第五十四話
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コンコンコンッ––––
ミカサがハルの執務室のドアをノックすると、中からハルの「どうぞー」という間伸びした声が返ってきたので、コニーがドアノブを掴んで扉を開く。
「失礼しまーす…って」
そして、視界に広がった執務室の光景を見るや否や、一同は突然背後から飛び蹴りでもくらったような勢いで、面食らってしまった。
ハルの座る執務机には、これでもかという程に積み重なった資料の山が出来上がっていた。最早脚立に乗らないと、積み重ねていけない程の高さだ。
更に、来客用のテーブルの上には、畳まれてはいるがハルの着替えが数日分積み重なっていて、その隣には仕事をするに当たって必要なのであろう教本や参考書も積み重ねられている。足元には大判の書類が入った丸筒や、空になったインクボトル等が何個も無造作に転がっていた。
「うわぁ……思ってた以上に、凄いねぇ」
アルミンが舌を巻くようにして呟きながら、執務室へ足を踏み入れると、それに続いて皆も床に散らばったものを踏まないように用心しながら中へ入る。
すると、資料に埋もれ、執務机で前のめりになって書類に書き込みをしていたハルが、寝起きの鹿のようにむくりと顔を上げた。
前髪をゴムで一本に縛り上げ、寝不足で腫れている目を何度か瞬いてから、ぶつぶつと呟く。
「…ぁ、あれ…何だ…皆が居る…。まずい、幻聴どころかとうとう…げ、幻覚まで見え始めた…?」
目元を兵服の袖でゴシゴシと拭っているハルを見て、ジャンは悪い予感が見事に的中したと、片手で額を抑える。
「…いや、幻覚じゃねぇよ」
「現実ですよハル!しっかりしてください!」
サシャは廃人化手前といった様子のハルの元へ駆け寄ると、両肩をがっしりと掴んで、椅子に一体化するように沈み込んでいるハルの身体を前後に揺さぶる。
「う、うぇ…」
その揺さぶりに白目を剥きそうになって呻いているハルの顔を見て、ヒストリアは幽霊でも見たように青ざめた顔で悲鳴を上げた。
「ハル!そんなっ、目の下に灰でも塗ってるの!?」
「ひでぇな…マジで使いッパシリじゃねぇか。一瞬でも班長に昇格したお前を羨んだ俺が、馬鹿だったぜ」
「コニー、それは言うべきじゃない。ハルが可哀想」
コニーが腰に手を当て、ハルの顔を覗き込みながら、同情の滲んだ顔で言うのに、ミカサが戒めるが、そんなミカサにエレンが苦言を呈する。
「いや、ミカサの同情も、地味に辛いと思うけどな…」
ハルはサシャに激しく揺さぶられたことにより、吐き気を催しながらも、口元を手で覆い蒼白な顔を仲間達に向けて、戸惑った様子で問いかけた。
「み、皆…ヒストリアまで、どうして此処に?今日は金曜日だから、孤児院の手伝いに行ってたんじゃ…」
「…もう夕方だよ?終わってからこっちに来たの。ハルがこのところずっと働き詰めだから、心配になって様子を見に来たんだよ」
ヒストリアの言葉を聞いて、ハルは「ああ、もう夕方かぁ…」と悲壮的な声で呟き、背後の窓を振り返った。
その様子に、ハルは既に時間の概念すら失いかけているということが分かり、同期達の表情が引き攣るが、そんな彼らを他所に、ハルは「よいしょ」と椅子から立ち上がろうとする。
「何だかごめんね?心配かけちゃってるみたいで…来てくれてありがとう。今お茶を…」
「いいからお前は座ってろ!茶ならこっちが勝手に出すからぁ!」
そんなハルに、フロックが半泣きになりながら慌てて制止を入れる。
「いや、でも折角来てくれたんだし……って」
ハルが気後れしてフロックに顔を向けると、その隣に立つマルロを見て、「あ」と言葉を呑んだ。
「え、えっと…君は、マルロ君だよね?」
ハルが中腰の状態で首を傾げるのに、マルロは「ああ」と頷いた。
「面と向かって合うのは初めてだな、グランバルド。マルロ・フロイデンベルクだ。駐屯地は違うが、同期として挨拶がしたいと思っていたから、ジャン達に同行させてもらった」
