第五十三話
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「わん!」
深い眠りから目覚めて、現の世界を目にする前に、腹部に何やら重石が乗せられているような違和感と、愛らしい犬の鳴き声がした。
息苦しさに鼻から呻き声を漏らして、目蓋をゆっくりと押し上げると、目の前には白いもふもふの生き物が、黒々とした丸い瞳を二つ、パチパチと瞬き、私を見下ろしている。
やけにお腹の上が重たいなと感じていたのは、この大きな白い大型犬が、ベッドに横たわる自分に乗り上がっていたのが原因だったようだ。
「……い、犬…?」
世界の軸を飛び越えた後、未来のエレンと別れ目覚めれば、目の前に広がるのは当然、冷たく錆び付いた地下牢の鉄格子だと思っていた。
しかし、目の前には陽だまりのような温かさを孕んだ、真っ白で柔らかくて、ふさふさの愛らしい生き物が現れ、そしてその白い犬の向こう側には、見慣れない板張りの天井が見える。自分が気を失う前の、肌に張り付くような地下特有の湿気た空気も、肌寒さも無い。
ハルは狼狽えながらも、柔らかな枕の上で頭を動かして、部屋の中を見回した。飾り気の無い、こぢんまりとした四角い部屋だった。
ハルが横たわっているベッドの他には、すぐ傍に小さなデスクと背凭れのない丸椅子、そして箪笥と本棚が肩を並べるようにして壁際に置かれている。ベッドの真横には、薄いレースのカーテンが引かれた開き窓もあり、淡い朝陽が部屋の全貌を柔らかく照らしている。
外からは、大勢の人の気配と、声がした。馬車が走る車輪の音や蹄の音–––鳥の鳴き声も聞こえてくる。
どうやら、自分が気を失う前に捕えられていた地下とは全く違う場所のようで、ハルは眉間に深い皺を寄せた。
「一体此処は…何処なんだ…」
「わふっ!!」
「うわぁっ!?き、君っ、凄く大きいなぁっ……よしよしっ」
ハルは尻尾をブンブンと振り回し戯れてくる大型犬に、顔をベロベロと舐められ、ベッドに押し潰されながら身を捩る。
すると、ギィッと苦しげな音を立てて、部屋の扉が開いた。
其処から現れたのは、トレードマークの黒いハット帽を脱ぎ、ラフな白いシャツと黒いスラックスを纏ったケニーだった。
「やっとお目覚めか?」
「…ケニー?」
状況が僅かなりにも把握できず困惑し、白い大型犬の重みで枕に左半面が埋まった状態のまま、ケニーを見て硬直してしまったハルに対して、ケニーは「やれやれ」と呆れ顔を横に振り、後ろ手に扉を閉めると、ベッドサイドにあるデスクの丸椅子を引いて、どかりと腰を落とした。
「ったく、随分のんびり寝てやがったじゃねぇか?俺達がエラィ目に合ってる最中によぉ?」
大仰に両腕を広げて肩を竦めるケニーに、ハルは「エラィ目に…」とボソリと呟いた。それから一息置いて、はっとする。自分を押し潰している白い大型犬を抱き上げるように、ベッドから上半身を起こす。
「皆はどうなって!?いっ…!ぅっ」
全身の骨がひどく軋んで、激しい頭痛に見舞われる。
眩暈がして、思わず頭を抱えて呻くハルを、ケニーは長い足を持て余したように組み、その膝に片肘をつくと、長い上半身を折り曲げるようにして頬杖をつき、気怠げに目を細めた。
「…まぁ、落ち着けよ。心優しい俺様が、親切に説明してやっからよ」
「え…えぇ、そうしていただけると…とても助かります」
ハルは額にうっすらと汗を滲ませながらも、頭痛に俯けていた顔を上げる。すると、「クゥン」と鼻を鳴らして心配そうにこちらを見つめてくる大型犬と目が合って、その愛らしさに自然と頬が緩む。
レースのカーテン越しの朝陽を浴びて、ハルが自分の愛犬を愛でる様子を、ケニーは公園で遊ぶ子供達や、市場の人々の流れを見るようにぼんやりと、膝の上ではなく今度はデスクの上に頬杖をついて眺めながら、張りの無いだらりとした口調で、話を始めた。
