第五十五話
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中央憲兵に身を置くようになってから住んでいた、王都ミットラスにある隠れ家を出て、漸くウォール・ローゼ領域の南西部に頃合いの一軒家を見つけたケニーは、以前よりも狭い間取りではあるが、人間一人と飼い犬一匹が生活するには十分な広さのリビングに、前家から持ち込んだ、住み慣れない部屋で唯一身に馴染む革製のソファーに深く腰を掛け、朝刊を広げていた。
一見して優雅な一日の始まりのようにも見えるが、実際はその真逆だった。
何故なら、ケニーがまだベッドで寝ている早朝に、愛馬に乗って家に押しかけ、頼んでもいない朝食を差し入れてきた挙句、さも当たり前のように家に上がり込んで紅茶を振る舞い、その後ダイニングテーブルを占領している人間が居るからだ。
ケニーは、一冊のノートに向かって、何やら考え込みながら書き込みをしているハルに視線をやると、気怠さと煩わしさを露わにした声音で問いかけた。
「お前は暇なのか」
手に取るように明らかな悪意が込められていたのだが、ハルは特に気にする様子も無く、隣の席におすわりをして尻尾をぶんぶんと振り回しているボロンの首元を左手で擽り、空いている右手でペンを走らせながら、一息に軽々と答えた。
「何処をどう見たら暇に見えるんです」
「いーや、何処をどう見ても、暇人にしか見えねぇよ」
冷やかすような口調で告げられ、ハルはやっと嫌味を言われていると気がついたのか、少々むっとした顔を上げた。
「やっとまともに、休みを貰えたんです。今日は貴重な休日で…」
「その貴重な休日を、どーして俺の家で過ごす必要があんだよ!」
ばさりと開いていた新聞を閉じ、眉尻を吊り上げて怒鳴り声を上げたケニーに、ハルは肩を竦め、不服そうに口を尖らせる。
「だって、ケニーが匿名で引っ越し先の住所を、私宛で兵舎に送ってきたから…」
「お前がっ!居場所不明にしてほしくねぇから!送れって言ったんだろ!?」
ソファーから立ち上がり、ドンドンと釘を打つようにして叱責しながら近づいてくるケニーを、ハルは微塵も悪びれない様子で見上げながら言った。
「はい。でも、来て欲しく無かったら、住所なんて送りませんよね?」
人を揶揄うときも真面目な顔をしているハルに、ケニーの眉間にはそれは深い皺が寄った。「あのなぁ」と、苛立ちを露わにした唸り声が、拳を握りしめると共に喉の奥で鳴る。自身の言動が人の気を害しているという自覚が無いのが、よりタチが悪い。
「お前はっ、俺を揶揄ってんのか?」
「え?何でですか?…あれ、何をそんなに怒ってるんですケニー?」
きょとんと首を傾げ、丸々とした瞳で見上げてくるハルの両頬を、ケニーは顳顬に青筋を浮かべながら、容赦なく摘んで引っ張った。
「無自覚に人を煽ってんじゃねぇよ!余計ムカつくんだよ!」
「いだだだっ!?」
「班長になって雑務が忙しいのか知らねぇがっ、仕事するならテメェの部屋でやればいいだろ!?」
求肥のようによく伸びる頬を、引き千切らんとする勢いで引っ張りながら、腹立たしさをぶつけてくるケニーに、ハルは涙目になりながら訴える。
「へっ、兵舎だと、気が張るんですよっ!こっ、こういうことを考えているとっ…!」
「あ?」
「こういうこと?」と、ケニーはハルの頬を引き伸ばしたまま、視線をノートへと落とした。
ダイニングテーブルの上に開かれているノートには、来週決行される、ウォール・マリア奪還作戦に向けての戦略や対策などが、箇条書きで書き連ねられていた。
その内容から、ハルの言動の真意を察したように、ケニーは瞳を細めると、よく伸びる頬から手を放した。