「ああ、そうだったんだ。それはご丁寧に…」
ハルはよろよろとマルロの前に歩み寄ると、握手を求めて手を差し出す。
「ハル・グランバルドです。ハルでいいよ、私もマルロって、呼んでもいい?」
「ああ。構わない。ありがとう」
そんなハルの手を取って、マルロは微笑みながら握手をすると、ハルは照れ臭そうにもう片方の手で首の後ろを触りながら言う。
「いやぁ、こんなみっともない姿ではじめましては、ちょっと恥ずかしいな。でも、来てくれて嬉しい。ヒストリア達が連れ去られた時、皆の助けになってくれたって、ジャン達から聞いてるよ。大事な仲間のこと、助けてくれて…本当に感謝してる。マルロ、ありがとう」
人好きのする笑みをまっすぐに向けてくれるハルに、マルロは少々照れくさくなってしまって、無意識に視線を逸らしてしまう。
「あ、ああ。だが、礼はいらん。俺は自分の信念に従ったまでだから」
「その君の信念に助けられたなら、やっぱりお礼は、マルロに言うべきでしょう?」
そんなマルロの心情をよそに、ハルは視線を逸らしたマルロの顔を覗き込みながら、柔らかく微笑む。
今まであまり接したことがないタイプのハルに、マルロは「ぁ、いやぁ」とたじろいでいると、物凄い握力で左肩を誰かに掴まれ、軽く悲鳴を上げて背後を振り返った。
「おい、マルロ。さっさとその手を離せ」
「殺しますよ、このおかっぱ野郎」
「ハルはお触り禁止なの」
そこにはジャンとサシャとヒストリアの殺気立った般若のような顔があり、状況が全く理解出来ていないマルロの眉間には深い皺が寄った。
「…おい、お前らさっきから何なんだよ?」
そんなジャン達を諌めようと、アルミンは「まあまあ」とマルロとジャン達の間に割り込み、話題を変える為ハルに話かけた。
「ね、ねぇハル?ちゃんとご飯、食べてる?孤児院の皆も、ハルに会いたがってたんだよ?」
アルミンの話を聞いたハルは、嬉しげに表情を和らげる。
「ああ、うん。食べてる食べてる。でも、そっか、孤児院の皆、私のことをちゃんと覚えてくれているんだね。最近訪ねられていなかったから、てっきり忘れられてるかなと思ってたんだけど」
「そりゃ、バッタ事件があまりに印象的だったからな。忘れるにも忘れられないだろ」
しかし、エレンが空気を読まない発言をしてしまったが為に、ハルがきょとんと首を傾げる。
「え、バッタ事件?」
それに、アルミンが慌ててエレンの口を手で塞いで、早口で咎める。
「もが!?」
「エレン駄目だって!皆ハルを揶揄いたくて会いたがってるんだってバレたら、折角喜んでたのに可哀想でしょ!?」
「…いや、アルミン思い切り聞こえているけどっ」
ハルが涙目になって突っ込むと、アルミンはしまったと今度は自分の口を塞いだ。
「そ、そうか…皆私で遊びたいだけか…」
「兎に角!ハル、一旦其処から離れて、こっちのソファーに座れよ?」
とほほと両肩を落として嘆くハルの背中を、ジャンは苦笑しながら励ますように叩いて、来客用のソファーの方へ座るよう促した。
しかし、ハルは「でも…」と、再び視線を執務デスクへ向けた。
「こ、この書類に判子を押してから…」
まるで呪いでもかけられているように、また仕事を始めようとするハルの腕を、ミカサが掴んで引き止める。
「一旦、仕事は終わり。ハル、こっちに来て」
「う、うん」
ミカサに腕を引かされながら、ハルは来客用のソファーに座ると、同期達も空いている席に座り、フロックは一旦執務室を出て、給湯室へ茶を淹れに行った。
コニーはテーブルを挟んで向かいに座るハルを、太ももの上に頬杖をついて、まじまじと見つめながら、眉を八の字にして言う。
「お前、髪がボッサボサだぞ…睡眠どころか風呂もろくに入ってねぇだろ」
それにハルは跳ね上がった黒髪の毛先を触りながら、申し訳なさそうに肩を竦める。
「いや、お風呂には入ってるんだ。ただ、髪を乾かす時間が惜しくて、自然乾燥させてたら毛先が跳ねちゃって…」
「お前まさか、風呂に入ってる時も仕事のこと考えてんの?」