「お前はエレンの血を飲んだ後、そのまま地下牢の中で死んだように眠ってやがった。あの後間も無く、リヴァイ達が俺たちの居場所を嗅ぎつけて、エレンとヒストリアとお前を取り戻しにやって来たが…ロッドは、娘のヒストリアに巨人化の薬を打たせ、エレンの親父がレイス家から奪い、エレンに引き継がせた『始祖の巨人』の能力を、ヒストリアに取り戻させようとした『始祖の巨人』の能力は、どうやら王家の血を継ぐ人間が持たないと、その真価を発揮できねぇらしいからな…」
ケニーは話の途中で、何かに気がついたように話を止めると、それからがしがしと面倒そうに後頭部を掻いた。
「あーっ、その、『始祖の巨人』の能力ってのは……説明が面倒だな」
「大丈夫ですよ。知ってます」
「は?」
ケニーがキョトンと目を丸くして、ハルを見る。
ハルはケニーの方は見ずに、ふさふさの犬の首元を撫で回しながら話をした。とても癒される。思えば、こうやって犬に触るのは、初めてかもしれない。
「『始祖の巨人』は、私やエレン達が捕らえられていた洞窟や、ウォール・マリア…ローゼやシーナの壁を作った。そして、いくつかの血族、貴方やリヴァイ兵長、そしてミカサのようなアッカーマンや東洋人などを除いて、記憶の改竄をする事が可能、なんですよね?」
「お前っ、何で知って…」
「エレンの血を飲んで…私は、未来のエレンに会いました」
ケニーはこれ以上無い程目を丸く見開いて、唖然とする。冗談だろ。そう笑い飛ばしたいところだったが、それはできなかった。
驚くケニーに顔を向け、ハルは黒い双眼を柔く細めた。その儚く、この世の全てを諦観しているような表情が、ケニーの唯一の友人と重なってしまった所為だった。
「あれは…夢では無かったんですね。それに、違う世界軸のエレンだったということも、貴方がこうして生きているってことが…何よりの証明になった」
吐息を吐くような声でそう言ったハルに、ケニーは舌を打つように呟く。
「……アイツと同じ顔をしてやがる」
「?」
首を傾げたハルに、ケニーは溜息を吐くと、頬杖をやめて、胸ポケットから徐に白い包み紙を取り出した。その包み紙を開くと、中からドッグフードが出てくる。
鼻と両耳をピクリと震わせた大型犬は、ハルのベッドから軽快に飛びおりて、ケニーの座る椅子の前で行儀良くお座りをすると、ケニーは「ボロン、お手」とドッグフードを手にしていない左手を差し出す。ボロンと呼ばれた大型犬は、尻尾を振り回しながらも従順にお手をしてみせた。それにケニーは「よし」と満足げに口角を上げて、ドッグフードをボロンの前に差し出す。
「…ロッドの弟のウーリだよ。エレンの父親が『始祖の巨人』の力を奪うために喰った、フリーダ・レイスの前の、『始祖の巨人』の持ち主だった」
「ご友人…だったんですか?」
「ただの腐れ縁だよ。だが、奴も…今のお前のように、何時も遠い目をしてやがった。俺達が知らない世界を、アイツは見ているみたいだった。それが、俺は嫌いだったが…」
あっという間にドッグフードを平らげたボロンの頭を撫でながら、懐かしそうに話をするケニーに、ハルは自然と頬を緩めた。なんだか、今目の前に居るケニーは、今まで会ったケニーとはまるで別人のように思えた。変に芝居がかった態度も取らなければ、気味の悪い笑みも見せないし、殺気立ってもいない。武装を下ろして、至極穏やかに見える。もしかするとこれが、ケニーの素の姿なのかもしれない。
「…ふ」
「おい、何笑ってやがんだよ」
少し不満げな顔になったケニーに、ハルは微笑んだまま、「いえ」と小さく肩を竦めた。
「それは嫌いだったんじゃなくて、寂しかったんじゃないかと、思っただけです」
「あ?」
