第五十話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「なぁ、ハルー、ハルさーん」
半月が淡い黄金色に輝く夜空の下、薄暗い訓練場の隅に設置されているベンチに、兵服を纏ったゲルガーは頬杖をついて寝そべり、乾いた土の上に胡座を掻いてハンジから修理してもらった立体機動装置を腕に抱えて、何やら難しい顔で考え込んでいる後輩の背中に呼びかけた。
しかしハルはゲルガーに視線を向けることはなく、それどころか立体機動装置を自分の前に置いて、腕を組み首を傾げると、「うーん」と唸りながら難しい顔をさらに歪める始末で、ゲルガーは溜息を吐き、ガシガシと後頭部を掻きながら、ベンチから上半身を起こした。
「調整、まだ終わらねぇのかぁ…?俺、いい加減眠ぃんだけど…」
欠伸を噛みころして不満を呈すると、ハルは漸くゲルガーの方へ顔を向け、申し訳なさそうに眉を八の字にして言った。
「すみませんゲルガーさん…なかなか、トリガーの固さが手に馴染まなくて」
兵舎の自室のベッド下に隠してある酒瓶に手を付けようとしていた時、ハンジから「ハルの立体機動装置の調整に付き合ってあげて欲しい」と訪ねられた時から、既に嫌な予感はしていたゲルガーだったが、訓練場の西側に見える兵舎の正面入り口に設置されている大きな壁時計の短針は、現在夜の十時を指し示している。ハルが立体機動装置の調整を始めてから、二時間以上が経過していた。
ハルは感覚派の自分とは違って、何をするにもしっかりと事前に計画を練り、対策を立ててから物事に取り組むタイプの人間。時折とんでもなく大胆な行動に出る事もあるが、基本的には慎重な性格だと、ゲルガーは認識していた。
彼からしてみれば、トリガーの固さの良し悪しなんてものは、実戦に出てから調節するのが一番良いと思うわけだが、ハルは実戦に出る前に準備を完璧に整えておきたいのだ。
ゲルガーは正直夜も遅く面倒だと思ったが、入院生活で鈍った立体機動の感覚を早めに取り戻しておきたいということもあり、ハルの立体機動装置の調整に付き添うことを承諾したのだが、まあ長引いても一時間程度だろうというゲルガーの予想は、大きく外れてしまったのである。
「はぁ…まぁ、長引くってことは予感はしてたが…やっぱナナバかトーマに任せときゃ良かったなぁ。今日は酒飲んで寝られると思ったんだけどよぉ」
ゲルガーはベンチの背に凭れかかって、夜空に高々と浮かんでいる半月を仰いで言うのに、ハルはじとっと目を細める。
「駄目ですよゲルガーさん。一週間は禁酒って、先生から言われたんですよね?」
「飲まねぇほーが、体調崩す」
寝起きのように間延びした口調で、ひらひらと纏わりついてくる蠅でも追い払うように片手を振りながら言ったゲルガーに、ハルは呆れ顔で「そんなわけありませんよ」と肩を竦めると、再び自身の立体機動装置へと視線を戻し、トリガー部分のネジを小さなドライバーで締め始める。
ゲルガーは「よいしょ」とベンチから立ち上がると、ハルの元へと歩み寄り、傍に胡座を掻いてどかりと座った。
それにハルは作業を止めると、きょとんとしてゲルガーを見た。ゲルガーはハルと目が合うと同時に、白い両頬をぎゅっと両手で摘んで、パン生地でも伸ばすように引っ張った。
「酒もマトモに飲んだことねぇーのに、分かったような口利くな」
「いだだだっ」
ゲルガーはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる一方で、ハルは目尻に涙を浮かべながら声を上げる。
