第五十二話
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エレンがこの世に生まれ、今まで見聞きし感じてきたもの全てが、深い湖となって、私はその中に沈んで行く––––。
エレンの記憶の湖の中は、映像や音だけではなく、匂いや感触まで、ハルの五感全てに干渉をした。
シガンシナ区にある実家で、父親と母親に愛され、穏やかな生活を送る日々––––
アルミンと、ミカサとの出会い。
巨人の襲来。
母親の死。
開拓地での生活、訓練兵団への入団…104期の仲間たちとの日々–––そして再び訪れた、地獄。トロスト区襲撃だ。
リヴァイ班、壁外調査、仲間の死、アニとの戦い…ライナーたちの裏切り––––
そして、ハルの今を、超えていく時間––––
壁の先にある世界のカタチ。
そして、
エレンの記憶の中の何処にも、自分の存在が無いということも–––
彼が行き着こうとしている『未来』が、何処へ向かおうとしているのかも…
『全て』 見えてしまった
「っぐ」
エレンの手が、ハルの掌から離れて行った瞬間。ハルはエレンの記憶の渦から解放され、嘔吐き口元を手で抑えながら倉庫の窓へと駆け出した。床に転がった物に躓き、よろめきながら、切羽詰まって荒々しくガラス窓を開け放つと、そのまま上半身を外に乗り出して、胃から迫り上がって来たものを吐き出した。
脳が激しく揺さぶられて、ひどい馬車酔いをしているようだった。
本当に、最悪の気分だった。
胃の中にあるものを倉庫の外に全て吐き出して、ハルは生理的に浮かんだ涙を服の袖で拭い、ずるずると壁に背を寄せ、がくりと座り込んだ。膝の間に項垂れてしまったハルに、エレンは松葉杖を手にして歩み寄ると、片膝をついて、杖を床に静かに置き、震えている肩に手を乗せた。
「大丈夫か…?」
ハルは頭を膝の間に落としたまま、首を小さく横に振った。
「大丈夫な…わけがない」
掠れ、喘ぐような声に、エレンは眉尻を落とし、「そうか…」とため息を吐くように呟く。無理もない。今まで壁の内側で、海の向こう側など知らずに生きて来た人間が、世界のカタチを知って、平静で居られる筈はない。
ハルは顔を上げる。
必死に涙を堪え、悲痛に歪んだ顔を見て、エレンは息を呑んだが、すぐに柔らかく、破顔した。その顔は、ハルが良く知るエレンと何ら変わりの無い、笑みだった。
「何も言わなくていい…」
エレンはそう言って、ハルの頭の上に、手を乗せた。
「アンタが今見た俺の過去は、どうしたって変えられない。今、アンタの記憶を見て、そう確信した。…俺が生きる世界に、アンタは存在しなかった。でも、アンタが生きている世界の俺には、アンタが居た…」
ハルは「え」と目を丸くする。
ハルがエレンの記憶を見ていたのと同じように、エレンはハルの記憶を、手が触れていた僅かな時間に、全て見ていたのだ。
互いの時間を共有し合ったことで、エレンはハルに対しての疑念を、微塵も残す事なく振り払うことができ、自らのことを話すことに抵抗は無くなっていた。
「過去の自分を見るのは、あまり気持ちが良くないな。母さんの仇…、巨人を殺して、何かを憎むことしか、あの頃の俺は頭になかった…。自由を手に入れたいだなんて言いながら、俺は自分自身を、ずっと雁字搦めにしてきたから…どうしようも無い、ガキだったから」
「それは君がっ!」
ハルが、自嘲じみた笑みを浮かべるエレンの胸倉を掴んだ。そして、何処までもまっすぐな瞳で、訴える。
「君がっ、誰よりも愛情が深くてっ、優しかったからだっ!ガキだったからなんてっ、そんな理由じゃないよっ!」
「!」
どこまでも直向きで、懸命な言葉に、エレンは思わず息を詰めた。