「お前、仲間に話してねぇのか?あの本の、内容のこと」
ハルは赤くなった両頬を、両手でさすりながら、「えぇ…」と、自嘲を浮かべながら頷く。
「話すべきか迷いましたが…結局、出来なくて。まだ、誰にも話していません」
「…んなことだろうとは、思ったけどな」
全く想像通りだと、ケニーは吐き捨てるように言った。
馬鹿が付くほどお人好しなハルは、自分事で周りの人間を困惑させるようなことは絶対に口外しない。
他人の為に尽瘁出来るハルは、まるで慈悲深い女神様のようだった。
–––しかし、望まぬ力を手にしたことで苦難の道を歩むことになり、そのうえ、味覚や嗅覚までも失い、命まで削り取られるというのは、あまりに不憫だ。
ケニーは、重たい気持ちを抱えながら、ハルの向かいの椅子に腰を落とし、テーブルの上に頬杖をついて、ボロンの頭を撫で回しているハルの横顔を見つめながら問いかける。
「…で?お前は、本に書かれていた『ユミルの愛し子』の力を身に宿した、始まりの男の願いを、叶えてやる気でいるのか?」
「…」
ハルは小さく息を呑むのと同時に、ボロンの頭を撫でる手を止めた。
それから、徐に両手をテーブルの上に置くと、ゆっくり一度瞬きをして、頷いた。
「…はい」
ハルの声は、枯れ葉が土の上を駆けた時のように掠れ細く、憂いの響きを残して、空気に溶けていく。
溜息が漏れ出そうになる寸前で、ケニーはそれを飲み込んだ。
「……どうして、そこまでする?お前の遠い血縁者、ご先祖様なんだとしても、だ。会ったこともねぇし、殆ど他人みてぇなもんだろ?」
ケニーの言う通り、『ユミルの愛し子』の力を得た『彼』とは、会ったこともなければ言葉を交わしたことも無い。子に受け継がれていく特性のある力を、今自分が宿しているということは、全くの他人…というわけではないということになるが、残された少ない寿命を費やしてまで、『彼』の願いを叶える義理なんてものは、自分には無い。
しかし、『彼』が望んだ、この世界から巨人の力を消し去るという願いは、ハルにとって仲間の未来を繋げる事と、等しいものだった。
「私が、『彼』の願いを叶えることで、この世界から巨人の力を消し去ることが出来れば…壁内人類にとってまず第一の脅威を、振り払う事が出来ます。…それに、巨人化してしまった友人の母親も、人の姿に戻せるかもしれない。何より、過去に干渉することでエルディ…」
その先に続けようとした言葉を、ハルは既のところで飲み込んだ。
自分が『エレン』の記憶の中で見た、未来の話は、極力周りには話さないようにしていたからだ。
それは、ハルが見た未来への道筋を、大きく変えてしまうことに繋がるからだ。それが、良い方向に変わっていくのなら、問題はないが、悪い方向に転じることも大いに有り得る。
なにより、今はウォール・マリア奪還作戦が、控えている。
勿論、ハルは先の結末を知っていた。
知っては居るが、『エレン』が見ていた通りの戦略を、シガンシナ区で待ち構えているジーク達が取って来るとは限らない。
何故なら、彼らはハルの能力を把握してしまっているからだ。
並外れた聴力を持ち、一定の時間とはいえ巨人の動きを封じることが出来る敵が居ると知っていれば、潜伏や不意を突くような戦法を取ってくるとは、考え難い。
未来を知っている、ということは、有利であることに違いは無いのかもしれないが、不確定要素が多すぎて、殆ど意味が無いとも言える。
「…兎に角、『彼』の願いを叶えることは、やる価値のあることなんです」
「……なーんか、隠してやがんなぁ」
無理矢理話を終わらせようとするハルに、ケニーは眉間に皺を寄せた。
