雨宿り
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「ひでぇな…」
余りにも悲惨な有り様に、ジャンは思わず苦虫でも噛み潰したかのように眉間に皺を寄せた。
今日は午後の訓練終わりに、ハルと二人で訓練用具置き場となっている倉庫の掃除当番を割り当てられていた。倉庫の掃除は週に一度必ずすることになっているが、それにしては倉庫内の訓練用具は乱雑に押し込められているし、背の高い棚の中は砂埃に塗れ、至る所に蜘蛛の巣が張っていて、普段から掃除をされているようには到底思えなかった。
ジャンは埃を吸わないよう口元に縛り付けていた布を引き上げて、鼻の上まで持ってくる。棚を挟んだ反対側では、訓練用具が押し込まれた箱の埃を人差し指で掬い、こんもりと乗った指先の埃の山を見て、ジャンと同じように口元に布を付けているハルは喉を唸らせ、倉庫内の壁に掛かっている点検表へと顔を向けた。
「これは…本当に毎週掃除しているのかな…?点検表にはチェックが入ってるみたいだけど、…少し汚れ過ぎだよね?」
「前の掃除当番、手抜きしやがったな。まぁ…そいつらだけとは限らねぇけどよ…?教官も、こんな倉庫の中まで確認もしてねぇだろーしなっ」
ジャンは気怠げに肩を落として、やれやれと首を横に振りながら、倉庫に一つだけある小さなガラス窓の錆びたストッパーを外して、形が歪んでスライドし難くなっている窓を力ずくで抉じ開ける。
そんなジャンの肩口から、甲高い悲鳴を上げながら開け放たれた小さな窓の奥に見える雲に覆われた空を見て、ハルは肩を竦めた。
「…これは時間掛かりそうだね…。夜は雨が降りそうだから、早めに終わらせたかったんだけどなぁ…」
「…だよな」
ジャンもハルと同じように、今にでも雨を降らせそうな分厚い雲が浮かぶ空を見上げて、ため息混じりにガシガシと頭の後ろを触りながら頷き、それから踵を返して倉庫の中を見回した。
「どうするよ…?取り敢えず粗方端に寄せちまうか?」
「…そうだね。その方が手っ取り早そうだ」
狭い倉庫なので、物を避けながら掃除するのは少々面倒になるだろうとジャンが提案すると、ハルはこくりと頷いて、「よしっ」と自分に気合を入れながら兵服の袖を捲り上げる。すっかりやる気を喪失していたジャンとは違って、ハルは倉庫掃除に意欲的な様子で、早速地面に転がっているトレーニング器具を拾い上げた。どうやらハルの頭の中には、前回の担当者と同じように掃除をサボってしまおうという考えはないようだった。
それを何ともハルらしいなと思いながらも、射撃訓練に使う的が雑に押し込められた木箱を持ち上げたジャンだったが、もしも今回の掃除当番の相手がハルではなく他の誰かであれば、すぐさま倉庫の点検表にチェックを入れて足早に寮へ戻っていただろうとも思っていた。
それからは兎に角、無心で散乱した訓練用具を倉庫の奥の端に寄せ、倉庫の近くにある井戸から汲み上げた水をバケツに入れて、床と棚を雑巾で拭いていく。まだ未使用で白かったそれは一拭きで真っ黒になってしまうほど、何処彼処も汚れが蓄積してしまっていた。
ハルはガラス窓の縁に溜まった汚れを拭き取りながら、掃除を始めた時よりもすっかり日が落ちてしまった空を何気無く見上げて言った。
「大分、寒くなって来たよね…?日が落ちるのも早くなって来たし…」
「紅葉も進んできてるしな。…この調子じゃ雪が降んのも、あっという間だろ」
ジャンは窓から流れ込んでくるほんのりと冷たい風が頬を撫でるのを感じて、棚の上段を拭くのに乗った脚立の上から、窓の前に立つハルの小さな旋毛を見下ろした。
「…お前、そういえばこっちで冬過ごすの、今年が初めてだよな?去年はずっと病院だっただろ?」
