第五十五話

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 落ち葉の焦げた匂いと、耳馴染んだ同期達の声を聞きながら、秋を着飾ったイチョウや紅葉が、風が吹くたび辺りに舞い上がる景色の中で、ノーカラーの白いシャツを纏った、清廉な背中を見つめた。


 兵士に似つかわしくない華奢な背中は、シャツの肩口や腰元に、皺を寄せていて、陶器のように滑らかな頸のそばでは、乾いた秋風に黒髪がさわさわと揺れ、より一層、その白さを際立たせていた。


「お前は、食べないのか?」


 ジャンは、食堂へ追加の芋を補給に向かったサシャと、その後を追うマルロの背中を見送っているハルに、声をかける。

 短い黒髪の毛先をふわりと揺らして振り返ったハルは、溶けかけた飴のように瑞々しい瞳を、やんわりと細めて微笑んだ。


「うん。みんなが食べているのを見てたら、お腹が一杯なんだ」

「でも、さっきから焼いてばっかりだろ。俺が代わるから、ちょっと休めよ」

「大丈夫。結構楽しいんだよ、これ」


 ハルは手にしていた木の棒を軽く振りながら、見ている側の人間が、気が抜けてしまいそうな微笑みを浮かべながら言うのに、ジャンは呆れて肩を竦めた。自分の腹に入らない芋を焼き続けることの何が楽しいのか、と言ってやりたくもなったが、聞いたところで無意味だと思い留まる。

 ハルグランバルドという人間は、昔からそういう奴なのだ。


「…頬に煤が付いてる」


 功労の証か、ハルの白い頬に煤汚れが付いているのが目に入ったジャンは、徐に手を伸ばした。親指の腹で拭い取ってやろうとしたが、煤汚れは伸び滲んだだけで綺麗に拭えず、逆にハルの頬を汚してしまって、慌ててポケットからハンカチを取り出す。

「汚れちゃうよ」

「別に、洗えばいいだけだろーが」

 申し訳なさそうに言うハルを軽くあしらって、細い右肩に左手を置いて、体を屈め、汚れている左頬をハンカチで拭う。

「か、顔が近いな…っ」

 絹のように木目細かな頬が擦れてしまわないように、用心しながら煤を拭き取っていると、無意識に顔が耳元に寄ってしまっていたようで、ハルが緊張したように身じろぎをして言った。間近にある形のいい耳の先が、ほんのりと頬紅色に染まっていて、ジャンはその愛らしさに、自然と目元を緩ませる。


「んだよ、照れてんのか?」


 思わず揶揄ってやりたくなって、すっかり綺麗になったハルの左頬に、自分の左頬を寄せて、赤い耳元に囁いてやると、小さく息を呑んだ気配がして、視線を落とす。

 白く柔らかそうな首筋が目に焼け付いて、噛みつきたくなるような衝動が背中から這い上がってくるのを、奥歯をぐって噛んで耐える。

 そんなジャンの胸中も知らずに、ハルは鈴の音のような声で、問いかけて来た。


「君は、違うの?」


 視線を持ち上げてハルの顔を見ると、瑞々しい黒目と視線が絡み、噛み締めた奥歯の下で、ぐぅっと喉が鳴る。心臓の鼓動が、足をもつれさせたみたいに、急に早くなるのを感じた。


「私は、君の顔が近いってだけで、その…背中が、…そわそわするんだ。…それって、どうかしているのかな」


 ハルはそんなことを、長い睫毛の影を目元に落とし、口元に手を添えながら、頬をほんのりと赤く染めて、吐息をつくように言った。


 心臓を直接殴られたような衝撃が、全身に駆け巡る。


 ぁあっ、だからなんでコイツは、こんな可愛いんだ!愛おしさを通り越して、最早腹立たしさに変わってくる。心の中で盛大に悶えながら、両目を手で覆って、天を仰いでいるジャンを、ハルは不思議そうに見つめて、首を傾げた。


