第五十五話
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今日は丸一日、調査兵団の兵士は調整日であり、近々迫っているウォール・マリア奪還作戦に向けて、トロスト区の兵舎に皆移動を済ませている状態だった。
コニーは故郷のラガコ村に、母親の様子を見に行く為朝から帰省し、夕方頃には兵舎に戻っていたが、宿所に向かっている途中で、サシャの姿を見つけた。
訓練場の隅にある木立の広葉樹は、もう葉が紅色に染まっていて、木の幹の根元には真っ赤な絨毯のように、紅葉が降り積もっている。その上に、サシャは座って、何かを見守っていた。
「サシャ、お前そんなところで何してるんだ?」
「しーっ、コニー。静かに」
コニーが声をかけ歩み寄ると、サシャは少し慌てた様子でコニーを振り返り、口元に人差し指を押し当てて、小声で言った。
「?」
コニーは怪訝に思いながらも、差し足でサシャの元へ近づくと、サシャの傍には、積もった落ち葉をベッド代わりにして、木の幹の下で仰向けに寝ている、ハルの姿があった。
「ハルが寝ているんです。起こさないでください」
「随分、気持ちよさそうに寝てんなぁ…」
コニーは、サシャの隣に、音を立てないよう用心しながら、胡座をかいて座ると、すやすやと眠っているハルの顔を覗き込んだ。
ハルは臍の上に、なにやら古そうな本を乗せていて、その上に両手を重ねて、穏やかな寝息を立てている。
初秋だが、日中は空に雲一つ無く、ぽかぽかと陽光が暖かかった。しかし、いくら暖かいとはいえ、空が夕日色に染まり初めると、風はないが少々肌寒い。このまま放っておけば、風邪を引きそうだとコニーは心配になったが、サシャはハルの寝顔を見つめながら、胸の前で両手を合わせ、熱っぽく呟いた。
「はぁ……尊いです」
「お前なぁ…」
そんなサシャに対して、コニーは呆れ顔で肩を竦める。
ハルの自称第一の親友、兼親衛隊副隊長(ちなみに隊長はヒストリアだ)のサシャにとって、ハルの寝顔は国宝級に値するのだと、訓練兵時代にサシャ本人から聞いたのを思い出す。
確かに、ハルは周りが言うように可愛いと、コニーも思ってはいたが、その感情が恋愛感情に変わったことは一度もなかった。
理由は分からないが、ハルに対しては、兄妹に向けるような感情の方が大きくて、サシャに向けている友情に近いものだった。
「何です、コニー?ハルの尊さが分からないんですか?」
「尊さって…まぁ、ハルは可愛いし、モテるけど。お前らみてぇに変態じみた勢いで陶酔はしてねぇよ」
「何ですか変態って!?」
「あっ!おい馬鹿!お前が起きるから静かにしろって言ったんだろ?!」
「あ、ああ。そーでしたぁ…」
サシャはコニーに飛びかかろうとして中腰になったが、コニーの指摘を受けて冷静さを取り戻し、口元を手で覆う。
そんな中、何処からか一匹の、太陽と宵闇を羽に背負ったような、色鮮やかなアゲハ蝶が飛んでくる。
「お、珍しいな。秋の蝶だ」
コニーがそう言うと、サシャは得意げな顔になって言った。
「コニー、知ってましたか?秋の蝶は、春と夏の姿よりも、綺麗なんです。羽の柄が、濃くなるんですよ」
「へぇー?そうなのか。知らなかった」
サシャは狩猟民族で、山育ちだった分、生き物や植物等に詳しかった。訓練で山道を歩く時とかは、得意げに食べられる野草やキノコの話なんかをしていた。
コニーは、確かに羽の柄は色濃く綺麗だが、春や夏に見る蝶と比べて少し元気が無さそうな、ふわふわと宙を舞う蝶を眺めながら呟いた。
「…でも、なんか切ないよな」
「え、何がですか?」
サシャはきょとんとして、蝶を眺めているコニーの顔を見た。
「だって、死期が近くなってから、一番綺麗になるってさ…何か悲しくねぇ?」
コニーの言葉に、サシャは少し驚いた顔をした後、宙を漂うような蝶を眺めて、小さく頷いた。
「…そう、ですね。コニーの言う通りかもしれませんね」
確かに、死期が近くなった時が、自分の人生の中で、一番綺麗な瞬間だというのは、少し悲しいかもしれない。しかし、サシャの考えは、コニーとは違っていた。
「でも、死が近いから、綺麗になるんじゃなくて、自分の人生を一生懸命生き抜いて来たから、綺麗なのかもしれませんよ?」
サシャはいつものように快活な笑みを浮かべて言うのに、今度はコニーが驚いた顔になったが、すぐに破顔する。
「…なるほどな」
行く宛もなさそうに、辺りをふわふわと舞っていた蝶は、やがて羽を休める場所を見つけたのか、ゆっくりと高度を下げる。
