第五十四話
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ウォール・シーナの突出区であるオルブド区に押し寄せた、超大型巨人–––ロッド・レイスを、実の娘であるヒストリアが、恐怖に慄く民衆達の前で討ち取ったという紛れもない事実は、新たな真の女王へ強い求心力を生み出すことへと繋がった。
巨人襲来から三日後に急遽執り行われる事となった戴冠式は、憲兵団本部の広場に即席で組み上げられた舞台上での挙行となり、その情報を聞きつけた大勢の民達が、新たな女王の即位を祝おうと広場に集った。
兵団の粛清によって中枢に当たる人材を多く失い、今後貴族院からの反発も少なからず受けることになるであろう新たな政権だったが、偽りの王ではなく、真の王家の血を継ぎ、巨人を葬った英雄でもあるヒストリアが、民達の支持を得られることは必然的でもあり、至って自然なことでもあった。
新たに人員を組み直された上層部は、ザックレー総統を首に、ピクシスやエルヴィンを主要人物として、今後の政権を担っていくことが決定し、既に始動している。
そして大きく変わった政権同様に、戴冠式の日にひょっこりと兵団に帰還したハルも、仲間達から半殺しの刑にあった後、その立場と環境を一変させていた。
「ハル、失礼するよ」
耳馴染んだ訪いの声と、扉のノック音に、ハルは午前に行われた兵団会議の資料から視線を上げ、執務室の扉を見た。
現れたのはナナバであり、片手には何やら数枚の資料を手にしている。それを目にしたハルは瞬時に嫌な予感が胸を過って、ピクリと片眉の先を震わせた。
「これ、ハンジからなんだけど。調査兵団員募集の志願者受付用紙の作成を頼まれたんだ。『今日の夜』までに印刷依頼を出して、明日全部に確認印押して各兵団に配布してくれって–––」
ハルが座っている執務机の両端には、これでもかという程の資料が高々と積み上げられていた。左手の山が未確認の資料であり、右手の山が確認済み、或いは対応済みの資料だった。少しでも腕をぶつけようものなら盛大な雪崩を起こして、床に散らばってしまいそうだ。
しかし、幾ら右手の山を積み上げても、不思議と左手にある資料の山が、高さを減らすことは無かった。
何故なら、仕事を減らせば減らす程、新たな仕事がハルの元へと舞い込んで来るからだ。
軽快な足取りで資料の山に挟まれているハルの元へとやって来たナナバは、至極申し訳なさそうな顔をして、手にしていた資料をハルの眼前に見せつけた。
「し、志願者、受付用紙…」
ハルは目の下に浮かんだ隈に落ち窪みそうになっている目を細めて、舌足らずに呟く。それはほぼ呻き声に近く、隙間風のように小さかった。受付用紙を作成するに当たっての必要事項と、注意事項が書かれた指示書の字の輪郭が、ひどくぼやけて見える。
そんな徹夜続きで意識が朦朧とし始めているハルの元へ、更に追い討ちをかけるが如く、ゲルガーとトーマが執務室へとやって来た。ご丁寧に、仕事もしっかりと抱えて–––
「ハル、会議お疲れさん。終わって直ぐで悪いんだが、リヴァイ兵長から備品の新調リストを渡されちまってな。これ全部経費で落としていいから、『今日の夜』までに調達して備品室に補充しておけって…」
「ハル失礼するぞー、エルヴィン団長から、ウォール・マリア奪還作戦に向けて全調査兵の立体機動装置を再整備をするらしいから、部品の不良がないか皆に聞き取りしてくれとのことだ。あと見積りも出してくれって、『今日の夜』までに」
執務机を挟んで立ち並ぶ三人に、見せつけられた資料と指示書が、自分を抹殺する兵器のように見えてしまい、ハルは愈々「うわぁあっ!」と声を上げ、両目を手で覆い隠した。
それからドンッ!と鈍い音が鳴る勢いで、額をデスクの上に打ち付けると、くぐもった声で呻く。
「っ何故だぁ…」
どうして皆、私に雑務をこれでもかと押し付けてくるのだ!?…間接的に、ケニーに保護され、三日間音信不通で兵団に戻らなかったことへの罰を受けさせられているのだろうか?それにしては、期間が長すぎる。ヒストリアが女王になってから、もう二ヶ月が経つというのに、この仕打ちはあまりに酷い。典型的なパワハラだ!それにっ…!
