかまととぶることはせず、自身の右頬に指先で触れながら、訥々と話しを始めた。

「以前、私は修道院の地下で、エレンの血を飲んだ話をしました…それで、右頬に浮かんだ九つの痣の、一つが黒くなったということも…」

「…そうだ」

 前置きに対して、短い相槌を打ったエルヴィン団長に、その先の話をどう伝えようかと言い惑う。「…それで、その」と少々まごついてしまったが、何とか話の道筋を組み立て、口を動かした。

「しかし、本当は…エレンの血を飲んだことで、私の身に起こったことは…それだけではありませんでした。…エレンの血を飲んだ直後のことです。私は意識を失って、その中で未来の『エレン』に会ったんです」

「未来の、エレンに…?」

 エルヴィン団長の、冬の澄んだ空を溶かし込んだような瞳が、珍しく丸くなるのを見つめながら、ハルは「はい」と頷き、あの時に感じた匂いや、触れたものの感触を思い起こそうと、自身の掌を見下ろす。

「…それが夢であったのか…でも、夢にしてはやけに現実味のあることでした。理由は、その場所の匂いや気温、ものに触れた時の感触までが、現実のことのように感じられたんです」

「…続けてくれ」

 話の先を促すエルヴィン団長の瞳には、早々に喫驚が消え失せ、好奇の色が浮かんでいる。それを団長らしいと心の片隅で思いながら、言葉を連ねた。

「私が出会った未来の『エレン』は、今よりも大人びていて、正確には四年後の姿をしていました。…その、夢の中で、『エレン』は私に触れて、彼自身が今まで歩んできた時の縁…記憶を、共有したんです。それと同時に『エレン』も、私の記憶を共有することになりました」

「……と、いうことは、つまり……」

 エルヴィンは緩慢に、ソファーの背凭れに体重を預けるようにして寄りかかかった。ギシリと、ソファーが苦悩したように軋む。

「…この先で何が起こるのか、君は全て、知っている。ということなのか」

「はい。…でも、知らないんです」

「…どういうことだ」

 エルヴィンが瞳を細める。

 ハルは、沈痛に表情を歪めると、背中を折り曲げ、膝の間に固く組んだ手を、額に押し付けるようにして言った。
 
「『エレン』の記憶の中に、私は存在していなかったんです。つまり、私が…関与していない世界線の未来だった。ですから、…今まで起こった事も、『エレン』が見ていた未来とは違う進み方をしていたんです。…『エレン』の未来では、今回、ニック司祭の保護の件でご助力くださった駐屯兵団のイアンさんも、トロスト区奪還作戦の際に命を落としていて、第57回壁外調査では、シスさんやネスさん達も亡くなり、ミケさん達も…獣の巨人にやられています。ニック司祭も、トロスト区の兵舎で憲兵に……っ」

 悲痛な響が滲むような、口吻を漏らすハルに、エルヴィンは波立った自身の思考を何とか纏めようと、静かに一度、瞬きをした。

 ハルが、このような凄惨な話を、偽って語るような人間ではないということはよく知っている。だからこそ、如何に信じ難い話であれ、ハルが嘘を話しているという認識に至ることはない。それに、これまで目を疑うような事象や光景は、何度も目にして来たのだ。今更、驚愕するようなことでも、きっと無いのだろう。

 エルヴィンは、ティーカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲んでから、肺腑から息を吐くように言った。

「…君は未来を知っているが、その未来通りに事が運ぶとは限らない。と、いうことか…」

「はい」

「…何故、今まで話さなかった」

 エルヴィンが板張りの天井を仰いで、静かに問うと、ハルは額に手を押し当てたまま答えた。

「…未来の話をすることで、道筋が大きく変わってしまうのではないかと、懸念したからです。『エレン』が見せてくれた記憶と、大きく道筋が変わってしまえば、私が事前に対応策を用意出来なくなりますし……」

