第五十三話
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「お前…まさか、味覚の次は嗅覚を–––」
「…」
ハルは何も言わなかった。そして頷きも、首を横に振りもしなかった。
だが否定をしないということが、頷くよりも明らかな肯定だった。
ケニーはどう声を掛けてやるべきかと、頭の中で言葉を探ったが、結局何も浮かばなかった。すぐ傍でボロンが、ハルのことを心配しているのか、食事をそっちのけにして尻尾を垂らし、ハルを見上げている。
そもそも、だ。何故自分が、ハル・グランバルドを案じているのか。その理由も良く理解できていなかった。
壁内では追われる身となったケニーにとって、ハルは今後、一切の関係を断ちたい危険人物となるのは明白だった。だのに命懸けでハルを地下牢から助け出し、挙句自身の家に連れ帰って看病までしてやって、今は飯まで食わせている次第。自分がしていることは、とんでもなくチグハグな行動だ。一体ハルにこんな世話を焼いて、どんな見返りを求めているというか。
–––ああ、やめだ。こんな面倒くせぇことわ。
ケニーは内心でそう舌を打ち、ハルから顔を逸らして立ち上がった。
その時、足元でボロンが短い唸り声を上げた。
ケニーはボロンに視線を落とすと、いつの間にそんなものを持って来たのか、口には一冊の本が咥えられていた。それは、右端を燕脂色の紐で閉じられていて、元々は黒い表紙だったのだろうが、随分古び色褪せて、鼠色に変色してしまっている。
–––ボロン。お前は何て頭が良い奴なんだ。こんな最悪なタイミングで、そんなものを持ってくるなんて。
自身の愛犬の賢さには感服だ。と、ケニーは肺腑から深いため息を吐いて、ボロンからその本を受け取った。
それから、諦めたようにガシガシと後頭部を掻いて、訥々と話を始める。
「…お前は、人から離れて、化け物になってる。だから段々と、人らしい感覚を失っている。…別に、そういうわけじゃねぇよ」
「…以前と言ってることが違いませんか。私を散々化け物扱いしたのはケニー…貴方でしょう」
「そりゃお前を焚きつける為だ。死人の面して生きることを諦めようとしてたお前を繋ぎ止めてやるためにもな…。そうじゃなきゃお前は今頃、瓦礫に潰される前に出血多量でおっ死んでただろ?」
「…そうですね」
ハルは頼りなげな声で、小さく頷く。ケニーはハルの横に、手にしていた本を放り投げた。本は寝台に弾んで、ハルに表紙を見せつける。
「…『ビフレスト』」
ハルはその表紙に書かれている、消えかけの題名を呟く。
「それ、食う前に読むか?」
「…何です、これは?」
硬い声音で問いかけてきたケニーを、ハルは戸惑った顔で見上げた。
ケニーは細い目をいっそう細めて眦に皺を作ると、低い声で言った。
「お前の力…『ユミルの愛し子』の始まりと、その全貌について書かれてる。ロッドが隠し持っていた文献の一つだ」
「!」
ハルは双眼を大きく見開いて、息を呑んだ。
それから、再び視線を本へ落とす。
ケニーは先程腰掛けていた丸椅子に再び腰を落とし、腕と足を組んだ。
「読むも読まないのもお前の自由だが、どっちにするにせよ、俺は先にそれを食うことを勧める。読んだら確実に食欲が無くなるだろうからな。それに、冷めたシチューは舌触りがザラつくし、野菜が固くなる」
飄々と話すケニーに、ハルは本の表紙を指先で触りながら、吐息のように小さく笑った。
「…何ですか、それ。…悪いことばかりですね。先に食べることにします」
それから、ハルはシチューを食べた。最初に口に入れた一口を、ゆっくり、何度も噛み締めてから飲み込んだ。
「ケニー」
名前を呼ばれて、ケニーはハルの俯けられている横顔を見つめた。ハルは、顔を上げると、微笑みを浮かべて言った。
「美味しいです。ありがとうございます」
その表情も言葉も、優しすぎて、痛かった。
何だか居た堪れなくなって、ケニーはハルから顔を逸らした。
「…味もしねぇんだろ。思ってねぇことを、口にするんじゃねぇ」
ハルは「いいえ」と首を横に振る。
「確かに、味も…匂いもしませんけど、『美味しいです』。ご飯を用意してくれたということは、少なからず私を気遣ってくれたからでしょう?その気持ちが嬉しかったんです」
「はぁ?!」
ケニーは鼻に皺を寄せ集めて、椅子から立ち上がって声を上げた。
「そんなもん微塵も無ぇよ!ただ自分で食う分を作り過ぎちまったから、鍋を空にすんのに出したってだけだ!気持ち悪ぃこと言ってんじゃねぇよ!?」
早口に捲し立ててくるケニーに対して、ハルは「すみません」と苦笑を浮かべる。別にそんなに怒らなくてもと、一言言いたげな顔でもあった。
ケニーは思考が全く掴めないハルに対して「くそっ」と苛立ったように悪態を吐き、腕を組んで壁に背中を寄りかけた。
「…何で俺に礼なんて言える?俺はお前の仲間を危険に晒した上、殺しもしたんだ。…お前にとっては仇だろう?」
「ええ、そうですね。貴方のことを、許したわけではありません。…でも、」
ハルは両目を瞑った。
暗闇に浮かんでくるのは、未来のエレンの姿だった。誰かを憎むことに囚われて、周りが見えなくなっていたことを、後悔していたエレンの姿だった。
ハルは目蓋を開くと、白い海に溺れている、小さな一切れの人参を、スプーンで掬い上げ、それをじっと見つめながら、呟いた。
「誰かを憎んで、その感情に縛られて、其処で足踏みをしている時間は…私には、無いんです」
そうして人参を口に運んだハルを見て、ケニーは詠嘆的な声で囁く。
「…お前は、真実を知っていても、知らなくても…そうやって何かに追われて、他人の為に自分自身を擦り減らして、生きるんだな…」
それは独り言だったが、耳の良いハルには十分に聞き取ることが出来た。
しかし、ハルはケニーに言及をしなかった。聞こえないふりをしたかったからだ。ここでケニーに、真実とは何かを聞かなくても、もう手元に答えがある。以前の自分は、自分の力の正体を知りたいと切望していた筈なのに、いざ…それが分かるとなると、急に怖くなったのだ。
シチューを食べ終えたハルの器を、ケニーは横から回収して言った。
「俺は向こうに居る。ボロン、お前もこっちに…」
「いいえ」
気を遣ったつもりで、ケニーは部屋を出て行こうとしたが、ハルはケニーとボロンを呼び止めた。
自分の力の正体が記された本を最後まで読み終えた瞬間に、一人で居たくなかったからだ。
「此処に、居てください。ボロンも…」
ハルは鼠色の色褪せた本を手にすると、自嘲じみた笑みを浮かべて言った。
「…ちょっと、怖く、て」
本を掴んでいる兵士らしくない白い手が僅かに震えているのが見えて、ケニーは「…そうか」とだけ呟くと、再び丸椅子に腰を落とし、デスクの上の適当な本を手に取って開いた。
ボロンはベッドに飛び乗ると、ハルの体に寄り沿うように、柔らかな体を押しつけて香箱座りをする。
そんなケニーとボロンの優しさが嬉しくて、ハルは微笑むと、一度大きく深呼吸をしてから、古びた本を……開いたのだった。
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