君と過ごすイブの夜
名前変換設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「うわあ…すごい!いつもの街じゃないみたいだ」
ハルは壁上に上がると、町の至る所がライトアップされ、煌びやかに輝いているトロスト区の街並みを見下ろして、その双眸をキラキラと輝かせて言った。
雪が降りしきる壁上は地上と比べて風もあり寒さが滲みたが、ハルはそんなことなど気にならないくらいには眼下に広がる景色に感激していた。
まるで夢でも見ているかのようなうっとりとした表情を浮かべているハルを見て、ジャンはハルが壁上からではなく、クリスマス市の街中に連れて行ってやれれば、きっと飛び上がって喜んでくれたんだろうと思うと、少し残念な気持ちになってはいたが、嬉しげなハルの表情を傍で見られただけでも、ジャンは心が和らぐようで、気分が良かった。
ハルと壁上警備の当番をする予定だったミーナが、当番を代わってくれたことに心の中で感謝をする。
「ジャン、大通りの広場が1番明るいみたいだけど、何かやっているの?」
ハルはトロスト区の大広場の方を指さして、ジャンに顔を向けて問いかけてくる。壁上から見下ろす大広場は彼方此方ライトアップされている街中で一番明るく、大きな一本の松の木に装飾が施された、立派なクリスマスツリーが光り輝いていた。
そのツリーの周りには人が大勢集まっており、賑やかな音楽がこちらにまで聞こえてくる。
ジャンはハルと肩を並べるようにして立つと、大広場の方を見やりながら、防寒着のロングコートのポケットに両手を差し込んで、「ああ」と頷いた。
「あそこは毎年、仮設のステージが組まれて、演奏家が曲を披露する中で酒を飲んだり踊ったりする場所になってんだよ」
「へぇ…それってとっても楽しそうだ…、皆も今、あそこに居たりするのかな…?」
「まあ、あれがクリスマス市のメインみてぇなもんだからな。行ってんじゃねぇーの?」
コニー達やサシャ達、エレン達の同期達殆どがクリスマス市に行くという話を聞いていたので、ハルは皆が集まって盛り上がっている姿を想像しながら言うのに、ジャンは首に巻いているマフラーに口元を埋めるようにして肩を竦める。
「そうだよね。うーん、いいなぁ…私も行きたかっ…!?」
「なっ!?」
しかしその瞬間、肩の横にあったハルの頭がずるりと落ちるのが視界の端に見えて、ジャンは反射的にハルの体を両腕で抱き止めた。
その時にはハルの足は壁上の縁から滑り落ち投げ出されていて、ジャンが間一髪でハルの両脇に差し入れた腕に支えられた状態で、ぶら下がっていた。
「なななな何してんだこの馬鹿野郎ーーっ!?」
ジャンは悲鳴を上げながらハルの体を引きずるように壁上に引き上げると、ハルはすっかりと青褪めた顔であわあわと狼狽ていた。今は立体機動装置を身につけていない為、落下でもすれば確実にあの世行きになる。
「びびびびっ、びっくりした…っ!!」
「それはこっちのセリフだってんだよっ!!イブの夜に壁上から落っこちて死ぬなんざ笑えねぇぞっ!?」
ジャンもハルと一緒になって狼狽ながら怒鳴ると、ハルはジャンのお腹の辺りに脳天を押し付けた状態で、ジャンの顔を見上げて苦笑を浮かべる。
「ごめん、つ、つい街の様子に見惚れちゃってさ…」
そんなハルにジャンはほとほと呆れ果て、深いため息を吐きながら脱力して座り込んだ。
「ついもクソもあるかっ!?立体機動装置なしで壁上に居るってんだから、気ぃ抜くんじゃねぇ…っ!」
「!」
ジャンとハルは驚き過ぎていてそれまで気がつかなかったが、ジャンが膝を折って座り込んだことによってハルはジャンの膝の上に頭を乗せて寝そべる形になり、まるでジャンがハルに膝枕をしているような形になっていた。