ハルの頬は太陽の光を沢山浴びた洗濯物のような温もりがあって、その柔らかな感触をにぎにぎと指先で楽しんでいたゲルガーだったが…おかしい。何だか以前よりも、伸びが悪い気がした。
「なぁハル。…お前、また痩せたか?」
「へ?」
「なんか頬の伸びが減ったような…」
ゲルガーがハルの両頬をぱっと離すと、ハルは抓られ少し赤くなった頬を両手でさすりながら、眉間に皺を寄せて答えた。
「そ、そうですかね…自覚はありませんけど…」
「ちゃんと食ってるのか?」
「食べてますよ?」
「そぉかぁ?…なら、いいんだけどよ」
ゲルガーはそう口で言いつつも、じぃっとハルの顔を注視する。
「?」
入院生活の名残で、リーゼントを整えるのを止め、髪を少し切ったゲルガーの下りた前髪の隙間から見える瞳が、訝しげに細くなったのに、ハルは首を傾げた。
本人に自覚はないようだが、やはり顔が一回り小さくなっている。
もともと華奢な体つきのハルだから分かりにくかったが、よく見ると顔色もあまり良く見えない。妙に…色白い。血の気が無い。それに気づくと、原因の一つとして思い当たることがあって、ゲルガーは夜になって髭が伸び始めた顎をさわさわと右手で触りながら、話を切り出した。
「…ハル。エレンを、ライナー達から取り戻した後の、報告書の件なんだけどよ…?力を使うとその反動で、血が欲しくなるって話––––」
「っ」
血、と口にした瞬間に、ハルは明らかに身を強張らせ、唇を引き結び、ゲルガーから顔を逸らした。
その反応で聞かずとも察することが出来たが、ゲルガーは敢えて硬い口調で問いかけた。
「…お前、今は平気なのか?」
「え、えぇ…大丈夫です」
ハルは歯切れの悪い返事をして、ネジ締めが中途半端になっていたトリガー部分を、再びドライバーを回して締め始める。その行動は、波打ち始める動揺を抑えようと、何か手を動かして気を紛らわせようとしているようにも見えたゲルガーは、心配げに眉間に皺を寄せ、僅かに身を乗り出すようにして言った。
「本当か?お前を攫おうとした男と戦って、右手吹き飛んだんだろ?結構血も失った筈だし、手の修復するのに力も使っただろう?」
「…」
「お前…ずっと我慢しているんじゃ、」
「ゲルガーさん」
「っ」
厳しい声でも、咎めるような声でも無い。ただ酷く脆い声音だったので、思わずゲルガーは息を詰めて口を噤んだ。
それから、ハルはゲルガーの方へと顔を向けた。
「やめませんか…その話」
口も目も円弧を描いているが、その口元と目元には辛苦が滲んでいて、とても笑っているようには見えなかった。酷く疲れた顔の唇から、空気に溶けてしまいそうな程に掠れた声が、漏れ出してしまったというように言葉を紡ぐ。
「あまり考えたくないんです…」
「…ハル」
これ以上この話を追求しないでくれというハルに、ゲルガーは眉尻を下げて、肩を落とした。
ハルは年齢の割に達観しているが、エルヴィンのように何もかもを受け止めて、常に強く在れる程、強靭な精神力の持ち主だという訳ではない。だからこそ、自分が傷だらけであるという現実から目を逸らし、自身を顧みず前ばかり見て進んで行こうとする悪いところがある。
ハルは今、己の吸血衝動を、周りに知られないよう必死に押し殺しているのだ。
相変わらず無茶を重ねているハルに、ゲルガーは思い惑う。
自分は今、どうするべきなのか。
妹分が懸命に隠そうとしているものに、気づかないふりを続けてやるべきなのか。それとも、その苦しみから解放してやる為に、自分の血を今、ハルにやるべきなのか。いや、きっとどちらを選んでも、ハルは苦しむだろうが…。でも、せめて、ハルが肉体的な苦しみから解放されるなら…俺は––––