「ま、まあね…」
そんなハルに、コニーは腕を組んで深いため息を吐いた。
「お前な…そういう時くらいリラックスしたほうがいいって!疲れも取れないだろ?」
「いや、本当に、コニーの言う通り」
自嘲気味に笑うハルの姿を見て、コニーの隣に座っていたヒストリアが、そういえばと昔を思い出して、懐かしそうに話を切り出した。
「でも、ハル、訓練兵時代も、座学試験の前になるといっつもこんな感じだったもんね?」
「そうですそうです!試験日が近づくにつれどんどん隈が酷くなっていって、今みたいに前髪をゴムで縛り上げてました」
それにサシャも同調して、自分の前髪を手で束ねて見せながら言うのに、ミカサも珍しく思い出し笑いをする。
「そういえばそうだった。ハル、それで…ふふっ」
ミカサが続けて話そうとし話題を察したアルミンが、胸の前で「あれか!」と手を叩く。
「教官がさ、『今回のテストの最高得点は満点と、最下位は史上最低得点の0点だ』って、言ってた技巧のテストの時のこと、覚えてる?」
それに、マルロとハル以外の同期達はわっと盛り上がる。
「最後まで呼ばれなかった二人が、アルミンとハルだったんだよね。でも、二人が0点なんて絶対取るわけないって思ってたからみんなざわついて」
ヒストリアの言葉に、ハルはみんなとは一足遅れて記憶を思い出し、居心地悪そうに肩を竦めて、顔を引き攣らせる。
「あ、ああ…あの時の試験の話かぁ…」
そうだ。あのときは本当にショックだった。ショック過ぎて、記憶から消していたのだ。
アルミン達と一緒に勉強をして、本当に自信があった技巧の筆記テスト。正直、返却が楽しみだったくらいだ。だのに、教官の一言で、ハルは地獄に突き落とされたのだ。
「そしたら、100点満点だったのはアルミンで、0点取ったのがハル。それも、解答欄全部埋めて100点だったのにっ、お前っ、名前書いてなかったからさっ!!」
エレンが笑いを噛み殺そうとしながら話すのに、コニーは全くデリカシー無く、バンバンとテーブルを叩きながら爆笑して言う。
「あの時は皆、マジでっ、ぶふ!爆笑だったよなぁ!」
「そうそう、で、お前はショックのあまり椅子に座ったまま気絶してな…」
その時ハルの隣の席だったジャンは、アルミンが100点の解答用紙を返却され、お前が0点だと言われた瞬間に、ショックのあまり気絶をした瞬間を目の当たりにしていたので、よく覚えている。人は物理的要因以外で気を失うのだということを初めて目にしたので、驚いた記憶がある。しかし、今になっては笑い話だが、張本人であるハルの傷はまだ癒えていなかったようで、苦い顔をして頭を抱えている。
「意外と、ハルはうっかり者なんだな?」
マルロは顎を触りながら言うのに、エレンが腕を組んで頷く。
「変なとこが抜けてんだよな」
「でも、無理もない。ハルは毎晩寝ずに勉強頑張っていたから」
宿泊所でのハルの勉学に勤しむ様子を見ていた、ミカサやヒストリア、サシャ達は気の毒そうにしているが、男性陣は腹を抱える勢いで笑い転げているのに、ハルはじとっとした視線を彼らに向けながら不満を呈する。
「そうだよ。あの時は本当にショック過ぎて、立ち直るのに時間がかかったんだ。というか悪い夢でも見てるんじゃないかと思って受け入れられなかったんだよ!?…それにしても、皆よくそんなこと覚えていたね…?」
「そりゃ、あの時のお前の間抜けな顔が滑稽だったからな」
コニーがひっひっと呼吸困難になりかけながら言うのに、エレンが付け加える。
「挙句にあの後、罰として教官に外周くらってたよなぁ?」
「あれ、でもその時、サシャも一緒に外周してなかった?」
ヒストリアが首を傾げると、ミカサが「それは」とサシャをちらりと見た。
「サシャはその後の授業で、居眠りをしてたから」
サシャはぎくっと身を縮こませた後、陰鬱な視線をコニーに向けながら答えた。
「完全にコニーの背中に隠れていたつもりだったんですが、壁が低すぎましたね」
「何だって!?」