「俺は騙されんのは嫌いなんだが?」
顎髭を撫で下ろしながら、低い声で問い詰められ、今度はハルの眉間に皺が寄る。
じっと射殺ろすような視線を向けられて、ハルは居心地悪そうに身じろいだ後、「はぁ」と、溜息を吐いた。
それから、言いにくそうに、というよりは、不本意そうに口を開く。
「…私はこの後に起きることを、大方、全てではありませんが、断片的に知っているんです」
「は?」
ケニーが呆けて口をあんぐりと開けるのに、ハルは困り顔で苦笑する。
「言ったじゃないですか。未来のエレンの記憶を見たって」
「あ、ああ…そういえば、そうだったな」
ケニーは以前、ミットラスの隠れ家で、ハルがその話をしていた時のことを思い出した。否、忘れていた、というわけではなかったが、あまりに途方もない話なので、意識の外に放り出していた。
「でも、未来の『エレン』が見ていた記憶と、今流れている時間は、全く一緒じゃない」
ハルは手元にあるノートのページを一枚捲り、ケニーの前に差し出した。
「未来の『エレン』は、私の存在を知らなかった。いえ、…私が、存在していなかったんです」
ハルがケニーに見せたページには、ウォール・マリア奪還作戦で起こる事象が書かれていた。
そして、ハルが存在している世界で起こった出来事と、『エレン』の記憶の中で見た出来事の比較も、分かり易く書き出されている。
「お前が『エレン』の記憶で見た今後の未来は、お前が存在しなかった場合のもんで、今後の未来は、変わって来るってこと…だったな。エレンの記憶では、俺はおっ死んでやがったわけだし…」
「はい。ですから、私が団長達にエレンの記憶の話をしたところで、余計な混乱を招くだけです。それに、団長達が未来を知ってしまったら、今後起きる事に大きな変化が生じてしまうかもしれません。となると、私も対応が出来なくなります。…不確定な未来の話をするよりも、今は奪還作戦に向けて、これまでの事象を踏まえ、獣の巨人達が取るであろう行動を予測し、対策と戦略を立てるのが、何よりも重要でしょう」
ハルの考えを聞いて、ケニーは「なるほどな」と静かに呟くと、胸の前で腕を組み、椅子をぎいと後ろに引いて、テーブルの上に長い足をどかりと乗せて組んだ。
「それで、ウォール・マリア奪還作戦で、何をしようと企んでんだ?」
「ケニー、行儀が悪いですよ。テーブルに足を乗せちゃいけないって、お母さんに習いませんでしたか?」
「うるせぇな俺がそんな育ちのいい奴に見えるか馬鹿がっ!」
大いに話を脱線させて、ハルが生真面目に説教をしてくるのに、ケニーは肩を怒らせながら一息で怒鳴り返した。
ハルは表情を曇らせながらも、ケニーの足の下敷きになったノートを引っ張り出し、再び違うページを捲って、ケニーの膝の上に置いた。
「ウォール・マリア奪還作戦では、外からやってくる知性を持つ巨人の血を、得るつもりでいます」
「『九つの巨人』って奴らの…か?」
膝の上に置かれたノートを見下ろしながら、ケニーは神妙な声音で問いかけた。
ノートには、九つの知性を持つ巨人の名前が、箇条書きに書き出され、その名の下には、継承者の名前が記されていた。
ハルは自身の右頬を指差しながら言う。
「私の頬に浮かぶ痣は、九つのうち、今は三つが黒いですよね?一つは始祖の血だとして、二つ目はエレンの血、三つ目は…分かりません。過去の継承者が得た血、なのかもしれませんけど…」
「奪還作戦を妨害しに来るのは、獣と鎧、超大型の三体だろ?」
「あともう一人、車力の巨人。ピーク・フィンガーです」
ハルは右手の指四本を立てて見せながら、ケニーに言った。
「車力ぃ?」と、あまりの無謀さに、ケニーは呆れ顔で、胸の前に組んでいた腕を大仰に広げる。