「ウーリさんが見ている景色を、一緒に見られなかったのが、悔しかったんですよね?…私にはケニーが、そういう顔に見えましたよ」
「…っ」
ケニーの顔が不本意そうに歪んだが、それはほんの一瞬で、次には苦笑を浮かべた。
「お前の目は、とんだ節穴だな」
腕を組み笑い飛ばすようにして言ったケニーに、ハルは悪びれなく「ハズレですか?」と小首を傾げると、「ああっ、大ハズレだ!」と怒鳴り返される。
それでも臆する様子もなく、肩を竦めて、くつりと喉を鳴らすように笑うハルに、ケニーは腰に手を当てて盛大な溜息を吐き、「食えねぇ奴だな…」と舌を打つ。話の調子を崩されて表情に疲労を滲ませるケニーに、ハルは気兼ねすることもなく、問いを連ねた。
「で、超大型巨人化したロッド・レイスは…どうなりました?」
「…アイツは死んだよ。オルブド区でな?エルヴィンの作戦で、エレンが口に放り込んだ爆薬に頸を吹き飛ばされて、散り散りになった肉片に紛れたロッドの本体を、ヒストリアが見つけてトドメを刺した。新たな壁内の女王として民達にその勇姿を見せつけて、完璧な形でヒストリアは女王になった」
少なからず驚きを見せてもいい内容の話をしている筈だが、それどころか安心したように「そうですか」と一言だけ呟き、微笑むハルを、ケニーはなんとも言えない不思議な感情で見つめた。ウーリやフリーダを信仰していた奴らも、こんな気持ちで二人を見ていたのだろうか−−−
「本当に全部…知ってんだな」
ケニーは無精髭を蓄えたを顎を、徐にさわさわとさすりながら、息を吐くように呟いた。
ハルはベッドの掛け布団から両脚を出して、毛の短い浅色のラグの上に裸足を置く。ケニーと向かい合うと、長い睫毛の下の黒い瞳を、難題を解く時のようにすっと知的に細めて、口元に掌を添える。
「…ええ…。それでも、分からない事があります。どうして…ケニー、貴方は生き延びる事が出来たんです?」
「…どういう意味だ?」
ケニーが組んだ足を今度は逆に組み直すと、ギシリと丸椅子の脚が苦しそうに鳴いた。
「未来のエレンに会ったんだろ?だったら、その理由だってお前は知っている筈だろ?」
「ええ。しかし、エレンの記憶では、貴方は今回ロッド巨人の蒸気で酷い火傷を負ったこと、そして出血多量が原因で、亡くなっていました」
掌の中に、硬い口調でそう告げたハルに、ケニーは口を噤み、眉間に深い皺を作った。
自分を見据えているハルが、嘘を言っている様子は無い。そのうえ、自分自身でも、あの時何か一つでも取る選択を間違えていれば、命を落としていた可能性はあった。…そうならなかった理由は、ただ運が良かった––––という言葉だけでは不十分だろう。補完をするならば、その要因は一つだけだ。ハル・グランバルドの存在が、自身の生と死の分岐点となったのだ。
ケニーはもう何度目かも分からない溜息を吐くと、自身の足元でのんびりとお腹を床に伏し、眠たげにゆっくりと黒い瞳を瞬いているボロンの頭を撫でながら、不本意そうに言った。
「俺は…ロッドの野郎が巨人化した時、テメェが寝こけてる地下牢に向かったんだよ」
顔は見なかったが、ハルが驚いて息を呑んだ気配がして、ケニーは苦笑した。自分でも、どうしてそんな事をしたのかよく分からなかった。
ただ、あの場所から逃げ出そうと考えた時、ハルの存在が頭に浮かび、気づいた時には既に地下牢に向かっていた。
「そりゃ大変だったんだぜ?彼方此方から天井が落ちてきてよ…こりゃ潰されちまうなって思った時だ。…地下牢で崩落した天井が、奇跡的に地上と繋がった。俺はぐうぐう寝てるお前と、お前の立体機動装置を持って、其処から外へ逃げ出した。…俺の仲間は皆死んじまったが…、エレン達は、エレンの硬質化って力で天井の崩落を堰き止め生き延びた。運良く俺がロッドからくすねて落とした、ブラウンの脊髄液を拾って飲んだんだろうよ」