ゲルガーが、其処まで考えを巡らせた時だった。
「っ、何…?」
ハルが突然びくりと両肩を跳ね上げ、兵舎の東側の方へと顔を向けた。
「?…どうしたハル。何かあったのか?」
「何か言い争うような声がしてきて…、それに…っ悲鳴がする」
ハルは両目を閉じ、耳を欹てながら緊迫した声で言うのに、ゲルガーも険しい表情になる。
「そりゃ穏やかじゃねぇな…」
ただの兵士同士の喧嘩なら日常茶飯事であり、態々止めに入るようなこともしないのだが、悲鳴…ともなれば、穏やかではない。面倒だが仲裁に向かったほうが良さそうかと、ゲルガーが重たい腰を持ち上げた時、ハルがゲルガーを見上げ剣呑な顔をして言った。
「向こうは客室の方ですよね?…あそこには確か、ニックさんが居るんじゃ…」
「ニック司祭?…まさかっ」
ニック司祭はウォール卿の信者の一人であり、謎に包まれた壁の秘密を調査兵団へ受け渡すことを、レイス家の血を引くヒストリアを連れてくることを条件に承諾してくれた重要参考人の一人だった。しかし、壁の情報を多少なりとも漏らしてしまったことで、他の信者達に襲われることを懸念したハンジが、トロスト区の兵舎の客室で現在保護しているのだ。
もしもニック司祭の居る客室から、その悲鳴が聞こえて来ているのだとすれば、信者が兵舎に侵入し、命を狙われている可能性がある。
「行きましょう!」
「ああっ」
ゲルガーとハルは急いで立体機動装置を身につけると、兵舎の東側にある客室の方へと走り出した。
その道中で、二人は兵舎の異変に気がつく。
いつも客室の周りを警備している兵士が居るはずなのだが、誰一人として出会わなかった。そのうえ、客室の外には、見慣れない立派な馬車が止まっていたのだ。
あんな豪華絢爛な馬車を乗り回すのは、中央憲兵か御貴族の方々くらいだろう。内地の御貴族方が、トロスト区の兵舎に赴くことはまず考えられないので、可能性としては後者の方が大きい。
『おい!さっさと言えっ!アイツらに一体、何処まで喋ったんだ!?』
『わっ、私はっ、何もっ、何も話していなっ…ぎゃぁあああっ!!』
「うぉ、ヤバイな…」
「これが拷問というヤツですか…」
ハルの耳が拾った通り、騒動はニック司祭の居る客室で起こっていた。
兵舎東棟の二階にある客室の扉の奥からは、空気を切り裂くようなニック司祭の悲鳴と、乱暴に杭を打ち付けるような荒々しい怒声が聞こえてくる。質素な小部屋が恐ろしい拷問部屋と成り代わっている客室の扉を挟んで、ハルとゲルガーは薄暗い廊下の壁に背をつけ、冷たい床に片膝をついて座り、見合わせた顔を顰めた。
「ゲルガーさん、ニックさんを助けましょう。恐らくですが、ニックさんを今拷問してるのは…」
「中央憲兵だろ…?あんな場違いな馬車乗ってこんなところに来るような馬鹿は、アイツらくらいだ。…でも、どうする?司祭を救出するのはいいが、その後は…」
「兵舎から一旦、出ましょう。行き先は…そうですね…」
ハルが考えを巡らせ、顎に手を当てた時だった。
『さあ、これで最後の爪だぞっ!?答えないなら次は、その喉を掻っ切る!!』
『ゥグゥゥゥウッ』
愈々扉の中の状況が悪くなってきたようで、ハルはニック司祭の苦しげな金切り声に焦燥し、扉の正面に立った。そして三歩後ろに下がり、腰のホルダーから操作装置を引き抜いて、身を屈める。
「っ行き先は、後で考えましょうっ!」
「へ?おっ、おいハルっ!?」
ドカンッ!!
