第五十三話
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※
彼は、この世界にとって、天と地上を繋げる、虹の橋のような存在でした。
日溜まりのように温かく、絹のように柔らかで、慈悲深い女神様のように、優しい人でした。
彼は奴隷の身でありながらも、自らの力で剣の腕を磨き、知恵を得て、王国の騎士に成り上がりました。
血反吐を吐く程の努力を積み重ねてまで、生まれ故郷を蹂躙し、家族の命を奪い己を虐げてきた王国の騎士となった理由は、たった一つだけ––––
その国の王である妻を……私の母を、愛していたからでした。
母も以前は、彼と同じ奴隷の身であり、歳の近かった二人は、地獄のような日々の中で助け合う内に、やがてお互いを思いやり、恋に落ちました。
しかし、ある日の事……母は、罪を犯しました。
戦争で大地が踏み荒らされ、食糧が枯渇する中、貴重な家畜の豚を、柵の外へ逃してしまったのです。
母は罰として両足に重石をかけられ、裸足のまま深い森に投げ出されました。そして、兵士たちの狩の的にされ、身に矢を受けながら、母は必死に森の中を逃げ惑いました。
その最中の事です。
母の前に、大きな大樹が現れました。
その大樹の根元は、洞窟のようになっていて、母は兵士達から身を潜めようと、暗い穴の中へ足を踏み入れました。
すると、母の体は、暗い暗い地の底へと落下し…そして気がついた時には、体が何十倍も大きくなって、世界がずっと遠くまで見張らせるようになっていたのです。
母はその巨人としての力を国王から望まれ、妻となり、やがて私達を産みました。
しかし王は、奴隷の身であった母を、愛してはくれませんでした。
そんな母の事を、彼はいつも遠くから見守っていました。
そして、私たち三姉妹のことも、いつも気にかけてくれていました。
彼は、私達に元気がない時、黒曜石を溶かし込んだような、黒い瞳を優しく細めて、「大丈夫ですか?今日は元気がありませんね?体調が悪いのですか?」と、決まって声をかけてくれました。その声が、私はとても好きでした。妹のローゼとマリアも、彼に懐いていました。
しかし、私たちと母との別れは、突然にやってきました。
国王である父の演説の場に、護衛の兵士に紛れた奴隷の男が、槍を投げつけたのです。
国王の傍に居た母はとっさに身を乗り出し、その槍を身に受けて、息絶えてしまいました–––
国王である父はその後、母が宿していた巨人の力を失わない為に、私と妹達に、母の遺体を食すよう命じました。
その時、私達は父に隠れて…母の心臓だけを、外へ持ち出しました。
あの人の元へ…
この残酷な世界で、ずっと母を愛し続けてくれた、彼の元へと–––
彼は、部下に紛れた奴隷を見抜けず、母の命を守れなかったことに責任を感じ、騎士を辞めようとしていました。
真夜中に、何処かへ旅立とうとする彼を呼び止めて、私は妹たちと共に、母の心臓を、彼に渡そうとしました。
彼は言いました。
「私には、その資格がない。彼女が罪に問われた時、私は彼女を守ることが出来なかった。そして、今回も……きっと彼女は私を憎んでいるでしょう。ですから、彼女の心臓を、私が受け取るわけにはいかないのです」–––と。
頑なに心臓を受け取ろうとしない彼に、私は…嘘を吐きました。
「この心臓を貴方に託すように、お母様から遺言を受け取っていたのです」…と。
その言葉を聞いて、彼はとても、悲しい顔をしました。とても、苦しそうに、泣きそうな顔になってしまいました。私は罪悪感で、胸が引き裂かれそうになりました。
彼は、私から母の心臓を受け取ると…こう問いかけてきました。
「シーナ様、ローゼ様、マリア様は…国王に命じられ、ユミルの身体を食べて、あの悍ましい巨人の力を…その身に受けたのですか?」
私達は「分からない、でもそうなってしまったのかもしれない」と答えると、彼は言いました。
「お辛いでしょう」––––と。
その時、母を失った日以来、私たちは初めて泣くことが出来ました。
巨人の力を得た母と、その子である私達のことを、ただの人間として接してくれていたのは、この世界で、彼だけだったのです。
すると、彼は泣き崩れる私達を見て、…その場で、母の心臓を食べました。
私達が驚いていると、彼は言いました。
「貴方たちだけに、ユミルの悲しみを…そして巨人の力を負うその苦しみを、背負わせたりはしません。私も一緒に…その苦しみを背負いましょう。そして、いつか…この巨人の力を、この悲しい呪いを、世界から消し去りましょう…」
そう言った彼が微笑むと、その頬には九つの痣が浮かび上がり、彼の背中から、黒白の翼が生えたのです。
この世の何よりも美しく、神々しい…白銀の翼と、漆黒の翼。
この残酷な世界に生きる人々の希望の光であるように、私達の目に映りました。
しかし、彼は…
黒白の翼を得た彼は、王国を旅立って、五年で命を落としました。
彼の最期を看取った旅の仲間の話では、彼は段々と体の五感を失い始め、最期は眠るように亡くなったと……
