夏風邪
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「…ジャン、戻ったよー……あ、寝ている…」
訓練場の隅にある井戸から木製のバケツに水を汲んできた ハルは、その中にタオルを入れて医務室へと戻ってきた。中に入るとジャンはベットの中で眠りについていたので、ハルは起こしてしまわないよう静かに足を進め、ジャンの傍のスツールに腰を落とし、バケツを音が立たないように静かに足元に置いた。
眠りについているジャンは、やはり熱のせいか寝苦しそうに眉間に眉を寄せ、額には汗の玉を浮かべている。
ハルはバケツの中のタオルを固く絞ると、そっとジャンの額に置き、ずり落ちている掛け布団を整え、彼の肩口まで引き上げた。
ジャンと出会ってから一年と四ヶ月が経ち、出会った頃は高身長ながらもまだ幼さが抜けず細身だったが、この一年で更に背も伸び日々の訓練で筋肉もついて、随分と逞しくなった。いつもは襟のあるシャツを身に纏っていて、首回りが隠れているが、汗で着替えた襟なしのシャツが、男性特有の筋張った首元を露わにしていて、ハルは少したじろいでしまう。
しかし、いくら逞しくなったとはいえ、彼はまだ自分よりも二つ年下の、生きていれば弟と同い年の少年なのだ。毎日毎日厳しい訓練に耐え抜いて、日々集団生活を送っていれば、弱ってしまうことだってあるだろう。
それも、『あの日』さえ来なければ、ジャンだけではなく、此処に居る多くの訓練兵達が…もっといろんな選択肢の未来を選び、進むことができたはずなのだ。
年相応に、友達と街や野を駆け回ることすらできなくなってしまったジャンに、せめて風邪を引いた時くらいは、マリアが巨人に奪われる前の世間一般の少年のように、ゆっくりと、安らかに過ごして欲しい。
ハルはそんな思いで、ジャンの熱で少し赤らんだ頬にそっと指先で触れる。
「おやすみ…ジャン」
ハルがそう、ジャンに囁いた時だった。
「!」
ジャンの頬に触れた手の手首を、徐に熱い手に掴まれる。
突然の出来事に、ハルは驚いて息を呑んだが、どうやらジャンは寝ぼけているようで、起きている様子はない。
ハルはジャンの手を解こうと、掴まれていない手をそっと自分の手首を掴んでいるジャンの手に伸ばした時だった。
「行く…な…ハル…っーーー」
弱々しく、酷く掠れた声で、縋るようにそう溢したジャンの閉じられた目蓋の端から、一筋の涙が音もなくこぼれ落ちるのを見て、ハルはその手を止め、目を見張った。
自分の名前を呼んだジャンの悲しげな声と涙に、胸の奥がぎゅっと締め付けれるような切なさを感じて、どうしてか、こちらまで泣きそうになってしまう。
「…あ、…あれ…?」
気づけば、ジャンと同じように自分の目からも涙が溢れ出ていて、それは頬を滑り顎を伝って、ベットの端のシーツに落ち、じんわりと丸い染みを滲ませる。
ハルは慌てて涙を兵服の袖で拭った。自分の事ながらどうして泣いているのか理解できず、動揺する。
自分の手に縋り静かに涙を流すジャンのことを見ていると、どうしようもなく溢れて止められない感情の渦に、胸がいっぱいになる。悲しみ、痛み、切なさや無力さ…そんな怒涛に紛れた…尊さのような、…でもそれとはまた少し違う、まるで薄いガラス玉のような繊細な感情もその中には紛れている。
とても言葉では言い表せないような複雑な気持ちだったが、その中でもただ苦しげなジャンを救いたいという気持ちだけはハッキリとしていて、ハルはジャンが右手首を掴む手に、そっと自分の左手を重ねる。
「大丈夫…傍に居るよ」
そう言葉にすると、ジャンの苦しげな表情が僅かに和らいだような気がして、ハルはほっと息を吐いた。
医務室の窓の外は、夕暮れも夜の闇に覆われ始め、薄暗くなっていた。同期の皆も夕食を取り終えて、そろそろ寮に戻る時間だろう。ハルも夕食の終わりを告げる鐘が鳴る頃には寮に戻るつもりだったが、シャミアさんが会議から戻るまでは、ジャンの傍に居ることにしたのであった。