ハルは去年の冬、秋口に行われた行軍訓練で大怪我をして、トロスト区にある病院で入院生活を送っていた。そのため、訓練兵になって二年目の冬が、ハルにとっては寮で迎える初めての冬になる。
「そうだね。皆、冬の寮は寒いって言ってたけど…」
「ああ、アルミンなんて毛布三重にして体に巻きつけてたが、それでも寒ぃって言ってたしな…。舐めてると、痛い目見るぜ?」
「うぅ…寒いのは苦手なんだ。急に憂鬱になってきたよ…」
少し脅すような口調で言ったジャンにハルは表情を曇らせると、足元に置いていたバケツに雑巾を入れ、肩を落としてしゃがみ込み両腕を摩る素振りを見せた。脚立の上から見えるバケツの中の水はすっかり黒くなってしまっていて、ジャンはふと自身の使っている雑巾も同様に炭でも擦り付けたかのように黒く汚れてしまっている見て、いよいよ面倒になって手にしていたそれを棚にベシッと投げつける。
「くそっ…!拭いても拭いても真っ黒だぞ…、どうなってんだよコレ!」
「汚れが染みついちゃってるんだよねぇ…。これは良いところで妥協しなきゃ、明日の朝まで掛かるかも…」
「朝になって終わりゃあ良いけどな…。なあハル、ザッと拭いたらもう終わりにしようぜ…。マジでキリがねぇよっ…!」
ジャンは棚上を拭くのも程々に切り上げて、脚立から降りながら言うと、流石のハルも諦めた様子で、雑巾を固く絞りながら頷いた。
「帰って技巧の筆記テストの勉強もしたいしねっ…そうしよっか」
しかし、その言葉にジャンは眉間に皺を寄せて、バケツで雑巾を絞るハルをジトッとした目で見下ろした。
「…嫌なこと思い出させんなよ」
「でもジャン、技巧の筆記、前回点数良かったよね?意外に得意科目なのかなって、思っていたんだけど…」
そんなジャンに、ハルは絞った雑巾をバケツの縁に掛け、手に付いた水を払いながら首を傾げてジャンを見上げた。
ジャンは前回の技巧の筆記テストを、上位5位の成績で終えていた。それは同室のマルコに勉強しろと念を押されていたのもあるが、ジャン自身技巧に関してはそれなりに得意な科目でもあった。とはいえ、二日後に行われる今回の技巧テストの筆記は、今期最後のテストでもあるため、範囲が広く難易度も高くなっている。前回のように乗り切れそうにはなかった。
「前は範囲が狭かったから何とかなっただけだ。今回は範囲が倍くらいあんだろ…。っつーか、意外ってなんだよ?」
まるで自分が座学が不得意に見えると言われているようで、ジャンは腕を組んでハルを見下ろす。そもそも、いつも座学に関してはどの科目もアルミンに次いで上位のハルには、褒められても素直に喜べないところがある。もちろんハルに他意はないと分かっているが、揶揄うような意味合いも込めてそう言ったジャンに、ハルは困ったように口籠って、視線を泳がせながらバケツの取手を手にして立ち上がった。
「えーっと…、あ!バケツの水がこんなに黒くなっている。…ちょっと汲み直してくるね」
「おい逃げんなよ」
そう言って逃げる様に倉庫のドア開けたハルを追いかけたジャンだったが、ハルはドアを開けて出た屋根の下ですぐに立ち止まる。
「…あ」
「?…どうした?」
それを怪訝に思ってジャンも外に出ると、重たい雲が覆っていた空から、ポツポツと細かな雨が降り始めて来た。
「雨だ…」
ハルはそう呟いてバケツを足元にそっと置くと、片手の掌を皿のようにして雨を受け、ゆっくりと鼠色の空を見上げた。その雨は段々と雨足を早めて行くのに、ジャンはハルと肩を並べるようにして隣に立つと、同じように空を仰いだ。
倉庫と寮までは、走っても5分以上の距離がある。まだ昼時なら無理を通して寮まで戻れたかもしれないが、日が落ちた中この雨の中を駆け抜けて行くには、少し寒過ぎる。