「ってことは…おいおい!?四体も知性のある巨人を、相手にするって言うのかよ!?流石に無理があんだろ?そんな状況で、血なんて採取出来る余裕があるのか」
捲し立てるような問いに対して、ハルは口元を引き締め、生真面目な顔で頷いた。
「…ええ、とても厳しいです。でも、私には時間がありません。目的を果たすためなら、どんな無理だって、通すつもりです。チャンスがあるなら、その度にものにしてみせなれば、『彼』の願いはきっと…叶えられない」
「『彼』の願い、ねぇ」
と、ケニーは含みのある言い方で呟いた。
それから、組んでいた長い足を動かして、テーブルの上から下ろす。すると、ケニーの膝に乗っていたノートが、板張りの床の上に敷かれている、生成色のラグの上にバサリと落ちた。
ハルはがさつなケニーに少々怒りながらも、椅子に座ったまま、ノートを拾おうと身を屈めて手を伸ばす。その最中に、ケニーは固い声で問いかけてきた。
「お前は、それでいいのか?」
ハルは、ノートを掴もうと伸ばした手を止め、テーブルの下でごくりと、唾を呑んだ。
不意に、喉の辺りに魚の小骨が引っ掛かっているような違和感を覚えたからだった。
朝食に魚なんて食べていないし、風邪っぽいわけでもない。きっとただの、気の所為だ。だから、「それでいい」と答えようとして、ハルは口を開いた。
「本当に、それでいいのか」
「っ」
しかし、言葉を発する前に、再びケニーに同じ問いを突き付けられて、同じ違和感を、再び喉に感じてしまう。しかも、先ほどよりもはっきりとした、不快感を伴って…だ。それは喉で弁のようなものになって、ハルが吐き出そうとした言葉を、音にならないように塞いでしまう。
そこで初めて、自分は自身の宿命を、心の底から受け入れることが出来ていないことに、気がついてしまった。
その事実に、ハルは愕然とする。
九つの巨人の血を得て、歴代の『ユミルの愛し子』の時間を遡り、巨人の根源を断つことで、巨人という存在そのものをこの世から消し去る。それは、コニーの母親を救うことにも繋がり、何よりもエレンとの約束を、果たす為にも必要なことだ。
だというのに、どうして自分はその宿命を、受け入れ切れて、いないのか。
動揺し震える手でノートの端を掴み、テーブルの上に置いた、ハルのすっかり青褪めた顔を見て、ケニーはハルの本音を覗くように鋭く目を細めると、再びテーブルの上に頬杖をついて、言った。
「お前は、『彼』の願いを叶える為に、お前の全てを捨てることになるんだぞ」
全てを、捨てる。
–––それは、自分の人生を、丸々投げ出す。ということだ。
「……」
無意識に、テーブルの上に置いている両手に力が篭る。
握りしめた手を見下ろして、自分の左手首に巻き付いている、仲間が編んでくれた虹色のブレスレットが目に入り、胸が急に詰まって、視界から隠すように、右手で覆った。
苦し気なハルの顔を見上げて、隣の椅子に行儀よく座っていたボロンが、心配気にくぅんと鼻を鳴らす。
「お前は、九つの巨人の血を得ることで過去へと遡り、巨人の力の根源を断つことで世界を救おうとしてるってのは…分かった。だが、そもそも、だ。本当にそれで、この世界がまともになるって保証は、あんのか?」
「…保証は、ありません」
「だろ?それに、何よりもだ」
ケニーは、徐に玄関の方にある窓へと視線を向ける。
「お前、好きな奴とか、いねぇのかよ」
ハルは、「え?」と、酷く掠れた息を吐いて、顔を上げた。
ケニーの横顔を見て、ハルはその視線を追うと、窓の向こう側には、若い夫婦と、幼い子供がボール遊びをしているのが見えた。
「……」