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「……っ、」
目が覚めると、ゆらゆらと静かに揺れるオレンジ色の明かりを帯びた、板張りの天井が見えた。
額に乗ったタオルはヒンヤリと冷たく、ふと視線を横に向けると、傍のスツールに腰掛け、ベットサイドに置かれた蝋燭台の明かりを頼りに、見慣れた座学の教本を読んでいるハルの姿が目に入った。
ハルは夏でも着込んでいる兵服の上着を珍しく脱いで、黒のハイネックでノースリーブ姿だった。
窓の外の夕日はすっかりと落ち、月明かりもしっかりと閉められたレースのカーテンで遮られているため、医務室の中を照らす明かりは蝋燭の光しかない。
その頼りなくも艶めかしい淡い光が、ハルのあられもなく晒された白い二の腕を瑞々しく浮き立たせていて、思わずどきりと胸が高鳴る。
入団したての頃や、入院中だった頃よりも、筋肉がついて健康的になった背中と腕も、他の同期たちに比べればまだまだ細く華奢なものだった。そのくせ立体機動装置のみならず、銃まで巧みに使いこなせるのが不思議でならないが、それは才能だけではなく、彼女の並ならぬ努力の上に成り立っていることなのだと、ジャンはよく知ってる。
だからこそ、兵士としては些か頼りなく見えるかもしれないが、訓練で少し日焼けして赤くなっている首筋も、右腕に残っている、骨折した腕を手術したときの傷痕すら…、すべてが綺麗で、魅了されてしまうのだ。
目が覚めているのに、まるでまだ夢の中にいるような、そんな心地でいるジャンの視線に気がついたのか、ハルはふと教本から視線を上げ、ジャンの方を見ると、優しげに目元を綻ばせ、小首を傾げた。
「…ジャン?起きてたの…?」
静かな医務室に、出会った頃から変わらない、弦が震えるような優しい響きを持ったハルの声が、心地良くジャンの鼓膜を震わせる。
ジャンはゆっくりと額に乗せられたタオルを手にとって、ベットから上半身を起こした。
「…悪ぃな…寝ちまって…。お前、もう寮に戻ってても良かったんだぜ…?こんな夜になっちまうまで、付き添わなくても…」
外の暗さからして、もう寝るにもいい時間だろう。
蝋燭に照らされたハル顔も、少し眠たげだ。
「うん。でも、まだシャミアさん、戻ってきていないし…。…それに、私が君の傍に…居たくて…」
「…っ」
それでも、自分のことを気にかけ傍に居てくれたハルが、欠伸を噛み殺すようにして言った言葉に、自身の中で無意識に抑え込んでいていた、荒々しくも切ない感情が、急に溢れ出して止められなくなる。
ジャンはその感情の波に身を委ねるようにして、ハルの細い腕を掴み、自身の方へと引き寄せた。
バサリと教本を床に落とし、突然のことでバランスを崩したハルをそのままベットに押し倒して、彼女の顔の横に両手をついて覆い被さった。
「!」
静かな医務室に、二人分の体重が乗ったベットが、ギシリと軋む音が響く。
「…っジャ、ン…?」
蝋燭の炎が揺れるように、乱れたベットのシーツに埋もれたハルの黒い双眼が波打つ水面のように揺れる。
その不安げな顔が、ジャンの劣情を煽り立ててやまず、彼女の小さな両手が、自身の両手の傍に投げ出されているのをいいことに、その細く白い指に自分の指を絡め、シーツに縫い付けるようにして握り締める。
「… ハル、お前…油断し過ぎだぜ…?」
「ゆだ…ん…?」
「男と二人で医務室にいんのに、そんな無防備な姿見せるんじゃねぇよ…」
「でもっ、君は熱があって…っ」
「んなことどうでも良いんだよ」
「!」
