君と過ごすイブの夜
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それはある日の男子寮での出来事だった。
「誰か…嘘だと言ってくれ…」
部屋の壁に両手と自身の額をべったりと押し付けて、意気消沈と嘆いているジャンの姿を見た同室のコニーが、シャワー上がりで濡れた坊主頭を、わしわしとタオルで大雑把に拭きながら珍妙な動物と遭遇でもしたかのような顔で言った。
「ジャン…お前何やってんだよ。そんなところに張り付いてないで、さっさとその汗臭い体どうにかして来いよなー」
「あー…わーってるよ…」
ジャンは死んだ魚の目をしたまま、生気が全く感じられない返答をするので、コニーは部屋のベットの上で教本を読んでいたマルコに、ジャンが口から魂が出かかっている理由を聞いてみることにした。
「なぁ、マルコ。ジャンは一体どうしてこんなになっちまってんだー?」
コニーは頭を拭いていたタオルを肩にひょいと掛けると、マルコが座っている二段ベットの一段目の縁に腰を落とす。マルコはそれに「ああ…、それが」と教本から視線を上げ、コニーを見て肩を竦めた。
「ジャンがハルをクリスマスイブにデートに誘ったらしいんだけどーーー」
それは二時間程前の、夕食時まで遡る。
訓練兵になってから三度目に迎える冬は、訓練兵として最後に迎える冬になる。雪が溶け、春を迎えると共に、此処にいる同期達は訓練兵を卒業して、晴れて兵士となるからだ。
とはいえ卒業試験を突破した者に限られたことだが、この三年間の過酷な訓練生活を耐え抜いてきた者ならば、成績云々を抜かせば余程のことがない限り不合格になることはないだろう。
三年目の冬は決まって、クリスマスイブの日の訓練は早めに切り上げられ、寮の門限も遅くなっている。クリスマス当日まで訓練を休みにしてくれる慈悲深さはないが、門限の時間が緩くなることは滅多にない機会だった。皆その日は友達や家族、あるいは恋人とクリスマスムード一色に染まったトロスト区の街へ繰り出して行く。トロスト区のクリスマス市といえば壁内でも有名なイベントの一つで、各所から人が集まって街は随分と賑やかになり、建物には装飾や明かりが灯されてそれは煌びやかになるものだ。
まさに、想い人と過ごすには絶好のロケーションと言えるだろう。
「ハル、…少しいいか?」
ジャンは夕食を終え、テーブルで会話を弾ませていたミーナとアンナ、クリスタと一緒に居たハルに声を掛けた。内心ではかなり緊張していたが、表に出ないよういつも通りを装って、平静を保つよう努める。
ハルは長椅子に座ったままジャンをふと見上げると、黒い瞳をきょとんと丸くして小首を傾げた。
「あ、ジャン…?いいよ。何かあったの?」
それだけで可愛いと思ってしまう自分は末期の中の末期だが、胸躍らせたのも一瞬のことで、ハルの周りに居たアンナは好奇の目を輝かせてジャンを見上げ、ミーナとクリスタに至っては喉元に噛みつかれそうな殺気満ち溢れた目をジロリと向けてきた。
三人の視線に息苦しさと悪寒を感じながら、ジャンは落ち着かず首の後ろを触って言った。
「ろ…廊下で、話せないか…?」
「廊下で?うん、分かったよ」
ハルは視線を泳がせているジャンに違和感を抱いてはいたが、特に理由を聞くことはせずにスクッと席を立った。それに感謝しつつ、三人の視線から逃げるように踵を返して、ハルと廊下へ向かっていた間は、背中を槍の先で突かれているかのような視線を常時感じていて、自ずとジャンは早足になっており、ハルは不思議そうに眉をハの字にしながら、小走りになってジャンの背中を追いかける。
食堂を出た先の廊下には、人が疎らで、左程多くもなく、これなら大丈夫だとジャンは足を止めて、ハルと向き合った。
「ハル、悪かったな。話してる最中に」
「大丈夫だよ。…それよりも、廊下に出て話すなんて、やっぱり何かあったの?」
ハルは少々心配顔になって問いかけてくるのに、ジャンは「ゴホン」と喉をつっかえを取るように右手の拳に向かって一度咳払いをして、左手を腰に当てながら話を切り出した。
「いや、何かあったって訳じゃなねぇーけど…五日後のイブの夜は、訓練が早くに終わんだろ…?」
「そうだね。皆トロスト区のクリスマス市に遊びに行くって、楽しみにしているもんね」
ハルはニコッと笑みを浮かべて楽しげに言うのに、ジャンは意を決してハルを誘おうとするが、予め用意していた誘い文句を全て忘れ去ってしまい、狼狽える。
「っ…だよなぁ…はは、…あー…そ、それで、俺が言いてぇのは…そのっ…」
「?」
口籠もっているジャンにハルが頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げるのに、ジャンは致し方ないと自分の中で立てていた手順を全て捨て去ることにした。
