第五十三話
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ハルの涙が枯れた頃になって、ケニーは風呂に入るように言った。
そこで少し落ち着いて、頭を整理しろ。と。部屋の中の箪笥を開けて、適当な服を引っ張り出し、それをハルに投げつけて着替えにするように言うと、部屋を出る時、「四日も風呂に入ってねぇんだ、臭うぞ」といらない言葉も残して、ボロンと一緒に出て行った。
ハルはケニーに言われるがまま、着替えを抱えてベッドから立ち上がると、リビングに出た。キッチンと一体になったそれなりに広いリビングに置かれている、革製のソファーに座ったケニーが、顎をしゃくって風呂場のある場所を教えてくれた。
しかし、風呂場の中に風呂桶は無く、狭いシャワー室になっていた。それでも、身体に纏わりついた不快感を拭うには十分だったし、その狭い空間が、ハルの心を落ち着けるに、丁度いい空間だった。
「あー…やっぱでけぇな。農家の少年みたいだぞ」
シャワーから出てケニーに借りた服を着ると、上も下も全体的に大きかった。ズボンは丈が長いし、ウエストはぶかぶか。借りたベルトを一番奥で締めてもまだ緩いので、ダボダボのシャツの裾を全部中に押し込んで誤魔化し、長い袖は三回折って、やっと手首の長さになっていた。
「そんな子供でもないですが…」
「さっきまでピーピー泣き喚いて、餓鬼そのものだったじゃねぇか」
むっと頬を膨らませるハルに、ソファーに深く腰掛け、背凭れに寄りかかっていたケニーがゲラゲラと笑う。それから、また顎で、今度は玄関の方をしゃくった。
「其処にお前の立体機動装置がある。持ってけよ」
玄関の前には、固定ベルトと立体機動装置が一式、ごろりと乱雑に置かれていた。マルコのエンブレムが操作装置の柄に縫い付けられているので、間違いなくハルの立体機動装置だった。
ハルはケニーに礼を言って、最初に固定ベルトを手に取ると、無造作に絡まったそれを慣れた手付きで解き、身につけながら問いかける。
「ケニー…貴方はこれから、どうするんです?」
「人の心配よりテメェの心配しろ」
ケニーはソファーから立ち上がると、壁掛けのハンガーから浅色の外套を手にして、ハルの元へと歩み寄った。その後ろを、ボロンがとことこと弾むような足取りでついてくる。
「…どっかに旅に出て、テキトーに暮らすさ。もう誰かの犬になるのはご免だしな。それに、お前に知られちまった以上、此処にも居られねぇしよ?」
身につけた固定ベルトに、立体機動装置と鞘を腰に取り付け終えたハルへ、ケニーは外套を投げ渡した。私服を着た状態で武装をして、ミットラスの街中を歩き回るのは目立つだろう。ハルにとって、有り難い気遣いだった。
「私は、言いませんよ」
ハルは受け取った外套を肩にかけながら言うが、ケニーは鼻で笑いながら肩を竦めた。
「…ああ、だろうな。ってか、いいんだよ俺のことわ。それよりも早く行け。急がねぇと戴冠式どころか、お前の葬式まで開かれちまうぞ?」
「それは困りますね…」
ハルは苦笑を浮かべて頬を指先で掻くと、足元にボロンがやって来た。
「ボロン。またね…?沢山元気づけてくれて、ありがとう」
「わうぅ」
名残惜しそうに自分を見上げるボロンの前にしゃがんで、ふわふわの頭を撫で回すと、ボロンが寂しそうに鼻を鳴らした。一緒に居たのは短い間だったのに、別れを惜しんでくれるのが嬉しかった。でも、これを最後の別れにするつもりは、ハルには無かった。
「ケニー」
「何だよ、まだ何か聞きてぇのか…」
ハルはボロンを撫で回しながら言った。
「貴方に提案が、あります」
「提案?」
ケニーが怪訝な顔になって、ハルを見下ろした。
ハルは顔を上げると、にっと白い歯を見せて、ゆっくりと立ち上がり、ケニーを見据えて言った。
「私は貴方に、ウーリさんが見ていた『景色』を、お見せすることが出来ると思うんです」
「…は?」
予想外の言葉に、ケニーは自分でも間抜けだと認識できる声を出してしまう。
しかし、ハルは至って真面目な顔をしていた。
先程の、嘆きに溺れた暗い瞳ではなく、双眼には、しっかりとした光が宿っている。
「でも、その『景色』は、私にとっては終わりではなく始まりの『景色』です。この壁内を、革新的に変える為にも、まずはその『景色』に辿り着くことが、第一の目的でもありますから」
「お前、何を言って…」
「ケニー、どうか、お願いします」
「!?」
ハルはケニーに歩み寄ると、左胸に手を当て、片膝をついた。
ケニーはぎょっとして後ずさる。
そんなケニーを見上げ、ハルは微笑みを浮かべながら、左手を差し出した。
「私が貴方に、新たな『生き甲斐』を。その代わりに、貴方の『力』を貸してくれませんか。…ケニー」
不思議な程に皮肉な響きがしない、寧ろとても清々しく、穏やかで心地の良い声だった。
その声で紡がれた言葉はすっと、自身の胸に馴染んで行くのが分かった。とても魅力的な、誘いだと思った。
厚い雲に覆われ、薄暗くなった世界に、雲間から陽光が差し込んだような。急に霧が晴れ、視界が開けたような気分になって、ケニーは思わず口端が引き上がるのを感じた。
「あぁ…何だよ」
感嘆の声が、唇から漏れ出す。
胸が躍る。
もうこの先、老いて死ぬだけだと思っていた人生に、新たな娯楽を見出せるとは思っても居なかった。
「まだこの世界は、俺をこんなに高揚させるってのかぁ…?もう俺ぁ、いい歳だってのによぉ…」
「わうっ!」
両腕を開いて、首を竦めたケニーに同調するように、ボロンが高らかに吠えた。
「…ノった」
ケニーは、差し出されたハルの掌を、バシッと右手で叩いた。
それに、ハルはパッと目を輝かせて立ち上がった。
「ケニー!ありが、」
「ただし!」
そしてお決まりの礼を言おうとしたハルを制するように、ケニーは大胆不敵な笑みを浮かべ、ズボンのポケットから取り出した細長い木箱を、ハルの左胸にドンと押し付けた。
その箱の中身を、ハルは開かなくても理解できた。
この箱の中には、巨人化が可能になる薬…ジークの…獣の巨人の脊髄液が入っている。
「俺を失望させないと約束しろ。俺ぁ、ツマらねぇのは嫌いなんだよ」
そんなケニーに、ハルは「ええ」と頷き、木箱を受け取ると、弾けるような渾身の笑みを見せて言った。
「約束します」
ハルは諦めなかった。
自分の終わりを知っても尚、果てる為に生きることは、選ばなかった。
その事実だけで、ケニーが残りの人生を預けるには、十二分に足るものだった。
完