第四十九話
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
兵舎から施設に移ってきてから、連日続く硬質化実験により疲労が蓄積してしまっていたエレンは、施設近くにある渓谷内で実験を終えた夕方頃から体調を崩してしまい、仲間達より一足先に部屋で休息を取っていた。
巨人の力から派生すると思われる硬質化の効果を使って、ウォール・マリアの穴を塞ぐというのは、硬質化の実験に立ち会っているリヴァイ達だけではなくエレン自身も、正直なところ雲を掴むような話だと思っていた。
しかし、ウォール・マリアを奪還する為それ以上に有効な手段が無い中では、リヴァイが言っていた通り、『出来なくてもやるしかない』。エレンも硬質化が成功すると信じて日々懸命に実験に励んでいたが、四日が経った今も、体の一部すら硬質化させられていない現状に焦りを感じずにはいられなかった。
ウォール・マリア奪還という人類の悲願に手が届くのか…そう幸先を案じている内に、ベッドの中でいつの間にやら眠りについてしまっていたエレンは、ふと夜中に目が覚めた。
「ん…あれ、寝ちまってた…?」
エレンはよろよろとベッドから上半身を起こすと、閉められたカーテンの隙間から、青白い月光が漏れ、うっすらと部屋の中を照らしていた。
同室のジャンとコニーは、すっかりそれぞれのベッドの中で寝息を立てている。この部屋にはベッドが一つ多いが、空いたベッドの上は既に物置きとなっていて、乱雑に着替えやら教本やらが置かれている。この現状を兵長が目の当たりにでもすれば、確実に雷が落ちる…だけで済めばいいが、それを懸念したエレンが幾ら片付けるようにコニーとジャンに促しても一向に片付けられる気配が無いので、もう殆ど諦めていた。
コニーは布団を蹴飛ばし、片足をベッドの外に投げ出した状態で、ジャンは意外に寝相良く仰向けのまま寝息を立てている。
エレンは寝付けそうもなかったので、ベッドからガシガシと後頭部を掻きながら出て、何となく外の空気でも吸おうかと考え、部屋を出て廊下を歩いた。
静まり返った廊下は窓も無く一層辺りが暗くなったが、リビングの方がぼんやりと明るいことに気がついて、エレンは不思議に思いそちらへと足を向けた。
廊下からリビングの中を覗き込むと、仲間達が集まって食事をするダイニングテーブルの上のランプを灯して、その傍の椅子に腰を落とし、姿勢良く一人本を読んでいるハルの姿が見えた。
ハルの後ろの壁に掛けられている時計を見ると、既に0時を回ろうとしていた。ジャン達が部屋に居たということは、施設の外の見張り番は、ミカサとサシャが担当しているのだろう。
さらりと、ハルが分厚い本のページを捲る音が、耳に心地よく響く。エレンは声をかけるか迷ったが、結局声をかけることにした。読書の邪魔をしてしまうのは悪い気がしたが、今は少し話し相手が欲しかった。
「起きてたんだな」
リビングへの入り口である扉の縦枠に半身を寄りかけながら、極力驚かせないよう静かに声をかけたが、余程読書に集中していたのだろう、ハルは少し驚いたように顔を上げた。しかし、エレンの顔を見てすぐに柔らかく破顔する。
「っエレン、起きたんだね。…身体は大丈夫?」
「眠る前までは怠くて仕方なかったけど、今は平気だよ」
エレンはベッドで右向きになって眠っていた所為か、凝り固まった右肩をぐるぐると回しながら答えると、ハルは「それは良かった」と頷き、それからふと思い出したようにリビングと一体になっているキッチンの方を指差した。
「エレン、良ければスープ、温めようか?ミカサとサシャの見張り上がりにって、夜食のスープ作っておいたんだけど、沢山あるから。お腹減ってない?」
「…食べる」
言われてみれば夕飯を食べずに眠りについてしまったから、随分お腹が減っていることに気がつく。エレンはひもじい胃の辺りに手を置いて頷くと、ハルは「おいで」とエレンを片手でダイニングテーブルへと手招きして、読んでいた本を閉じた。そして椅子から立ち上がると、キッチンに向かって軽快な足取りで歩き出す。
「ちょっと待ってて。今温め直すから」
「いいよ、それくらい自分でやる。ハルは本読んでろよ」