「君は、一体何が目的なんだ」

「…え?」
 
 ハルは息を呑んで、瞳を丸くする。

 エルヴィンは天井を仰いでいた顔を下げ、ハルを射抜くような視線で見つめながら、固い口調で問い質した。

「君が兵士として、ウォール・マリア奪還作戦を成功させようと考えているのなら、未来で起きたことを鑑みて、対策案を思案した方が、より強固な戦略を形成出来ると思わないか?それを、しようとしなかったということは、何か君自身にとっての目的に、弊害が出る可能性が、あると危惧したからではないのか?」

 正鵠を射るエルヴィンの弁舌に、ハルは思わず浮き足立ちそうになって、ぎゅっと自分の体を抱くように両腕を抱えた。

「……団長は、怖い人ですね」

「そうか?私からしてみれば、君もそうだが」

 エルヴィンの言葉に、ハルは肩を竦めて苦笑する。

 それから一度深呼吸をして、全てを話す覚悟を決めると、エルヴィンを見返しながら、胸襟を開いた。

「ライナー達の血が必要なんです。出来るだけ、早くに…」

 その発言に、エルヴィンは小さく息を呑んだ。

「修道院の地下にあった…ロッド・レイスの所持品を持ち出したケニーから、渡されたものが、注射器以外にも一つ、ありました。それは、一つの古い本です。今は手元にはありませんが、内容は…まるで御伽噺のようで、日記ともいえるような…ものでした。其処には私の…『ユミルの愛し子』の力を得た、はじまり・・・・の者のことが、記されています」

 エルヴィンは口を引き結んで、じっとハルの話に耳を傾けている。

 ハルは、これまで調査兵団を導いてきたエルヴィンのことを深く、尊敬している。が、こういう、逃げ場を塞いでくるような、物々しく言えば虎鋏のような視線を向けられるのは、正直苦手だった。

 ハルは視線が泳ぎそうになるのを堪えるために、ぎゅっと自身の腕を握る手に力を込めて、話を続けた。

「私の力は、巨人の動きを封じるだけではなくて…この世界に継承された九つの巨人の力を持つ者の血を、体内に取り込むことで、真価を発揮します。…それは、歴代の継承者の時を遡り、干渉する力。私は、その力を得て、巨人の力の根源を断ちたいんです。その為に私は、今回のウォール・マリア奪還作戦に現れるであろう、鎧、超大型、獣…そして、車力の巨人の血を得られるように…どうしても、立ち回りたかった」

「…車力の巨人とは…一体どういう巨人の事だ」

「長時間、巨人の姿を維持でき、また巨人化した状態でも、言葉を話すことが出来る巨人です」

 エルヴィンの眉間に、難儀な皺がぐっと寄る。

「…我々は、今回の奪還作戦で、四体の知性を持つ巨人と争うことになるということか」

「確証はありませんが、あくまでも…『エレン』の記憶では、そうなります」

「君が戦略会議で、相手方の斥候を過剰に気にしていた理由が、よく分かったよ」

 エルヴィンが眉間に寄せた皺を、ギュッと指先で摘んで唸るように言うのに、ハルは負い目を感じて、肩を落とす。

「……すみません」

 エルヴィンは乾いた喉を一度潤そうと、紅茶を口にする。

 四年後の未来を知っていると突拍子も無い事を暴露されて、聞きたいことが湧水のように湧いてくる。もしかすると、今まで追い求めてきた世界の真実についても、ハルはもう知っているのかもしれない。
 
 しかし、それを今ハルの口から聞いてしまうことは、いけないことのように思えた。何故なら、この真実を知る為に、今まで多くの兵士たちの命が失われて来たからだ。彼らを率い、その大勢の仲間の命のうえに立っている自分は、自らの力でその真実に辿り着かなければ、彼らに面目が立たない。

「…聞きたいことは山程あるが、君が事を急く理由はなんだ…?」

 ハルは、緊張で冷えている掌を温めるように、ティーカップを持っていた。其処に描かれている、艶やかな花の模様を、親指の横腹で、撫でるように触れる。


「……私には、時間がありません」


 花は咲けば、いつかは枯れるということが、当然の因果であるように……


「…残された寿命があと、五年も無いんです」


「!?」


 全く思い設けていなかった、全身の血を抜かれるような告白を受けて、エルヴィンは絶句し、もうこれ以上ないほどに、両目を見開いた。



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