こんな地獄のような世界でも、家庭を持って、幸せを築いている人達は、沢山居る。
自分も、昔は家族というものに憧れを抱いていたが、そんな希望を抱えて居られる余裕は無くなっていて、いつの間にか、憧れを抱いていたことさえも、忘れていた。
エレンに昔の夢を聞かれた時、漸く思い出したが、酷く、遠いもののように思えた。
–––そして、自分の力の真実を知ってしまった今では、尚更に…非現実的なものとなっていた。そう、全く現実的じゃ、ない。
ハルは打ちひしがれたように、両手で顔を覆った。
私は、酷い。そう掌の内側に、吐き出した…
自分に対する嫌悪感が、胸の底からズルズルと這い上がってきて、思わず奥歯を食い縛る。
ケニーの言葉で、ハルは無意識に目を逸らしてきた現実を、突きつけられていた。
日々の雑務に追われている間は、ロクに睡眠も取れなかったが、良かった。仕事のこと以外を考える暇が、無かったからだ。
奪還作戦を成功させる為に、団長達と共に夜遅くまで戦略を練り上げ、再募集で集った新兵達の立体機動訓練を、指導担当のネスが休みの日は代行することになっていた。それに加えて、班員であるナナバ達との訓練等もあり、自分自身のことを顧みる時間は、常に後回しにしていた。そのツケが、一気に、今押し寄せ来た気がした。
「お前の力は、継承者の時間を遡り、干渉するものなんだろ?だとしたら、お前が元々居た場所に…戻って来られる可能性は、低い。違うか?」
ハルは椅子の背凭れに寄りかかり、顔を覆っていた手を撫で下ろして、天井を仰いだ。それから、言葉を絞り出すように、ケニーの問いに答えた。
「…巨人の力の根源を断ち切れば、その時点で、『ユミルの愛し子』としての力も、存在しなかったことになります。当然、私は力を失う、ということです。…そうなれば、元の世界に戻って来ることは、出来ないでしょう。そもそも、戻ってくる世界のカタチが、どう変化しているかも、全く分かりませんから…」
ハルの返答を聞いたケニーは、呆れ顔で深いため息を吐いた。それから、皮肉めいた笑みを浮かべて、吐き捨てる。
「テメェの残り少ない時間を、お前自身が愛した奴の為じゃなく、他人の相手と不確かな未来の為に、捨てられるってのか…?随分とお安い、命なこったな」
その言葉が太い杭となって、胸に深々と抉り込む。あまりの痛さに、ハルは天井を仰いだまま、思わずぎゅっと両目を瞑った。
…私は、ジャンに言った事がある。
初めて自分の思いを伝えて、体を重ねた夜。
ずっと、傍に、居てほしい。
離れないで、私を、置いていかないで。…そう、言った。
私が、ジャンに言ったんだ。
ジャンは、私の我儘な子供みたいな願いを、何時だって叶えようと、必死になってくれた。何度も手を差し伸べて、離さないように、しっかりと握りしめて、傍に居てくれた。
–––それなのに、私は…ジャンから離れていく。
離れなきゃ、いけない。
ジャンではなく、『彼』が選んだ、ユミルを選ばなければいけない。
そうしないと、未来は繋がらない。
『エレン』との約束を、果たすことが出来ないから。
ずっと一緒に居ようって、約束したのに。約束を、してくれたのに。
私は、ジャンとの約束を、全部破って、離れて行くんだ。
そんな、ことを…
「簡単に出来るわけが…ないですよ…」
ハルは、肺腑から息を重く吐き出しながら、呟いた。
正面にありながら、聞こえるか聞こえないかくらいのハルの言葉を拾って、ケニーは静かに、瞬く。
「それでも、誰かがやらなきゃ…私が、やらないと。私の救いたい人達の未来は変えられない」
「それが、お前の答えか」
ケニーは確かめるように、硬い声で問う。