「何してるの?」

「目が溶けた」

「……、なんで?」

 困惑に表情を曇らせていたハルだったが、ふと、ジャンの肩に、イチョウの葉が乗っているのに気がついて、腕を伸ばす。


「ジャン、イチョウの葉が付いてる」


 ハルはそう言って、ジャンの肩からイチョウの葉の柄を指先に掴んで、手に取った。

 深い黄土色が、夕日を受けて琥珀色に艶々と輝いているのを見つめながら、ハルはその葉にそっと唇を寄せる。


「綺麗な色。今の君の、ひとみの色とそっくりだ」


 イチョウに微かに触れるだけの、柔らかな口づけをして、うっそりと微笑んでいるハルの顔を、指の隙間からちらりと見たジャンは、今度は肩から深く項垂れた。


 落とした視線の先の、自分の靴の上に、真っ赤な紅葉が音もなく舞い落ちてくる–––


「…すげぇ、口説き文句だな」

「口説いてるわけじゃない。ただ、思った事を言っただけで…」

「だったら尚更、熱烈だぞ。…同じこと、やって見せてやろうか?」

「え?」


 ジャンは躍起になって、足元に舞い落ちてきた紅葉を拾い上げると、きょとんと目を丸くしているハルに視線を送りながら、先程のハルと同じように、紅葉へそっと、唇を寄せて言った。


「綺麗な色だな。お前の、照れた時の耳の先と、そっくりな色だ」


「…っ」


 すると、一拍置いてから、ハルの顔がぼっと火がついたように赤くなった。あわあわと口を開いては閉じた後、肩に力を入れて、羞恥で震える声で弁解を始める。


「っ…君は、今そう聞こえるように、意識して言ったでしょう?わ、私は違うからっ…!」

「へぇ、無意識でこんなことが言えるのか?凄いな。俺は歯が浮いちまいそうだったってのに」

 ニヤニヤと笑いながら、手にしている紅葉をひらひらと振って見せるジャンに対して、ハルは唇をぎゅっと、一文字に結んだ。それから、ふいっと大きく顔を逸らす。

「……」

「…なんだよ、怒ったのか?」

 珍しく拗ねたような態度を取るハルの、逸らされた視線を追うように顔を覗き込む。すると、ハルはジャンの顔を一瞥したの後、踵を返し、腕を組んで背を向けた。

「…怒ってない。何を言っても言い返されるから、口を閉じているだけ」

「開いてるけどな」

「っ、君がっ、話しかけて来るからっ…!」

「?」

 ハルはムッとして振り返り、ジャンに向かって声を上げるが、その言葉の尻で息を呑んだ。同時に目線が手元に下がるのを追いかけて、ジャンも視線を下げると、木の棒を掴んでいるハルの右掌から、微かに血が滲んでいるのが見えた。

「…切った?」

「…木の枝のささくれに、少し引っ掛けただけだよ。別に大した事ない」

「見せてみろ」

 ジャンはそう言いながらも既に、ハルの手から木の棒を奪い取って、足下に放り投げていた。その乱雑さとは反して、細い右手首を優しく取る。握りしめられている手を開くように視線で促すと、おずおずと開かれた掌の、親指の付け根部分から、真っ赤な血が滲んで、流れ出していた。


「大丈夫だよ、直ぐに塞がるから」

「棘が刺さってたら、中に残っちまうだろ」


 他人事のように言うハルの言葉を、ジャンは固い口調で遮る。紙で切ったような細い切り傷に目を凝らすと、赤い湖の中に溺れている、木の棘が見えた。

「ああ、やっぱり残ってんな。…結構、奥に入っちまってるから、痛むかもしれねぇけど…少し我慢してくれ」

 棘が刺さっているハルの掌を、親指と人差し指でぎゅっと挟み込む。圧迫されて傷口から血がじわじわと溢れ出てくるが、木の棘も幾分か取り出しやすくなった。ハルが痛みで息を詰める気配がしたが、傷口からは微かに蒸気が上がり始めていて、もたもたしていると棘を残したまま傷が塞がってしまうと、ジャンは棘を押し出していないもう片方の手で、爪を立てながら、棘を取り出す。