「結構…降ってきちまったな」
「そうだね…」
ジャンはこのまま倉庫掃除を切り上げて寮に戻るか、同期の誰かが傘を持って迎えに来てくれるのを待つか問おうと、徐に空から視線を逸らし、隣に立つハルを見た。
ハルは自分と同じように雨が降ってきたことを鬱と感じていると思い込んでいたが、どうやら違うようだった。
「…嬉しそうだな」
薄暗い中でも、不思議と透き通って見える黒い双眼を、柔らかく細めているハルの横顔にそう問いかけると、ハルはちらりと横目でジャンを見た。
「そう見える?」
「ああ、見える」
頷くと、ハルはふっと口元を緩ませて、少しだけ肩を竦めて言った。
「…雨の音、好きなんだ」
それから再び空を見上げて瞳を緩慢に閉じると、辺りに忙しなく響く雨音に耳を欹てながら、まるで泉の湧水のように、ゆったりと言葉を浮かび上がらせるよう紡いでいく。
「何ていうか…こうやって目を閉じて…雨が落ちる音に耳を傾けていると、今抱えているもの全部忘れて、真っ新な状態になれる気がするんだ。…空から落ちてくる雨が…、全てを洗い流してくれる…ってーーー」
ジャンはそんなハルの横顔を見つめながら、ハルの言葉を胸に染み込ませるように、静かに反復した。
「…全てを…洗い流す、か…」
ハルは初めて出会った時から、否…出会うよりもずっと前から、その華奢な体には背負い切れない程の業を背負って居た。
『あの日』に家族を失い、家族を愛して居たが故に自ら背負ってしまった業は、時間を掛けてゆっくりとハルの心を蝕み、苦しめ続けていた。そしてその傷を、長い間他人に見せないよう、隠し続けていた。
きっと…ハルの中で、その業は一生消えて無くなることはないのかもしれない。
それでも、今降り注いでいる雨が、少しでもハルの心を軽くするものであるのなら、ジャンはこの雨が一生降り止まなくても構わないと思えた。
「…ジャンも、やってみる?」
ハルは閉じていた目蓋を開け、その瞳をジャンへと向けて笑った。
ジャンは先ほどのハルと同じように目蓋を閉じて、頤を上げた。
「…」
雨雲が覆っていた外は薄暗かったが、やはり目蓋の裏の暗闇には勝てない。
どこまでも真っ暗な世界に、空から落ちてくる小さな滴が、それぞれ違う場所に落ち違う音を立て、違う姿に変わり行く音がする。土に落ちれば土の一部となり変わり、葉の上に落ちればその姿のまま居座って、次に落ちてきた滴に追いやられて行く。
その音を聞いていると、ハルが言っていた通り、雨に触れていなくても、体にこびり付いた雑念を根こそぎ洗い流してくれるような気がした。
しかし、今自分が抱えているもの全てが流れ落ちてしまうかもしれないと思うと、急に言いようのない恐怖を感じて、ジャンは目蓋を開けてしまう。
隣では、じっと目蓋を閉じて、雨粒1つ1つの音に耳を欹てているハルが居る。
そんな彼女に対して、ジャンは抱えている感情がある。
その感情は扱うのにかなり苦労するし、難儀で仕方がないが、それ故に愛着が湧いてしまっていて、到底手放そうと思えるものではなかった。
そんな感情まで、この降り頻る雨に、洗い流してしまいたくはなかった。
「…ジャン…?どうかしたの?」
ふと、ハルはジャンが自分を見つめていることに気づいて首を傾げた時だった。
急にびゅうっと音を立てて強い風が吹きつけてきた。それは雨を運んで、ハルとジャンの兵服と髪を容赦なく濡らしてしまう。
「うわ!?」
「っ…急に吹いてきたなっ…!一旦中入ろうぜっ!」
ジャンはハルの腕を掴んで、足早に倉庫中に戻り扉を閉めた。
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