エレンは読書の邪魔をしてしまった挙句、夜食の準備までしてもらうのは流石に悪いとハルを止めようとしたが、ハルは既にキッチン用の燭台に火を灯し、そのマッチの種火を使って作り置きしていたスープが入っているであろう長鍋の下の釜戸に手慣れた手つきで火を起こし始めていた。
「大丈夫。私も丁度、休憩入れようと思ってたところだったから。エレンは座って待ってて」
夜中の食事準備が休憩になるのかは疑問だったが、ハルは意外と言い始めると聞かないということは長年の付き合いで知っていて、エレンはハルの好意を素直に受け取り、「ありがとな」と礼を言うと、リビングへ足を踏み入れて、ハルが座っていたテーブルを挟んで向かいの椅子に腰を落とした。
それから、閉じられているハルが先程まで読んでいた古い本の表紙を見て、目を凝らした。字が所々掠れていてはっきりと読めないが、何かの教本だということは何と無く分かった。色褪せた臙脂の布クロスが張られた表紙の表面が、ランプの中で揺れる灯の明かりで、まるで波打っているように見える。
「…難しそうな本、読んでるんだな?」
「ん。ミケさんから譲ってもらった戦術書なんだ。エレンの言う通り難しくて、小説を読むようには、読み進められないんだけど」
あっという間に火を起こし終えたハルは、長鍋の蓋を開け、中をお玉でぐるぐるとかき混ぜながら答える。
そんなハルの背中を見て、少しだけキッチンに立つ母親の背中を思い出してしまったのは、内緒だ。言ってもハルは怒らないだろうが、友人に対して言う言葉ではないかと思って、なんだか気が引けて言わなかった。
兵服を纏っていない所為か、いつもよりハルの背中が華奢に見えたのも、理由としてあるのかもしれない。
––––ふと、考える。
こんな世の中じゃなきゃ、ハルはきっと兵士になる道なんか選ばなかっただろう。巨人に、家族と故郷を奪われなければ、もっと違う道を選んでいた筈だ。子供の頃から調査兵団になりたがっていた自分とは違って…
「ハル。こんなこと、あんまり考えたくないかもしれないけど…ウォール・マリアが破られる前は、どんな夢を持ってたんだ?」
「夢?」
「ああ。将来何になりたいとか、どんなことがしたいとか…あっただろ?」
エレンはハルの方を見ると、視線の間に重なる燭台を避けるようにして椅子の背凭れに寄りかかり、椅子の前脚を器用に浮かせ、キッチン内のハルの背を覗き込むようにして問いかける。そうすると、ぎしりと椅子の後脚が苦しげに軋んだ音がした。
「うーん。…どうだろう」
ハルは鍋の中のスープをかき混ぜる手を止めて、お玉を持っていないもう片方の手を徐に顎に添えると、過去の記憶を辿るように目を閉じ、首を捻った。
「何になりたいとか、具体的な夢は無かった気がする。でも…、そうだなぁ…」
ハルは目蓋を緩く開くと、再びスープを混ぜ始めながら、感傷的な声音で呟くように答えた。
「家族を持てたら幸せかな、なんて…考えてたことも、あったかも」
「…過去形なんだな」
そんなハルの背中を見つめたまま、エレンは頭の後ろに両腕をやって呟くと、ハルは少し照れてもいるような、何ともいえない複雑な顔で苦笑して、エレンの方を顔だけで少し振り返る。
「まぁ、実際過去の話だし…、それに今はもっと向き合わなきゃいけないことが沢山あるから」
「ま、そうだよな…。こういう現状じゃ、そんなこと考えられねぇよな。巨人さえ現れなければ、誰もこんな道選んだりなんてしなかった筈だ。コニーも、ジャンも、アルミンも…サシャやお前も…ミカサも。そもそも、仲間達だって…死なずに…俺の…」
「エレンは?」
「え?」
目の前で揺れるランプの灯火をぼんやりと見つめ、思考が暗い方へ引きずり込まれていくのを制するように問いを投げかけられ、エレンははっとハルの方へ視線を向けた。
目が合うと、ハルは双眼を柔らかく細める。それから視線を食器の入った洗いカゴの中へ向け、スープ皿を一つ取り出すと、まだ残っている水気を布巾で拭きながら再び同じ問いを投げかけた。
「エレンの昔の夢は?」
「俺の…昔の夢…?」
「うん。エレンの夢は調査兵団に入ることじゃなくて、調査兵団に入ってやりたいことがあったからだよね?アルミンと一緒になって、訓練兵団の頃はよく言っていたじゃない。壁の外の世界を、自由に旅するのが夢なんだってさ」
「あ…ぁあ…そうだ。そうだったな…」
ハルに此処まで具体的に言われて、漸く、思い出す。