「っ」

「…よし、取れたぜ」

 ジャンは取れた棘を掌に乗せて、ハルに差し出して見せると、ハルは血が滲んでいない方の掌を、ジャンの眼前に制するように突き出した。

「待って」

「あ?どうし、…っ」

 切羽詰まった声に、最後まで問おうとして、息を呑む。

 細い指の隙間から見えた、ハルの瞳が、ひどく波打っていた。

 棘が刺さっていた自身の掌を、食い入るように見つめて、荒々しい衝動を噛み締めるような、苦しげな声で言う。


「ちょっと、まずい…っ、かもしれない」

「!」


 その言葉を聞いた途端、ジャンは考えるよりも先に、眼前に差し出されていた手を掴んで、兵舎の方へと歩き出していた。

「あれ、ジャン?何処行くの?」

「ちょっと用事思い出した。気にしないで続けててくれ」

 ハルの腕を引いて、急に場を離れて行くジャンに気がついたアルミンが声をかけたが、ジャンは振り返らずにそう言い残し、荒い足取りで歩いていく。

「あっ、あの、ジャン…?」

「黙ってろ」

 ハルは戸惑いながら、ジャンの背中に声をかけたが、固い声に遮られてしまって、思わず口を閉じてしまう。…ジャンの、手首を掴んでいる大きな手が、酷く熱い。


 会話も無いまま、やがて兵舎に辿り着くと、ジャンは階段を登って、五階にある自身の部屋の扉の前に、ハルの背中を押し付け、覆い被さるように、頭の上に片腕を付いた。

 調査兵団本部の兵舎とは違って、トロスト区の兵舎の、ジャンとハルの部屋は、他の兵士達と同じ階だった。監視役のジャンの部屋は、ハルの部屋の隣だが、その隣も、他の兵士たちが使用している。


「っ急に、どうしたんだ…お、怒ってるの?」

「ぁあ、怒ってる」

「なんで…っ」

 ハルは、ジャンに迫られている状況を、他の兵士に見られたくなくて、辺りを忙しく見回し、慌てていた。

「ジャン、人が来るからっ…少し離れて、」

 耳が良いハルは、誰かの足音がこちらに近づいてくるのに気づいて、体を寄せてくるジャンの胸元を手で押した。

 しかし、ジャンは構わず腰を折って、ハルの首筋に唇を寄せる。


「別に、見られたっていいだろ?俺達は恋人同士で、今日は非番なんだから」

「でもっ、」

「恥ずかしいなら、中に入るか…?」

 ジャンは低い声で言って、ハルに体を寄せたまま、壁に付いていない方の左手で、いつも身に纏っている深緑のシャツの胸ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込む。

 背中で、かちゃりと鍵が外れる音がして、ハルは小さく息を呑んで、ジャンの顔を見上げた。

 ジャンは鍵穴から引き抜いた鍵を胸ポケットにしまい込むと、当惑して震える視線を向けてくる、ハルの右手を取って、後ろ手にドアノブを握らせる。


「鍵はあいてる」


 ジャンはそう、琥珀の瞳を緩く細め、ハルの耳に唇を擦り付けるようにして囁く。

「っ」

 ハルは、背中がぞわりと震えて、全身が熱くなるのを感じた。

 階段を登ってくる足音が、もうすぐそこまで来ている。

 ハルは溜まらず、掴まされていたドアノブを捻った。

 それと同時に、ジャンは雪崩れ込むようにハルの体を自身の部屋へと押し入れた。足をもつれさせるハルの体を、今度は扉ではなく、自室の壁に押し付ける。

「ジャンっ、待って…!」

 腰に逞しい腕が絡みついて、肩を掴む手を解こうと、ハルはジャンの胸を押した。しかし、その両手の手首をがっしりと掴まれ、容易く、顔の横にダンと押し付けられてしまう。

 ハルは懸命に身を捩ったが、いくら鍛えているとはいえ、同じ兵士でも男と女の腕力では埋められない力の差で、びくともしなかった。


「一体どうしたのっ…!」


 そう問いかけてすぐ、獲物を追い詰めた獣のように、爛々と光る二つの瞳と視線がかち合って、ハルは息を呑んだ。
 ジャンはその瞳をぐっと細めて、舌を噛み切るような口調で言った。