そして、相変わらず静かに眠っているハルの、小さな鼻先に止まった。
「む…」
鼻が擽ったかったのか、眉先をぴくりと震わせて、小さく呻き声を漏らしたハルを見て、コニーとサシャは吹き出した。
「…ぶっ、蝶に止られてやんの」
「ハルがあまりに綺麗だから、花と勘違いしているのかもしれませんね!」
「いーや、ただ花と鼻を間違ってるだけだって!」
「おーっ!上手いですねコニー!」
腹を抱えてケラケラと笑うコニーとサシャは、お互いにライバルでもあるが、波長が合うのでよく一緒になってふざけていることが多い。その関係が、訓練兵の時代から今も、ずっと続いているし、何となくだが、これからもその関係が、サシャはずっと続いてくような気がしていた。
でも、ハルは、どうなんだろう。
ふと思い立って、サシャは眠るハルを見下ろした。
赤い紅葉に埋もれて、穏やかに眠るハルは、まるで眠り姫のようだと思った。
ハルだって、同期たちのように、ずっとこの先も傍に居てくれる筈だ。…そう、何故か思えない自分が、心の片隅に座っている。
白い鼻先で、ゆるゆると薄く柔らかそうな羽を、開いては閉じる蝶は、何だかハルの事を、遠くへ連れ去ってしまいそうにも見えて、不安になる。
「…何だか最近、ハルの姿を見てると、妙に…不安になるんですよね」
コニーは、先程までのおどけていた様子と変わって、真面目な顔をして言ったサシャに、口を引き結んだ。
「上手く言えないですけど、訓練兵時代の頃のハルと、今のハルって…少し違う、ような気がして」
曖昧な表現でしか言葉に出来ないことを、もどかしそうに眉を八の字にして苦笑するサシャに、コニーもハルの寝顔を見下ろした。
サシャの言わんとしていることが、コニーも全く理解出来ない訳ではなかった。
コニーもサシャと同じように、最近のハルを見ていると、筆舌し難い気持ちになることが多々あったからだ。
ハルは、昔と変わらず、誰にも分け隔てなく優しくて、途方もないお人好しのままだ。
しかし、何か今と昔で、大きく変わったことがあるか?と聞かれれば、「そんなものは無い」と、自信を持って言い切ることは、出来ないだろう。
「俺も少し、分かる…かもな。ハルは、訓練兵の頃はさ…もっとマイペースで、巨人なんかこの世に居ないんじゃないかって思うくらい、よく笑ってた。今だってそうだけど…少し、違う気がするんだよな。…笑ってるけど、どこか…寂しそう…って、いうかさ」
コニーが肩を落として、息を吐くように言うのに、サシャは徐に夕空を見上げた。
「……コニー、ハル、よく空を見上げてるの、知ってますか?」
「あ、ああ…言われてみれば、そうかもだけど」
突然話が変わって、コニーは戸惑いながらも頷く。
「通過儀礼の後、教官に死ぬ寸前まで走らされた時、ハルが言ってたんですけど…」
「お前が『芋女』って言われる原因になった日だろ?」
コニーが揶揄うようにして言うと、サシャは少しむっとした顔で、コニーを横目に見る。
「そうですよ!って言うか、私を芋女とか言い出したのはコニーが最初なんですからね!?全く、嫌な思い出です。…普通だったら」
「普通だったら?」
コニーが首を傾げると、サシャは懐かしそうに栗色の大きな瞳を細めて、再び空を見上げながら言った。
「でも…すごく大切な、思い出でもあるんです」
「?」
淡い夕陽の色が染み込んだように、サシャの瞳が、飴色に輝いているのを、コニーは静かに見つめる。
「あの日は、凄く苦しくて、死ぬ寸前までの終わりも見えなくて、お腹も空いて空いて、もう無理だって、全部投げ出したくなりました。…それなのに、ハルは、「まだ頑張ろう」、「一緒にもう少しだけ」って、ずーっと前向きで。私、正直ついていけんって思いました。どうしてそげん、元気なん?て…ハルのことが理解できなくて、足元ばっか見てて……それから、愈々動けなくなった私は、ちょっと皮肉も込めて、言ったんです。「ハルは前向きやね」って。そしたら、ハル笑って、こう言ったんです–––」
サシャは夕空を指差して、ニッと笑って言った。
「『下を向いてるよりは、ずっといいよ』って…」
「!」
サシャの口から、ハルの言葉を聞いて、コニーには不思議と、その時の光景が、鮮明に想像出来た。
いつも遠くを見晴らすように、澄んだ瞳を湛えているハルらしい言葉だと思った。
「そこで私、初めて空を見たんです。そしたら、ずっと息苦しかった世界が、急に広くなった気がして。足元ばかり見て走っていましたから、自分が何処にいるのか分からなくて、孤独で……でも、空を見上げながら走ってみたら、何だか、自分に翼があるんじゃないかって思えるくらい、体が軽くなったんです。苦しい、辛い、そればっかりだった時間が、楽しいなって……思えたんですよ」
