第五十二話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「…あっ、待ってエレン!」
擦り減った松葉杖の先を、乾いた地面に急くように付いて、足早に自分から離れて行く友人の背中を、ハルは慌てて呼び止め、追い駆ける。
しかし、何度声をかけてもエレンが足を止めてくれる気配は無く、無言のまま病院の庭奥へと進んで行ってしまう。
「エレン!!」
伸びた焦茶色の髪が揺れるエレンの肩を追い越して、ハルは彼の前に両腕を広げて立ちはだかった。
「……」
それで漸くエレンは歩みを止めてくれたが、眉間には深い皺を刻んで、猜疑深い表情をハルに向けた。彼がエレンであるということに間違いはないと確信しているが、彼が湛える瞳はまるで別人のように冷たく鋭い。思わず一瞬怯んで、後退りをしてしまいそうな程だった。それでも口を噤むことはせずに、ハルは広げた両腕を体の横に下ろしながら、ゆっくり問いかけた。
「聞きたいことは沢山あるけど…その怪我っ、大怪我じゃないか……。まさか、中央憲兵に、ケニーやロッドにやられたの?」
「…は?」
すると、エレンは殺気まで滲ませるように細めていた瞳を、今度は大きく見開いて、驚いたように口を開けた。動揺しているのか、翡翠色の瞳が小刻みに震えている。
「傷が治せないなんて、何か変な…薬でも飲まされた?それとも、巨人の力を消耗して…」
「っちょっと来い!」
エレンはその先の言葉を遮るように、焦った様子で声を上げ、ハルの左腕を掴むと、すぐ横の病院の本棟と別棟の狭い隙間に強引に引き込んだ。
「うわ!?」
突然のことに驚くハルの両肩を掴み、背中を荒々しく石壁にドンと押しつけたエレンは、日差しを遮った暗がりの中でもはっきりと分かる程に、焦燥を滲ませた表情で、唸るように言った。
「アンタっ、どういうつもりだ…!」
ガランと、エレンが手にしていた松葉杖が、疎に雑草が生えている地面に転がる。
「どういう、つもりって…?」
ハルは困惑顔を傾げ神妙に問いを問いで返すと、エレンは苛立ったように眉間に寄せていた眉先をぴくりと震わせて、捲し立てるよう口早で言う。
「俺はアンタを知らないって言っただろ!?万が一にも、アンタがハンジさんが送り込んだパラディ島の兵士だったとしてもだ!ベラベラと、こんな場所でっ、そんな話をするな…!」
「ハ、ハンジさんが…送り込んだ、兵士?パラディ島…?」
エレンの言っていることがよく理解できず、困惑の表情を更に色濃くするハルに、エレンは刃のように瞳を鋭く細めた。
「本当にアンタは何者なんだ。答えによっては此処で殺す」
エレンの瞳の中には、明瞭な殺気が揺らいでいて、ハルは背中に冷たい氷の刃を突きつけられているような悪寒を感じ、固唾を飲んだ。どうにも、エレンは演技をしているようにも、冗談を言っているようにも見えない。本気だということは良く分かった。
だからこそ、今エレンに対して不誠実な、曖昧で間違った返答をしてしまえば、本当にただでは済まされない予感がして、ハルは「分かった…」と頷き、一度大きく深呼吸をすると、額に片手を当て、どう答えるべきか脳をフル回転させながら、苦悩の表情になった。
「少し待って…、ちょっと、自分なりに整理をしてから話したい…」
「…」
エレンは考え込むハルを急かすようなことは言わなかったが、鋭い視線をハルから外すことはなかった。
今の状況を考えるに、普通ではあり得ないことが起きているんだということは、何となく理解できる。
知らない場所、元いた場所とは違う季節と知らない空気、大人びたエレンの姿。…それに、エレンは自分のことを、身知らずの人間だと主張しているということ。
これまで、幾度となく摩訶不思議な現象を目の当たりにしてきたが、まるでタイムスリップでもして来たような現状に、ハル自身も困惑を隠し切れなかった。
額を抑えたまま、ハルは「はあ…」と一度ため息を吐く。それから額を抑えていた腕を下ろすと、なるべく誠実に捉えもらえるよう努めて、背筋を正し、エレンに向き合った。
「エレン。ごめん、私も段々…考えれば考えるほど、混乱しているんだけど。取り敢えず、話を聞いて欲しい」
「…言ってみろ」
エレンはこくりと頷き、ハルの両肩から手を離すと、腕を組み、背中を建物の壁に寄りかけた。まるで訓練兵時代の、キース教官の面談を受ける前のような気分になり、少し緊張して乾く喉を、ごほんと一度咳払いをして紛らわせたハルは、話を始めた。
「エレンは私を知らないみたいだけれど……私は、南駐屯地104期訓練兵団所属だった、ハル・グランバルドっていうんだ。君と同期で、今は、調査兵団に所属してる」
ハルはそこで一旦話しを切り、エレンの顔色を窺う。エレンの眉間の皺は深まってはいたが、彼は「続けろ」と話の先を促した。