「お前が、エレンの血を飲んだって…ハンジさんから聞かされた時からずっと…!俺の血を飲んで欲しかったって言ったら……軽蔑するか?」


 ハルは、ケニーから見せられた本の内容と、『エレン』の記憶を見たことは省いてだが、連れ去られた修道院の地下で、エレンの血を口にしたことについては、エルヴィンやハンジ達に開示しており、ハンジからジャン達へと、伝えられていた。


 ジャンはその話を聞いた時、表に出す事は辛うじて無かったが、内心では嫉妬の感情で、頭がどうにかなりそうだった。


「ど、うして」


 惑い、どこか怯えた視線を向けて来るハルの、喉元に唇を押し付けて、ハルの体温を感じる。ぁあ、この体に。俺じゃない奴の血が入ったなんて。繽紛たる火の粉を撒き散らして、業火が腹の中で燃える。

 ジャンは、自分の中の凶暴な獣を飼い慣らそうと、なけなしの理性を懸命に引き留めながら告げた。


「なぁ、ハル。俺は、お前が口にする初めての血は、俺のものであって欲しかった。死に急ぎやろうの血なんかじゃなくてっ、俺のっ…!」

「ジャン…!」


「……どうかしてるって、思うか…?」


 自嘲じみた笑みを浮かべて見せるジャンに、ハルは腹でも刺されたような顔をして、目を伏せた。
 それから、大きく一度深呼吸をした後、緩慢に視線を持ち上げて、ジャンの両頬を、両手で柔く挟んだ。

 ハルの掌からは、優しさが伝わってくる。哀れまれていると感じた。それでも、良かった。ハルが自分に向けてくれる感情全てが、ジャンは、愛おしかった。

 
「…今、君が言ったことを、想像してみた。もしもジャンが……私じゃない誰かの血を飲んでいたら…どんな気持ちに、なるのかなって…。想像したら、ひどく胸が……苦しくなった。君に、無神経なことをしてしまった。…傷つけて、嫌な思いをさせて…本当にごめんなさい」

 とつとつと紡がれる言葉一文字一文字を、ジャンは飲み込んだ。どれも誠実な味がして、身に柔らかく馴染んでいくようだった。

 それでも、ハルのことを、離してやろうという気にはなれなかった。


「俺がして欲しいのは、謝罪じゃねぇ」


 ハルの右手首を解放して、ジャンは小さな唇に、手を伸ばした。柔らかな上唇を親指で撫でつけて、ハルの犬歯に、触れる。


「…分かるだろ?ハル。俺がお前に、どうして欲しいのか」


 無意識に、声に低い唸るような響きが混じる。


––––深い夕日の色が、窓から差し込んで、狭い部屋の中を染め上げている。


 ハルは大きく目を瞠って、身震いするように、夕日の色を上塗りした、蒼黒の瞳を震わせた。白い犬歯に触れている手に、はあと熱い、吐息がかかる。


「っ」


 ハルの瞳は、確かに血を欲しがっているのに、ハルはその感情を、体の奥に沈めようと、必死に足掻いて、顔を歪めている。


「我慢するなよ」

「っするに、決まってる…!ずっと、そうして来たんだっ…!」


 ハルは湧き上がる煩悩を振り払うように、頭を大きく横に振って、頭の後ろを壁に押し当て、顔を両手で覆った。その掌の内側で、ぐっと奥歯を噛み締め喘ぐ。


「君の血が飲みたいって、今までどれだけ、思ってきたかっ…知らない、くせにっ…!」


 その言葉だけで、胸の奥が、ひどく昂った。


「俺の血が、飲みたかったのか…?」

 
 上擦った声で、問い返す。


 ハルが、掌で覆っていた顔を、ゆっくりと撫で下ろした。

 露わになったくろいひとみの前で、錦糸のように細く柔らかな前髪が、陽炎のように揺れる。


「…うん。飲みたかったよ…ずっと、ずっと…そうだったよ…」


「…はっ」


 ハルの、理性的な瞳の膜が消え失せた瞳と視線が絡まり、首の後ろの毛穴がぶわりと開く。目の前で、ハルが湛えている瞳が、どうしようもなく俺を欲しがっているんだと思うと堪らなくなった。