宝物を胸に抱くように、ハルとの思い出を話すサシャを見つめながら、コニーは目元を綻ばせて言った。
「…いい言葉、貰ったんだな」
「はい!それから、私の座右の銘は、『苦しい時こそ空を見ろ!』なんですよ!」
サシャは得意げな顔になって、どんっと張った胸を片手で叩いて見せた。
しかし、それから少し表情を沈めて、「でも…」とハルの寝顔を見下ろす。
「ハル、最近はその…空を見てる時間が、本当に増えたなって。一人でぼーっと、何かに思い悩んでるみたいに。…苦しい時ほど空を見上げるなら、ハルは今すごく…苦しんじゃないかって。だから、こうやって…穏やかでいられる時間が、もっとあればって…思ってしまうのかもしれません」
コニーも、サシャと同じように、目の下に哀愁を浮かべて、ハルの顔を見下ろした。
思えば、ハルはもうずっと、走りっぱなしなのだ。
トロスト区が巨人の襲撃を受け、調査兵団に入団してからずっと…否、訓練兵の頃から…或いは、故郷を奪われてから、ずっと…なのかもしれない。
自分の全てを投げ出しても、仲間たちの為に止まることなく、休まず走り続けている。自分が今、どんなに疲れているのか、傷ついているのかも知らずに……
「ハルは…人の為にばっか、突っ走ってるからな。本当にずっと…」
「…そうですね」
二人の嘆息を連れ去るように、ザアッ…と、殆ど無風だった辺りに、秋風が吹いた。
さわさわと、枝を離れた落ち葉が擦れる音と、今まさに枝元を離れた紅葉が風に乗って、ひらひらと舞い落ちてくる。その景色を、コニーとサシャは、うつくしい夢でも見るように、息を詰めて眺めていた。
頬に触れた紅葉の感触と肌寒さに、眠りの中に居たハルは、小さく呻き声をこぼして、薄い目蓋の下の瞳を震わせた。
「ん…っ…」
「あ、起きた」
コニーとサシャが、ハルの顔を覗き込むと、ハルの蒼黒の瞳が、長い睫毛の幕の下から、ゆっくりと露わになった。
目覚めの気配を感じて、鼻先に止まっていた蝶が、舞い上がる。
ハルはぼんやりと、高い秋空を飛んでいく蝶を寝ぼけた目で追いながら、呟いた。
「あ…れ…寝て…た…?」
「おはようございます、ハル」
サシャの声に、ハルは漸く、自分を覗き込むコニーとサシャの顔を見た。
「ぁ…サシャ、コニー…おはよ…。秋のわりには暖かくて、ついつい寝ちゃったよ……いててっ、背中が」
寝起き特有の間伸びした口調で言いながら、ゆっくりと体を起こすと、いくら落ち葉がクッションになっていたとはいえ、背中が凝り固まって傷み、首を竦めるハルに、コニーは呆れ顔で言った。
「お前なぁ、いくらあったかくても、もう秋なんだから風邪引くぞー」
「いや、ごもっとも…」
すると、ハルが起き上がったことで、お腹の上に置いていた本が、ばさりと体の横に落ちた。
その古い本を、サシャが拾い上げる。
「あ、ハル。本が落ちましたよ?」
サシャに差し出された本を見て、ハルは一瞬、とても焦った顔をした。
「あ、ああごめんっ!ありがとう、サシャ」
「?」
本を早々に受け取って、自分達が居る場所とは反対に、表紙を伏せて置いたハルを、不自然に思ったコニーは、訝しげに目を細めた。が、不意に隣で、腹の虫が盛大に鳴って、浮かんだ疑問が何処かへ飛んでいってしまった。
グゥーッ
「ああっ!駄目ですぅ…まだ夕食まで時間あるのに小腹がぁ〜」
「お前って常に食い意地張ってるよなぁ」
サシャがこの世の終わりのような悲壮的な顔になって胃を抱え、天を仰ぐのを、コニーはじっとりとした視線で一瞥した。
そんなサシャとコニーを見て、ハルは口元に指を添えると、何やら考え込みながら呟く。
「小腹かぁ…」
それから、辺りを見回した後、にっこりと微笑みながら言った。
「結構落ち葉も増えたし…みんなで、焼き芋でも、する?」
ハルの提案を聞いたサシャとコニーは、「それは名案だ!」と、その場に飛び上がるようにして立ち上がった。
「やりましょう!焼き芋パーティー!!」
「最高っ!俺、みんな誘ってくるわっ!」
溌剌と声を弾ませて、二人は仲間達を集めるべく、早速兵舎に向かって駆け出して行く。
「…立体機動装置をつけてる時より、俊敏なんじゃぁ…」
瞬く間に遠ざかって行く二人の背中を眺めながら、ハルは欠伸を噛み殺すようにして、呟いたのだった。
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