第五十二話
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エレンが器用に松葉杖を使って、大股に進んで行く細道の先には、小さな広場があった。其処には古い物置のような倉庫が一つぽつんと建っていて、エレンは何の躊躇もなく倉庫のドアノブを掴んで開いた。ギシギシと、扉が軋みながら開くと、ハルはエレンの肩越しから掃除用具などが乱雑に置かれている倉庫の中が見えた。エレンに続いて倉庫の中に足を踏み入れれば、建物に囲まれ一日中日光が殆ど当たらない所為か、湿気た空気とカビ臭さが鼻腔に張り付いて、外よりも何だか肌寒く感じた。
「う、さっ、寒い…」
ハルが両腕をさすりながらぶるりと身震いをすると、エレンは纏っていた白いジャケットを脱いで、ハルの肩にかけてくれる。そして近場の木箱の上に座るようハルを促した。
「あ、ありがとう…」
ハルは自分の知るエレンの優しさを垣間見ることが出来た気がして、少しホッとしながら礼を言い、木箱の上の埃を手で払って、腰を落とした。すると、エレンもハルと向かい合うように、樽の上に座り、松葉杖を近場の壁に立て掛けた。
二人の間に静寂が出来上がったが、それを早々に破ったのはハルの方だった。
「エレン」
「…何だ」
ハルは困惑を拭い切れていない、複雑な表情をしながら、膝の間で手を組み、会話の口火を切った。
「私、ちょっと考えたんだ。エレンは未来の…エレンだけど、違う世界のエレンなのかなって…」
ハルの言葉にエレンは肩を竦めると、笑い飛ばすように口端を歪める。
「ああ、可笑しな話だ。…俺も、同じようなことを考えてた。最初はこっちの…マーレで俺の存在に勘付いた奴の刺客か、ハンジさんが俺をパラディ島に連れ戻す為に送り込んだ兵士のどちらかと思ったけど、どっちも違うみたいだしな。…そもそも、アンタがマーレの…此処の人間じゃないってことはよく分かった。じゃなきゃ、ミケさんやイアンさん達のことまで知らないだろうし、その下に履いてるズボンは、調査兵団の兵服の素材と、全く一緒のようだしな」
エレンの話を全て理解することは不可能のようにも思えたが、理解しようと努めようと、ハルは疑問を一つずつ解消していく為に、質問を始める。
「エレンはさっき、この場所を…『マーレ』と言っていたけど。…もしかして、私たちの住む壁の外側の世界が、此処…なの?」
ハルの問いに、エレンは首を横に振りながら、足元に転がっていた木の棒を拾い上げる。一体何に使われている棒なのか…用途は謎だが、片方の端には薄汚れた布が巻きつけられていて、エレンは其処を持ち手にしている。
「いいや。厳密にはそうじゃないな。壁を越え、海を越えた先が…此処…マーレなんだ」
その言葉に、ハルは両目を見開く。
「海…っ、て、アルミンとエレンが言っていた…塩水で出来た大きな湖のこと?」
エレンは「ああ」と頷くと、木の棒の先で、砂埃が積もった床に、丸い縁を描いた。
「そういうことだ。…俺たちが長年壁に囲まれてきた世界は、島のほんの一部に過ぎなかったんだよ」
次に、その丸い円の外側に、細長く凹凸のある大きな円を描く。
「これが、パラディ島。俺たちがずっと住んでいた島だ。で、壁は、この最初に描いた場所一体になる」
「え…壁の内側って…こ、これだけの面積しか…ないの?」
驚愕しているハルの顔を見て、エレンは真顔のまま「そうだな」と答える。その返答に、口がぱっかりと開いて硬直してしまったハルを問答無用と置き去りにして、エレンは話を続けた。
「で、このパラディ島ってのは、海に囲まれてる小さな島だった。俺たちが今いる場所は、海を越えた…でかい大陸、マーレで…厳密にいえば、レベリオって場所だよ」
「…こ」
ハルの喉から、食べ物を詰まらせた時のような音が鳴る。
「こんなに…大きいの…」
「大きいんだよ」
飄々とした様子で頷くエレンに、ハルは眩暈がしたが、何とか平静を保って質問を連ねた。
「こっ、この広い…その、た、大陸にも、巨人は居るの?」
「昔のパラディ島みたいに、無垢の巨人が徘徊してるってことはない」
その言葉に、ハルはほっと、息を吐いた。
「そ、そっか…良かった」
「でも」
しかし、安堵出来たのは束の間のこと。
「巨人じゃなく、人同士の争いと、迫害は存在する。さっきも言っただろう?エルディア人は、腕章がないと駄目だって話。まあ此処は収容区だから、危険は少ないが、外に出てマーレ人に捕まれば、あっという間に楽園送りにされる」
ハルは聞きたいことは山程あったが、その中で気がかりになった一つを、まずは質問する。
「楽園って?」