自分が幼い頃に、抱いていた夢。
それを忘れていた自分自身に内心でショックを受けながら、エレンは椅子の前脚を床に戻し、後頭部に組んでいた腕をテーブルの上に重ねるようにして置いた。
どうして忘れてしまっていたんだろう。
エレンは徐に、自分の右手の、親指の付け根のあたりに左手で触れた。自分が巨人になれると知り、その力を使うため、何度も噛みつき、噛み千切ってきた場所。だというのに、其処には少しの傷跡も無く、歯形すら残っていない。
今は漸く制御出来るようになってきてはいるが、最初の頃は、巨人になる度に、激しく燃え上がる炎のような感情に呑み込まれ、頭の中が掻きまわされるようだった。
巨人を駆逐する、殺す、全てを破壊する。
そんな衝動に駆られる度に、全身に快感が走った…アニを止めようとした、ストヘス区では、その感覚がとても顕著だった。
だから、なのかもしれない。そういった狂気に何度も呑まれて来た所為で、大事なものが霞み始めているのかもしれない。
エレンはそう思いながら、独り言を呟くように、口を開いた。
「こんなこと、アルミンに言ったら怒られちまうかもしれねぇけど……あの頃の、夢が、なんだか今は、酷く遠くに感じちまってるんだ。……外の世界の事、少しずつ分かり始めて来てるってのに、近づくどころか遠のいちまってる。純粋なあの時の気持ちに、どうにもままならないものが混ざり込んできちまって……違うものに、変わっちまってる…ような」
ハルはエレンの言葉一つ一つを聞き逃さないように耳を欹てながら、十分に温まった野菜のスープを鍋から掬い出して器によそうと、洗い桶からスプーンを一つ抜き取って、エレンの元へと歩み寄り、そっとスープと一緒に傍に置いた。
エレンは「ありがとな」と礼を言って、良い匂いのするスープを一口飲んだ。優しい口当たりだがしっかりと鶏がらの出汁を感じ、野菜にもしっかりと味が染み込んでいて、ほっと息を吐くような美味しさだった。
ハルはエレンの向かいに座り、「美味しい?」と問いかけてくるのに、「美味い」と答えると、ハルは嬉しそうに微笑んだ。
それから手元にある教本の表紙を、凹凸を確かめるように指先で触れながら、ハルは少し遠慮がちに口を開いた。
「さっきの、エレンの話なんだけど…」
「?」
エレンはスープを飲むのを一旦止めて、ランプの灯火越しの、ハルの顔を見た。ミカサとよく似ている、東洋人特有の蒼黒の瞳と目が合うと、その瞳の中にランプの火がゆらゆらと揺れているのが見えた。
「…夢が、現実味を増すってことはさ、その過程も見えてくるってことだ。良くも悪くも、要するに…なんていえばいいかな……自分の立っている場所から夢の場所に辿り着くまでの道のりに、今までは霧が掛かっていたけれど、今はその霧が薄くなってきて、其処へ辿り着くまでにどんな障害があるのか、目視できるようになって来ているんだ。霧が掛かっている時は、夢に触れるまでの間にあるのは、ただの坂道だと錯覚していたけど、実際はそうじゃなくて、その間には山や崖が連なっているんだって分かってしまえば、夢が以前よりも遠くにあるように思えるのも、無理はないんじゃないかな」
ハルの例え話は、とても分かりやすく腑に落ちた。頭が良いハルは勉強を人に教えるのも得意で、アルミンやマルコ、そしてハルの周りには、座学の試験前になるとこぞって人が集まっていたのを思い出す。そんなに昔の事ではないのに、あの頃のことが酷く懐かしく思えてしまう。
「…相変わらず、分かりやすい例え話だな」
エレンが口元を綻ばせて言うと、ハルは「どうも」と人好きのする笑みを返して、テーブルの上に頬杖を付く。それからエレンの顔をじっと見つめるのに、エレンは少々居心地悪そうに肩を竦めて、「何だよ?」と怪訝な顔になって問うと、ハルはそのままの姿勢で、「…それがさ」と口を開いた。
「ヒストリアに、この間言われたんだ。『ハルは今、不安なんだ』って––––」
「…不安?」
「うん。…自分が自分じゃなくなっていくみたいで、不安なんだって」
「!」
その言葉に、エレンは息を呑んだ。先程自分が考えていた事と、ハルが切り出した話があまりにも類似していたからだ。
少し動揺して瞳を揺らしたエレンに、ハルは双眼を静かに細めた。見つめるというよりは、見守るような、そんな思慮深さのある目だった。