そのことに気がついたのは、二人共ほぼ同時だった。
いつもなら気づいた時点で反射的に二人とも体を離していた筈だったけれど、今回はその行動を、互いに取ることは無かった。
それは冷えた身体に、お互いに触れている場所の温もりを手放したくなかったからなのか、それとも見上げるジャンの顔が、街の淡いオレンジ色の光を受けてやけに眩しく見えた所為なのか、あるいは自身の膝の上で寝そべるハルが、酷く愛らしく見えてしまったからなのか…理由は良く分からないが、二人は口を噤んで、ただ静かに見つめ合っていた。
そうして最初に沈黙を破ったのは、ジャンの方だった。
ジャンはじっと澄んだ黒い瞳で自分を見上げてくるハルに庇護欲のようなものを感じながら、焦茶色の瞳を柔らかく細めると、ハルの額に掌を乗せて、まるで子供を寝かしつけるような手つきで、軽くポンポンと叩きながら言った。
「…俺はお前と二人で過ごせれば、どんな場所だって構わねぇ。…世間がクリスマスだなんだって盛り上がってる中、クソ寒ぃ壁上で過ごすことになっても、傍にお前が、居てくれるならーーー」
徐に、ジャンはハルの前髪を撫で上げると、曝け出された白いおでこに口元を僅かに寄せるように身を乗り出し、至極愛おしそうな目でハルを見つめて微笑んだ。
「それ以上に良い事なんて、ねぇって思えるから、な…?」
囁くように告げられた言葉と、柔らかな街の光を受けたジャンの表情に、ハルは思いがけない場所で一輪の綺麗な花でも見つけたような、そんな淡い感動のようなものを抱きながら、冷え切った自身の額にかかる吐息の温もりに双眸を細めた。
見上げるジャンの色素の薄い茶髪の髪は、夜空に浮かんでいる月光で金糸のように輝き、街の明かりを受けた瞳はなめらかな琥珀のようだった。
ハルはキツく絞められていたコルセットの
紐を緩めた時のような息を吐き出しながら、まるで壊物にでも触れるかのようにそっと、手袋を外し伸ばした右腕の指先で、ジャンの頬に触れた。
「ジャンが私にくれる言葉は、…気がついたら、私にとっての宝物に、なっているんだよね…」
ハルは触れた頬をなぞるように指先で撫で、ジャンの目元に触れる。そうすると、ジャンの瞳の中の光が、蝋燭の火のようにふらりと揺れたのが見えた。
その光は煌びやかにライトアップされた街の明かりよりもずっと綺麗だと感じて、ハルは自分だけが夜空を駆けた流れ星を見つけられた時のような嬉しさを感じながら、微笑みを浮かべた。
「クリスマスみたいな、特別な日だけじゃなくて…ジャンから素敵なプレゼント、私は沢山…貰っているんだね」
それから、「ああ」と思わず恍惚の声を漏らすように、穏やかな吐息を吐き出すように言った。
「それってとても贅沢で、幸せだ」
「っ」
その微笑みは、今まで生きてきて一度だって見たことがない程に、自然で裏の無い純粋なものだと、ジャンは思った。これ以上素敵なことなんてきっと無いんだと言い張るような笑顔は、月夜の闇を振り払うように、パッと明かりが灯るようだった。
彼女の微笑みの先に、自分が居るということが堪らなく嬉しいと思うのと、尽きない泉のように愛おしいという感情が胸を突き上げてきて、ジャンは目元に触れているハルの小さな手に、自身の手を重ねた。
「それは、こっちの台詞だ」
触れた手はすっかり冷え込んでしまっていて、ジャンはその手を温めるように、自身の唇をハルの掌に寄せ、深く息を吐き出しながら言った。
「… ハル、お前と出会えて…良かった」
それに、ハルの手が緊張したように強張ったのを感じて、ジャンは視線をハルへと落とす。そこには、頬と鼻の先、そして両耳をほんのりと赤く染めたハルの顔があった。その赤さは寒さの所為だけではないということにジャンは気づいていたが、揶揄ってやりたいと思う気持ちよりも、今は自分の気持ちをハルに伝えたいという思いの方が優り、言葉を続ける。
