第五話
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ハルの朝は、この宿泊所に居る誰よりも早かった。
俺も朝は早い方だが、ハルは俺が起きる前よりもずっと早くに起きて、何かしらしている。
それが素振りだったり、広間や暖炉の掃除だったり、何やら仕事で使えそうな道具を作っていたりと…兎に角、開拓地の人間が眠っている中、一人でいつも忙しそうにしているのだ。
しかし、ある日の早朝、俺はいつも通り目覚ましに洗面所の冷たい水で顔を洗って、防寒着を纏い、日課になっている雪中ランニングに繰り出そうとした時の事だった。
宿舎を出てすぐ側に設置してある粗末なベンチに、背負子と鋸を紐で結びつけているハルの姿があった。
「!」
普段よりもかなり着込んでいるのか、防寒着に思い切り着られているハルは、些かサイズが大き過ぎる耳当てを、宿泊所から出てきたライナーに驚いて顔を向けた瞬間、ずるりと耳から落とし、雪の上にぽすんと落とした。
「お前…、何してるんだ?」
ライナーは後ろ手に扉を閉めながら、ハルに怪訝な顔で問い掛けると、ハルは落とした耳当てを拾い、雪をほろって再び自身の耳に装着すると、いつも常備しているメモ帳にペンをすらすらと走らせた。
『かんじきの材料、取りに行く』
「は?かん、じき…?何なんだ、それは…?」
見慣れない単語にライナーは首を傾げると、ハルはどう説明するか少し悩んだ様子で唇を引き結んだ後、メモ帳に書き加えて、ライナーに再び見せた。
『雪に足、沈まなくなる道具のこと』
「…へぇ、そりゃぁいいな。お前、それ作れるのか?」
ライナーはそんなものがあるなら是非使ってみたいと、普段の雪中作業での雪靴の動きにくさから、興味深そうに問いかけると、ハルはメモ帳をポケットにしまいながら、こくりと頷いた。
それから、ライナーはいい事を思いついたと口端を上げて胸の前で腕を組むと、自分の顔よりも低い位置にあるハルの顔を見下ろしながら言った。
「何処に取りに行くんだ?良かったら、運動がてらに手伝うぞ?」
※
「…眠い…朝、早すぎない…?」
「なんで私達まで…こんな所に居るわけ」
ベルトルトとアニは、睡眠中無理矢理ライナーに叩き起こされ、強制的に外へと駆り出されて酷く眠たげな顔をしながら、前を歩くライナーとハルの背中に愚痴った。
「いいだろ。偶には朝早く起きて、運動するのも。気晴らしにならないか?」
「ならない」
ライナーはにっと後ろを歩くアニ達を振り返りながら笑って見せたが、アニはそれを食い気味で否定する。
ライナーの眉間に深い皺が浮かぶ中、ベルトルトは眠たげに間延びした声でハルに問いかけた。
「で、…ハルの探してる材料は何処にあるの…?」
宿泊所の近くにある森林を三十分程歩いた所で、ベルトルトに問われたハルがちょうど足を止めると、大きな木の上を指差した。
「「「え」」」
森の中で一つ頭が抜きん出ている立派な大樹を、三人は頭が背中から落ちそうになる程顎を名一杯上げて仰いだ。
「まさか、このデカい木を登るのか…?」
「結構大変そうだけど…」
ライナーとベルトルトが大樹を大口開けて見上げたまま呟くのに、アニが珍しく尻込みした様子で、大樹から数歩後ずさって言った。
「私…木には登れない」
ライナーとベルトルトはアニが弱気になるのは意外だと目を丸くして驚いた顔を向けた。
ライナー達の視線を受けて、アニは居心地が悪そうに左肘を右手で掴む。
「私、木登りした事ないから」
「え、そうなの?」
ベルトルトは丸くした目を一度大きく瞬きしながら言うと、ライナーは「何だ」とアニを揶揄うような視線を向け、胸の前に両腕を組んで笑った。
「お前、意外とお嬢様だったんだな」
しかし、その言葉はアニの癪に触ったようで、アニは眉先を眉間に寄せると、不機嫌そうに細めた目でライナーを睨みつけた。
「は?」
二人の間に不穏な空気が漂い始め、ベルトルトはそれをいち早く察知してアニとライナーの間に立った。
「じゃ、じゃあ、僕の後について来てよ、アニ」
「…いや、私は此処に居る。アンタらだけで行きな」
アニは首を振って、近くにあった木の幹に背中を預けて言う。
「…怖いのか?」
其処にライナーが火に油を注ぐ。
「っ別に?怖いわけじゃない」
「へぇ…」
「何、その顔…」
含んだ笑みを浮かべて見せるライナーに、アニの声が明らかにぐっと低くなる。そんな二人の間で慌てているベルトルトの横に立ったハルが、いつの間にやら文字を書いたメモ帳を、アニに見せた。
『アニ、無理しなくていい。落ちたら危ないし、待っていて良いよ」
