第五十話
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ニック司祭を保護したゲルガーとハルは、兵舎から抜け出した後、トロスト区の商店街から少し外れた裏路地にある、ゲルガー行きつけの居酒屋、『髭男』へ向かった。
夜も更けて間も無く店仕舞いという時間だったが、最後の客も帰ったということもあり、店主のザックさんとその妻のミーニャさんは、ただならない様子のハル達を灯を落とす前の店の中へと迎え入れてくれた。
一般人の、ましてや日頃お世話になっている二人を巻き込んでしまうのは大変心苦しかったが、ニック司祭やゲルガーの応急処置を早々にしなければならなかったし、いくら夜遅く人通りが少ないとはいえ、憲兵団という大きな組織へ何処から居所がバレてしまうかも分からない。
二人の応急処置を終えたら、すぐに店を出て行くとハルはザックとミーニャ二人に頭を下げたが、二人は「外を出歩くのは危険だから、今晩は此処に泊まって行った方がいい」と言ってくれた。二人の厚意はとても有難かったが、素直にその優しさに甘んじるわけにもいかない。憲兵に追われている自分達を囲っていたと知られれば、店を畳む事態にも繋がり兼ねないからだ。
「…ありがとうございます。でも、二人の応急処置が終わったら、此処を出ます。ザックさんとミーニャさんのご厚意は、大変有り難いんですが…、ご迷惑おかけしたく無いんです…」
「俺達のいざこざに、ザックさん達を巻き込むわけには、いかねぇですから…」
「そんなの気にしないで。はい、これお湯と手拭い。それと消毒液と包帯も持ってきたわ」
「ゲルガー君、君もこっちに座りなさい。怪我してるんだろう?」
「…っ、すみません」
「ほんと、ありがとうございます…助かります」
ハルは近場のテーブル席の椅子にニック司祭を座らせると、兵服の上着を脱ぎ、白いワイシャツの袖を捲って、ミーニャが用意してくれたお湯の入った桶と手拭い、そして消毒液と包帯を使って、ニック司祭の傷の手当てを始める。ゲルガーはその間、ザックに店のカウンター席へ座るよう促され、申し訳なさそうに頭を下げながら腰を落とし、全てを話すことは出来ないが、助けてくれた二人に出来る限り誠意を見せなければと、事態の説明をしていた。
「ニックさん、少し痛むと思いますが、どうか我慢してください。これから両手の応急処置をしますから…」
「ああ…もう今更、痛みで声を上げることもない…」
ニックは青白い顔で、潰れた喉をガラガラと鳴らすようにして頷いたのに、ハルは手拭いをぬるま湯につけ、かたく絞り、ニックの痛々しい血だらけの手を優しく拭い始めた。布が傷口に触れる度に、ニック司祭は喉をぐっと鳴らしたが、言っていた通り声を上げることはなかった…というよりも、声を上げる気力も無いという様子だった。
「…ありがとうございます。壁の件、黙っていてくれたんですよね。…駆けつけるのが遅くなってしまって、すみませんでした」
惨憺たる両手を、思い詰めた顔で消毒し終えると、ニックの座る椅子の前に片膝をついて包帯を巻くハルの旋毛を、ニックは疲弊し落窪んだ目で見下ろした。
「私は…自分の信念に従って動いているだけだ…。別に調査兵団の為に、話さなかったわけではない。…君に、礼を言われる筋合いはない…」
その言葉に、「そうですか…」とだけ、ハルは短く答えた。内心で、ああ、ハンジさんが気に入るわけだ。と思う。
最初は壁の秘密を知っていて、それでも世に口外せずに居たウォール卿に疑念を抱いてはいたが、ニックという人間は、自分で心に決めたことは、決して曲げない意志の強さを持ち合わせているようだった。その精神は、調査兵団の兵士としての在り方と、とても近いように思えた。
「君こそ、とんだ無駄骨だったな。私は殺されても、吐くようなつもりは無かったというのに…面倒なことに巻き込まれて」
「無駄骨なんかじゃないですよ」
「何?」
ニック司祭は怪訝な顔をして首を傾げると、ハルは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「だってニックさんは、ハンジさんのご友人ですから」
「…は」
ニック司祭は目を丸くして、呆けたように口を半開きにした。
そんな彼にハルは肩を竦めてみせると、余った包帯の端を鋏で切り、ギュッと縛りながら言った。
「貴方が死んでしまったら、ハンジさん悲しみます。だから少しも、無駄骨なんかじゃないんです」
ニック司祭は開けた口の、乾いた唇を引き結んだ。それから一度大きく瞬きをすると、ハルのことを、同情じみた目で見つめて、溜息を吐くような、憂いを帯びた声音で呟いた。