それにコニーがソファーから立ち上がって、サシャに飛びかかり、両頬を引っ張る。その様子をハル達が笑っていると、執務室にお茶を淹れたフロックが戻って来て、ハルの前に紅茶の入ったティーカップを置いた。
「お思い出話に花咲かせてるのもいいけど、まずは一息吐けよ。ハル」
「う、うん。ありがとうフロック。いただきます」
フロックが淹れてくれる紅茶なんて滅多に飲めないだろうと思いながら、ハルは礼を言って紅茶を口に運ぶ。
「……」
「ろーれす?美味ひぃれすか?」
コニーに頬を抓られながら問いかけるサシャに、フロックが「お前が淹れたわけじゃねぇだろ」と突っ込む。
ハルは紅茶を口にすると、ソファーの背凭れに沈み込むようにふうーっと息を吐いて、幸せそうに呟く。
「うん、すっごく美味しいよぉ…落ち着くー
」
「本当に、お疲れさん、だな」
隣に座っていたジャンがそう言って微笑んでくれるのに、ハルも微笑みを返す。それから、久々に揃った仲間達の顔を見た後、手にしている紅茶のカップに映った自身の顔を見下ろしながら、口を開いた。
「あ、あの…皆」
「?どうした?」
控えめな声に、エレンが首を傾げる。
俯いているハルへ皆も視線を向けると、ハルは恥ずかしさから少し震えた声を絞り出した。
「とても…ぁ…っ、ぁい…たかった」
その言葉を聞いた途端、一同は思わず息を呑んで、びしりと石のように固まり、ハルを凝視した。
ハルは俯いたままではあったが、皆の視線が自分に向いていることを感じて、羞恥に耳の先がじわじわと熱くなるのを感じた。
しかし、自分のことを心配して、執務室まで顔を見に来てくれたことが有り難かったし、久しぶりに大好きな友人達が揃っている時間を作り出してくれたことが、この上なく嬉しかった。気恥ずかしいが、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったのだ。
–––この先、皆の傍に居られる時間は、きっと、そんなに多くは無いだろうから…
「皆が来てくれて、一緒に居られて、本当に嬉しい…っあ、ありがとう…」
「「……」」
恥じらいながらも、噛み締めるように礼を言ったハルの表情は、下を向いたままで分からなかったが、黒髪から除いている両耳が、真っ赤な林檎のように染まっているのを見て、皆は感動…というよりは、胸の奥から熱風が吹き上がってくるような感覚にそわそわして、だのに滝壺にでも来たようなマイナスイオンを浴びている気分になった。
癒し効果を感じながら、皆が和やかな表情で恥じらうハルを見守っていると、その隣に座っていたジャンは、彼らの視線からハルを隠すように、自分の両腕に抱いて言った。
「お前ら、見るな。ハルの可愛いが減るだろーが」
不満げに放たれたジャンの言葉に、「はぁ!?」とハルの親衛隊員達が声を上げて、ソファーから飛び上がった。
「おいジャンッ!テメッ、何やってんだよ離れろよ!?」
フロックはハルからジャンをベリッと引き剥がし、サシャがその胸倉へ野生獣のように飛び掛かる。
「そういうとこがせれれんっちゃ!!ジャンにハルはあったれー!!」
「いだっ!?俺の腕を食うんじゃねぇ芋女ぁ!!?」
訛りが出るほどの怒りを露わにしているサシャは、ジャンの腕に容赦なく噛み付き、ジャンが痛みに悲鳴を上げる中、フロックはジャンに中指を立てながら、嫉妬に塗れた顔で詰め寄る。
「ジャン…お前ぇえ…勘違いしてないか?彼氏だか何だか知らねぇがぁ、ハルは自分だけのもんだとも、思ってんのかぁー?」
「うるっせぇな!?そもそもハルはモノじゃねぇんだよ!」
「そうですよフロック!?私だって、ハルをいつもポケットに入れて、持ち運びたいくらいなんですからねぇっ?!」
「おいサシャ!?お前が一番ハルをモノ扱いしてるじゃねぇかぁっ!」
「それくらい一緒に居たいんだってことですよぉ!!」
「なんだサシャ!?そんなもんなのか!?俺は最早、眼球にぶち込みたい、いや…何なら俺の目ぇそのものにしちまいたいくらいだぜ!?」