それはハルなりにアニを気遣っての言葉だったが、負けず嫌いで弱い者扱いされるのが頗る嫌いなアニには、寧ろはっぱを掛ける言葉になった。
「無理じゃない。…っ分かったよ、私も行く」
アニはハルのメモ帳から大きく顔を逸らして言ったのに、三人は顔を見合わせると、肩を竦め合った。
木登りの先陣を切ったのはハルで、背負子も背負っているというのに、まるでリスのように、軽々と木の幹の窪みや枝を利用して、軽々と登って行ってしまう。
「まるで猿みたいだ」
ライナーはそんなハルに驚きながらも、着実に木を登って行く。その下にはアニが続いて、しんがりはベルトルトだった。
「本当、随分上手なんだね…。…アニ、大丈夫?」
「っ平気」
「う、うん。無理しないで」
平気とは言うものの、かなり高いところまで登って来ている為、アニの息が上がっているのがベルトルトには見えていた。三人とも筋力や体力は訓練で鍛えられ自信はある方だったが、上へ上へと登って行くハルに、疲れは見受けられなかった。
ライナーがアニの手足のリーチを考えて、登り易いように道を選びながら登ってくれている為、安全ではあるが、ベルトルトはアニのことを心配げに見上げている。
それでも、何とか三人はハルに続いて大樹を登り終えた。
「はぁ、結構しんどかったなぁ…」
「…っ、着いた…」
「…はあ、結構高いところまで来たね…」
三人がハルが待っている一際太い木の枝まで登り切ると、皆座り込んで荒立つ呼吸を整える。
そんな三人を、涼しげな顔をしているハルが見下ろしながら、『お疲れ様』と書いたメモを見せるのに、ライナーは額に滲んだ汗を袖で拭いながら見上げた。
「はぁ……で、ハル。お前のお目当ては、一体何処にあるんだ?」
そう問いかけると、ハルはメモ帳をポケットにしまって、ある方向を指差した。
ハルの白く細い指が指し示した方向を、ライナー達は目で追って、視界に広がった景色に息を呑み、目を大きく見開いた。
「「「!」」」
この森林の中の木で、一番背の高い大樹の上からは、開拓地の周りを囲む低山の山間から、太陽が昇る様子がよく見えた。
冬の澄み切った空と、純白の大地が、一日の始まりを告げる朝日を受けて朱鷺色に染まり瑞々しく輝いている風景は、壁に囲まれた世界の中にいる事を忘れさせてくれるような壮大なものだった。
「凄い…綺麗」
アニは空色の瞳を大きく見開き、美しい景色に魅了されながら呟くと、その隣でベルトルトも景色を眺めたまま、ゆっくりと頷いた。
「うん…。本当だ…」
「……こんな景色が見られる場所が、開拓地の近くにあったんだな…」
ライナーはベルトルトの隣で、朝日がゆっくりと昇っていく様子を目を眇めながら眺めていると、冷たくも柔らかな風が、朝日が登る方向から吹いてきて、その風に促されるようにふと隣に立っているハルの顔を見上げる。
「っ」
ハルの横顔に、ライナーは胸の中でどくりと大きく鼓動が跳ねて、心臓の動きと目蓋が連動したように大きく開いた。
ハルの柔らかな黒髪が、朝日を受けて淡く、艶やかに輝き、冷たい風に吹かれて、白い陶器のような肌を撫でるように靡いている。
黒い瞳はまるで湧き水を蓄えて居るかのように澄み渡っていて、小さな光の粒が、瞬きをする度に揺れた。
ライナーは、そんなハルの横顔が、涙が出そうになるほど儚く…この世に生きるもの達の誰よりも、何よりも、綺麗で美しいと思った。
ハルが、憲兵から二人の遺体を埋めるように言われ、小さな身体で、亡くなった二人を乗せた橇を引く背中を見た時。
白いメモに、生きていることが罪だと書いた、ハルの哀しげな顔を見た時。
自分は『あの日』に、ハルを助けたことは間違いだったのではないかと思ってしまった。
あの時、家族と共に死ぬことをハルは望んでいて、生きることの方が死ぬよりもずっと、ハルにとっては酷なものだったのだ。
…でも、
「(そうだとしても…俺はっ…)」
ハルが今も、生きる事ではなく、死ぬことを望んでいるんだとしても…
目の前に居る彼女を守ることが出来て良かったと、心の底から思う。
「なぁ…ハル」
名前を呼ぶ。
「?」
ハルが、ゆっくりと瞬きをして、こちらを向く。
「俺は、お前が生きててくれて、嬉しいよ」
「…っ!?」
大きな黒い瞳の中の光が、雫が落ちた水面のように揺れた。
そして大概は無表情なハルの顔に、様々な感情が溢れ出す。
悲しいのか、嬉しいのか、苦しいのか、切ないのか…
ハルの瞳の中に浮かぶ感情を知りたくて、ライナーは熱心にハルの瞳を見つめていると、ハルは何処か怯えのような色を一瞬瞳に浮かび上げ、その色を大きな瞬きで消し去り、視線を自身の足元に落とした。
「ぁ…っ」
そうして、吐息のような声を、喉の奥から押し出す。