ハルは、天井を仰いでいた顔を下げて言った。
「大事な人達の未来を、他の誰かに託すことは出来ません」
まるで、世界にたった一人だけ取り残されてしまったような、寂しい目をして笑うハルに、ケニーは、何ともやるせない、重く黒ずんだ澱が胸中に溜まるのを感じて、悪態変わりの舌打ちをした。
「…馬鹿野郎」
「…今日は、帰りますね」
ハルは、静かに言うと、椅子から立ち上がった。
足元に置いていたショルダーバッグを肩にかけ、「もう帰るの?」と寂し気に一吠えしたボロンの頭を撫で、「またね、ボロン」と別れを告げると、玄関の方へと歩き出す。
「ハル」
そんなハルを、ケニーは椅子から立ち上がって、呼び止めた。
「……」
ハルは足を止めたが、振り返ることはしなかった。
それでも構わないと、ケニーは頼りな気な背中を見つめながら言う。
「ちゃんと、考えろよ」
自分なりに誠実に、明瞭に届くように、ケニーは努めたつもりだった。
ハルは、僅かにケニーの方を振り返ると、目元を少しだけ緩ませて、「…はい」とだけ、短く答えた。
それに、ケニーは小さく溜息を吐いて肩を落とすと、「ちょっと待ってろ」と言って、キッチンに向かった。
ハルが買ってきた、朝食が入ったバスケットから、パンと林檎を一つずつ取り出し、リネンの布に包んで、ハルに手渡す。
「全部食い切れねぇから、道中で食ってけ」
思わぬ気遣いを受け取ったハルは、少し驚いた顔で、ケニーを見る。
ケニーは、ハルの頭に手を乗せると、ボロンをあやす時のようにわしわしと撫で回しながら言った。
「匂いがしなくても、味がしなくても。ちゃんと食えよ?生きる為に、な」
「っ」
ハルは一瞬、泣き出しそうな顔になったが、すぐに微笑みに変えて、頷いた。
「…うん」
嬉しそうに微笑んでいるハルに、ケニーも僅かに表情を和らげて、最後に柔らかな黒髪をわしゃりと撫でると、手を離した。
「ありがとう、ケニー。また来るね」
「あのな、此処はお前の実家じゃねぇんだぞ?気軽に来るんじゃねぇ」
眉間に皺を寄せ、嫌そうに言うケニーに、ハルはくつくつと喉を鳴らすようにして笑いながら、ドアノブを掴んで扉を開く。…と、その途中で、何か思い立ったように、ケニーを振り返った。
「あ、ケニー…!言い忘れていた」
「あ?」
「最近寒くなってきたから、夜はあったかくして寝てくださいね?風邪を引かないように、体には気をつけて」
「…は?」
思わぬ言葉を受けて、ケニーは自分でも自覚するほどに間抜けた声が漏れてしまった。
しかし、ハルは至ってふざけている様子も無く、「じゃあ、また」と軽く片手を上げて、駆け足で玄関から外へと出て行った。
パタン、と、扉が閉まり、家の前に留まらせていたハルの愛馬の、蹄の音が遠のいて行くのを聞きながら、ケニーはやれやれ…と、後頭部を掻いた。
「…この世界はとことん、アイツに優しくねぇなぁ…」
ただの独り言だったのだが、いつの間にやら足元にやってきていたボロンが、同調するように「ワン」と吠える。
そんなボロンの頭を撫で回しながら、「昼飯にするか…」と呟くと、質素なキッチンにやけに洒落たバスケットの存在が目に留まった。それにしても、随分張り切って買い込んで来たものだ。ハルにパンを渡しても、まだぎっしりと、色んな種類のパンやら果物が詰まっている。早く食べないと、カビが生えてしまいそうだった。
「っち、しばらくはパン生活だなこりゃぁ」
全く、迷惑なもんだ。
しかし、部下以外の誰かから気遣いを受けたのは、随分久しぶりのような気がして、不思議と悪い気分では無かった。
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