「俺たちがいるパラディ島だ。其処で、薬を打たれて、無垢の巨人にされるんだ」
「…ちょ、ちょっと…、待って」
ハルはエレンに掌を差し出して、話を一旦制した。それから顳顬に手を当て、青褪める。
「じゃ、じゃあ…壁の外に、徘徊していた無垢の巨人の正体は、此処…マーレで、罪を犯して、楽園送りになったエルディア人ってこと…なの?」
「ああ、そういうことだ」
「マーレに住んでいる人たちは、皆マーレ人っていう訳じゃないの?」
「住む場所がマーレでも、さまざまな人種が居る。だが、皆共存しているわけじゃない。マーレ人から、エルディア人は迫害を受けている。エルディア人ってのは…巨人になれる人種なんだ。パラディ島に住む、俺たちと同じように」
「…私たちも、壁の外の巨人達も…同じエルディア人?それに、巨人になれる人種ってことは…マーレ人や他の人種の人達は、違うってこと…?」
ハルは酷い頭痛がした。困惑が混乱に変わって、取り乱しそうになる。それでも何とか冷静さを繋ぎ止めようと、震える声で、自分の様子を静かに見守るようなエレンの眼差しを見つめ返しながら、問いを重ねた。
「じゃ、じゃあ…ライナーや、ベルトルト、アニは?三人とも、マーレから…海の向こう側からやってきた。三人は巨人化が出来るって事は、同じエルディア人なんでしょう?なのにどうして私達を…」
エレンは樽に深く座り直し、壁に背中を寄りかける。
「…ああ、そうだ。同じエルディア人だ。だが、此処では大陸の収容区に住むエルディア人を対象に、マーレ政府が募集している戦士隊ってのが存在するんだ。選ばれた戦士はマーレ政府管理下にある「巨人の力」を継承する資格が与えられる。…マーレの目的は、国力維持のため、フリッツ王が隠し持つ「始祖の巨人」を奪還すること」
エレンの話を聞いて、ハルは自分が一番気鬱していたことが的中したと気付き、絶望的な気持ちで天井を仰いだ。その所為か、埃で白くなった板張りの天井が、今にでも雨を降り落としそうな分厚い雲のようにも見える。
「始祖の巨人の奪還…っ」
「応募資格は5歳から7歳の健康な男女だ。…訓練兵募集の条件よりもずっと幼い。…彼等の選出には数年をかけられ、厳しい訓練や戦場での実戦を経て、最終的に選ばれた極少数が「マーレの戦士」として認められる。「巨人の力」を継承する権利を与えられるんだ。 選ばれた「戦士」本人とその一族には、「名誉マーレ人」の称号が与えられ、マーレ国内での自由な生活を保証される。…ここまで話せば、予想はつくだろう」
そう、エレンが言っている事が、事実であるならば、ライナーやベルトルト、アニが…仲間を裏切ってまで、自分を欺いてまで、壁を破り、仲間を殺すに至った理由を見出すことは出来た。彼等は家族の為に、幼い頃から身を犠牲にして、戦士として戦うことを教え込まれ、多くの人を殺した。自分や家族の存在を、マーレという世界から認めて貰う為に…。理由は分かる。でも、そうしては欲しく無かったと思ってしまうのは、身勝手な考えなのか…。
「…頭がぐちゃぐちゃだ…いや、頭だけじゃないけど」
「俺が嘘を言っていると思うか?」
ハルが項垂れ、頭を抱えて唸るように呟くと、エレンは硬い声音で問いかけた。それに、ハルは項垂れたまま首を横に振った。
「思わないよ。思ってないから、こんなに参ってる…」
困憊しているハルの姿を、エレンは瞳を細めて見つめる。ハルに対しての疑心は完全に拭えてはいないが、会話をしている内に、気づけば小石程度の小さなものになっていることに気づく。まるで彼女のことを、元々自分は知っていたのではないかと、錯覚してしまいそうになる程に、不思議な安堵感を、彼女に対して抱いているのも確かだった。
「アンタ、なんだって時間を…世界の軸まで、超えてきたんだ」
エレンの問いかけに、ハルは項垂れていた顔を上げて、考え込むように手を顎に添えた。
「わからない…けど、私には、『ユミルの愛し子』っていう力があるんだ。その力が関係しているのかもしれない」
「…ユミル…?」
エレンの声が、突然糸を引っ張ったようにピンと張り詰めたのを感じたが、ハルは今まで自分の問いに答えてくれたエレンに恩を返すように、自身の話を連ねた。
「うん。その力は遠くの音が聞こえて、巨人の動きを封じることが出来るんだ。体は巨人化はしないけど、背中に黒と白の翼が生えて、飛べるようになる。右目を傷つけることが、発動条件だけど…、反動というか…力を使うとね、吸血衝動が出るんだ」
エレンの眉間に皺が寄る。
「…血が、欲しくなるってことか?」
「うん。それで…っ」
ハルは言葉に詰まった。それを怪訝に思ったエレンは首を傾げる。