「…君は、相当な愚か者と見た。だが…そうか––––君があの力の持ち主だということには…妙に納得がいくな…」
「…それは、どういう意味です…?」
ハルは手を止め、神妙な声音で、ニック司祭に問いかけた。しかし、ニック司祭にはその先を話す気は無いようで、「私の口から、話すことではない」と話は切り上げられてしまう。ハルも詳しい話を聞きたいところではあったが、疲弊しているニック司祭に、無理に問い質すような真似も出来ず、それ以上追求することはしなかった。
再び包帯を巻き始めたハルに、ニック司祭は問い詰められるだろうと思っていたのか、あっさりと引き下がったハルに意外そうな顔を向けた。
「…聞かないのか?」
「…話せないことを、無理に話す必要はありません。私達もそうです。ニックさんに話せないことは、話せませんから。お互い様ですよ」
ハルはそう言ってニック司祭のもう片方の手に包帯を巻き終えると、「何かあれば、声をかけてください」と床に片膝をついたまま小さく頭を下げ、立ち上がる。そんなハルに、ニック司祭は綺麗に包帯が巻かれた両手を見下ろしたまま、掠れた声で、「すまないな」とだけ小さく呟いた。それにハルは少しだけ微笑みを返して、店のカウンターでザックと話し込んでいるゲルガーの元へと足を向けた。
「ゲルガーさん」
「お。ニック司祭の処置、終わったか?」
ゲルガーは負傷した脇腹を左手で抑えながら、ニッと口端を上げて笑い、いつもの調子で問いかけてきた。しかし、血を失っている所為で顔色は悪く、傷の痛みからか、うっすらと額に冷や汗を滲ませていた。
「はい。次は、ゲルガーさんの番です」
「俺は大丈夫だよ。こんなのかすり傷だ」
そう言って肩を竦めてみせるゲルガーに、ハルは珍しく眦を持ち上げて怒り、ゲルガーに詰め寄る。
「駄目ですよっ!そんなに、血が出てるんですから!」
「だから俺はいいって…いでっ!?」
ゲルガーは必要ないと頑なに断ろうとしたが、カウンター越しからバシリとザックから肩を叩かれて、ゲルガーは不満気にザックを見た。しかしザックに「ハルちゃんの顔見てみろよ」と静かに示唆されて、ゲルガーはふとハルの顔を見た。
ハルは今にでも泣き出しそうな、ひどく思い詰めた顔をしていた。
その顔に、ゲルガーはうっと顔を引き攣らせ、仕方がないと傷口を押さえていない右手で、不本意そうに首の後ろを触った。
「…っ、分かったよ」
ハルはほっとした様子で息を吐くと、ミーニャが気を利かせて、新しいぬるま湯の入った桶と手拭いを持ってきてくれた。
「ハルちゃん、これ使って」
「ありがとうございます。こんな、ご迷惑おかけしてしまってすみません。ザックさん、ミーニャさん…」
ハルは再び改まって、ザックとミーニャに深々と頭を下げる。そんなハルに、二人は笑いながら首を横に振った。
「いいんだよ。ゲルガー君は大事な常連さんだし、ハルちゃんにはこの間、店の看板直して貰った時の礼、まだ出来てなかったしなぁ?ちょうど良かったよ」
「は?看板…?」
看板の件は、壁外調査が行われるよりも前の話で、訓練終わりにゲルガー達と一緒に『髭男』へ行った時、前日の強風で看板が曲がってしまっているのを目にしたハルが、自主的に後日店を訪れて、看板修理をした時の事であり、それを知らなかったゲルガーは驚いた顔でハルを見た。
何故ならハルは、単身で兵舎の外を出歩くことは禁じられていたからだ。
ハルはゲルガーに「…すみません」と苦笑いを浮かべて謝罪したのに、ゲルガーはやれやれと溜息を吐いた。こんなこと兵長にバレでもしたら、一体どんな目に合うことやら…考えただけでも恐ろしい。
ハルはミーニャから桶と手拭いを受け取り、ゲルガーはハルが応急処置をしやすいように床に胡座を掻いて座った。その前にハルも座り、手拭いを絞りながら、ゲルガーに上着を脱いで、シャツの裾を捲ってもらうように頼む。ゲルガーはハルに言われた通り兵服の上着を脱いで、左の脇腹に血が滲んだグレーのシャツを捲り上げた。
腰よりも少し上から、熟れたトマトに包丁を入れた時のように、真っ赤な鮮血が滲んでいる。流れ出て、傷口の周りに付着した血は、乾いて少し黒くなっていた。
「…っ」
ハルは悲傷にうち沈み、表情を曇らせ、傷口の周りの肌に付着している血を拭い始める。
「すみません…ゲルガーさん。私の所為で…」
自分を責めるような固い声に、ゲルガーは「別にお前の所為じゃねぇよ」と軽い口調で答えたが、ハルの表情は変わらなかった。
人肌よりも少し暖かい濡れた布が、肌に付着した不快感を拭っていくのは、心地良くもあり、擽ったくもあった。優しく布が肌の上を滑る度に、ゲルガーは背中がソワソワとして落ち着かない気分になりながら、息を詰め、慎重に脇腹の血を拭うハルを見下ろした。
