第四十六話
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トロスト区も二日前までは閑散としていたが、内地に避難していた住民達が安全宣言の発表によって戻って来たことにより、何時もの賑わいを取り戻していた。その人混みを掻き分けながら、ハルは麻酔銃を持った人物の気配を追い、トロスト区の街並み特有の所狭しと建物が建ち並ぶ路地裏に辿り着いた。
ハルは建物に夕日を遮られた薄暗い路地に入ると、突き当たりの少し手前にある曲がり角を警戒し、目を細めて口を開いた。
「其処に、居ますね」
すると、人々のざわめきから遠のいた薄暗い隘路に、「ちっ」と舌を打つ音が鳴った。
それから間も無く、両腕を上げた状態で、キャメルの長いコートと黒いハットを深々と被った長身痩躯の男が曲がり角から現れた。
「へぇ、よくここまで追い駆けてこれたもんだ。…気配は殺していたつもりだったんだがなぁ?」
妙に陽気な口振りで話す男は、深く被っている帽子の所為で顔をはっきりと確認することは出来なかったが、細い顎と髭、口周りには細かな皺が浮かんでおり、初老から五十路辺りの年齢ということは察せられた。
「…気配は消せても、音がします。例えば貴方が息を吐く微かな音も、心臓の鼓動でさえも…。ですから、私を尾行するのはまず不可能です」
ハルは現れた長身の男に対し、態勢を僅かに低くして身構えた。脳ある鷹は爪を隠すと良く言うが、そういう狡猾さが、目の前の男から感じられたからだ。
男は顎を上げ、ハルを見下ろす。目元に下りているハットの影から、灰褐色の鋭い瞳が二つ、鈍く光って見えた。
「ハッ…!そりゃあただ、耳が良いってもんじゃねぇな?まるで野生の獣……いいや、それ以上か…?普通の人間じゃねぇって話は、どうやら本当だったみたいだなぁ?」
男の口振りから、ハルは自分が『未知の力』を保持しているということを知っているのだと理解した。
男はハルを挑発したつもりだったが、ハルは彼の言葉に顔色一つ変えることは無かった。ただ静かに、理性的な双眸を湛え、男の様子を伺っている。
「ちっ、餓鬼の癖に…随分達観した面ァしてやがる。可愛げがねぇなぁ…ったく!」
そんなハルに対して男は面白くなさそうに舌を打つが、次には鋭い双眼を蛇のように細めて笑った。
ハルは先程から男の振る舞いがやけに芝居がかっているように感じて、違和感に眉を寄せながら、ゆっくりと男に歩み寄り問い掛けた。
「貴方…一体何が目的なんです?」
こつん、こつんと、ハルが履いているミドル丈のブーツの底が、乾いた石張りの地面を鳴らす音が近づいてくるのを感じながら、男はハルの風貌を観察していた。
路地の薄闇よりもずっと暗い漆黒の黒髪に、黒曜石のような双眼、兵士にしては細身で特段背丈があるわけでもない。しかし、彼女が纏う空気感で、本能がコイツは只者じゃないと告げている。その落ち着き振りは、とても十七歳の若い新兵とは思えない。
「見つかっちまったもんはしょうがねぇ。だが名を名乗る気も目的を話す気もねぇ。わざわざご足労いただいたってのに、悪ぃな?お嬢ちゃん」
男は流水の如く舌を振り終えた瞬間、俊敏に懐へ手を差し入れると、小型のナイフをハルに向かって投げつけた。
「っ!?」