「…っごめん、エレン!」
ハルは木箱から立ち上がると、勢い良くエレンに向かって深く頭を下げた。突然眼前に現れたハルの旋毛を見ながら、エレンは「は?」と驚いて目を丸くする。
ハルは頭を下げたまま、口早に謝罪を述べる。
「君に謝ってどうこうなるっていう話じゃない…っ元居た場所に戻ったら、エレンにも勿論謝るけど!き、君の血を、飲んでしまって…突然意識が遠のいたと思ったら、此処に居たんだ…」
「……成程な」
エレンはそう小さく呟くと、無精髭の生えた顎をさする。
「…お前も、他の巨人の能力を取り込めるのか…それとも、また別の類いの力なのか…俺の過去には、お前は存在しなかったし、そんな『ユミルの愛し子』の力なんてものも、なかった。いや…あったが、知らなかっただけなのかもしれないが…。アンタは俺の血を取り込んだことで、未来の俺に繋がったのかもしれない…でも、俺はアンタを知らないし…ってことはやっぱり、時間だけじゃなくて世界の軸も…超えているってことになるのか…」
神妙な顔でぼそぼそと呟くエレンを、ハルは複雑な感情で見つめていた。エレンは、大人になって、物腰も落ち着いているように見えるが、それだけではない。自分自身の中の、いろんなものをすり減らして、とても疲弊し苦しんでいるように、ハルの目には映っていた。
「ねぇ、エレン」
名前を呼ばれ、エレンは考え込むのを止めて、足元に落としていた視線を、ハルへ向けた。
「いろいろ聞いて…いろいろ気になる事はあるけど。何よりも今は、一番…私はエレンが気がかりだ」
「は?」
思いもよらない言葉を与えられて、エレンは思わず息を呑んだ。
「エレンは昔から、辛いこと、苦しい事を、人に隠して、全部一人で背負い込むから……それがどんどん積み重なって、押し潰されそうになってるように見える。…それに、今だって…現在進行で無茶なことをしてるんじゃないのかなって…心配だ」
自分に寄り添うような言葉をくれるハルに、エレンは開いた口を噤んだ。
それからふと、視線を倉庫に唯一有る、曇った窓ガラスに向けた。
「随分、俺の事を分かったように話すんだな」
「…気を、悪くしたなら謝るよ」
「…いいや」
エレンは首を、ゆっくりと横に振る。
「俺にはもう、この道しかないんだよ」
それから、今まで自身が歩んできた時間を辿るように、瞳を閉じた。
「何十回、何百回と…この残酷な世界に抗う術を考えて来た。俺が望む未来を、どうしても叶えたかった。でもそれは出来なくて…多くのものを諦めて、切り捨てて、せめて俺の、大切なものをだけは守りたくて…もうここまで、来ちまった」
苦しげな声音で紡がれる言葉の語尾には、思わず下唇を噛みたくなるような、どうしようもない悲壮感が滲んでいた。
「ミカサやアルミンを…っ、仲間を守る為にはっ、こうするしかない。もう後戻りは、出来ないんだ」
「!」
そう言ったエレンの悲しげな表情が、ハルの知るエレンに、ぴったりと重なった。
同時に、以前、夜中にエレンと二人だけで話をした時、エレンが自分に呟いたある言葉を、思い出す。
『何だか俺…ずっと…お前のこと、『待ってた気がする』」
エレンは泣きそうな顔をして、そんな事を言ったのだ。
「…ずっと」
ハルはエレンに歩み寄ると、傍に静かに片膝をついた。それから、エレンの顔を覗き込む。
「ずっと一人で、苦しんできたんだね」
エレンは、その言葉に胸の奥がぎゅっと締め付けられて、息苦しさに「はっ」っと短く息を吐き出した。ミカサに良く似た、黒い瞳が、優しい熱を孕んで自分を見つめている。
「ごめんね…エレン…、君の傍に…居てあげられなくて…」
エレンは、震える唇で、小さく…縋るような声で言った。
「手を…握ってみても、良いか…?」
その言葉に、ハルは首を傾げる。
「巨人の力を持つもの同士は、接触することでいろいろ、分かることも、あるみたいだから」
確かに、それは理解出来る。ハルは頷いて、エレンに手を差し出した。
「…うん。いいよ」
「…」
エレンがゆっくりと手を伸ばして、ハルの白い掌に、自分の手を重ねた。
その時だった…
壁上から地面に叩き付けられるような激しい衝撃が、ハルの体に襲いかかった。
その衝撃は、エレンの豆が潰れて硬くなった掌から、稲妻の如く伝わって来た。
一度深呼吸をする程の、ほんの短い時間で、多くの時が凝縮された、情報と記憶の塊が、ハルの脳に直接抉り混んでくる。
それは、本当に。
途轍もなく、
膨大なものが、流れ込んで来たのだ。
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