第四十六話
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「トーマさんも、ミケさん達も…何も聞かないんですね…」
病院の正門を出て兵舎の方へ歩き出してから間も無くして、ハルは独り言のように静かに呟いたのに、前を歩いていたトーマがふと足を止めて振り返った。
「何がだ?」
振り返った先では、ミケの病室を後にして、白シャツの上に青鈍色のジャケットを羽織ったハルが、肩にかけたシャルダーバックの紐をぎゅっと両手で握りしめ、夕陽色に染まった空を見上げて立っていた。
ハルは頭上に浮かんでいる雲よりも、ずっと遠くのものを見つめるように、薄い目蓋で瞳を撫でるように瞬きをしながら、少し重たげに口を開く。
「…私が力を使って、ライナー達が逃げる手助けをしたことについてです」
トーマはどう答えようか考えあぐねるように頬を指先で掻いて、「…ああ、その事か…」と少し舌足らずになって答えた。トーマもその件については、全く疑問を抱いていないわけではなかった。しかし、ハル自身も思い悩んでいるということは感じていた為、おおっぴらに話を切り出す気にもなれなかった。今回の件で、精神的にも肉体的にも、疲弊しているであろうハルを、死地から帰還したばかりで問い質すようなことはしたくないと思っているのは、きっとミケ達も同じだろう。
それでも、ハルは空を見上げたまま、膜が張ったように不安げに瞳を揺らしているのに、トーマは聞き流す事も出来ず、問いを返した。
「後悔、してるのか?」
すると、ハルは空を見上げたまま一度大きく瞬きをして、肺の中の空気を全部絞り出すように、長く息を吐き出した。それから首を横に振ると、「…いいえ」とだけ答える。短い返答だったが、トーマにはその答えだけで充分に思えた。
「だったら別に、良いじゃないか」
「え…?」
肩を竦め、軽い口調で答えたトーマに、ハルは虚を突かれたように目を丸くする。もっといろいろ、咎められることがあると思っていたからだ。
しかしトーマは特段怒る様子も無く、腰に手を当て、まるで食堂のメニューを告げる時のようなあっさりとしたしゃべり方で言った。
「まーな。お前が気にしてる通り、兵士としては、あの時ライナー達を助ける行動は正しいと言えないのかもしれないが、一概にそうだとも言い切れないと思うぞ?アニが結晶化して、壁外の話が聞き出せない今、彼等から情報を得る他に、外の世界の情報を聞き出せる人物が居ないんだ。あのまま彼等が巨人に食われていたら、目先の脅威は消えても、その先には進めないだろう?」
トーマの言葉はハルにとってはありがたかったが、彼が言うような高尚な理由があって、ハルはライナー達を逃すことに加担したわけではない。調査兵団に属する兵士としては、反逆行為と取られてもおかしくは無いことをした。
ハルは長い前髪を掻き上げるように額を掌で抑え、視線を足元に落とした。
「…私はただ…あの時は私情でしかなくて…そんな事、少しも考えていなかったんです」
掠れた声でそう言ったハルに、トーマは苦笑して肩を竦めた。適当に話を合わせ、終わらせてしまえばいいものを、ハルの篤実さには感服だった。
「ま、そーだろうな」
トーマは項垂れるハルに歩み寄り、その肩を掴むと、ハルは苦悩した顔を上げた。ハルが彼等を逃した理由が、ハルの私情に過ぎないということは、恐らく調査兵団の誰しもが察していることだろう。それでも、ハルに対して酷しく言及する者が居ないのは、それを知った上でハルの行動を、仲間達は受け入れようとしているからだろう。
「俺は、そんな馬鹿正直者のお前だったから、ミケさんも、そしてナナバもゲルガーも、死なずに済んだんだって思ってる。お前と知り合って間もないが、…あの時巨人の足音がするんだなんて聞いた時も、不思議と信じられたんだってな…」
「トーマさん…」
「お前が後悔してねぇなら、それでいい。だからお前も、あんまうじうじしてないで、お前が望む未来ってヤツに近づく為に、調査兵としての気概を見せろよな?」
トーマはハルの背中をばしっと激励するように叩き、白い歯をにっと見せびらかすようにして笑った。
「そう…ですよね」
ハルは頷く。ミケにも先ほど立ち止まるなと背を押してもらったばかりだというのに、早々にまた足踏みをし始めている情けない自分を振り払いたくて、ハルは体の横で拳をぎゅっと握りしめた。迷いを色濃く浮かべていた不安げなハルの瞳に、前向きな光が浮かんだのが見えたトーマは、ハルを激励するように肩をぽんと軽く叩いて、再び兵舎に向かって歩き出そうと踵を返した。
「よしっ!じゃあ、兵舎に戻ろう。日も沈み始めてるしな?」
「はい…!………っ?」
ハルも歩き出したトーマの背中を追おうと足を踏み出したが、はっと何か針の刺さるような気配に息を呑み、辺りを見回した。
「ん?どうした、ハル?」
トーマはハルを振り返って、怪訝に首を傾げる。
ハルは体の周りに蠅が舞っている時のように落ち着かない感覚に見舞われていた。
「い、いえ…何だか視線を、感じるような…」
「視線?」
トーマが傾げた首を、次は反対側に傾げた時だった。
突然、空気を切り裂き、黒板を爪で引っ掻くような音が向かって来て、ハルは反射的に首を逸らした。すると、自分の耳たぶと肩の間を細い何かが突き抜けて行き、それはハルの後ろにあった広葉樹の木の幹に突き刺さった。
「っ!?」
「お、おい!?何だこれっ…麻酔針か?!」
トーマは幹に突き刺さった細い針を見て驚愕する。
ハルは麻酔針が放たれた際の発砲音が市街地の方から聞こえ、銃の持ち主が慌ただしく走り出した足音に、人で溢れているトロスト区の市街地へと瞬時に駆け出した。
「トーマさんっ!先に兵舎戻っててください!ちょっと用事、思い出しました!」
「は、はぁ!?おい待てっ、ハルっ!?単独行動取るんじゃねぇよ!!」
トーマは雑踏に飛び込んでいくハルに焦燥し、慌てて後を追い駆けたが、ハルの姿はあっという間に人混みの中へと消えていってしまった。
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