「だったら噛み付けよっ…早く」

 ジャンは首元のボタンを片手で外し、襟元を開くと、ハルの手をとって、首筋に押し当てる。どくどくと、耳元で心臓の脈動が響いている。それはハルの耳にも届き、指先から、甘美な熱となって伝わってきた。


「早く俺の血を、飲んでくれ」

「…っ!」


 急かすような、縋るような言葉を皮切りに、ハルはジャンの両肩を掴んで、晒された首筋に噛みつこうした。


 ハルの犬歯が、皮膚に触れる感触がした。

 
 それでも、ハルは噛まなかった。


 皮膚の上で、ふるふると犬歯の先を震わせ、熱い息をフーフーと吐き出すばかりで、その先を貫こうとはしない。

 苦しげに耳元で呻くハルが、ジャンは噛み貫いてもらえないことへ落胆するのと同じくらいに愛おしくて、細い腰に腕を回し、柔らかな黒髪に手を差し込むようにして抱き寄せた。


ハル…」


 震えるハルの顳顬に鼻先を寄せて息を吹き込むように名前を呼ぶと、ハルはジャンの首筋から離れ、目の前の肩に額を乗せて、言った。


「––––爪の先から、髪の毛一本だって逃さずに…、…君を愛してる」

「!」


 雀の涙ほどの理性で必死に冷静さを繋ぎ止めるように、ひどく掠れた声で紡がれた言葉は、ジャンの鼓膜を直接撫でるように震わせた。


「だからこそ、ジャンの血は飲めないよ。体の何処にだって傷なんか付けたくない。痛い思いを、してほしく…な…ぃ…–––」

「……ハル?」


 ふと、ハルの言葉が途切れた。


 肩に額を寄せていたハルの体が、凭れかかるように重くなって、嫌な予感が胸を過り、名前を呼ぶ。


 すると、ハルは突然、ジャンの胸元を突き飛ばした。


「っ!?」


 力が強い。


 先程まで腕の中に居たハルが身悶えていた時とは、全く比べものにならない力で、ジャンは後方へ蹈鞴を踏んでしまう。

 
『君の血は必要ない』


 ハルは背中を丸め、顔を両手で覆いながら、唸るように言った。

 声音がいつもよりずっと低く、人を威圧するような響きがある。


『私の願いを叶えるのに、君の血はこの子には必要ない』

「この…子…?…っお前、何言って…」


 動揺を隠せず、ジャンは途切れ途切れに問いかけた。

 先程から、頭の中で警鐘が鳴り響いている。

 ハルは、緩慢に俯けていた顔を上げると、ジャンを闇を詰め込んだような瞳で睨め付けながら、言い放った。


ハルは、私のものだ』


 その言葉を聞いて、ジャンは瞬時に、察しがついた。


「アンタ、誰だっ…!」


 今、目の前に居るのは、ハルではなく、別の誰かなのだと。


「お前は、ハルじゃねぇ…あの時も…トロスト区が襲撃を受けた後っ、黒白の翼を得てから初めて会った日の夜も…眠ったハルの口から、俺はアンタの言葉を聞いた…っ!」

 ジャンは声を上げ、氷のような冷たい目で、自分を捉えている目の前の人物に詰め寄った。


 –––ハルが、仲間の死を、心臓の鼓動を失ったことを嘆き、疲れ果て、俺の腕の中で眠りに落ちた夜のことだ。ベッドに運んだ直後に、ハルは意識がない中で、寝言のように口にした言葉があった。