ハルは操作装置のトリガーを握り込んで、大きく飛び上がると、ガスを噴射し思い切り客室の扉を蹴り破った。
「ああっ!っの馬鹿野郎っ!」
ゲルガーは額を抑え、天を仰いで嘆息した。前言撤回。やっぱりハルは慎重派じゃなく、脊髄反射派だ。
しかし、呆れて居られる場合でもない。ゲルガーは慌ててハルの後を追い、綺麗に扉だけがくり抜かれたように外れた部屋に飛び込んだ。
「ノックもせず、失礼します!」
ハルは内側に倒れた扉の上で、威勢よく啖呵を切ったのに、ゲルガーが「言ってる場合か!」とその後頭部をバシッと叩いた。
突然の侵入者に驚き、腰を抜かして地面に座り込んでいる男二人は、口をぽっかりと開け、ハルとゲルガーを見上げて唖然としていた。予想通り、二人は憲兵団の兵服を纏っている。それも、驚くべきことに中央第一憲兵団と、兵服の右胸に刺繍されていた。
ゲルガーは王都の憲兵が何故こんな場所に居るのか疑問が沸いたが、何時もお高くとまっている彼らの間抜け面を拝めたのは、ちょっと得した気分だという気持ちが先立った。
部屋の中央に置かれた椅子に、手足を縄で縛られ拘束されているニック司祭の元へと駆け寄ると、ニック司祭の顔は何度も殴られたのだろう、酷く腫れ上がっており、口端はぱっくりと切れ血が滲んでいる。更に両手の爪は、右手の親指以外全て剥がされ、こちらもダラダラと流血して、椅子の下には血溜まりが出来上がっていた。
鉄の匂いと余りの痛々しさに、ゲルガーは思わず顔を顰めながらも、早々にブレードで縄を切り、血の気を失ってぐったりとしているニックを肩に担ぎ上げた。
「おっ、おい貴様等!一体何をしているっ!?」
それなりに年齢も重ね、階級も高そうな中央憲兵の男二人が慌てて立ち上がるが、ハルは物怖じする様子も無く、流水の如く流れるような回し蹴りを男の脇腹に喰らわせ、もう一人の男には強烈な右ストレートを顔面ど真ん中にお見舞いした。彼らはそれぞれ蛙の潰れたような声を上げて倒れると、患部を押さえてゴロゴロと板張りの床をのたうち回る。
「っ、ゲルガーさん!」
ハルは痛む拳をブンブンと振りながら、部屋の外へと目配せをするのに、ゲルガーは頷き、意識が朦朧としているニック司祭に声を掛けた。
「すんません。ちょっと奥歯、噛んでてください。多分舌、噛むと思うんで。あと、振り落とされないように捕まっててください」
ゲルガーは早口で告げると、ニックは青白い顔で「え?」と息を漏らした。戸惑っているニック司祭を他所に、ゲルガーはブレードを鞘に戻して操作装置を握り、部屋の外へとハルの背中を追うようにして走り出した。
その最中、顔面を殴られ、床に蹲っていた一人の男が壁に手をついて立ち上がり、鼻血をダラダラと流しながら、兵服の上着から拳銃を取り出した。
「何故だっ、何故此処に…お前が居る…『ユミルの愛し子』!」
「「!?」」
その言葉に、ゲルガーとハルは思わず足を止め、男を振り返った。
ハルの力の呼び名を知っているのは、調査兵団の人間だけだ。しかし、中央憲兵の男は今、確かにその呼び名を口にした。
「どうして、その名を…」
ハルは銃を持つ男に、震える唇で問いかけると、男はゆっくりと銃を持ち上げて、その銃口をハルへと向けた。
「あの男の力を借りずともっ、此処でお前をっ…俺が!」
「っハル!!」
男が引き金を引くと同時に、ゲルガーはハルに体当たりをする。
ドォンッ!––––と、乾いた銃声が、狭い部屋と薄暗い廊下に響き渡った。
ハルは廊下の床に尻餅をつく。布が焦げた匂いが、鼻腔を貫いた。
男が放った銃弾はゲルガーの脇腹を掠め、纏っているグレーのシャツに、じんわりと血が滲むのが見えて、ハルは全身に寒気が走った。
「っ、ゲルガーさ、」
「大したことねぇ!いいから行くぞっ!!」
動揺するハルの兵服の襟を掴んで、ゲルガーはぐいっと力一杯に引っ張り上げると、廊下の窓ガラスへ顎をしゃくった。切羽詰まったゲルガーの表情に、ハルは震える奥歯を噛み締めながら頷き、ニック司祭を背負ったゲルガーと同時に飛び上がって、側の窓ガラスを蹴破り建物の外へと飛び出した。
「待て!」と男の怒声が背中で聞こえたが、そのまま二人は立体機動に移り、兵舎を一気に飛び抜けて、夜の闇が下りたトロスト区の街へと姿を消したのだった。
→