そうすると、眼下には兵士とは思えないほど白く華奢な頸が、柔らかな黒髪から覗いて見えていて、何とも言えない気分になってしまう。悲しいような、苦しいような、切ないような、巧く言葉に出来ない、複雑な感情が胸の内をゆらゆらと漂い始める。
傷口の周りを拭い終わり、次に消毒液を手にしたハルから、「痛みますから、奥歯噛んでてください」と言われるも、心ここに在らずの状態で息を吐くように「ぁあ」と答える。
ハルの小さく白い左手が、臍の近くの腹筋に触れる。華奢なのに、その掌は豆が潰れて固くザラついていて、首の後ろの毛穴が、ぶわっと開くような感覚に見舞われた。
あ、やばい。コレは。そう頭の端で警鐘が鳴った瞬間、傷口に蝋でも垂らされたような激しい痛みが脇腹で爆ぜて、思わず喉から悲鳴が上がった。
「い゛っだぁぁぁああっ!?」
「ちょっ、ゲルガーさん!?あんまり動かないでくださいよ!また血が出ますからっ!」
「無理無理っ、なんだよこの痛さ!?腹がっ、千切れるっ!!」
ゲルガーは半泣きなって消毒液のかけられた脇腹を抑えると、ジタバタと両足を動かし痛みに悶えた。
「千切れません!寧ろそうやってバタバタしてる方が傷口広がりますから!!」
それにハルは心を鬼にしてゲルガーの膝の上に跨ると、乾いたガーゼを傷口にぎゅむっと押し付ける。
「ぎゃっ!?ちょっ、ハル!もうちょっと優しく止血して、」
「緩く巻いたら止血になりません」
脂汗を滲ませながらも、自身の上に跨るハルを見上げて懇願するが、ハルは容赦なく包帯をぎっちりと脇腹の傷に巻き付け始めた。
「うぎぎっ、マジ…で、目ぇ覚めた…」
ゲルガーは木張の壁に後頭部を押しつけて、痛みで震える声で呟く中、ハルは一周一周丁寧に、包帯を巻きつけながら言った。
「それは良かったです。…あともう少しだけ、我慢してください…」
その言葉の語尾が酷く弱々しく聞こえて、ゲルガーはふとハルを見た。
「…っ」
「…ハル?」
自分の膝の上に跨って、包帯を巻きつけているハルの手が、酷く震えている。
そして、じんわりと顳顬には汗を滲ませ、目の下には何か大きな衝動を抑え込もうとしている必死な影が揺らいでいた。
…ああ、何で忘れていたんだろう。
ゲルガーは自分の鈍さを呪いたくなった。ついさっき、兵舎でその話をしていたばかりなのに。
ゲルガーは、震えるハルの左手首を、血に濡れていない右手で掴んだ。
「もういい」
その言葉に、ハルは「え?」と、ゲルガーの顔を見た。黒く丸い双眼が、頼りなげに震えている。自分が今、どんなに傷ついた顔をしているか、きっとハルは自覚していないんだろう。
「ひでぇ顔、してる…怪我してんのは俺だってのに、お前の方が辛そうだ」
そう告げると、ハルはぎこちない顔で笑ってみせるのに、ゲルガーは胸が針を刺されたように痛んだ。まだ成人もしていない後輩が、自分の為に強がる姿を見るのは、ただ只管に、辛くて、情けなかった。
「後は、自分で出来る。ありがとな…」
掴んだ細い左手首を離し、礼を言うと、ハルは一瞬泣き出しそうな顔になって、それを覆い隠すように、解放された左手で目元を覆った。
「っい、いえ…最後まで、やらせてください…」
掠れた声で、ハルはそう告げ唇を引き結ぶと、再び左手を包帯の端に伸ばし、最後の一周を巻きつけて、ギュッと端と端を縛り付けた。
無事応急処置を終えられて、ほっと安堵のため息を吐いたハルは、ゲルガーの膝の上から離れようと腰を上げる。そんなハルの左手を、ゲルガーは無意識再び掴んで、引き止めていた。
少し驚いた顔をして振り返ったハルに、ゲルガーは言った。否、言ってしまったというのが、正しいのかもしれないが––––
「我慢しなくても、いいんだぞ」
「…え?」
ハルの瞳が、丸く小さくなる。
それから、告げられた言葉の意図を理解すると、苦しげにその蒼黒を震わせて、ゲルガーの腕を振り払った。
「必要、ありませんっ…」
ハルはゲルガーから顔を逸らし、体の横でぎゅっと両手を固く握りしめて、喘ぐような声で言った。
「お願いですから…そんなこと言わないでください…っ」
ゲルガーは振り払われた手の行き場を無くして、所在なさげに首の後ろに運び、肩を落として謝罪する。
「…悪かった」
やはり言うべきではなかったと、後悔した。振り払われた手の甲が、ずきずきと痛む。そんなに強い力で払われたわけでもないのに、脇腹の傷口よりも、ずっと痛く感じた。
気まずい沈黙が二人の間に出来上がるが、その沈黙を破ったのは、ハルでもゲルガーでも、ザック達やニック司祭でもなく、外からの…店の扉がノックされた音だった。
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