 自分の無力さをこのうえ無く思い知らされた、あの苦い夜を、俺は忘れたりなんてしていない。


「『君を助けるのは、私の役目だ。』…アンタは、そう言っていた。…ハルをどうするつもりだっ…一体アンタはっ、ハルを何処へ連れて行こうとしていやがる!?」


 しかし、答えは何も返ってこない。固く閉じられた唇は、開かれる気配もなかった。


「おいっ!!黙ってないで答えやがれってんだよ!!」


 夕日が沈み始めて、部屋の中に冷たい闇が滲み始めると、目の前に立つハルの姿をした誰かは、まるで闇夜にじっと息を潜めて、獲物を待つ梟のようだった。

 得体の知れない何かが、ハルの中に居る。それが苛立ちと焦燥を生んで、その感情に突き動かされるように、ジャンは胸倉を掴んだ。


 こんなことが、以前にもあった。


 初めて巨人の脅威を目の当たりにして、多くの仲間を失った、『あの日』以来だった。


 ハルが自分の命を、他人の為に容易く投げ出すのが理解できなくて、どうしても許せなかった。普通じゃないと思った。きっと、この先もずっと、ハルのそういうところは嫌いなままだ。

 …そうだ。


 あの時のハルも、崖の底に蔓延る闇のような、虚な目をしていた。今と、同じように。

「っ」

 ジャンはハッとして、息を呑んだ。


 だとしたら、あの時も…ハルそうさせた・・・・・のは、コイツなのかもしれない。


ハルを苦しめてるのは…アンタなんだろっ?」

『……』

「頼む…っ、頼むから!もうハルを苦しめるのはやめてくれっ、ハルを解放してくれよ!」

 
 きっと、コイツはハルが生まれた時からずっと、ハルの中に在ったんだ。

 俺たちよりもずっと、長くハルと一緒に居た。誰よりも近く、傍にあった。ライナー、ベルトルト、アニよりも、きっと家族よりも長い時間を、同じ体の中で、まるで二人で一つの、人であるかのように。今までハルに抱いてきた、普通じゃない違和感の原因は、コイツだったんだ。…そんな、ことが。
 