「この冬が終わって、雪が溶けたら…俺とお前は違う兵団に行ってーー今までみてぇに、毎日顔合わせることも無くなるんだろうが…ーー、」
朝、目が覚めて、一番にハルと顔を合わせた時、「おはよう」と決まって見せてくれる笑顔が、好きだった。
一緒に何気ない話をしながら、変わり映えしない食事を取るのは、忙しなく流れていく日々の中で数少ない穏やかに過ごすことが出来る時間だった。
座学の時間は、いつも生真面目に教本と黒板を見比べる横顔も、ピンと伸びた背中を後ろの席から眺めるのも日常になっていた。
訓練や試験ではいつだって自分の先に居たハルは、努力を積み重ねた凛々しい背中を見せていて、異性としてだけではなく一人の人間としても、彼女のことを尊敬し憧れてきた。
しかし、この冬が終われば、そんな日常も全て終止符が打たれてしまう。
それは自分の中の大切なものが、突然吹いた風に攫われて無くなるような、大きな喪失感をジャンの中で生み出した。
「…会いに、行かせてくれ」
もしかしたら、憲兵として過ごす日々を重ねていくうちに、ハルのことを考える時間が、段々と少なくなることも、あるのかもしれない。
それでも、ふとした瞬間に、ハルと過ごした時間を思い出す度、きっと…堪らなく会いたくなるんだろう。
「配属先がどんなに離れた場所になっちまっても…、顔合わせて直ぐに別れなきゃいけなかったとしても……お前に、会いに行っても、いいか…?」
そう問いかけると、ハルは緩慢に瞬きをして、囁くように言った。
「…私も、会いに行くよ」
そして、自身の胸元にジャンが握っていない左の掌を押し当て、どこまでも優しく丸みのある声で、心の内をぽたり、ぽたりと滴らせるように言う。
「だって…何となく、分かるんだ。私、きっとジャンと離れたら…ーーー、君に会いたくて、堪らなくなるんだろうなって…」
その言葉は、切なさに渇き切ったジャンの胸中に、じわりと染み渡るように響いて、心が伸びるような感覚に自然と表情も綻ぶ。
「ーーー来年は、行けるといいな。クリスマス市。…お前と俺の、二人だけで」
ジャンはハルの顔を覗き込み、口角を上げて言うと、ハルはこくりと頷いて、胸元に触れていた手の小指を立て、ジャンの目の前に差し出す。
「約束、しよ」
「…おう」
それに、ジャンはハルの嵌めていた手袋を外すと、自身の右手に嵌めていた手袋も脱ぎ捨てて、細い小指に自身の小指を絡ませる。
その指は少し力を入れれば折れてしまいそうなほどに華奢で、ジャンは急に不安な思いに駆られて、口から言葉が零れ落ちた。
「ハル」
「ん?」
「死ぬんじゃねぇぞ……絶対に」
その言葉に、指に絡まっていたハルの小指が、一瞬緩んだのを感じ、ジャンは引き止めるようにギュッと小指に力を込めた。
ジャンはハルのこういう正直なところが、バカ真面目だと思う以上に好きだった。テキトーに、建前だけでも交わしたっていいものを、ハルは絶対に不誠実なことはしない。迷えば迷っていると言うし、出来ないことは出来ないと言う。きっと今も、ジャンの言葉に応えられない可能性を感じてしまって、迷ったのだろう。それでも、ジャンはハルの小指を離したくなかった。
ジャンの真摯な眼差しを受けて、ハルは緩めた小指を再びジャンに絡めて、揺らいだ感情を立て直すように、ゆっくりと一度瞬きをしてから言った。
「死なないよ、ジャン」
薄い唇から吐息のように放たれた言葉は、降り頻る雪の粒のように、空気に溶けるよう消えていく。
それでも、互いに絡めた小指の感触と、この時と景色を思い出すたびに、その約束は何度だって蘇るのだと信じて、ジャンは静かに絡めた小指を解いたのだった。
完