雨宿り
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
それからは、二人の間に何とも言えない沈黙が流れていた。
くすぐったい様な、口の中に角砂糖でも詰め込まれた様な、酷く静かなのに、胸の内は落ち着かなくて酷く騒がしい。
倉庫の中には、薄い板張りの壁の向こうに、雨が落ちる音と、トタン屋根にコツコツと雨が当たる音が響いている。雨足は先程よりも、僅かに弱まっているような気がした。
少しすると、雨音の中に蛙がゲコゲコと鳴く声が紛れ込んでくるようになった。それにハルが俯けていた顔を少しだけ上げて、その沈黙を終わらせた。
「蛙…鳴いてるね」
それは何気ない言葉だったが、ジャンも口元に当てていた手を離して、長椅子の縁を握って小さく頷いた。
「何処に、居るんだろうな…?」
ハルは静かに目蓋を閉じて、先ほど外で雨音を聞いていた時と同じ様に、耳を欹てる。
ハルは生まれつき耳が人よりも良い。とはいえ、ずっと遠くの音を、サシャのように聞き取ることはできないが、耳に届く音がどこから聞こえてくるのか、場所をハッキリと探り当てられるほど鮮明に音を捉えることができた。
「意外と近くに居そうだよ?…倉庫の裏側…、三匹、壁の向こうで鳴いてる。…家族、なのかな…?」
ハルはほんの少しだけ、瞳を閉じたまま目元を緩ませる。自分には見ることはできないが、ハルには三匹の蛙が身を寄せて、空から落ちてくる恵みに喜んでいる姿が、目蓋の裏に見えているのだろう。
「……お前は、耳が良いからな…、」
ジャンはそんなハルの横顔を見つめながら、長椅子の縁を掴んでいた手を滑らせて、椅子の上に置かれているハルの小さな手に、指先でそっと触れる。
「…っ」
それに、ハルは僅かに肩を震わせて、閉じていた瞳を開いてジャンを見た。ジャンはその丸い瞳を見つめたまま、ハルの冷えた手を温めるように、自分の手を重ねる。
「…寒くねぇ…?」
そう問いかけると、ハルの瞳が雨粒が落ちた水溜りのようにふるりと揺れた。
それから短くすっと息を吸い込んで、ぽつりと振り始めの雨のように、小さく言葉を落とす。
「…ぃ」
最初の言葉はあまりに小さくて聞き取れなかったが、震える瞳を、自分の手に重なるジャンの手の甲に落として再び紡いだ声は、はっきりとジャンの耳にも届いた。
「…あつ、い…」
「!」
その言葉に、ジャンは喉の奥が急に熱くなって、思わずハルの手に重ねていた手に力が篭ってしまう。冷たかったハルの手が、じんわりと熱を帯びていくのを感じ、それに比例するようにハルの頬と耳の先が、ほんのりと赤みを帯びて行くのが見えた。
その愛らしい表情だけで堪らなくハルを愛おしいと思うのに、気持ちに拍車を掛けるようにして、ハルはジャンの、一番好きなその声で、そっと呟いた。
「不思議、だ…。あんなに寒かったのに、…君と少し触れてるだけで…こんなに、温かくなるなんて……ジャンって、本当に…不思議ーー」
ハルは以前にも、自分のことを『不思議』だと言ったことがあった。
ジャンにはその時、なぜ自分にそんな感情を抱くのか、言葉の意味がよく分からなかったが、今では分かるような気がした。自分にとってもハルの存在が、どうしてか不思議に思う程、尊く思える瞬間があることを、一緒に過ごしてきた中で知ったからだ。
しかし、自分はハルが言うように、不思議と言われるような複雑な人間ではないのだ。
「…そんなに分かり難く、ない…だろ」
ジャンは独り言のように呟く。
「…馬鹿みたいに、単純なんだ。…お前の傍に居る俺は…、お前に触れてる俺は…」
ランタンの灯を孕んだ黒い双眼を見つめながら、ジャンはハルの手に重ねていた手を、細い指の間に差し入れて、優しく繋ぐ。