 許せるはずが、ない。  


「俺からっ…俺たちから、ハルを奪うんじゃねぇっ!出ていけっ、ハルの中から出て行けよ!!」

 ジャンの慟哭を受けて、漸く引き結ばれていた唇が、開いた。


『黒白の翼を得たものは、誰のもとにも、ひとところに留まることはない。鳥が生まれた巣を飛び立てば、もう二度と同じ場所には戻らないように……』

 すっと、気配もなく持ち上げられた片腕が、ジャンの心臓のある左胸へ向かう。

 とんと、細い指先が、押し当てられる。

 体を巡る血が、熱した温石に水をかけたように、一気に冷たくなるのを感じて、体が大きく強張った。


『お前達の元で、ハルが眠り、生き、その生涯を終えることは無い』

「っんだと!?」


 ジャンは激昂して、胸倉を掴んでいる手に力を込め、荒々しくダンッと背を壁に押し付けた。

 ハルの声で、己のみならず、仲間のことまで拒絶されたことが、どうしても我慢ならなかった。


ハルが自分から、俺達の元を離れようなんて考える筈が無ぇんだよ!ハルはっ、…ハルは俺たちのことを、誰よりも大切に思ってくれてる!愛して、いるのにっ」

『私が愛しているのは、お前たちではない』


 ぴしゃりと、容赦の無い言葉が、ジャンの言葉を遮る。


『…私が愛しているのは、『ユミル』だ。もう、これが最期なんだ…ハル…君だけが…この、世界を…–––』

「おい…?今、なんて言った…?ユミルって、言いやがったか…っ!?」

 しかし、その先の言葉が紡がれることは無かった。


 ひゅっ


 と、目の前の細い喉が、隙間風のような音を鳴らして、大きくひくついた。

 その刹那に、ふらりと立ちくらみを起こしたように体が左右に揺れて、そのまま前のめりに倒れそうになるのを、ジャンは慌てて腕で支える。

 不思議と、その顔を見なくても、彼女の体が纏う雰囲気が和らいだのを感じて、ハルが戻ってきたと、ジャンは呼吸をするように理解出来ていた。

 苦しげに、げほげほと咳き込み、肩で息をしているハルを支えながら、一緒に床へと膝をついて、項垂れている顔を覗き込む。
 
ハルっ、…大丈夫か?顔見せてくれっ…!」

 ハルハルであることの確証が早く欲しくて、急かすように口早で問い、顔を覗き込む。


「っ」


 しかし、その顔を見て、ジャンは大きく目を見開いて、息を呑んでしまう。


 ぽたり、と、板張りの床に、丸くて赤い、血が滴り落ちた。


「––––あ、れ…?私、今何を……し、ていたの……?」

「っ」


 喉が焼け落ちたみたいに、息が詰まった。


 鉛のように重たい悲しみが、全身に覆いかぶさってくる。


 ハルは先程のことを、何も覚えていない顔で、顔を歪めている俺のことを、心配げに見つめている。氷みたいに冷たいものじゃない、ちゃんと熱を孕んだ、ひとみで。それが嬉しい筈なのに、ハルの小さな鼻から流れ出る赤の所為で、憂愁に心が閉ざされる。
 

「ジャン…?」


 言葉を失っていると、ハルは不安げな瞳を震わせて、気遣うように俺の名前を呼んだ。

 服の袖を引き伸ばして、ハルの血を拭いながら、何とか絞りだした声は、ひどく掠れていた。

「鼻血が出てる…」

「え…?」

 ハルはきょっとんとして、ジャンが鼻を拭った服の袖を見る。そして、付着している血に驚いた様子で言った。

「っ…全然、気がつかなかった。急にどうしたんだろう…?私、もしかして立ちながら寝ていたのかな?どこかに顔を、ぶつけ…て、」

 ハルがふと、ジャンの顔を見て、目を瞠る。

 それから、ひどく焦った様子で、頬に手を伸ばし、指先で触れながら問いかけてくる。
 

「な、泣いてる…の?どうしてっ」

「…お前が地獄を見ているから」

「…地獄…?」

 苦しくて、歪んだ唇から溢れた言葉を聞いて、ハルのひとみが、波打つ。

 その瞳を、撫でるように、ゆっくりと薄い目蓋で瞬いて、ハルは静かに、さざめきのような声で言った。


「…ジャン、私は…地獄なんか見てない」


 ハルが頬に触れていた指先が、するりと耳を撫でて、後頭部にまわされる。もう片方の手は、みっとなく震える、俺の背に触れて、優しく抱き寄せられた。


「君が、触れられる場所に居る。私の声が届いて、君が応えてくれる。だから、此処は…」


 ハルの声も、胸も、温かいのに、俺の身体は吹雪の中に放り出されているみたいに、震えが止まらなかった。


「地獄なんかじゃないよ」


 それは、地獄を知っている人間の言葉なんだと、きっとハルは気づいていない。


 俺は、ハルの左胸に縋った。喉から押しあがってくる嗚咽を、必死に噛み締めながら。

 
 ハルの鼓動が、そこには無いんだと分かっていないがらも、探さずには居られなかった……


第五十五話

 『きみのほほえみ』


 
 目の端から流れ出る涙を、どうやったって、堰き止めることはできなかった。瞳が、真夏の外に投げ出された氷みたいに、溶けてしまったみたいだった。

 俺が泣いていたって、何の解決にもならないのに。

 悲しくてやるせ無くて、怖くて仕方が無いのに、あまりにハルが綺麗に笑うから、きっと俺は、この時の感情と一緒に、ハルの顔を、声を、温もりを、香りを、一生忘れられないと思った。



 たとえ、どんなに遠く離れてしまっても、


 どんなに、歳を取っても、


 生まれた場所も、世界も、違っていたとしても……





 何度、生まれ変わったとしても…


 


 俺はハルを、愛してる。






 
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