「……そうですか」
ハルは静かな呟きを、口元に添えていた手で撫で下ろす。
それから、太腿の上に両手を置くと、深々とケニーに頭を下げて言った。
「ありがとうございます。ケニー」
「はぁ?」
ケニーは思わずギョッとして、ボロンを撫でていた手を止め、素っ頓狂な声を上げてしまう。
無防備に向けられた脳天に開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろう。
散々に作戦の邪魔をされた挙句、仲間を手にかけた相手に、どうして礼など言えるのか。ケニーには全く理解が出来なかった。
「お前は自分が、何をやってんのか分かってんのか?」
ハルは頭を下げまま、特段考え込むこともせずに答えた。
「命を救ってもらった相手に、礼を言うのはおかしなことですか」
「…あー、お前…、筋金入りの馬鹿だな」
ケニーは呆れ果てて、ハルとは真逆に天井を仰いだ。そんなケニーにハルが頭を上げると、ボロンが「わん!」とひと吠えして、ハルの膝の上に前脚を置き、「ハッハッ」と口を開けて愛嬌を振りまくので、ハルは「よしよし」とボロンの顎を擽った。
「この子、ボロンって名前なんですよね?すごく可愛い…ケニーと違って、愛嬌に溢れてますし」
「言ってろ。そいつは俺の相棒だ。まあ、可愛いだろうよ。俺よりも大食いで餌代が嵩んで仕方がねぇが」
「と、いうことは…やっぱり此処、ケニーの家なんですか?」
「俺の隠れ家みたいな場所だ。ミットラスのな」
「ミっ!?」
「わふっ!?」
ハルが仰天して声を上げると、戯れていたボロンもびくりと飛び上がった。
「ミットラス?!ミットラスって、王都のですか!?」
身を乗り出すようにして問いかけてくるハルに、ケニーは左の脇腹の辺りを手で抑えながら、煩わしそうに顔を顰める。
「それ以外に何があんだよ。っつーかデケェ声を急に出すな!リヴァイにヤられた傷に響くだろうがっ!」
エレン達を奪還しにやってきたリヴァイと交戦した際に、ブレードで斬られた脇腹はまだ完治とはいかないようだった。確かに、先程からずっと体の重心が右に寄っているように感じていたのは、左の脇腹の傷が痛まないように気を使っていたのが原因だったようだ。
ハルはベッドに四つん這いになって、レースのカーテンの端を掴むと、さらりと開いてガラス窓の外を覗った。
しかし、見えるのは王都の豪華絢爛な建物とは思えない、木造の倉庫のような建物が連なっていて、家の目の前を通る狭い路地には人っ気も無い。トロスト区の路地と左程変わり無い景色だった。
「ぇ、でも…全然王都っぽくないですけど」
「言っただろ。隠れ家だって。そんな人通りの多い場所に建ってるわけがねぇだろ」
「…ああ、確かにそうですね。でも、広場の方でしょうか…随分騒がしい感じがしますが…王都ではこれが普通なんですか?」
「そりゃ今日は、新しい女王様の戴冠式があるからな」
女王の戴冠式。それはヒストリアが正式に民衆達の前で、新たな女王に即位する為の儀式のことだ。ハルは青ざめた顔でケニーを振り返り、顔を引き攣らせながら問いかける。
「私…も、もしかして、三日ぐらい寝こけてたって事ですか?」
「ああ、その通りだよ。…俺の寝台を乗っ取りやがって…」
ボソリと悪態を吐いたケニーに、ハルは「うっ」と喉を詰まらせて、罪悪感に表情を曇らせた。
三日も生死不明で行方を眩ませていたとなれば、仲間達には相当な心配をかけてしまったうえ、相当怒ってもいることだろう。調査兵団一番の人格者であるモブリットさんでさえ、激怒しそうだ。
ハルは両手で頭を抱え、臆したように身を縮こまらせて呻く。
「…皆に、殺されるっ。特に兵長にっ、またタコ殴りにされるのでわっ…!」