「ガキなのはっ、私の方だっ…!」
ハルは悔しげに、奥歯を噛み締め、額を抑えて項垂れる。
「この世界のことを何も知らない癖に、みんなの未来を切り開きたいだなんて大口叩いてきて…今、凄く…怖くなった…怖気づいてるっ…」
自身が想像していたよりもずっと世界は大きくて、その大きな世界が、パラディ島に住む自分達にとっての、敵だった。
途方もない絶望感に溺れ、息が出来なくなりそうだ。そして、何よりも…自分の無力さが、情けない。恨めしい。
今傍に居るエレンの事を…救うことが、出来ない自分が。何の方法も、思いつかない。何故なら自分は、一時的に、そして奇跡的にこの世界に来ることが出来ているだけで、この先の時間を、きっとエレンにとって地獄のような時間を、共に歩んでは行けないからだ。そう、本能が確信している。
「無理もねぇよ…俺だって最初は想像してなかった。壁の外の世界は、もっと希望に満ち溢れた場所なんだって、勝手に思い混んでた。でも違った…壁の中も、壁の外も、地獄なのは…変わらなかった」
エレンが悲しげに、吐息のような声で呟くので、ハルは胸が切れ味の悪いナイフで抉られるように痛み、舌を噛むようにして言った。
「…それだけじゃないっ、それよりももっと、大きな問題があるよ…!」
「え?」
ハルは、自身の胸元をぎゅっと両手で握りしめ、俯けていた顔を上げた。酷く自責の念に駆られた顔をしている。
「エレンは…今まで、ずっとこんなっ、こんな辛い思いを一人で抱えて、一人で踠き苦しんで来た。エレンを孤独にさせてしまう未来が、可能性が、有るんだってことがっ…一番問題だ!」
エレンは、目を丸くする。先程から、ハルには驚かされてばかりだ。
世界の本当のカタチを目にしても、未だ自分のことではなくて、他人を思うハルに、思わず唇の隙間から、微笑が溢れてしまう。
「ははっ…何だよ、それっ」
彼女の記憶を見た。
ハル・グランバルドと共に過ごす『エレン』は、紛れもなく俺自身だが、俺の過去よりも、少しだけ、違っていた。
本当に僅かな差だ。
髪の毛一本程の、本当にちっぽけで、掴むのも難しい、太陽に翳してやっと目に留まるくらいのものだ。だけど…今の俺には、とても綺麗で、尊いものに思えた。
ハルと生きる俺は、今の俺よりもほんの少しだけ、『正直』だった。
それは、彼女が、ハル・グランバルドが、心の底から仲間のことを愛し、いつも正直な気持ちを伝えてくれて居たからだ。寄り添って、傍に居てくれたからだ。だから彼女の正直さが、『エレン』にも、伝染したんだろう。
「アンタの今までの記憶を見て思ってたけど、随分お人好しみたいだな。…そりゃ、アイツらがお前を好きになるわけだ」
「え?」
「…アンタの世界の俺も救われてるみたいだったし」
「…そんなことはないよ。私がいつも、エレンに救われているんだ…私がエレンを救ったことなんか、一度もない」
「そうか?」
「そうだよ」
違うと言い張るハルに、エレンは肩を竦めて苦笑する。
「…ただのお人好しじゃなくて、救いようのないお人好しの間違いだったな」
「…エレン」
ハルの声が、固くなる。
「何だよ…?」
「『地ならし』を、するつもりなの」
『地ならし』。
それは、俺がこの先に起こそうとしていることだ。
パラディ島の壁の中に居る、大型巨人達を全て解放し、パラディ島以外の全ての大地を、人も建物も、動物も木々も踏み鳴らして、呼び名の通り『平す』ことだ。
「ああ、そうだ」
エレンは隠すことなく、頷いた。
「っ」
ハルは口を噤む。「そんなことは止めろ」と、エレンはハルが言うだろうと思っていたが、彼女は唇を引き結んだまま何も言わない。