仁義なき取っ組み合いを始めた三名の会話を聞いていたエレンが、ジャンの発言に対して、うわっと汚物でも見るような顔になって突っ込む。
「気持ち悪ぃな…馬面変態野郎じゃねぇか…」
エレンの言葉を聞いたジャンの矛先は、瞬時にサシャ達から外れ、いつもの如くエレンへと向けられる。
「ああ!?何だってこの死に急ぎ野郎?!もういっぺん言ってみやがれ!テメェだってなぁ、ミカサのトレーニング覗き見とかしてるクセにっ、自分だけ棚に上げてんじゃねぇよ!」
「はぁっ!?何の話だよ!?覗き見なんてしてねぇ!!」
「嘘吐いてんじゃねぇ!やんのかコラァッ!」
「ああやってみろよ!!」
「おい、お前ら落ち着けよ…」
「ちょっ、エレン!ジャン!ここで殴り合いはやめなって…」
胸倉を掴んで、額を打つける勢いで睨み合っているジャンとエレンを、マルロとアルミンが慌てて制そうとする。
ミカサやヒストリア、コニーはまた始まったかと呆れ顔だが、サシャとフロックはエレンを応援していた。
殴り合いを始めそうな二人の足元には、インク瓶やら丸筒などが転がっていて、ハルは踏んで転んでしまうと危ないからと、慌ててそれらを回収し始める。
「そうだよ二人とも…!ほら、足元も散らかってるからさ、踏んだりしたら危ないし…」
「ジャン!胸倉引っ張るなって何時も言ってんだろ!?服が破けちまうだろうが!?」
「うるせぇっ!んなことはどうでもいいんだよ!!」
「テメッ、このやろっ…!!」
バキィッ!
しかし、そんな中、エレンの鉄拳がついにジャンの顔面に炸裂する。
ジャンが蛙の潰れたような声を上げて、その衝撃に後ろにたたらを踏むと、背後にはちょうど、健気に足元の散乱物を拾い集めていたハルが居て––––
「あっ、ハル!危ないっ!」
「え?」
ハルはアルミンの切羽詰まった声に、屈んでいた上体を上げ、背後を振り向く。と、その時には既に、ジャンの後頭部が眼前に迫っており、「ゴチンッ!」と鈍い音が鳴った。
「ぶへ!?」
鼻が潰れたのではないかというくらいの衝撃を受けたハルは、背後によろけてそのまま背中から執務机の方に倒れると、ぶつかった振動で、見事に机に積み上げられていた資料の山が、雪崩のように豪快に崩れてしまう。
バッサァアアアアッ!!
「あ」
その光景をスローモーションに見ていた同期達は、素っ頓狂な声を漏らして、立ち尽くすしかなかった。
ハルの身体はあっという間に資料の海に呑まれ、見えなくなり、ひらひらと至る所で資料が花びらの如く舞っている。
「おい、ヤベェぞ、ハルが消えた」
コニーが恐らくハルが埋もれているであろう場所を指差しながら、片言になって言うのに、ジャンはエレンに殴られた眉間の痛みに耐えながら、慌ててハルを資料の中から掻き出す。
やがて目をぐるぐると回しているハルを見つけ出すと、ジャンはハルの両肩を掴んで、申し訳ないと顔を覗き込んだ。
鼻先が自分の後頭部に打つかったのだろう、僅かに赤くなっているが、鼻血は幸い出ていないようだ。
「ハルっ、悪ぃ…!大丈夫か?」
「…う、うん。大丈夫大丈夫。……あ」
心配顔のジャンに、ハルは平気と鼻先をさすりながら微笑んだが、ジャンの肩越しに広がる、雪崩れた資料が執務室に散乱している光景を見て、顔がさっと、一瞬にして青ざめた。
「ぁ、あれ…?しっ、資料が…ば、バラバラに…っ」
ハルの絶望的な顔を見て、マルロがまさかと何かを察した顔になって問いかけた。
「も、もしかしてハル。積み上げてた資料は、順番に整理してあったものだったのか?」
マルロの問いに、ハルは蒼白な顔のまま、こくりと頷いた。
それを確認したサシャとコニーは、急に踵を返して、執務室から出て行こうとする。
「あ、私、急用を思い出したので…」
「お、俺も…」
「待て。待て待て待てっ!」
そんな二人に対して、ハルは資料の山からトカゲのように這い出すと、二人の足を、片足ずつ両手でがっしりと掴んだ。
「そそっ、そんな殺生なぁ!?サシャ、コニー!?酷いじゃないかっ!これっ、全部一人で整頓しろって言うのか!?」