ハルは矢の如く飛んで来るナイフを体を逸らして避け、男を取り押さえようと前進しようとしたが、男は纏う長いコートの裏からまるで手品のように次から次へとナイフを取り出し、息つく間もなく投げつけてくる為、中々距離を詰めることが出来なかった。
「っ随分、物騒な物を持ち歩いてるんですね?」
「何言ってやがる?必需品、だろ?このご時世、自分の身を守るもんの一つや二つ、いや、三つ!!」
「っ!」
ハルは男が連続で投げつけてきたナイフの三つ目を避け、顔の横を通り過ぎる瞬間に、手刀でナイフの柄を叩き地面に落とした。カランッと甲高い音を立て地面で跳ね上がるナイフを、ハルは俊敏に掴み上げて、「は?」と驚いている男に身を屈めた状態で地面を強く蹴り飛び掛かる。
男の背中は古ぼけた木造の家の壁にぶつかった。この路地裏の行き止まりだ。ハルは男の喉仏に左腕を押し付け、右手に握っていたナイフを顔の横にダンッと突き立てた。
「ヒュー…、やるじゃねぇか、嬢ちゃん」
追い詰められた男は何故か感心した様子で口笛を吹き、軽口を叩いてハルを頤を上げて見下ろした。
間近に見ると男の双眼の鋭さが良く分かったが、怖気付くことなくハルは男にいつもよりずっと低い声で問い質した。
「私を付け狙う理由を教えてください。…一体何が目的なんですか?」
「だからさっき言ったじゃねぇか?話す気は無ぇんだって」
「貴方を、傷つけたくない」
そう言って男の喉元に押し当てた腕にぐっと力を込め、黒い双眸を細めたハルに、男は喉を鳴らすようにくつくつと笑った。
「おいおいっ!?そりゃあまるで、俺に勝てると思ってる奴の台詞だぜ?」
「この状況では、少なくても私の方が有利でわ?」
「さぁ…どーだろー、なぁっ!?」
「!?」
男は長い足をハルの顎下狙って大きく蹴り上げる。ハルは持ち前の反射神経でその攻撃を後方に飛び退くことで逃れたが、距離を取った瞬間に、男は長いコートの下の太腿に着けたホルダーから拳銃を取り出し、銃口をハルへと向けた。
ドォン!!
重い銃声が路地裏に響き渡り、火薬の匂いが鼻腔を突く。
ハルは立っていた場所から飛び退き路地の冷たい壁に背中を押し当てたことで、銃弾を顔面の頬擦れ擦れで避けることに成功したが、肌が弾の熱に少し焼かれ、ひりつく右頬をジャケットの袖でぐいと拭った。今のはかなり、危なかった。
男は煙が上がる銃口をハルに向けたまま、拳銃を手にしていない手で、被っているハットのブリムを掴み雑に脱ぎ捨てた。
すると、黒く少し長い髪をオールバックに撫でつけた、中年の男の顔が露わになった。男の鋭い瞳に、肌に突き刺さるような冷たい眼光が煌いて、ハルは額に冷や汗が滲むのを感じた。男から喉を締め付けるような威圧感が襲いかかって来て、ハルははっと息を吐き出す。
「やっぱ、予定変更だ。後々面倒になんのは御免被りたいんでねぇ?テメェに恨みは無ぇが、まぁ…許してくれや?ハル・グランバルド」
ハルの名前を冷ややかな声音で口にして、男は再び引き金を引く。
ハルは目ではなく耳を頼りに、空気を突き抜けてくる銃弾の機動を予測して避け、離れてしまった男との距離を再び詰めようとしたが、今度は男からハルに向かって距離を詰めて来た。
男の長い腕がハルの顔面目掛けて拳を突き出してくるのに、ハルは体を屈めて避け、低い姿勢のまま体を捻り鳩尾目掛けて回し蹴りを入れるが、踵は男の長いコートの裾を掠めただけで、体を捉えることは出来なかった。男は喉をコツコツと叩くように楽しげに笑いながら、ハルの脇腹を狙って膝蹴りを繰り出す。回し蹴りを繰り出した直後で体制が整っていなかったハルは攻撃を避けることは出来ず、両腕で脇腹を覆い隠す事で攻撃を防御したが、激しい衝撃に腕の骨が軋んで、ハルは痛みに奥歯を噛み締めながらも、男から飛び退き距離を取った。