「…止めないんだな」
意外だと思ってそう問うと、ハルは途方に暮れたように天井を仰いで、後頭部をコツンと壁に押し当てた。
「止めたいよ。でも言葉が、見つからないんだ…。エレンがずっと、悩んで苦しんで…選んだ選択に、こんな短い時間の中で浮かんだ言葉をかける意味が、あるのかは分からないけど…」
エレンがじっと、答えを待ち侘びているような視線を向けているのを、ハルは目を合わせずとも感じていた。
自分がエレンにしてあげられることは殆ど無い。しかし出来ることは、エレンの問いに答えるという、そんな単純な行為だけなのだ。
「昔の、私なら…エレンと同じ道を、選ぶんだろうと思う」
「…昔の…?」
「…自分を犠牲にしても、皆の未来を切り開けるなら、それでいいんだって思ってた。でも…今は違う。私が望む、皆の未来の中に…私も、生きていたい。一緒に、居たいって、思ってる」
エレンの顔が、苦しげに曇る。その表情で、ハルはエレンの心中をはっきりと理解することが出来た。
エレンは今、自分の全てを犠牲にして、大切な仲間達を守ろうとしている。本当は、傍に居たい。生きていたい。そんな思いを押し殺して––––
ハルはその場に立ち上がると、開け放った窓の外に浮かぶ、暁の空を見上げた。
薄暗い倉庫に、窓から差し込む夕日が、雲間から地上にさす光の柱のようになって、ハルの端正な横顔を照らし出していた。大きく息を吸い込めば咽せてしまいそうになる、埃っぽい空気。しかし砂塵のように細かな塵は、夕日の柱の中できらきらと輝いて、それはハルの姿を秀麗に、エレンの目に映した。
「サシャやコニーの、笑った顔を、出来るだけ沢山見ていたい。ヒストリアの、空よりもずっと大きな優しさに、触れていたい。アルミンの、未来を見据えて、輝く瞳に…弟とよく似た、瞳に…望む景色を、見せてあげたい。ジャンの…傍に居たい。誰よりも、近くに居たい。飾りっけの無い、笑顔を見せてくれる時、なによりも幸せな気持ちになれるから。だから私も、ジャンを幸せに、したい。ミカサの、不器用だけど、誰よりも純粋な心を、時々見せてくれる、かわいい笑顔を…エレン、君と同じように、守ってあげたい」
「…っ」
夕空を見上げていた蒼黒の瞳が、あまりに優しく温かに輝くので、エレンは何だか泣きたくなって、熱くなった喉を引き絞るように、口の中の唾を飲み下した。
「エレン。…君が、もう一度昔のように、未来を思って、目を輝かせてくれる日を、手を伸ばせば触れられる場所まで、連れてきてあげたい。私はその全部を、本気で叶えたいんだ。…とても欲張りだと思うけど、君が居なくなったら、それは叶わないってことになる」
ハルは自身の左手にある、虹色のブレスレットを、右手でぎゅっと手首ごと握りしめる。そして、エレンの傍に片膝をついた。
「エレンは昔の私と同じように、自分を犠牲にしてでも、仲間を守りたいと思ってる。でも、皆は…エレンが居ない未来なんて、望んでない。君だけに世界中の憎しみを背負わせるなんてこと、絶対に望まないよ」
「ああ、…そーだな。…アイツらは、優しいから」
エレンはふっと、微笑みを浮かべて、囁く。
「でも…仕方ないんだ。もう時間も方法もない。無いものねだりをする余裕もな…」
「君がしようとしていることは、仲間を傷つける。体も、心も…」
「ああ、でも死ぬよりはいい。あいつらが生きていれば、未来は続いていく…時間も流れれば、いつか、傷だって消えて無くなるさ」
「無くならないよ」
ハルははっきりと、否定した。
「大切な人を失った傷は…死ぬまで無くなることは無い。流れる血が止まって瘡蓋になっても、傷痕は残ったまま…その痕を見て、ずっと苦しむことになる…残された人間は–––」