物凄い剣幕で引き止めようとしてくるハルに、サシャとコニーが思わず「ひぃっ」と顔を引き攣らせたすぐ傍で、ビリッと紙が破ける、音がした。
「あ、やべ」
ハルは嫌な予感がして、ギシギシと音が鳴りそうな首の動きで、視線をフロックへと向けると、焦り顔のフロックの足元には、破けた資料があった。
「ご、ごめんハル。踏んで破れちまった…あはは」
首の後ろを触りながら、引き攣った笑顔を浮かべ、ビリビリに破けた資料を拾い上げたフロックに、ハルの表情が更に絶望に染まる。
「あ、この資料お茶に浸かって、汚れちゃってる…」
次には、ヒストリアがテーブルの上に舞い落ちた所為で、ティーカップの中に残った紅茶を吸い、汚れてしまった資料を指先で摘み上げながら言った。
「ぁ、あぁっ…な、なんてことだぁっ…!」
ハルは頭を両手で抱えて、床にべったりと蹲った。
しかし、厄災はこれで終わりではなかったのだ。
コンコンコンッ
「ハル、入るぞ。掃除用具の新調の件、どうなってんだ。もう夕方だぞ、早く買いに行かねぇと店が閉まるだろうが……」
執務室の扉をノックし、現れたのは、昼過ぎにハルへ仕事を頼んでいたリヴァイであり、催促にやって来たようだった。
ハルは条件反射で、猫が天敵から身を隠すが如く、来客用テーブルの下に、ズバッと滑り込んで身を隠した。
しかし、そんなことでリヴァイから逃れられるわけも無く、そもそも足が、出ている。
執務室の、凄惨な光景を見たリヴァイは、扉を開けた状態のまま固まり、一呼吸を置いた後、眉間にそれは深い皺を刻んで、地を這うような低い声で言った。
「これは一体どういう状況だ」
「へ、兵長…?」
突然現れたリヴァイに、エレン達が動揺していると、リヴァイは一番扉の近くに居たコニーに目を向けて問いかけた。
「この汚ねぇ部屋の主はどこに居る?」
「そ、それは…え、えーっと…」
コニーの目が明らかに泳ぐのに、リヴァイは面倒臭そうに執務室を見回し、テーブルの下からはみ出ている二本の足を見つけて、ゆっくりとした足取りで歩み寄った。
そして、テーブルの前で足を止めると、その下を覗き込む。
「おい」
「ひっ」
まるで巨人が人間を覗き込むようにして、目の前に現れたリヴァイの顔に、ハルは思わず小さな悲鳴を上げる。
目の下に明らかな苛立ちを滲ませているリヴァイは、怯えているハルを射殺すように見つめながら尋問する。
「随分楽しそうじゃねぇか、ハル。仕事ほったらかして、友達と隠れんぼか?」
「ぁぁぁ、あのっ…」
「手荒く引き摺り出されたくなかったら、さっさとそこから出てこい馬鹿野郎」
「……」
「?」
しかし、突如ハルは怯えた犬のような声すら発さなくなり、床に顔を伏せ、四つん這いの状態のまま、動かなくなった。
それを怪訝に思ったリヴァイは、眉間に皺を寄せて、ハルの旋毛を足蹴にする。
「聞こえてねぇのか。さっさと出て来い面倒くせぇ」
しかし、それでも何の反応も示さないハルに、アルミンが片手を上げて言った。
「あ…あの、兵長。多分ハル、気絶していると、思います」
「……」
アルミンの言葉に、リヴァイは一瞬面食らったように固まった。それから、干からびた蛙のようになっているハルの両肩を掴んで、ずるずるとテーブルから引っ張り出すと、粗野に俯けの状態から仰向けにひっくり返す。
と、アルミンが言っていた通り、ハルは見事に、白目を剥いて気絶していたのである。
「大変っ、ハルがショックでまた気絶を!?」
ヒストリアが悲鳴を上げるのに、マルロは腕を組み、成程と腑に落ちた顔で頷きながら呟く。
「訓練兵の時も、こうやって気絶したんだな」
その後、ハルはリヴァイによって俵のように担がれ、医務室に搬送されたが、ベッドの中で「仕事が…判子を押さないと…」なんて悪夢に魘されるハルの様子に流石に良心が痛んだ上官達も雑務の量を減らしたわけだが………
この珍事件により、ハルは仲間達からしばらくの間、散々に揶揄われることとなったのであった。
完