一瞬怯みを見せたハルに、男はすかさず銃を撃ち放ってくるのに、ハルは全神経を集中させて銃弾を懸命に避ける。
「貴方何者なんですっ…?!普通の動きじゃないっ!」
その言葉に、男は目尻に皺が出来るほどの下品な笑みを浮かべながら、ハルに飛びかかった。
「!?」
男の大きな手が、ハルの細い喉を掴み、拳銃を放ってナイフを握っていたハルの手首を捻り上げた。ハルは手首の骨が軋み痛みでナイフを地面に落としてしまい、今度は男がハルの背中を石造の建物の壁に押しつけた。
「うっ…ぐ…!」
ハルは息苦しさに苦悶の声を漏らしながらも、しっかりと男の顔を睨みつけていた。そんなハルに、男はニヤニヤと含み笑いを浮かべたまま、ハルに覆い被さるようにして顔を見下ろした。
「ハハッ!そりゃこっちの台詞だってんだよ!?銃弾を生身で避ける奴がいるかぁ!?やっぱりテメェは、普通じゃねぇ!!」
生暖かな吐息が顔に掛かる。まるで獲物を前にした肉食獣のように、息を荒立て舌舐めずりする男の、首を掴んでいる手を、ハルは抑えられていない左手でがっしりと掴んだ。完全に追い詰められた状況でも、ハルは少しも諦めていなかった。
「普通じゃないっ、ことを…っ知っているから、っ私を、付け狙っていたんでしょう…っ?」
抵抗するハルの言葉に、男の目が僅かに見開かれた。
恐らくだが、彼は自分の名前を知っていて、先程から自分の『未知の力』について知っているような口振りが目立っていた。そうなると、男は自分の力を欲してか、あるいは排除する為に、後を付けてきたと考えるのが妥当だろう。
「私の力がっ…欲しいんですか」
ハルは息苦しい中でそう問いかけると、男は歯茎が見えるほど大きく口端を上げて笑った。
「テメェには興味がある。いや、興味を持ったっつーのが正しいか?…だが、欲しいのはお前の力じゃねぇんだよ」
「じゃあ、何が…」
「知りてぇか?だったら俺を、跳ね除けてみな?」
「無理だろうけどな」と、男はハルの耳元で、わざとらしくも低く唸るような声で煽り文句を言った。
それにハルは奥歯を食い縛った。男の手首を握る手に力を込め、体中の筋肉にぐっと力を込める。
「…っ?」
すると、男の顔色が少し変わった。
華奢な腕が、己の腕を喉元から引き剥がして行く。もちろん男は力を抜いていない。彼女の力が、急に増したのだ。
「はぁっ!?…マジかよっ!?」
男はぎょっとして声を上げる。ハルは自分の右手を拘束していた男の腕を右足で蹴り上げた。男が痛みで苦悶の声を上げた刹那に、拘束から逃れた右手で細い顎に掌底を打ち込むと、男は脳が揺れて後方にたたらを踏んでよろめいた。その隙に、ハルは男の顔面目掛け飛び蹴りを仕掛けたが、男は後頭部を落とすように腰を背後に折り、体をくの字に大きく逸らした。
「!?」
長身の男の体の柔軟性に今度はハルがぎょっとすると、男の顔が自分の踵の下でにやりと気味悪く歪んだのが見え、さっと血の気が引いた。
男は蹴り出したハルの足を両手でがっしりと掴むと、折り曲げた体を起き上がらせる勢いで、側にあった建物の窓に容赦なくハルの体を叩きつけた。
バリンィインッ!!