今見開かれた彼女の目には、自分の姿はどのように映っているのだろうか…。運が良ければ、蝋燭の明かりで、良く見えていないかもしれない。…それとも、何でも見透かしてしまえそうな程澄んだ彼女の瞳なら、自分のこの飢えた獣のような顔どころか、愛おしいと想う感情とは裏腹に、すべてを奪い自分のものにしてしまいたいと、そんな荒々しい心の有り様までがハッキリと見えてしまっているのかもしれない。
「熱があろうがなんだろうが…、欲しくなる時は体が動く…そういうもんなんだよ、男ってのは」
でも…例え全てを見透かされているんだとしても、この気持ちを止める方法を、俺は知らない。
ジャンは ハルの瞳に、自身の気持ちを全て晒すような熱を孕んだ瞳を向け、彼女の手を握る手に力を込める。
それに、ハルは双眼を細め、ジャンの瞳の奥の感情を覗くようにして、小さく囁く。
「それじゃあまるで、君は私を欲しがってるみたいだ…」
みたい。
なんかじゃない。
ジャンは ハルの体に身を寄せ、彼女の耳元で静かに問いかける。
「そうだって言ったら、お前は…俺のもんになってくれんのかよ?」
そうすると、間近にあるハルの耳が、じんわりと赤みを帯びたのが見えた。その耳が妙に美味そうに見える自分は、もう末期なのかもしれない。
「…っジャン、…なんだか君っ、最近…変だよっ…」
「…何がだよ」
普段は滅多に聞けない情けなく震えたハルの声を聞きながら、その耳に噛みつきたい欲求をなけなしの理性で押さえ込み、切羽詰まった声音で問い返す。すると、ハルはその耳を隠すようにして、顔を逸らした。
「怖い…いろんな意味で…。な、なんだか…狼にでも狙われているような気分になる…」
「…それは、的を射てるんじゃねーのか…?」
狼という言葉は、今の自分にぴったりだと思いながら、顔を逸らしたことで晒された頸に、ジャンはいよいよ使いものにならなくなった理性を投げ捨てて、その無防備な首に噛みついた。
「!?っ、ジャン何をっ…?!」
それにびくりと体を強張らせたハルの首に齧りついたまま、逃がさんとばかりにその細い腰に腕を回し、もう片方の手で小さな頤を掴む。
「んっ…」
そうして首に吸い付けば、従順に上擦った声を溢すハルの白い首に、蝋燭の明かりだけでもしっかりと赤い印がついているのが見えて、征服欲と嗜虐心が生まれる。
ジャンは身動きが取れなくなったハルの息が掛かる程耳元で、獣が唸るような低い声で言った。
「獲物を追い詰めた狼ってのは、こういう気分なんだな」
ハルはその声に、お腹の中心がすっと冷えるような感覚を覚えて、視線を後ろに向ける。
そうすると、飢えた獣の瞳に映った、小動物のように怯えた自分と目が合う。 ハルはこの時、ジャンのことを二つ年下の弟と同い年の少年という印象を微塵も残さず捨て去った。
そんな ハルの心中を知ってか知らずか、ジャンは舌舐めずりをして、うっとりとした口調で囁いた。
「すげぇ…興奮する…っ」
その声に、思わずハルがひっと喉を引き攣らせた時だった。
「このおばんげねぇ奴がっ!!ハルに何しとるんかっ!!!!」
医務室のドアが荒々しく開け放たれたかと思えば、故郷の訛りで声を上げ、鬼の形相をしたサシャの姿が現れ、ジャンは驚愕してハルの上から飛び退いた。
「なっ、さ…サシャ!?」
が、時既に遅し。
「サシャだけじゃないんだよね…?」
「サシャからハルの帰りが遅いと聞いて嫌な予感はしていたが…ジャン、お前… ハルに何をしでかしてやがる…?」
「ライナー!?ベッ、べルトルトまでっ…!」
そこには胸の前で拳を掌にぶつけながら、珍しくキ怒りを露わにしたライナーと、笑顔で激怒しているベルトルトも居る。
その後ハルはサシャによって救出されたが、ジャンはライナーとベルトルトに半殺しの刑に処され、シャミアさんが長引いた会議から戻ってきた頃には、ジャンはベットの上で干上がって居たらしい…。
そうしてしばらくの間は、サシャの強靭な番犬振りに、ジャンはハルに一切近づけなかったのであった。
完