「…ハル」
ハルの言葉には説得力があったし、エレン自身も、自分が先程口にした言葉が呆気なく霧散する程に、理解も納得も出来てしまった。
「っ私は、嫌だ…っ、こんな未来は絶対に、嫌だっ」
ハルはエレンの両肩を掴み、額をエレンの胸元に、縋るように押し当てた。
「誰よりも仲間思いで優しい君が、どうしてこんな思いを、しなきゃならないんだ…っ」
自分の代わりに嘆き悲しむハルを、エレンは両腕で抱き締める。
「…泣くな」
「っエレン、ごめん…君は、ずっと待っていたのにっ」
「!」
エレンはその言葉に、ふとハルの記憶の中で見た、『エレン』を思い出した。
自分の本音を、胸の内から誰にも吐き出せずに苦しんで居たが、ハルと会話をしている内に、同じ境遇同士の心中を吐露し合うことが出来た夜。『エレン』が言った言葉。「俺はずっと、お前を待っていた気がする」という、言葉だ。
その通りだと思う。
もしもハルが、傍に居てくれたら–––。もっと違う道だって、見出せたのかもしれない。もう今更、そんなことを考えても、仕方がないことなのに…
「…ああ、そうだな。待ってたのかもな…アンタみたいな、俺と同じ境遇で、痛みを分かち合ってくれる存在が…ずっと俺は、欲しかったのかもしれない」
エレンは抱き締めたハルから身を離し、涙に濡れたハルの瞳を見つめて言った。
「でも俺は、アンタがどんなに泣いたって、縋られたって引き留めたって、『地ならし』をするんだよ」
「…うん。っ、分かってるよ…」
ハルが、自身のシャツの袖でぐいっと涙を拭いながら頷く。
「だけど、アンタの世界の、俺は…アンタが居ることで、違う未来を見つけられるかもしれない。築き上げられるかも、しれない。だから、泣くなよハル。俺の為に、泣かなくていいから。せめて泣いてくれるなら…アンタの世界の俺に流してやってくれ。きっと、嫌がるだろうけどさ」
エレンがそう、少し恥ずかしそうに苦笑を浮かべて言った。
ハルは頷き、エレンのことをぎゅっと抱きしめた。
すると、ハルの体が少しずつ透け始める。ゆっくりと、倉庫の中の景色に、溶け始めるように–––
ああ、もう時間が無い。
そう、エレンとハルは、同時に理解した。
エレンはハルを抱き締め返して、言った。
「馬鹿な俺の事も…ミカサや、アルミンのこと…ジャンやコニー、サシャや…リヴァイ兵長達のこと…頼むな…?」
そんなエレンの切実な願いを受けて、ハルはより一層エレンの体を強く抱き締めて、頷いた。
「約束する。君の大切な人を、私にとっても大切な人達を……絶対に守ってみせるよ」
「…ハルと会ったこと、忘れない。約束する」
エレンは翡翠色の瞳を、緩く閉じる。
もうきっと、二度と触れることも、会うことも出来ない、大切な友人を、胸の奥に刻みつけるように。
「皆の未来を…切り開いてくれ、ハル」
その言葉に、ハルはエレンの肩に顎を乗せ、広い背中をたんたんと叩き、「任せて」と、至極穏やかに囁いた。
途端、腕の中のハルの温もりが、風に吹かれた蒲公英の綿毛のように霧散した–––
パサリと、床に白いジャケットが、寄りかかる場所を失って落ちる。
エレンは、動けなかった。
彼女が、帰った。
そうすぐに頭は認識したが、その場から立ち上がることも、彼女を抱き締めていた腕を下ろすことも、出来なかった。
冷たく埃に塗れた板張りの床に、両膝が張り付いて、離れない。
ただ鼻の奥がツンと痛んで、心の中の何かが、急に決壊していくのを感じた。
喉から呻き声が溢れて、音もなく瞳から流れ落ちた涙が、太ももに丸い、小さな染みを作る。
第五十二話
『Ellen』
––––そして彼女は、在るべき場所で目覚める。
完