甲高くガラスが割れる音が響き、ハルは手の甲や顔に細い電流が駆け抜けるような痛みを感じた途端、背中が固い床に叩きつけられ、一瞬息が詰まった。
「うっ…ゲホッ!」
ハルは咳き込みながら、俯けに倒れた体を起こそうと床に手をつき上半身を起こした。その際掌に割れたガラスの破片が食い込む感触がして、痛みに声が上がりそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐えた。
顔を上げれば、辺りは路地裏よりも薄暗かった。天井の高い無人の倉庫のような場所で、至る所に高々と麻袋が積み上げられており、袋には「小麦粉」と表記されている。
ハルが掌に突き刺さったガラスを摘んで引き抜いていると、ぬっと倉庫の中の暗闇が濃さを増し、ハルは外の明かりを僅かに引き入れていた窓へと視線を向けた。自分が叩きつけられ跡形もなくガラスが無くなった窓の縁に男は乗り上がり、掌底を入れた時に切れたであろう唇に滲んだ血を舌で舐め拭いながら、床に片膝をついているハルのことを見下ろしていた。
「やっぱりお前も、治るんだなぁ…傷がよ」
「…お前、も?」
ハルは、ガラスで切れた頬や腕から上がる蒸気を見て、特段驚く様子もなく、どこか懐かしげに呟いた男に、怪訝な顔になって立ち上がった。
まるで彼は、自分以外にも傷が治る人間を、知っているかのような口振りだったからだ。
男はハルが首を傾げたのに、余計なことを言ってしまったと後悔するように舌を打って、拳銃の銃口を向けながら、窓からハルの前へ飛び降りた。
「取り敢えず、両手を上げて動くな」
「……」
ハルは薄暗い建物の中で、武器も無くすぐに反撃に出るのは無謀と考え、言われた通り両手を上げた。
すると、男は肺の中の空気を全部吐き出すように、はぁと深い溜息を吐き、銃口はしっかりとハルの額を狙ったまま、大きく肩を竦め憂いを帯びた口調で慨嘆する。
「ったく、嫌なご時世になっちまったもんだよなぁ?お前らみてぇな餓鬼でも、戦場に駆り出されなきゃならねぇ、マジでクソッタレな世界だ。…いや、そりゃ今になって始まったことじゃねぇが、壁の中は金持ちの豚共ばかりが肥えていきやがり、それ以外の人間はまるで奴隷扱いだ。だからって外に出りゃあ、馬鹿デケェ巨人共で溢れ返ってやがる…ったく、やってらんねぇぜ!?そう思わねぇかっ?」
「そりゃ、嫌にもなります」
ハルは返答に間を開けることも無く、特に取り繕う事無く正直に答えた。それに男はふんと鼻を鳴らし、ハルの額に銃口を突きつけた。
まだ発砲されてから間もない為、ハルは額に銃口の残熱を感じた。
「はっ、だったらなんで兵士なんてやってんだ!?」
ハルは顔色一つ変えず、男の小さな瞳を精密に見据えて言った。
「…其処に私が生きる価値を、見出したからです」
すると、男は目を細めトリガーに指をかけると、凄みのある唸るような低い声で問いかけた。
「…生きがいってヤツか…?」
その問いに、ハルは大きく瞬きをした。
彼の言葉は、とても的を射ていると感じたからだ。
「生き甲斐…か…、なるほど。そう言えるかもしれませんね」
ハルは腑に落ちたと言うかのように呟くと、間近に迫った男の目を見つめて、言った。
「…貴方も今、随分楽しそうだ」
それは全く予期していなかった言葉で、男は思わず「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。
しかし、ハルは至って真面目な口調と表情で続ける。
「この世の中に嫌気が差していると言う割には、とても…目が活気に満ち溢れている」
「へぇ…俺の目が、テメェにはそー見えてんのか?」
男は脅しをかけるように銃口をぐっとハルの額に押し付けて問うが、ハルはやはり怖気付く様子も無く答える。
「はい。一体、何が貴方をそうさせているんでしょうか…」
それから、徐に黒い双眸を細めた。
まるで男の瞳の奥に隠れている真意を探るように、薄暗い闇の中で、黒い瞳がリンのように煌る。
「とても、興味深いですね––––」
男はハルの観察眼に対して、不思議と嫌悪感を抱かなかった。彼女の眼の中には、幼児のような純粋な好奇心だけが浮かんでいたからだ。
男ははっと息を短く吐き出すようにして笑い、銃を下ろして肩を竦めた。
「そりゃ興味を持っていただいて光栄だ。『ユミルの愛し子』さんよ?」
「!?」
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