「もしかしたら、エレンも同じかなって…勝手に思ってたりしていた」
「……ああ、同じだよ」
エレンはスプーンをテーブルの上に置いて、頷くと共に再び視線を右手に落とした。
「巨人化する度に、自分じゃなくなっていくみたいだ…」
「私も、そう…なんだ」
ハルは自身の右目の目蓋に、そっと指先で触れるのに、エレンは何だか急に擽ったい気分になって、苦笑を浮かべ肩を竦めて言った。
「…なんか、さ。今までずっと一緒に過ごしてきたけど、こうやって二人で話す機会って、俺達あんまりなかったよな?似たような境遇なのに、こういうことについて話したこともなかったし…」
「確かに…そうかも!」
二人は顔を見合わせて笑った。
訓練兵の頃からずっと一緒に過ごしてきたものの、いつも他には誰かかしらが傍に居て、二人だけで話した事はあまり無かったように思える。少なくとも、お互いが巨人の力、未知の力というものを得てしまってから、二人だけで話をした記憶は無い。
妙に照れくさいのはそれが理由だったのかと、お互いに口には出さなかったが納得していた。
「…体調は?あれからどうなんだよ」
「もうすっかり元気だよ。気持ち悪いくらいにね?」
「っほんと、そうだよなぁ」
お互いにしか分からない感覚だと、エレンとハルは肩を竦め合う。それからエレンは残っているスープをぐっと飲み干すと、ハルはそんなエレンに、椅子に座ったまま敬礼を向けた。正確にいえば、ハルは右手を左胸の上に添えて、自分自身の感情に触れるように、目を閉じて言った。
「エレンは、エレンだって…私はずっと、信じてる。どんなことがあっても…」
ゆったりと、まるで血が流れているような、生きているものの熱を感じるような、温かな言葉だった。
「ハル…」
その言葉は、なかなか見つからず、欠けたままになっていたパズルのピースが、自分の中でピッタリと嵌ったような感覚をエレンに与えた。ずっと冷たい風が吹き抜けていた風穴に、ハルの温かな言葉が、穴を埋めてくれた。その途端、なんだか急に両肩が軽くなったような気がした。
ハルは閉じていた瞳を開くと、ニッといつもの笑みを浮かべて、「スープ、おかわりする?」と問いかけて来たので、エレンは「ああ」と頷くと、ハルはエレンの器を受け取ってキッチンへと向かった。
「ありがとな、ハル…」
エレンはそんなハルの背中に、独り言のように礼を呟いたが、ハルは耳が良いことに気がついて口元を押さえる。ハルはエレンの言葉を聞き取れていたが、敢えて聞こえないふりをして、空になった器にスープを注ぎ足しながら言った。
「エレン。…辛いこと、苦しいこと…そればかり君に背負わせてしまって、ごめん。少しでもエレンの心の重責を減らせるように、私も頑張る」
そうして振り返ると、まるで分厚い雲に覆われた空から、一筋の光が大地に降り注ぐように、明るく、そして優しく微笑んだ。
「君を、一人で戦わせたりなんて、しない」
その言葉が、心の奥底で鐘のように響いて、胸が苦しくなる。
エレンは、自分の胸元のシャツを握りしめ、ハルのことをまるで奇跡を目の当たりにした時のような顔で見つめながら、呟く。
この感情は、自分のもののようで、違う誰かのもののようにも感じた。
しかし、間違いなく、その誰かと自分がハルに対して抱いている感情は……
「何か…俺…ずっと…っ、 」
第四十九話
『あの時掴んだ、奇跡』
「…エレン?」
エレンは無意識に涙が流れていることに気がつかなかったが、ハルが心配げな顔をして名前を呼んだ際に、頬が濡れていることにやっと気がついて、慌てて服の袖で涙を拭った。
「…っ、泣いてたこと、みんなには内緒だぞ。特にジャンには…あいつ絶対馬鹿にすっから!」
泣いていた自分に驚いて口早になるのを、ハルは「分かってるよ」と言って、エレンの前に注ぎ足したスープを静かに置いた。
先程飲んだスープよりほんの少しだけしょっぱく感じた気がしたが、夜の空気に冷えた体にはとても温かくて、安心して、ハルはその後何も言わずに向かいの椅子に座って戦術書を読み始めていた。
その沈黙が不思議と心地よくて、エレンはいつの間にかそのままテーブルの上に突っ伏すように眠っていて、見張りを終え外から戻ってきたミカサとサシャに起こされた時にはハルの姿はなく、その変わりに、何処からか持って来てくれたであろう毛布が、肩に掛けられていたのだった。
→