「…分かる、だろ…?お前は耳が、良いんだからよ…」
ジャンの鋭い瞳が熱を帯びて、そっと細められる。ハルはその瞳に見つめられて、胸がぎゅっと締め付けられるような気がして、ジャンと同じように瞳を細めると、再び目蓋を閉じて辺りの音に耳を欹てた。
雨の音がする。
風が吹く音がする。
蛙の鳴き声がする。
倉庫の中で、ランタンの炎が揺れる音がする。
ジャンが私の手を握る指先が、熱く脈打っている。
そしてその音と同じ速さで、彼の胸の中で、心臓が鼓動している。
「……君の音が、聞こえる」
ハルはその音が自分の鼓膜を震わせるのが、心地ち良いと思いながら囁いた。
「…時計の針の音みたいだ、君が生きてる証の音…心臓の…音ーーー」
そしてその音が、ハルにはとても尊く、大切に…愛おしいとさえ思えて、ハルはジャンの手を握り返す。
すると、ジャンの鼓動の音が、一度大きく跳ね上がったような気がして目を開けると、其処には苦笑を浮かべたジャンの顔があった。
「…単純、だっただろ?」
そう問いかけられて、ハルは頷くことが出来なかった。
単純なものなんかじゃ、ないと思った。
ジャンの鼓動の音は、他の誰とも違う。自分にとって、特別なもののように思えた。ジャンの心が彼の言うように単純なものなら、こんなにも惹かれはしないと…ハルはジャンの胸元に、彼の手を握っていない手を伸ばし、そっと掌を押し当てて、言った。
「私…君の音が、とても好きだ」
「!?」
そう言って照れ臭そうに微笑んだハルに、ジャンは胸の奥が一気に泡立って、目眩すら覚えた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
周りの雨音も風の音もやけに遠く聞こえて、目の前に居るハルのことしか考えられなくなる。
自分の胸元に触れているハルの手首を掴んで名前を呼んだ声は、熱く上擦った喉のせいで低く擦れて響いた。それでも、ハルは答えるように、柔らかく瞳を細めて、優しく名前を呼び返してくれる。
その唇に引き寄せられるかのように、ジャンはハルに身を寄せた。そうしてお互いの吐息が、頬に触れるのを感じた時だった。
「ジャン!ハルー!」
「「!?」」
クリスタの声が倉庫の外から聞こえてきて、二人は思わず弾かれるようにして離れた。
「うわっ、なんだバケツか…驚いた」
それから倉庫の前でバケツがひっくり返った音と、マルコの驚いた声がした。どうやらハルが倉庫の入り口に置いていたバケツを、マルコが蹴り倒してしまったようだった。
倉庫の扉がノックされて、扉に近い方に座っていたジャンが、動揺した心中を落ち着かせるために咳払いをして椅子から立ち上がると、倉庫の扉をゆっくりと開けた。
扉の向こうにはランタンと、傘を持ったクリスタとマルコの姿があった。どうやら二人のことを心配して迎えに来てくれたようだった。
「やっぱり!二人ともまだここに居たんだね…!傘持ってきたよ!」
「急に本降りになったから、二人とも困ってるんじゃないかと思ってさ」
そうして笑うクリスタとマルコに、ハルも椅子から立ち上がってお礼を言う。
「ありがとうクリスタ、マルコ。寒かったのに…迎えに来てくれて助かったよ」
「ふふ、お安い御用だよ。これくらい……?あれ、ハルなんだか顔、赤くない?」
そんなハルにクリスタは首を振るが、ふとハルの顔が赤いことに気がついて、不思議そうに首を傾げる。
それに、マルコもジャンの顔を見て、怪訝そうに目を細めた。
「ジャンも、どうかしたのか?顔、…赤いけど…」
クリスタとマルコの問いに、ハルとジャンは声を揃えて答えた。
「ランプの所為だよ」
「ランプの所為だろ」
息ぴったりの二人の返答に、クリスタとマルコは顔を見合わせると、それから「怪しい」と訝しげな顔で、二人の顔を覗き込んだのだった。
完