「…あ、り…っ…とっ」
「「!?」」
その声は酷く掠れ、殆ど空気の漏れるような音にしかならなかったが、ライナー達の耳には、ハルが何と言おうとしていたのか十分に理解することが出来た。
しかし、ハルは自分の掠れた声が恥ずかしかったのか、視線をおずおずと上げ、驚いている三人の顔を見た途端に、頬を一気に赤く染めて顔を大きく逸らした。
それから、背中の背負子から鋸を外して、頭上にぶら下がっている木の蔓を切り取り始める。ハルのお目当ては木の蔓だったようだが、もっと下にも同じような蔓が生えているのをライナー達は見ていた。
ハルは、三人にこの景色を見せる為に、わざわざ上まで登ったのだろう。
そんなハルの行動に、ライナー達は顔を見合わせ笑い合うと、木の枝から其々立ち上がった。
「ハル…お前って、いつも無表情で一人で居る割には、妙に世話好きだったりする時があるよな…?人と関わらないようしてる癖に…それって、矛盾していないか?」
ライナーは木の蔓を回収するハルの横顔を覗き込むようにして問いかけると、ハルは眉間にぐっと皺を寄せて、びくりと両肩を強張らせた。
その瞬間、ハルの防寒着のポケットから、メモ帳が落ちた。
「お前、分かりやすいな。…それに…っ!」
ライナーは足元に落ちたハルのメモ帳を拾おうと身を屈め、手を伸ばして、たまたま開かれたそのページに書かれていた文字を見て、思わず笑ってしまった。
『 今日 ライナー ベルトルト アニ と 初めて、話した。
久しぶりに歳の近い子と話して 少し緊張してしまった…
みんなとても優しくて 温かかった。
…友達に、なりたいな。 』
「……」
ライナーはそう書かれたメモ帳を拾い、ハルの眼前に見せつけながら、ニッと口端を上げる。
「…俺たちと友達に、なりたいんだろ?」
「!?」
それに、ハルはボッと音が鳴りそうな勢いで再び赤面し、手から鋸を落とした。下の方で、鋸が降り積もった雪にズモッと埋もれた音がした。
ハルは至極慌てて、ライナーの手からメモ帳を取り上げると、防寒着の内ポケットにしまい込む。そんな中で、ベルトルトはライナーの後ろで首を傾げた。
「え?ハル、僕たちと友達になりたかったの?」
そう問いかけられて、ハルは恥ずかしさから深く俯いてしまう。サイズの合っていない耳当てがズレて顕になっている耳の先が赤く染まっているのは、寒さの所為だけではないだろう。
何とも分かりやすい反応を見せるハルに、ベルトルトの隣に居たアニが、腕を組んで今更だと言うかのような口調で言った。
「私は元々、ハルが単純でお人好しの馬鹿だってことは、分かってたけどね」
「おい、何で少し自慢気なんだ、アニ」
「別に…、自慢してないけど」
「いや、してただろ!?」
「ちょっ、ちょっと二人ともやめなよっ。こんな所で言い争って落ちたら大変だよ!?」
ライナーとアニの二人の間でベルトルトが再び仲裁に入り慌てていると、ハルが再び喉を鳴らした。
「っぃ」
それに三人は口を閉ざして、ハルの方を見ると、ハルはぎゅっと体の横で手を握りしめて、真っ赤な顔のまま、それでも一生懸命に口を開き、喉を震わせる。
「…と…ぉ…ちっ…な、ぃ…っと…も…ぁ…い、なっ…て……く、…くだ、…っい…!」
何とも辿々しい言葉だが、それでも自分達に気持ちを伝えようと、恥ずかしいながらも頑張るハルの姿に、ライナー達の心は完全に……撃ち抜かれた。
「……あー」
ライナーは目頭を手で押さえて、悩ましげに空を仰ぎ…
「ちょっと、これは…無理だよ」
ベルトルトは腰に両手を当てて、首を横に振りながら苦笑する。
「…だから私はやめとけって言ったんだ」
そんな中、アニが溜息混じりに肩を竦めると、「お前に言われたくないぞアニ」とライナーが思わず突っ込みを入れた。
そんな三人の様子を見て、ハルは不安げな顔になって顔を俯けてしまうが、ライナーはハルの左肩を掴んで、声を掛けた。
「ハル、顔…上げてくれ」
ライナーの言葉でハルはゆっくりと顔を上げると、ハルの視界には、優しく微笑んでいるライナーと、ベルトルトとアニの顔が映った。
「友達に、なろうよ。僕たち」
「…仕方ないね」
「!」
ハルは喜びがふつふつと胸に込み上げてきて、不安そうな顔をみるみると嬉しそうに綻ばせた。
第五話
触れられる太陽
その笑顔には、陽の光を浴びて花開くような柔らかさと愛らしさで溢れており、三人は思わず見惚れてしまいながら、不思議と山間から昇る太陽の光よりもずっと、ハルの笑顔の方が眩しいと、感じていたのだった。
完
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