「何で皆…締切が『今日の夜』まで何です!?仕事を頼むならせめてっ、もっと早くにっ!というか、皆面倒な仕事を全部私に押し付けて居ませんかぁっ!?」
座っていた椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、溜まらず発狂しながら頭を掻き毟って、天井を仰ぎ叫ぶハルの姿を見て、ナナバとゲルガー、そしてトーマの三人は、同情の視線を送っていた。
「まあ、そうだよなぁ…?叫びたくも、なるよなぁ?この量は流石にえげつないよなぁ?…ハル、もう徹夜三日目だぞ…」
ゲルガーはハルの机に積み重なった資料の山と、普段は落ち着いているハルの取り乱した姿を交互に見ながら、腕を組んで唸るのに、ナナバも腰に手を当て、眉を八の字にして肩を竦める。
「ああ、新米班長が、上司から仕事押し付けられるっていうのは、悪習として知ってはいたけれど。……これは、酷いな。流石に同情するよ」
私には到底出来ないと首を振るナナバに、トーマは苦笑しながら、ハルの姿を身近なある兵士に重ねて、額を片手で抑える。
「ハルは頭も良くて、仕事も早いからなぁ…。皆、ついつい甘えちまうんだろう?…第二のモブリットを、見ているようだぜ」
トーマの的を得た発言に、ゲルガーとナナバも「同感だ」と頷く。
ハルは兵団へ帰還した後、エルヴィンから団長室へ来るよう呼び出され、「まさか、クビだと言われるのでは?」と恐れているところに、思いも寄らない内示を突き付けられた。
それは、ミケが療養中、兵団復帰をするまでの間、ナナバ、トーマ、ゲルガー三名の班長代役を務めよという辞令だった。
兵団が設立されて今まで、最年少での班長昇格となったハルは、今こうして執務室まで与えられて居るわけなのだが、至るところから湧いて出てくる執務に追われ、当然ながら調査兵としての普段の訓練や、ウォール・マリア奪還作戦に向けての対策会議なども重なり、訓練時以外が殆ど執務室に缶詰になっている状況が、何日も続いているのである。
日に日に目の下の隈が濃くなっていく自分達の班長を、ナナバ達は愈々心配になっていた。
こうして班員達の前だけでは、愚痴も弱音も吐けるようだが、いざハンジやリヴァイ、エルヴィンを前にして仕事を頼まれれば、幾ら仕事が立て込んでいようと断れず、まさに馬車馬の如く…否、もはや暴れ馬のように働き狂っている始末だ。このままでは確実に過労で倒れてしまう。
「ハル、仕事が立て込んでるのは分かるけど、少し休憩を取った方がいい。お茶淹れてくるから、ちょっとだけ、ね?」
ナナバは頭を掻き毟るハルの両肩に手を置き、ぐっと押しつけるように椅子に座らせると、給湯室へ向かうため執務室の扉の方へと歩き出した。
「志願者の受付用紙なら俺が作るから、最終チェックだけしてくれ。印刷も俺がいつものとこに頼んでやるから、ナナバの言う通り少し休めよ?」
ゲルガーもナナバがハルのデスクに置いた指示書を手にし、トーマもハルに声をかけて執務室を出て行こうとする。
「整備不良の聞き取りの件も、俺が回っておく。このままじゃお前、過労で倒れちまうだろ。確実、な?」
「すみません、ナナバさん、ゲルガーさん、トーマさん…本当に助かります…っ、今度何か奢ります!」
神棚に拝む勢いで、顔の前に掌を合わせながら礼を言うハルを、ナナバ達は気にするなと笑った。
突然の異動発表に、ナナバ達も驚きはしたが、ハルがミケの代役として自分たちの班長になることに対して、抵抗は微塵も感じなかった。寧ろ、当然のことだと、すんなりと受け入れることができた。
新米、というよりも新兵であるハルが、ベテラン調査兵のミケの代わりに班長になるというのは、かなり異例な昇格ではあったが、彼女のこれまでの功績を考えれば、妥当とも云える。
それに、エルヴィンがハルを班長にしたのには、功績を讃えて…という単純な理由だけでは無かった。
ハルは確かに有能な兵士ではあるが、一人にしていると何処までも、際限なく無茶をしでかしてしまうきらいがある。それを抑制する為、ハルには自分の行動が部下達にも直接影響し、また担う命の責任が常に伴うのだという意識を持たせることによって、ハルの無茶な行動に制限をさせようという意図もあってのことだった。
一旦執務室を出て行ったナナバ達を見送ったハルは、「ふぅ…」と自分の荒んだ感情を落ち着かせようと大きく深呼吸をしてから、椅子の背凭れに全体重を預けるようにして寄りかかり、顎を上げて背後の開き窓を見た。
今日は、天気が良い。
水色の澄んだ秋空が、気が遠くなる程高く見える–––
「…ああ、…外に出たい…」
ハルの切実な独り言が、唇の隙間から零れ落ちる。
今日は確か、金曜日だった筈だ。
毎週金曜日は、何時もより早く訓練が終わるので、ジャン達は女王に即位したヒストリアが建てた孤児院の手伝いに行っている。ハルも何度か足を運んだが、最近は忙しくて、一ヶ月程、様子を見に行くことが出来ていなかった。
そもそも、だ。
最後に同期の皆と、一緒に揃って話をしたのは、何時だったか…?
「…ぁあ、会いたい」
無性に友人達が恋しくなってしまって、思わず呟いた言葉は、日に日に荒れ進んでいく執務室の中に、虚しく響いて、消えたのだった。
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