「私は此処に来る前、ある作戦の遂行をしていたんだ。憲兵団が、調査兵団の壁外調査を全面凍結して、エレンとヒストリアの引渡しを要求して来た。私も兵舎に居たニック司祭を保護した後、トロスト区で中央憲兵と交戦状況にあったリヴァイ兵長達と合流しようとしたんだけど、上手く行かなくて…結局ケニーとロッドに捕まってしまったんだけど…」
と、此処で、エレンはすっと掌をハルの眼前に差し出し、話を制止した。
「待て」
「あ、うん。待つ、待つよ」
エレンの要求にハルは従順に口を噤んで、兵士ならではの綺麗な気をつけの姿勢を取るのに、エレンは頭痛でもするのか目頭の間を指先で摘みながら、唸るように言った。
「…言いたいことが、山程あるんだが」
「ど、どうぞ!遠慮なく言って…」
「まず、お前のその話は、俺にとっては四年前くらいの出来事だ」
「!」
何となくエレンの姿を見るに予感はしていたが、実際にはっきりと口にされれば驚いてもしまう。ハルは「四年前…」と唖然と呟くのに、組んでいた腕を解き、エレンはハルの胸元辺りを指差して言った。
「しかも、お前…今ニック司祭を、保護したって言ってたよな?」
「う、うん」
すると、エレンは肺の中の空気を絞り出すように長く吐き出して、再び両腕を組んだ。
「ニック司祭は死んでる。憲兵に拷問を受けて、トロスト区の兵舎で殺されたんだ」
「…え?」
思いもよらない返答に、ハルは目を見開いた。動揺を隠せず、早口になって、エレンに身を乗り出すようにして訴える。
「そっ、そんなはずは無い!私は確かに、憲兵に拷問を受けているニック司祭をゲルガーさんと一緒に助けて、駐屯兵団のイアン班の皆に保護の協力を…」
「おい」
固い声音で制され、ハルは言葉を飲み込む。エレンは藪の中の蛇を睨むように目を細めている。
「な、何?」
「ゲルガーさんも、イアンさんも、死んでるだろっ」
「…え…?」
ハルは足先から脳天を駆け上がってくるような嫌な予感に、短く息を吐き出し、冷たい石壁に背中を寄りかけた。突然噴き出た冷や汗が、シャツの背中に染み込んで行く感触がする。額に滲んだ汗を拭い、波打つ感情を落ち着かせようと、ハルは片手で前髪を掻き上げる。
「それは…悪い冗談だよ」
掠れた声でそう溢したハルに、エレンは気を悪くした様子で、低く威嚇するような声音で言った。
「アンタ、俺を揶揄ってるのか」
その言葉に、ハルは困惑が頭の中で肥大化し、余裕のない走る口調でエレンに捲し立てるようにして言った。
「か、揶揄ってるのはエレンでしょう!?ゲルガーさんもイアンさんも、い、生きてるよ!」
「…どういう、ことだ…」
ハルの必死な顔を見て、エレンの声と表情が神妙になる。
「エレン!と、兎に角だ。まず、此処はどこなのか教えて欲しい」
「…」
本格的に混乱して、慌てふためきながら、ハルはエレンに詰め寄るように問いかけたが、エレンは口を引き結んだまま何も答えない。それに、ハルは痺れを切らして、暗い路地から病院の庭へと再び出て行こうとする。
「分かった。君が答えてくれないなら、他の人に聞いてくるっ」
「!?」
すると、エレンはぎょっとした顔になって、ハルの右腕を掴んで引き留めた。
「馬鹿なことはよせ!」
「だったら!教えて!」
ハルはエレンの手を振り払ってそう訴えると、エレンは振り払われた手で、ハルの右腕の二の腕のあたりを指差して言う。
「お前、腕章は?」
「腕章?」
何のことかとハルが首を傾げると、エレンは自分の右腕に付いている、灰色の印がつけられた腕章を見せるようにして言った。
「此処では、エルディア人は腕章をつける義務がある。それをつけずに外を彷徨くのは自殺行為だぞ」
「エルディア人…?」
言っていることが理解できず、傾げていた首を今度は反対側に傾げたハルに、エレンは「はあ」と疲れたような深いため息を吐き、頭を抱え独り言のように呟いた。
「アンタ本当に、何にも分かってないんだな。此処の…島の外、海の向こう側のこと……まるで、昔の俺だ」
そう言って、建物の狭い隙間から見える、夕焼けの秋空を仰いだエレンに、ハルは息を詰めた。薄暗い中だが、空を見上げるエレンの顔が、何処か悲しく、寂しげに見えたからだ。
「エレン…は、どうして独りなの?ミカサや、アルミン…ジャン達は…、何処にいるの?」
ハルの問いかけに、エレンは「はぁ…もういい」と諦めたように呟きながら肩を竦める。それから、地面に転がった松葉杖を拾い上げ、左脇に抱えながら言った。
「…アンタを、信じてやる。だから黙ってこっちに来い。危なくてこんな場所じゃ、話なんか出来ないからな」
エレンはそう言うと、庭の方ではなく、路地の奥の方へと歩き出した。そんなエレンの背中を、ハルは戸惑いながらも追うようについて行く。
→