そして、十数年後に、彼と同じ黒白の翼を得た人間が現れましたが…
その人物もまた、黒白の翼を始めて身に宿した時から、5年の間に命を落とし…
彼の力を引き継いだ者は皆例外無く、五年の間に命を落としました。
彼が得た力は、巨人の力をこの世から消し去るための力。
しかし、その力の真価を発揮する為には、私達が母の身体を食い、生み出してしまった、九つの巨人の内、『始祖の巨人』意外の…全ての巨人の力を宿す人間の血を得なければいけません。
その力の真価とは–––『時を巻き戻り、そして干渉すること』。
それは、彼の願いでもありました。
母を愛した彼が、死ぬ間際まで後悔し続けた、あの『景色』、あの『瞬間』まで……
彼の意志を引き継いだ者が、辿り着く時を––––、
私達はずっと、待っている。
※
ハルが、最後の一文字まで読み終えて、本を閉じる。
力なく体の横に滑り落ちた腕から、本も一緒にバサリと床に転がった。
ケニーは手にしていた本を閉じると、椅子から立ち上がり、ハルの傍に片膝をついて、床に落ちた鼠色の本を拾い上げる。本と言うべきか、日記と言うべきか、難しいものだ。その内容の殆どが、シーナという少女の独白で、埋まっているのだから。
「……お前は、化け物になっている所為で、いろんなものを失ってるわけじゃない」
拾い上げた本を、座っていた丸椅子の上に置いて、ケニーは静かに告げた。
「…お前は人として単純に、死に近づいているから、いろんなものがすり減ってるだけだ」
その言葉に、ハルは両手で顔を覆い、項垂れた。
身体を支える筋力を全て失ってしまったかのように、上半身を丸めて…深く、項垂れるというよりは蹲っているに近いかもしれない。
ケニーは弱々しい背中に手を伸ばしたが、指先が触れる前に、その腕を下ろした。
背に触れた先で、掛けてやれる言葉が、思いつかなかった。
ハルの細い指の隙間から、掠れた声が溢れる。
「…長生き出来るとは…思っていませんでしたが…まさか、五年…だとは」
この本に書かれていること全てが、真実とは限らない。しかし、ハルはこの全てが真実だと、確信していた。とても受け入れ難いことだったが、疑うことの方が難しかった。
何故なら、ユミルの心臓を喰らった記憶も、彼女の娘たちの記憶も、奴隷として生きていた『彼』が、ユミルと出会った時の記憶も…全てが、自分の中に存在しているからだ。知っているからだ。彼らの声も、表情も、姿形も、その時の景色も匂いも、全て−−−
しかし、どんな真実よりも先に、自分に残されている時間の短さに、絶望的な気持ちになった。
エレンに託された皆の未来を、掴むことが出来たとしても…
自分はその未来には、居られない。
皆の傍には、居られないんだ。
「っ」
胸が、焼け付く。
焼け広がって、身体が灰になり、どこかへ消えてしまいそうだった。
死にたくない。
生きていたい。
そんなどうしようもない気持ちが、両目からボロボロと溢れ出す。
幼い子供のように、泣きじゃくる。ああ、私、もう大人になるっていうのに。
ケニーだってボロンだって、きっと困っている。でも、止まらない。涙が、止められない。
喉が熱湯を飲み込んだように腫れ上がっているみたいで、熱くて、息苦しくて、助けを求めるように、ハルは蹲ったまま、喘いだ。
「…死にたくない…っ」
その嘆きを聞いて、ケニーは震える背に、今度は触れた。
「…ああ、分かってる」
第五十三話
『ビフレスト』
触れた背中は、とても薄く、脆かった。
世界の命運や、未来を背負うには、あまりに頼りない背中だ。
ただ、彼女に与えられた『黒白の翼』は、それを理由に彼女を解き放ってはくれない。
『始祖の巨人』の力を得たウーリと、『ユミルの愛し子』としての力を、与えられてしまったハル。
自分の友人の背中と、彼女の背中が、あまりに似ているから…
俺は、ハル・グランバルドを、放っておけなかったのかもしれない。
…ああ、きっとそうだ。
俺は、こいつが言うように、寂しかったのだ。
友と同じ景色を、最期まで見られなかったことが–––それ故に、ウーリの気持ちを、理解してやらなかったことが。
だから今、俺は…あの時と同じ感情を、ウーリが俺に、滅ぼし合うしかなかった者同志を繋げたものは、暴力ではなく何だったのかと問いてきたあの日と、同じ感情を抱いてしまっているのだ。
ケニーは奥歯をぎりと噛み締め、ハルの後頭部に手を乗せると、ぐりぐりと乱暴に撫で回した。
「諦めるな」
それは無意識に、口から出た言葉だった。
ハルは、ウーリと似ていて、でもはっきりと違うところが有る。
ウーリは終わりの為に生きていたが、ハルは終わらせない為に、生きているということだ。
–––こいつには、アイツのように…終わりの為に生きて欲しくは無い。
ケニーは幼子のように声を上げて泣くハルの背をさすりながら、心の片隅で、らしくも無くそんなことを、思っていた。
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