「イブの夜、二人でクリスマス市に行かねぇ…か?」
ジャンは若干前のめりになってそう言うと、ハルはパチクリと大きく瞬きを一度する。
「おっ、俺はもう見慣れちまってるが、お前、クリスマス市とか、見たことねぇだろ?もし暇なら俺が案内してやっても、いいけど、よっーー(俺の馬鹿野郎っ!何でよりにもよってこんな言い方しちまうんだよ!?)」
そして自分でも危惧していた通り、照れ臭さで本意を隠し何とも上からな台詞が口から流れ出てくる。そうならないための台本を完璧に作っていたのに、その努力は今水の泡となったような気がした。
ジャンは何だかひどく情けない気持ちと虚しさに駆られていたが、ハルは特に気分を悪くした様子もなく、むしろ嬉しそうに目元を綻ばせた。
「それ、すごく魅力的なお誘いだ」
「!ならっ…」
ジャンはそれに一度希望の光を見出したが、その光は一瞬で失われた。
「でも、ごめん。ジャン…私、イブの日の夜、トロスト区の壁上警備当番なんだぁ」
「は、はぁ…っ!?」
ハルがやれやれと苦笑しながら頭の後ろを触って言うのに、ジャンは足下の地面が崩れ落ちるような絶望感に見舞われ思わず声を上げた。
「私、クリスマスに街を回ったことがないから、是非行きたかったんだけど…。運悪く警備担当の日でさ、まぁこればっかりは諦めるしかないんだけどーーー」
その後は、ハルがいろいろと話をしてくれていたが、記憶は朧げだ。ジャンの当たって砕けろ精神で迎えた大勝負は完敗に終わり、それからジャンは寮へ帰ってくるや否や、ずっと腑抜けた状態のままなのだった。
「って、いう話。残念だったね、ジャン」
マルコが一部始終をコニーに話し終えると、コニーはやれやれと首を横に振りながら、訓練で凝り固まった体を解すように腕をクロスしてストレッチを始めながら言った。
「成程なぁ。っつーか、ハルも災難だよな?折角のイブを壁上で過ごすとか…寒いしかったるいしやってらんねーって」
「警備は何があっても無しにはならないからね。…ジャン、いい加減シャワー浴びてきなよ。もう時間終わっちゃうよ?汗かいたままでベットに入るのだけはやめてくれよ」
マルコは教本を閉じてベットサイドに置くと、傍にあった置き時計を見やり、相変わらず壁に張り付いたままのジャンを急かす。シャワーを浴びられる時間帯は決まっており、時間帯ごとで各期の訓練兵が交代して使っている為、時間を過ぎると次の日の夜までお預けになる。本人だけなら気にならないかもしれないが、此処は寮で部屋も狭く空気の循環も悪い。そんな中で同室の人間が汗くさいと、夜の寝付きも最悪になる。今は真冬で窓も開けられないので、ジャンがシャワーを浴びないということは同室の者達からすれば死活問題であった。
「…おう」
しかし、ジャンは力なく溜息のような返事をしただけで、シャワーを浴びに向かう様子は一切ない。
それにコニーはほとほと呆れ果てた様子で言った。
「そんなに落ち込むなら、いっそのことお前も壁上警備に行けばいいんじゃねーの」
「!」
その言葉に、ジャンがぴくりと体を震わせ、壁ばかり見つめていた顔をコニーへ向けた。ジャンの視線に気づいていないコニーは、ベットの縁から立ち上がり、今度は屈伸運動をしながら続ける。
「壁上警備は二人でやるのが原則だろ?だったらハルと一緒の警備担当の奴に言って代わって貰えば、まあ街で遊びはできねぇかもだけど、二人では過ごせるんじゃ…」
「コニーっ!!」
ジャンは壁から弾かれるようにして離れ、コニーの両肩に飛び掛かる。その顔には気色が満面に溢れていて、ジャンらしくないその表情にコニーは若干の寒気を覚えながら顎を引いて顔を引き攣らせた。
「うお!?何だよ!?っつーか汗臭えよぉ!!」
「お前は馬鹿だが今のは天才だった!!デカしたぞコニー!!」
汗くさいという言葉は聞いていたのか聞こえなかったのかは謎だが、ジャンは困惑しているコニーの両肩を掴んだままその体を激しく揺さぶる。
「あ、ああ…?」
「そうと決まれば明日はそいつに担当を代わってもらうか!シャワー浴びてくる!!」
ジャンは意気揚々とコニーから離れると、快活な足取りで部屋から出ていく。さっきまでとは一変して別人のようになったジャンが、天気雨のように去っていくのを、マルコは手を振りながら見送る。
「行ってらっしゃい」
それに、コニーはジャンに激しく揺さぶられて痛めた首を摩りながら、眉間に深々と皺を寄せる。
「マルコ、俺は馬鹿だけど、あいつも大概馬鹿だよな」
コニーの言葉に、マルコは両腕を組み、うんうんと頷く。
「同感だ」
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