「いーや、下手したら俺と同じく、もう死んだことになってるかもしれねぇぜ?」
ヨッコラセと椅子から立ち上がるケニーを、ハルは「え?」と怪訝な顔で見上げる。と、ケニーは三日間、自分の寝台で寝られず、リビングのソファーで眠った所為で凝り固まった首をバキバキと左右に捻りながら、淡々とした口調で言った。
「っお前のことを、仲間はロッドを倒した後に捜索した筈だ。だが三日も見つからず、目撃情報すら無いとなれば、自ずとそう考えるのが普通だろう?」
「そっ、そんな…」
ぐう
両肩を落として、悄然としながら項垂れたハルの、お腹の虫が鳴いた。
その音は、狭い部屋にはやけにはっきりと響いて、ハルは恥ずかしさにお腹を押さえて赤面する。
「あっ、あのっ、すみません!」
「…まあ、先ずは飯だな」
ケニーはガリガリと後頭部を掻きながら、扉のドアノブを掴んだ。
「え!?ご飯、あるんですか!?」
ハルがぱっと表情を輝かせてその背中に問いかけると、ケニーは眉間に皺を寄せて振り返る。
「図々しい奴だな。お前のじゃなくてボロンの飯だ」
「わん!」
ボロンが飯と聞いて嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる中、ハルは「ず、図々しい…」と呟き、それから再び赤面した。そんなハルの顔を見て、ケニーは思わず吹き出してしまう。
「ぶっ…!」
そしてケラケラと笑いながら部屋を出ていくのに、ハルはお腹を抱えたまま心の中で深く反省していた。
命を助けてもらい、その後三日も面倒を見てもらった挙句、ご飯に集ろうとするなんて、ケニーが言うように図々し過ぎるだろう。
それから少しすると、ケニーが部屋に戻って来た。右手にはもりもりのドッグフードが乗った餌皿を持って、もう片方の手には、シチューが入ったスープボウルを持っていた。
ケニーはボロンの前に餌皿を置くと、ボロンは兵士ばりに行儀よく待ての姿勢を取る。ケニーが「良し」と言うと、ボロンが餌に物凄い勢いでがっついた。
それから、スプーンのついたシチューを、自分で食べる…のではなく、ハルに差し出した。
「ほら、食えよ」
「え…」
「なんだよ、いらねぇのか?」
「い、いえ!あっ、ありがとうございます!」
てっきりケニーが食べるのだと思っていたハルは、予想外の言葉に一瞬戸惑ってしまった。しかし、差し出されたシチューを引き上げられそうになって、慌てて受け取る。
両手で包み込んだスープボウルは、温かくて、うっすらと湯気が上がっている。白く滑らかそうなスープの中に浮かぶ人参やじゃがいも、玉ねぎ達は、大きさも均一で、綺麗に切り揃えられていた。
「…へぇ、ケニー…器用なんですね?美味しそうです」
「そりゃ俺様は、切り裂きケニーだからな。ナイフの扱いには慣れてんだ」
ケニーがふんと鼻を鳴らして自慢げに言うのを、ハルは「確かに」と笑ってスプーンを掴み、シチューを一口、口に運ぼうとして、違和感に固まってしまう。
「…おい、どうした?」
ケニーが怪訝な顔で問いかける。
ハルは掬ったスープを、口ではなく鼻先に寄せて、数度匂いを嗅いだ後に、呟いた。
「……い……」
「あ?」
酷く小さい、弱々しい声をケニーは聞き取る事ができず、ベッドの傍にしゃがみ込んで、スープボウルの中のシチューを見下ろしたまま、顔を俯けているハルの顔を覗き込んだ。
「…匂いが、しない…」
「!」
再び呟き落とされた言葉に、ケニーは息を呑む。
ベッドに寄りかけていた体が強張って、ギシリと苦しげに、スプリングが軋んだ。
ハルの、影に覆われ黒の深さ増した双眼の下の頬には、切れた傷口を拭った時のように、悲嘆の色が、痛々しく滲んでいた。
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